Act.0 嵐の前の(オーディナリー)
学校というのは、得てして退屈なものだ。
俺、江畑灼弥は少なくともそう思っている。
決まりきったスケジュールに基づいて、決まりきったカリキュラムに沿って淡々と時間が過ぎる。これを退屈と言わずなんというのだ。
高二の春の始業式の日、少なくとも俺は今この瞬間まではそう思っていた。
「なー!!返せ!返せぇ!!」
目の前では、同じ制服に身を包んでいるにも関わらず、明らか年齢が3つ程下なのではと思える背の小さな少女が、何やら塀に向かってぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「こ、このぉ……!泥棒猫〜!この私を馬鹿にしているのか!!」
絶景だった。彼女が飛び跳ねる度に、スカートがひらりひらりと宙を舞い、その度にその下の布を露わにする。
「水玉……」
おっと。勘違いしないで欲しい。確かに彼女は可憐で可愛い。水色髪の、高めで結ばれたサイドテールはよく似合っているし、顔立ちも幼いながら整っている。ついでに胸も控えめだ。
今はこんなんだが、普段はとても大人しい。そのギャップも相まって可愛いのは認めよう。
だが断じて。そう、断じてロリコンではないのだ。
あくまで見とれてるのは、スカートの下の布だ。水玉のパンツだ。世の高校生男子なら思わず立ち止まって見とれ、小動物を愛でるような気持ちになるのも分かってくれよう。
「うー!返せ!この!」
彼女の名前は泉ヶ丘雷華。昨年は同じクラスだったが、たいして接点はない。せいぜいたまに観察して、癒されるくらいだ。
泉ヶ丘は諦めずに、しきりに塀に向かってジャンプしていた。見れば、塀に上には1匹の、鈴の着いた赤い首輪をした黒猫が、彼女の制服の赤いリボンを咥えて寝そべっていた。
明らかに猫に馬鹿にされている。
「やれやれ」
こういうのは柄じゃないが、困っている人を見過ごすのは、それはそれで後味が悪い。それに、いいものも見せてくれたしな。ここは助けてやるとしよう。
俺はそっと彼女の傍に行くと、猫をひょいと掴み、リボンを取り返して見せた。
「ほら、これでいいのか?」
泉ヶ丘はキョトンとしていた。
少し、カッコつけすぎたか?
猫を塀の上に戻すと、猫は楽しみを奪いやがって、と言わんばかりに顔をぷいとそっぽ向き、そして――俺を引っ掻いてきた。
「いっつ……」
その後で、器用に塀の上に降り立つと、鈴を鳴らしてその向こうへと消えて行ってしまった。
「あいつもいい性格しているな……」
色んな意味で。
泉ヶ丘はというと――俺から無言でリボンを受け取り、少しはだけた制服の襟にそれを通し、整え始めた。
おいおい、そっちのサービスシーンは想定外だ。冬服だからブレザーの下にワイシャツを着てるとはいえ、問題なのは、そのワイシャツの襟を緩くしていたことだ。
予想外にチラつかれた首元にドキッとしながら、思わず顔を逸らしてしまった。
なんとも気まずい。
「んじゃ、また後で。学校でな」
だもんで、俺は逃げるようにして踵を返し、歩き出した。
――のだが。
「あの」
どういうわけか、彼女は俺の左の袖をつかみ、それを制した。振り返ると、彼女は俯いたまま、どこか顔を赤らめているように見えた。
まさか、見ているのがバレたのか?
冷や汗をかく俺とは裏腹に、彼女はそのまま静止していた。
「えっと。何、かな……。泉ヶ丘さん」
……降り立ったのは、沈黙。
いやいやいやいや、気まずいって。やめてくれ、こちとらさっき眼福を拝んだばかりなんだぞ。罪悪感で冷や汗がすごい。
なんて馬鹿なことを考えていると、彼女は俯いたまま、ようやく言いたそうにしていた一言を放った。
「……助けてくれて、ありがと」
「え……」
しかし、返ってきた返答は予想外のものであり――彼女はそれだけ言うと俺の袖をぱっと手放し、ものすごい速度で、文字通りの脱兎のごとく駆け出して言った。
――学校とは逆方向に。
「ちょ、そっちは逆……」
しかし時すでに遅し。彼女は視界から消えていた。いやいやいや、早すぎだろ。
「……やれやれ」
思わず、ため息が出た。引っ掻かれた右手を見れば、綺麗にクロスマークに引っ掻れており、微妙に血が出ていた。
「器用なやつめ……」
とは言え、学校は退屈だが、たまにこういうことがあるのなら悪くもない。
結局のところ、男子高校生なんてチョロくて、単純なのだ。可愛い子のパンツの一つや二つが拝めるならば、簡単に手のひらを返す。
「俺も行くか」
そうして、今日もまた平穏で、淡白で、単純な学校生活が始まる――はずだった。
いや、確かに始まっていたはずだ。
だって言うのに、平穏で、淡白で、単純な学校生活は、突然終わりを告げた。
――色喰らいという、人の心に巣食う化け物のせいで。