58.呼び出しと葛藤
(『今晩、子の刻。翡翠宮の中庭にあるライラックの木の下でお待ちしております』――ね。何だろうな、このチリチリと頭の中を焼くような違和感は……?)
後宮から出て自室に戻ったシュバルツは、羊角の女官から手渡された手紙について、悶々と考え込んでいた。
手紙を送られたことについては……実のところ、別に不自然な事でも何でもない。
後宮にいる妃が寵を求めて王太子を誘うことなど当然のこと。実際、シュバルツは何度か野心家な中級妃から誘いの手紙を送られたことがある。
そんな手紙の中にはあからさまに『性』をほのめかしているもの、もっと直接的に媚薬を紙に染み込ませているものまであり、改めて女の恐ろしさに感じ入ったものだった。
そんな手紙に比べると、翡翠宮の女官から渡されたのは簡素な文面で用件すらも判然としないものである。
まっとうに考えるのであれば『そういう行為』を求めての手紙なのだろうが……最近のヤシュ・ドラグーンという女性とつながらない。
(本の読み聞かせをするようになってヤシュとの距離が急速に縮まったような気がする……だが、あの子が深夜に男を招き入れるようなことをするかな?)
親密になるにつれて明らかになったことだが、ヤシュは『女性』というよりも『女の子』だった。
自分が興味のあることに対して正直で、まっすぐに無邪気になれる性格。後宮に張り巡らされているような陰謀や情念とは無縁の人間である。
きっと、これまでの大人しくて落ち着いた姿は意図して作られたものなのだろう。異国、それもかつては敵対関係にある国に嫁ぐことになり、必死になって隙を見せないように気を張っていた姿に違いない。
シュバルツの膝に座って本に見入っていたヤシュが夜の誘いなんてするわけがなかった。
(となると……この手紙は俺が想像しているのとはまるで違う用事か、それともヤシュに無断であの女官が書いたものなのか)
山羊角の女官の顔を思い出し、シュバルツは眉をひそめる。
あの女官と個人的な話をしたことはないが……何とはなしに嫌われているようなオーラが伝わってきていた。
彼女がヤシュの名前を騙ってシュバルツを呼び出したのだとすれば、その目的は愉快な事ではあるまい。何らかの陰謀を巡らせている可能性がある。
(先日、町で俺を襲ってきた奴のこともあるしな。ここで誘いに乗ってしまうのはリスキーかもしれない。罠である可能性はかなり高そうだが……)
ヤシュを手に入れることを望むのであれば、たとえ罠だとしても火中に飛び込んでみるのが正解である。ただし……決してギャンブルをしなくてはいけないほど切迫した状況ではない。
この数日間の交流でもわかるように、ヤシュとの距離は確実に縮まっている。無理して危険な行動をとらずとも、安全策で進んでいくことだって可能である。
「ハッ! 日和ってやがるな、こんな甘い考えが頭に浮かぶとは!」
シュバルツは凶暴に牙を剥いて笑った。
元々、後宮の妃を奪い取るなんて、バレたら処刑されかねない行動をしているのだ。今さら、自分の命を惜しんで安全策を取るなんて、日和見以外の何物でもないだろう。
「毒を食らわば……か。いいだろう、乗ってやろうじゃねえか」
椅子から立ち上がり、シュバルツは唇をつり上げて獣が唸るような凶暴な顔になる。
シュバルツが狙っているものは4つの大国から嫁いできた4人の妃。そして、ウッドロウ王国の玉座なのだ。無傷で野望をかなえることができるとは思っていない。
たとえそれが罠だったとしても、己の目的を叶えるためならば平然と飛び込んでやろうではないか。
(大粒の翡翠を手に入れるためだ。多少の危険は覚悟の上。相手になってやろうじゃないか! 罠だろうが陰謀だろうが、好きなだけ持ってきやがれ!)
シュバルツは傲然と笑い、女官から手渡された手紙をクシャリと握りつぶしたのである。




