幕間 水晶妃と琥珀妃
「どうや、ええやろ? この色、手触り。北国産の最高級品や」
「ええ、とても素敵ですわ! 水晶妃さま!」
後宮にある庭園に十数人の女性が集まり、きゃあきゃあと黄色い声を上げている。
テーブルに並べられているのは色とりどりに染められた布。鮮やかな色彩、凝った意匠が施されたそれは上質な絹によって織られていた。
「このシルクでドレスを作ったら、さぞや目に映える艶やかなものになるやろうなあ。肌触りもいいから着ていて苦にもならないし、こっちの無地の布は日用品としても使えるやろうな」
得意げな口調で絹の布地を薦めているのは、水晶妃であるクレスタ・ローゼンハイドである。
かつてシュバルツの弱みを握り、自分が所有する商会の利益のために脅迫行為に及んだクレスタであったが、今は嬉々とした顔で商売に励んでいた。
商売熱心なのは依然と変わらないが……その表情にはどこか吹っ切れたような余裕の色があり、まるで長年背負っていた荷を下ろしたようである。
「さあさあ、こっちの化粧品も見てってや! 西方で売り出された人気の品や! 今ならお友達価格で安くしとくわ!」
「わあ!」
「素晴らしいですわ!」
「あらあら、どうしましょう! 目移りして困ってしまいますわ!」
クレスタの部下である女性の使用人が木箱に入った化粧品を運んでくる。
テーブルの上に並べられていく口紅や香水を見て、客として集まっている女性達が瞳を輝かせた。
クレスタの周りに集まって商品に見入っているのは、後宮にいる下級妃らである。一部、中級妃も混じっていた。
後宮は女の園。男子禁制であり、自由に外に出ることさえも禁じられた聖域である。そんな場所であっても……あるいは、そんな場所であるからこそ、そこに集められた妃らはオシャレをして自らを彩ることを好んでいる。
商業同盟出身の商人であり、ローゼンハイド商会の会長でもあるクレスタにとっては、絶好のお客様だった。
「こちらの香油、バラを使っているのですね。ひょっとしたら、この国の花でも作れるかしら?」
中には、オシャレよりも別のことに気をとられている妃もいる。
後宮の半数を占める下級妃らは平民階級の出身者。役人や武官、豪商の娘が中心となっていた。
その中には、クレスタのように商売のチャンスに目を光らせている者もおり、他国から取り寄せられた珍しい品を興味深げに吟味している。
「そうやね、この国の花で作った香油も売れるかも知れんなあ。よかったら、あとで製法について詳しく話したるわ」
「よろしいのですか? 水晶妃様に利益があるとは思えませんけど……」
「ええよ、ええよ。貸しってことにしといたる。一緒に後宮に暮らしとる仲やないの。仲良うしようや」
クレスタは鷹揚な態度で商人の娘である下級妃に笑いかけた。
以前のクレスタであったならば、他国の商人の介入など許すことなく、自分の商会の利益のために平然と叩き潰してやったことだろう。
しかし、今のクレスタは自分の利益だけではなく、他の商人の利益にまで配慮する心の余裕が出来ていた。
(『商売は戦いやなくて利益のすり合わせ。優れた商人は自分だけじゃなくて相手の懐も温める』……綺麗ごとの道徳やと思ってたけど、今なら理解できるわ。ウチは未熟な商人だったんやなあ)
クレスタは下積み時代に先輩商人から聞いた心得をしみじみと思い出す。
商売は戦争。商談は戦場。
そんなふうに自分に言い聞かせ、心を鬼にして商人として成りあがってきたクレスタであったが、最近になって考えを改めるようになっていた。自分や自分の商会だけではなく、商売相手や他の不特定多数の人間の利益や幸福を追い求めるようになったのである。
それというのも、クレスタはかつて親に売り飛ばされて奴隷になっていた経験から、愛情というものを知らずに生きてきた。
しかし、シュバルツに出会って力ずくで『愛』の心地よさを叩きこまれたことで、荒んだ心に余裕が生まれていたのである。
自分は愛されている──その自覚があるからこそ、自分のことをもっと好きになれた。
そして、自分を愛しているからこそ、他人に対しても優しくなることができる。
(売る側も買う側も笑顔で商いができる……それがほんまもんの商売なんやろうな。『神商七家』に選ばれて商人の頂点に立ったつもりやったけど……どうやら、まだまだ未熟やったようや)
クレスタは楽しそうに化粧品を選んでいる下級妃を見やり、穏やかな笑みを浮かべた。
(これからは自分たちの利益だととちゃう。お客様のことももっとしっかり考えんとな。それがウチ自身の幸せになり、そして……旦那はんの利益に繋がる)
クレスタは自分を変えてくれた愛しい男の顔を思い浮かべ、ほんのりと頬を桃色に染めた。
クレスタとシュバルツは表立って交際することの出来ない仲だったが……シュバルツが王になれば、誰にはばかることなく共に在ることができる。
そのためにも、シュバルツの力とするべく金と人脈を集めなくてはいけない。
「よし! 今日は大特価のサービスや! そこにあるもん、全部2割引きでええよ! 好きなだけもってったってや!」
「まあ!」
「素敵ですわ! さすがは水晶妃さま!」
クレスタの気前の良い言葉に妃らが華やいだ声を上げた。そんな彼女らをクレスタもニコニコと見つめている。
商人も客もどちらも笑顔。商いにおける1つの理想像がそこにはあった。
「あら? 随分と楽しそうですわね」
しかし……そんな空気をぶち壊しにするような冷ややかな声が浴びせられる。
集まっていた下級妃らが横にどいて道を開けると、そこには金色の髪をなびかせた美貌の女性が立っていた。
「……なんや、アンタか」
上級妃の1人。琥珀妃アンバー・イヴリーズ。
神聖イヴリーズ帝国から嫁いできた妃が表面上はにこやかに、けれど寒々しい視線を向けながら登場した。
琥珀妃の後ろにはぞろぞろと10人ほどの女性が続いている。いずれも貴族階級の出身者である中級妃らであった。
「あら、邪魔をしてしまって申し訳ありません。とても楽しそうにされていたので、思わず声をかけてしまいましたわ」
「……ええよ、別に。こっちは気にしてへんよ」
言いながらも、クレスタの表情はどこか苦々しい。
それというのも、琥珀妃は顔合わせの茶会以降、たびたび琥珀妃からちょっかいをかけられているのだ。
顔を合わせるたびに笑顔で嫌味をぶつけられ、すっかり苦手意識が生まれていたのである。
「まあ、素敵な布地ですこと。さすがは北方最大の豪商であるローゼンハイド商会が仕入れた商品ですわ。とても良い色を出していますわね?」
「……おおきに、良かったら買うてってや」
「そうしたいところですが……水晶妃様、貴方様には上級妃としての自覚がないのでしょうか? 仮にも後宮の主である妃の1人がそんな商人の真似事をしたりして、恥ずかしいと思わないのですか?」
「……真似事やのうて本当に商人やからな。言っとくけど、ちゃんと旦那はんの許可はもらっとるよ」
『旦那はん』というのはもちろん、シュバルツ・ウッドロウ――後宮内においては『ヴァイス・ウッドロウ』と名乗っている人物である。
後宮内で他の妃らを相手に商売をする許可はもらっており、アンバーから口出しをされる筋合いなどなかった。
「……随分と親しげなのですね。ヴァイス殿下と」
アンバーの瞳から向けられる視線の温度が一段階下がる。
宝石のような金色の瞳に宿っている感情は……明らかな嫉妬であった。
(わからんなあ、この娘も。何を考えとるんやろ?)
後宮は妬み嫉みが渦巻く女の戦場。そういう意味では、アンバーがクレスタに向ける感情は決して見当違いではない。
だが……どうにも、アンバーの態度と行動がちぐはぐに思えてならなかった。
(旦那はんの話では、琥珀妃はんはずっと冷たい態度を貫いてきて、まるで攻略の兆しが見えないんやろ? だけど……この嫉妬ぶりや。明らかに他の上級妃に先に行かれんのを嫌がっとる)
クレスタはすでにシュバルツの正体を知っており、ヴァイスではなく愛しい彼を新たな王にしようと暗躍している人間の1人である。
秘密裏にシュバルツと逢瀬を交わした際に他の上級妃の攻略状況についても聞いていたのだが……その話と目の前にいる妃の姿がつながらなかった。
(正妃の座を狙っとるんやったら、もっと積極的に旦那はんを誘惑するはずやろ? 国の命令で嫌々嫁いだともちゃうようやし、この娘はいったい何がしたいん?)
「琥珀妃はんは……ヴァイス殿下のことを愛しとるん?」
「…………は?」
思わず口から出てしまった問いに、アンバーの社交辞令的な笑顔が一瞬だけ固まった。
しかし、すぐに噓くさい笑みを取り戻して小首を傾げてくる。
「もちろん、ヴァイス殿下とはいずれ愛し愛される関係になれたら良いと思っていますわ。それは後宮にいる妃であれば皆同じではありませんか?」
「……そうやな。変なことを聞いて悪かったわ」
「それでは、今日のところは失礼いたしますわ。ご機嫌よう……」
アンバーが取り巻きの中級妃を引き連れて去っていった。
ドレスを着た後ろ姿が楚々とした足取りで去っていくのを見送って……クレスタはフッと溜息を吐いた。
「これまた難儀そうな娘やなあ。旦那はんも苦労しそうや」
「す、水晶妃様?」
「ああ、ごめんな。それじゃあ今度は新作の白粉を見せたるわ。これは肌荒れもしづらくて手触りも良くてなあ……」
クレスタは客の方に向き直り、新たに取り出した商品を勧める。
琥珀妃――アンバー・イヴリーズの不可思議な態度に懸念を抱くクレスタであったが……その予想は数週間後に的中することになった。
アンバーがシュバルツを悩ませる最大の難敵として立ちふさがるのは、まだ少しばかり先のことである。




