56.開かれた心
後宮の門をくぐったシュバルツは、まっすぐに翡翠宮に向かった。
事前に訪問の先触れは出して了承は受けている。翡翠宮にたどり着くと、女官が庭園に案内してくれた。
「やあ、待たせてしまって申し訳ないね」
「…………」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『よくぞお越しくださいました、ヴァイス殿下。来訪を心より歓迎いたします』と」
庭園に置かれているテーブルについていたヤシュが立ち上がり、ペコリと頭を下げてきた。相変わらず顔の下半分を隠しており、通訳を介した会話である。
シュバルツは椅子に座るように促し、自分も丸いテーブルを挟んだ対面に腰かけた。
2人がテーブルに着くと、すぐさま女官が茶を淹れて差し出してくる。シュバルツは一口だけティーカップの中身を飲んでから口を開いた。
「先日の夏至祭では素晴らしい芸を見せてくれてありがとうございます。改めてお礼を言わせてください」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『こちらこそ、とても楽しい催しでした。故郷ではあまり公の場に出る機会がなかったので、愉しませて頂きました』と」
「楽しんでもらえたのなら良かったです。そういえば……賞品として受け取った本はどうでしたか?」
「ッ……!」
ガタンッと音を鳴らしてヤシュが立ち上がる。急なリアクションにシュバルツが大きく目を見開いた。
「え……?」
「ふあっ……!」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『失礼いたしました。膝の上に虫がとまっており、驚いてしまいました』と」
ヤシュは顔を伏せて着座する。褐色肌のためハッキリとはわからないが、心なしか恥ずかしがって頬を染めているような気がした。
「ヤシュ様がおっしゃいます。『あの本はとても素晴らしいものでした。東方の国々での冒険物語を楽しませてもらいました』と」
「へえ……それは何よりですね」
(本の話題にここまで喰いついてくるとは……どうやら、俺の予想が当たっていたらしいな)
シュバルツは内心で頷きながら、もう1歩切り込んでみることにした。
「後宮の書庫にも通っていると聞きましたが……ヤシュ妃は読書がお好きなんですか?」
「…………」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『はい。祖国では1人娘ということもあって外出が制限されており、日頃から本を読んでは退屈を紛らわせていました。こちらの国にやってきてからは、南方では読むことができない書物を手に取る機会があり、とても嬉しく思っています』と」
「どんな形であれ、この国を気に入っていただけたのなら何よりですね……そうだ、今日はヤシュ妃にお土産を持ってきたのです」
シュバルツは背後に立っていたユリウスに目配せをした。護衛の騎士である彼女が、預けていた荷物をテーブルの上に置く。
「つまらないものですが、喜んでくれるのなら嬉しいよ」
「…………?」
「拝見します」
ヤシュの代わりに羊角の獣人女官が包みを解く。
丁寧に包装された包み紙の中から現れたのは……昨日購入した5冊の本である。
「ッ……!」
「ヤシュ様! いけません!」
またしてもヤシュが立ち上がる。慌てて声を上げた女官を押しのけ、テーブルの上の本を手元に引き寄せた。
「…………!」
ヤシュは咎めるような女官の視線を無視して、クリクリと蛇の瞳を動かして本を確認する。タイトルと著者名を指でなぞり、最初の数ページだけをめくり、次の1冊を手にして同じようにして……。
それは一国の王太子との茶会ではありえない無礼な態度だったが、それどころではないと言わんばかりの行動である。
(どうやら、ヤシュは正真正銘、本の虫のようだ。好きなことを前にすると周囲が見えなくなってしまうタイプだな)
後宮の妃らの手本となるべき上級妃としては問題かもしれないが……シュバルツはそれを微笑ましく思った。
後宮に来てからというもの、ヤシュ・ドラグーンという女性は無言で無表情で人形のような態度を貫いてきた。しかし、大好きな本を前にしたことで外見相応の少女のようになっている。
それは何とも可愛らしく、シュバルツの微笑みを誘うものだった。
「…………!」
シュバルツの存在を無視して本に夢中になっていたヤシュであったが……ふと手を止めて、1冊の本に見入っていた。
金色の蛇眼がジッと見つめているのはやはり『倭国古事』。極東の島国ジパングの神話や伝説を記載した本である。
「…………」
ヤシュは異国の文字で書かれている本をパラパラとめくって挿絵のイラストを興味深そうに見つめていたが……唐突に顔を上げてシュバルツに目を向ける。
「…………!」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『これは何という本なのですか?』と」
「ああ……それは錬王朝のさらに東にあるジパングという島国の言葉で『倭国古事』というタイトルが書かれた本です。内容はどうやら、あちらの国の古い伝承や神話をまとめた伝記のようですね」
「ッ……!?」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『ひょっとして、ヴァイス殿下はこの文字が読めるのですか!?』と」
「ええ、まあ。教養の範囲内ですけど」
「ふああっ!」
「わあっ!?」
ヤシュが突如として声を上げて立ち上がり、自分が座っていた椅子をシュバルツの横まで持ってきた。
「ヤシュ様! いけませんわ!」
「…………! …………!」
女官の声を無視して、シュバルツの隣に座ったヤシュがぐいぐいと本を押し付けてくる。
シュバルツは面食らってしばし言葉を失うが、やがてヤシュが言わんとすることを察して口を開く。
「ひょっとして……『読め』って言ってるんですか?」
「…………!」
ヤシュがコクコクと何度も頷く。
黄金の瞳には強い興味が満ち満ちており、異国の本に夢中になっていることがはっきりとわかった。
「ええっと……僕はかまいませんけど……」
チラリと女官のほうを伺うと、山羊角の獣人女性が諦めたように肩を落としている。
「……どうぞ。よろしくお願い致します」
「……いいんですか?」
「こうなってしまったヤシュ様はこちらの話など聞きませんから。どうぞ読み聞かせてやってくださいませ」
(そういうことなら……遠慮なく密着させてもらおうか)
シュバルツはヤシュに身体を寄せて、異国の文字で書かれた文字を読み上げていく。
ヤシュは目を逸らすことなく熱心な様子で本を見つめている。興味深そうな瞳は、まるでアリの行列を観察している子供のように無邪気なものだった。
「『かくして、混沌とした世界が天地に分かれた。矛を海に入れてかき混ぜると、油の如く漂っていた土くれが集まって島が生まれ……』」
「…………」
シュバルツがひたすら本を読み上げる時間が1時間ほど続いた。
ヤシュは無言。ジッとシュバルツの朗読に聞き入っており、何のリアクションも返ってこない。
しかし、退屈しているわけではないことは爛々と輝く金色の蛇瞳から明らかである。
「『けれど、炎の神を産んだことで女神の身体は焼け、そのまま命を落とすことになった。妻を亡くして激怒した男神は怒りのままに我が子を殺め、天に向かって嘆き悲しんだのである』。さて、そろそろ時間ですから今日は失礼させていただきたいのですが……」
「ッ……!」
ヤシュが愕然とした表情になり、シュバルツの胸を掴んでガクガクと揺さぶってきた。瞳に涙を貯めており、「帰っちゃうの? 帰っちゃうの?」と訴えかけてくる。
子供っぽい、思いのほかに可愛らしいリアクションだが……残念ながら、もう夕刻。後宮で夜明かしをする許可を得ていないシュバルツは、引き上げるしかなかった。
「ううっ……」
シュンとした様子でヤシュが肩を落とす。
落ち込んだ様子の少女にシュバルツも可哀そうな気分になり、緑色の髪をポンポンと撫でる。
「また明日きますから、その時に続きを話しましょう。楽しみにしていてください」
「…………うん」
ヤシュはコクリと頷いて返事をしてしまったのだが……シュバルツは気づかないフリをして、苦笑を浮かべる。
「…………」
そんなシュバルツとヤシュの姿を、少し離れた場所で山羊角の女官が難しい表情を浮かべていたのであった。




