幕間 紅玉妃と翡翠妃
後宮の庭で1人の女性が剣を振っていた。
女性が腕をふるうたびに鈍銀色の刀剣が陽光を反射させ、空中に弧を描いて軌跡を生じさせる。
「スー……ハー……」
深い呼吸を繰り返し、軽やかなステップを踏みながら剣の素振りをしているのはシンラ・レン。後宮において『紅玉妃』の名を賜っている上級妃である。
妃でありながら卓越した剣士でもあるシンラは、澄んだ瞳で虚空を見つめ、どこか晴れ晴れとした表情で刀を振るう。
「綺麗……」
「なんて凛々しいのかしら……」
そんなシンラの姿を少し離れた場所から見つめ、数人の妃や女官が溜息を漏らして見入っていた。
元々、凛々しく整った顔立ちのシンラは男性よりも女性から好意を抱かれるタイプである。しかし、最近になってそれに拍車がかかっていた。
後宮の内部には下級妃や女官を中心としてシンラを崇拝する教団のようなものができており、こうして遠巻きにシンラの一挙一動を見守っている。
(まったく……いったい、どうしたというのだろう?)
そんな熱い視線を一身に受けながら、シンラは心中で溜息をつく。
特別、他の妃への接し方を変えたわけではない。ふるまいを変えたわけでもない。
それなのに……最近になって急に変わった周囲の態度に困惑するばかりである。
(悪意の視線は感じないが……どうして、皆そろって私を観察するようになったのだ? ひょっとして、後宮を抜け出して冒険者をやっているのがバレたのだろうか?)
シンラは密かに後宮から抜け出し、冒険者として活動していた。
表向きは体調を崩して臥せっていることになっているため、そのことを知っているのは後宮では祖国から連れてきた腹心の女官だけである。
幼い頃から共に育った乳母の娘が裏切るとは思えないが……他のルートから露見したのだろうか?
(ううむ……やはり体調を崩して部屋に籠っているという言い訳に無理があったのだろうか? こうやって剣の鍛錬をしているせいで、体調不良が嘘だとバレたのかもしれない? 鍛錬を控えるか、そもそも、冒険者としての活動をやめるか……。しかし、そうなると若殿に会えなくなってしまうな)
シンラは冒険者として活動しつつ、後宮の外でシュバルツと逢瀬を交わしていた。
パーティーを組んで一緒に魔物退治をする傍らで、剣の模擬実戦をしたり、恋人らしい行為に及んだりもしている。
(若殿と会えなくなってしまうのは……やはり、辛いな。『修羅』も鳴りを潜めていることだし、出来ればこれからも冒険者として共に行動したいのだが……)
シンラは剣をふるいながらうんうんと考え込む。
シュバルツと決闘をして以来、シンラは自分の中にいる殺人衝動――『修羅』がおとなしくなっていることを感じていた。完全に消えたわけではないのだが、シュバルツと模擬戦闘をしたり、身体を重ねると不思議なほど静まり返るのだ。
そして、それこそがシンラが他の妃や女官から注目されるようになった原因である。
心中で荒れ狂っていた殺人衝動が消え去ったことで、シンラは鬼の角が取れたように纏っている雰囲気が柔らかいものなっていた。
以前のシンラは笑顔を浮かべていても、どこか刺すような剣呑な空気を無意識に放っていた。
決闘での敗北以来、そんな険が抜け落ちており、代わりに生来の凛々しさと頼もしさが表に出てきているのである。
それが女性人気を獲得した原因になっているのだが……シンラはそれに気づいていない。
自分の愛好会が設立されていることも、一部の妃から『お姉様』などと呼ばれていることも、自分を主人公にしたロマンス小説が描かれて後宮の乙女らに代わる代わる読まれていることも知ることはない。
何も知らず、変わっていく周囲の視線に頭を悩ませていたのである。
「ム……?」
そんなふうに懊悩しつつも剣を振っていると、庭から少し離れた場所にある通路を2人の女性が歩いてくるのが見えた。
顔の下半分をヴェールで隠し、背中に緑色の不思議な色合いの髪を流している小柄な女性――翡翠妃であるヤシュ・ドラグーンである。
「…………」
どうやらヤシュもシンラに気がついたらしく、背後に女官の女性を従えて歩み寄ってくる。
「ヤシュ様が紅玉妃様にご挨拶を申し上げます。『ごきげんよう、今日は良い天気ですね』ーーと」
挨拶の向上を口にしたのはヤシュではなく、背後にいる女官だった。
ヤシュが連れているのは彼女が故郷である亜人連合国から連れてきた女性。ヤギの巻き角を頭の左右に生やした獣人の女だった。
「これはご丁寧に。確かに良い天気だな」
シンラは剣を振るう手を止めて、ヤシュに穏やかな声で挨拶をした。
ヤシュとは会話をしたことはない。それどころか、声を聞いたことすらなかったのだが……不思議とその雰囲気は嫌いではない。
(力強く、それでいて穏やかな空気……まるで樹齢を重ねた大樹のように安心感のある娘だな)
シンラは心の中でヤシュのことをそんなふうに評価した。
実際、その想像は見当違いとは言えない。
見た目は12、3歳ほどの少女に見えるヤシュであったが、実年齢はシンラよりもはるかに年上である。亜人の中には老化が遅い種族がいて、ヤシュもまたそれにあたるのだ。
「ヤシュ様が申し上げます。『紅玉妃様は今日も鍛錬ですか? 随分と精が出ますね』――と」
「ああ、私は剣術以外にとりえもなく面白みのない女だからな。いずれ夫の役に立てるように技を磨いているのだ」
「『それは素晴らしい心がけですわ。私も紅玉妃様を見習って、王の妻となる身として精進せねばなりませんわね』」
シンラは通訳を通して、ヤシュと会話をしていく。
そこでふとシンラは気になっていたことを尋ねることにした。
「そういえば、ヤシュ殿は若殿……ヴァイス殿下のことをどう思われているのだろう?」
「『殿下のこと、ですか?』」
「うむ。王族の結婚はどうしても政略が絡むゆえ、感情と反することも多い。ヤシュ殿は納得して殿下に嫁がれたのか気になってな」
「『…………』」
ヤシュは……というよりも通訳の女官はしばし沈黙していたが、やがてシンラの問いに答えた。
「ヤシュ様がおっしゃります。『私は生まれながらに宮殿の深くに隠され、物心がついてから50年以上も恋を知らなかった女です。現時点でヴァイス殿下のことを愛しているとは断言できませんが……いずれはそういう関係になれたらよいと思っています。恋物語に登場する乙女のような感情を味わってみたい、そんな思いはありますので』――と」
「ふむ……脈無しということでもないのか? 若殿の努力次第だろうか?」
「『何か申されましたか?』」
「いや、何でもない。長々と話に付き合わせてしまって済まなかった。これからどこに行かれるのかな?」
「『書庫に本を借りに行こうと思っています。ちょうど詩集が読みたい気分なので』」
ヤシュは丁寧に腰を折り、ペコリと頭を下げた。
「『それでは失礼いたします。鍛錬、頑張ってくださいな』」
「ああ、また」
ヤシュが女官を連れて去っていった。
緑の髪を揺らしながら歩いていく少女を見送って……シンラはフッと微笑を浮かべた。
「やはり悪い娘ではなさそうだな。少なくとも、私やクレスタ殿よりはずっとやりやすいことだろう」
人間関係……特に男女の付き合いに疎そうなため、最初は苦労することだろう。
だが、いずれは必ずシュバルツに心を開いて良き妻となってくれるはず。シンラはそんな確信から深く頷いた。
「さて、それでは鍛練を再開して…………ん?」
再び木刀を手に取って鍛練を開始しようとして……ふと頭に疑問が引っかかる。
「『物心がついてから50年以上も恋を知らなかった』……? 彼女はいったい何歳なんだ?」
少なくとも自分の倍以上は生きているであろう少女の年齢が気になり、シンラはそこから鍛錬が手につかなくなってしまった。
その後、シュバルツはヤシュ・ドラグーンを堕とすために本格的に行動を開始することになるのだが……シンラの予想と反して、その道のりは楽なものではなかった。
ヤシュを手に入れる過程でシュバルツが命の危機に瀕することになるのは、ほんの少し先の出来事である。