45.翡翠宮の茶会
琥珀妃であるアンバー・イヴリーズとの関係がやや険悪なものになりつつあるのに対して、翡翠妃ヤシュ・ドラグーンとの関係は良くも悪くもない。
本当に、進んでもいなければ退いてもいない。まさにプラマイゼロという状態だ。
それというのも……まだヤシュと会話もできていないからである。
「ヤシュ様がおっしゃいます。『今日はお日柄も良く、こんな日にヴァイス殿下とお茶をご一緒できてとても嬉しく思います』と」
「……そうですか、それは何よりですね」
後宮で初めて会ってから随分と経つが……いまだに、シュバルツは通訳なしでヤシュと会話をしたことはなかった。
常にヤシュが故郷から連れてきた女官が間に入っており、ヤシュの声すらも聞けていない。それどころか……素顔さえ見ていないのだ。
本日も後宮にやってきたシュバルツは、翡翠宮の庭でヤシュと一緒にアフタヌーンティーをとっていた。円形のテーブルについたシュバルツの対面にはヤシュが座っており、手を伸ばせば触れられそうな距離である。
ヤシュは今日も西国の民族衣装である服を身に纏っており、エキゾチックな衣装の下からは褐色肌と緑色の髪が覗いていた。
そして……ヤシュは今日も顔の下半分をヴェールで覆っており、目元しか見ることができなくなっている。
「ヤシュ様がおっしゃいます。『今日は我が祖国より取り寄せたお茶を召し上がっていただきます。どうかお楽しみくださいませ』と」
おまけに……ヤシュの隣には故郷から連れてきた女官が控えており、主人の代わりにペラペラと喋っているのだ。
顔もまともに見ておらず、声も聞いていない。まったく進歩のないプラマイゼロの状態が続いていた。
「……ヤシュ妃はこちらに来て随分と経ちますが、後宮にはもう慣れましたか? 不自由なことがあれば遠慮せずに教えて欲しいのですが?」
「…………」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『ヴァイス殿下のご配慮に心より感謝いたします。けれど、私は何不自由なく暮らすことができています。この国の女官も良くしてくれますし、不満など1つとしてございません』と」
「……それはよかった。安心いたしました」
いや……あの短い沈黙でどうやってそんな長文を話していたというのだろう。
明らかに通訳の女性が勝手なことを話しているような気がするのだが……シュバルツは顔が引きつりそうになるのを懸命に堪えた。
「よ、よろしければヤシュ妃と直接話をさせていただきたいのですが……」
「…………」
「ヤシュ様がおっしゃいます。『申し訳ございませんが、たとえ夫が相手であったとしても契りを果たす前に、殿方と素顔で会ったり言葉を交わしたりすることはできない掟なのです。不快な思いをさせてしまったら申し訳ありません。いいから黙ってろ』とのことです」
「いや……最後のは君の感想なんじゃないかなあ? 本当にヤシュ妃がそう言ったのですか?」
「さあ、知りません」
ヤギの巻き角を生やした亜人の女官はしれっとした涼しげな顔でそっぽを向いている。
素顔が見えないヤシュは何を考えているかわからないが、能面のような無表情の通訳の頭の中もまったく読めない。
(……亜人連合国の出身者はこんな人ばかりなのか? これまで会った亜人……クロハもメイスも普通に話ができる奴なんだが……)
厳密に言えば、クロハ──『色魔族』は東方にある『ジパング』という国にルーツを持つ亜人であり、ヤシュの故郷である亜人連合国とは関わりはなかった。色魔族は東方の島国においては『飛縁魔』などと呼ばれていると聞いたことがある。
猫の獣人であるメイスは亜人には違いないがウッドロウ王国の出身者。祖父母が亜人連合国の出身者であり、かつての戦時中に捕虜として連れてこられたと話していた。
(……亜人連合国とこの国が戦争をしていたのはもう100年も前か。俺の行動1つでせっかく結ばれた和平が崩れるかもしれないんだから、ゾッとするよな)
シュバルツは苦々しい気持ちになりながらコホンと咳払いをした。
「まあ……掟というのであれば仕方がありませんね。ヤシュ妃の声を聞くことができる日を楽しみにしていますよ」
「…………」
シュバルツが微笑みかけると、ヤシュ妃の緑色の瞳がわずかに細められるのがわかった。
(ん……? ひょっとして、今、笑ったのか?)
「ヤシュ様がおっしゃいます。『気持ち悪い事を言うな。鬱陶しい』とのことです」
「いや……絶対に嘘ですよね? 適当に言いましたよね?」
「正直、リア充は爆発しろって思ってます。こっちは三十路前で独身なんだぞ……とのことです」
「それは絶対、君の感想だよね!? そうだって言ってくれ!」
前進したのか、それとも後退しているのだろうか。
通訳の言葉に翻弄されながら……その日の茶会は終了した。
シュバルツはお供として控えていたユリウスと女官長を連れて……成果の出ない茶器に肩を落としながら、翡翠宮を後にするのであった。




