【SSコン:給料】 部屋の中のヒト
三十路を半ば越えて悲しんだ。
己のすみかである四畳半から外へ出てみようとしたのであるが、窓から顔を出した途端、日の光が目を刺したので自分の頭を引っ込めた。つまりは、外へ出ることは叶わなかったのである。
あまりの悲しみに押入れに閉じこもることにした。幼少の頃より悲しみに浸るときは押入れに籠もると相場は決まっているのである。胎児の頃に逆戻りするかのように頭から押入れに侵入しようと試みた。しかし、尻がつかえて侵入は失敗に終わった。せめて出ていこうと試みると、すんなりと身体を抜き出せた。それはまる二十年の間に己の身体が発育した証拠にこそはなったが、三十路はそれに狼狽し悲しんだ。
「二十年、二十年。二十年を失った」
かすれた声。声の出し方を忘れていたかのようだった。
三十路は部屋の中を許される限り広く歩きまわってみようとした。思いを巡らせるとき、部屋を歩きまわるのは三十路の子供じみた癖であった。三十路のすみかは、歩きまわれるほど広くはなかった。
少年・少女時代より四畳半に籠もり、二十年。何故そうしたのかすら忘れるほどの年月である。はじめこそ親はあれこれ口を出したものの、数年も過ぎれば何も言わなくなった。二十年、二十年である。同世代人は、就職し、働き、給料を貰って、恋愛をして、結婚して、子供だっているだろう。
見よ。このざまだ。死体のように生白い生気を失った肌、醜く肥え太った腹や尻。たったの二十年。たったの二十年だけなのに。三十路は己を強く恥じた。
生来の潔癖のおかげか、不確かな情報ばかり発信するインターネットの影響は受けなかったし、また、自社の精神に基づき大衆を洗脳しようとする新聞やテレビも見なかった。そもそも見たところで字が読めないので洗脳も何もない。世間の風聞にも耳を傾けることはなく、生涯の大半を己と向き合うことに割いたために子供時代の幼心のままある種の賢者となり得たことは良いことと言えよう。三十路はそう思い直した。
閉め切ったカーテン。
薄暗い部屋。
子供の笑い声。
暗転。
タオルケットに包まる。
芋虫のように丸まる。
三十路は思った。世間のひとたちはバカばかりだ。この世におれ以上に賢いやつなんかいないってのに。そんなおれを笑いやがる。おれを笑いものにしてんだろ。そうなんだろう。俺がこんなブサイクだから。でぶだから。働いていないから……。
三十路は外の世界を憎むと同時に恐れてすらいた。過去にこんな体たらくで世間からどう思われるかと親に散々詰られたものだから、畏怖と軽蔑が混在した不安定な信仰のようなものが三十路の中にあった。
笑い声が遠ざかっていく。近所には小学校がある。笑い声はそこの生徒のものだろう。俺もそこに通っていた。三十路は安堵した。
笑い声。笑い声。笑い声。笑い声。
一息安心するとまた嘲笑された記憶が蘇る。
脈拍が早くなる。心臓の鼓動が激しくなる。呼吸が数えられるほどになる。
くるまれ。繭のように、胎児のように。
丸まれ。芋虫のように、冬の蛙のように。
目を閉じ、沈黙する。
このおれが目を開けたら、この得体の知れないものが去っていますように!
嗚呼、恐怖の大魔王よ! 悪霊よ! ここから去れ! 去ってくれ!
それでもなお笑い声は止まらない。
「視野狭窄に陥って、物思いにばかりふけったりするやつは馬鹿だよ」
その声の主はまだ笑う。笑う。笑う。しゅう、しゅうと声を漏らす。
これはおかしいぞ。いつもなら聞こえないはずの声に三十路は驚いた。俺の気の狂いだとしても、こんなはっきりと話すだなんて。
「こんな子供部屋みたいなところを根城にしてるやつも馬鹿さ」
明瞭に喋る、この声。三十路は声の出どころを探る。
すぐにわかった。押入れだった。押入れの奥からこの声はしていた。
「バカにするな!」
思わず三十路が怒鳴りつけるも、笑い声は相変わらず。むしろ酷くなっていった。押入れを開ける勇気は三十路にはない。
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」
「それが悪いと言ってるんだ!」
「根拠を示してみろ。そんな汚いボロ雑巾を被ってしか物を言えないくせに」
「うるさい!」
図星だった。図星だったからこそ、三十路は怒りを爆発させた。三十路はタオルケットを投げ捨て、押入れを力いっぱい開け放つ。
押入れの中には、ヘビがいた。三十路がひっくり返って腰を抜かす姿を見て、ヘビは笑った。三十路を嘲笑した、あの声で。
「へ、へび……」
三十路の声が震える。
三十路の信仰が崩れた瞬間であった。外の世界は怖いものであふれている、という信仰。この部屋で自分は守られているという信仰。それらが一気に崩れ去った。
なのに、このヘビはなんだ。おれの部屋に入ってきやがって。ああ、でも恐ろしい。何故、おれの部屋に。
「働いて給料をもらうってのが人間の生態なんじゃないのか。なのに働きもしないで巣に籠もって。働かなくっちゃあ人間は死んじまうんだろう?」
三十路はヘビの問いにすぐに答えられなかった。ふっと迷いが生じた。
「いいさ。おれはまだこどもだもの。親に守ってもらう権利があるし、親は俺を守る義務がある。たった二十年ぽっちでその常識は変わってないはずだよ」
「俺の目からはお前さんはもう大人なのにかい」
「大人になっても、親は親でこどもはこどもだ」
「親孝行はしないのかい」
「してるさ。おれが生きてるだけで親孝行だって、ママが言ってた」
「いつかは親は死んじまうぞ」
「いつ死んだっていいよ。おれは大人だから」
ヘビとの問答は夕方になっても夜になっても朝になっても続いた。ヘビが部屋を去ることはなく、いつからか三十路はヘビと言葉を交わすことで自分が自分であることを確認するようになっていた。
一年が過ぎた。
「おれはね、動物園の動物がうらやましいよ。ただ食っちゃ寝してるだけで食わしてもらえるんだから」
三十路は甘えるような声で言った。
「今もそうだろう」
「でも、いつかは養ってくれる親も死んで、お前もいなくなっておれは一人ぽっちになる。そしたらおれは死んじゃうよ」
「それじゃ、働いて給料をもらうんだな」
「給料をもらってどうすればいいんだよ」
「飯を食って、寝て、働くんだ。動物園のやつらはそうして生きてる」
「ただ見られてるだけなのに」
「それが仕事だからな」
ヘビは友情を込めた目で、三十路をまっすぐ見つめた。
「そんな場所が嫌で俺は逃げてきたんだ」
「なら、ずっとここにいればいい。ずっとここにいてくれよ」
「それは無理な話だね」
三十路はヘビがどこか遠くへと行ってしまうことを悟った。
引き留めようとは思わなかった。
「もう行くの」
「もう行くよ」
「さよなら」
「さよなら、アミーゴ。俺は自由になるぜ」
蛇ヘビ煙のように消えた。三十路はまた一人になった。
三十路は孤独であった。ヒトは孤独であった。