第1話
ダンジョン5階層。
青く輝く水晶の天井と背の低い草花が広がる大きな丸部屋。
気を抜けばここがダンジョンであることを忘れてしまいそうなのどかな風景の中で、私は死にかけていた。
具体的に言うと、ダンジョン最弱のモンスター『ゴブリン』に殺されかけていた。
『——シャアッ!』
「うわっ!」
ゴブリンの会心の一撃。
爪による攻撃を受け止めることができず、私は手に持っていたナイフを落として尻餅をついてしまう。臀部に響く鈍い衝撃。
——敗北。
私とゴブリンの勝負に決着がついた瞬間だった。
下半身を地面に付けた姿勢のまま、顔を上げるとゴブリンは肩で大きく息をしていた。
『ヒィ、ヒィ……フッ!』
「ひいいいいいいいい!」
右手を振り上げる緑色の怪物。水晶の光を反射して、ゴブリンの鋭い爪がキラリと光る。あの右手に貫かれてしまえば、私の体はいとも簡単に死体に成り果ててしまうだろう。
立ち上がることもできず、尻餅をついた体勢のまま後退りした。
『シャアアアッ!』
目の前の死にかけの獲物に止めを刺さんとゴブリンは追いかけてくる。
私は情けない悲鳴を上げながら無様に逃げ惑った。
男の人が見れば一瞬で笑い出すような滑稽な光景。ゴブリンに殺される惨めな少女。
どうやら私には初めから格好いい女騎士や美しい聖女になれる資格なんてなかったらしい。
(終わった。……間違いなく、終わった)
卑猥で浅はかな妄想に取り憑かれた者の末路。ゴブリンの餌。醜い冒険家の子。
やがてゴブリンに追いつかれて、私の短い冒険家生命は終わりを迎えてしまう。
絶体絶命の危機を助けてくれる王子様なんていない。迷宮で出会うのは美少年ではなく恐ろしいモンスターばかり。
そもそも日々多くの犠牲者を出すダンジョンで、それを叶えようとした時点で私の人生は終わっていたのだ。
あぁ、キラキラした目で絵本を読んでいたあの頃の自分に戻りたい。そんな物語は絵本の中にしかないと言い聞かせるために。そんなこと、物理的にも私の命運的にももう不可能だけれど。
ドンッ、と背中が壁にぶつかる。行き止まりだ。
臀部を床につけた体勢のまま逃げ続けて、とうとう部屋の隅にまで追い詰められてしまった。
右手を高く振り上げたゴブリンが一歩ずつこちらへ近づいてくる。
(あぁ、死んでしまった……)
子供のように泣き喚く。戦うことも逃げ出すことも諦めて、私はその場で涙を流し続けた。歪んだ笑みを纏うゴブリンの顔が、涙で一層醜悪に見えた。
——結局、ダンジョンに王子様なんていなかった。
自分を死地に追いやった言葉を性懲りもなく思い浮かべる。
目の前にゴブリンが到達し、右手が振り下ろされようとした。
次の瞬間、緑色の怪物の胴体に銀色の線が駆け抜けた。
「ふぇ?」
『ジャ?』
間抜けな声を同時に上げる私とゴブリン。
しかし銀色の線は止まることなく、ゴブリンの両肩、両脚、首の付け根を切り刻み、最後に魔石ごと胸部を貫いた。
『——————ッ!』
爆散。
魔石を破壊されたゴブリンは、絶叫を上げる間も無く体を灰に変え爆発してしまう。
頭に降りかかる灰も忘れ、呆然と時を止める私。
煙が晴れ、モンスターの代わりに現れたのは白髪の美少女だった。
彼女の長くて美しい髪は風に揺れている。細くて鍛えられている体は銀色の鎧に包まれている。黄金色の瞳に映るのは、大量の涙を流す私の顔。
「マーガレットちゃん……」
私から離れた場所でモンスターと戦っていたはずの友人が目の前にいる。窮地に陥っていた私を助けるために駆けつけてくれたのだとすぐに理解した。
マーガレットちゃんの周りがキラキラと輝いて見える。
異性だったら間違いなく惚れていた。いや同性であってもマーガレットちゃんの格好良さに私はもうメロメロである。
ダンジョンに王子様はいなかったけれど、女神様はいた。
立ち上がって目の前の美少女に抱きつこうとした次の瞬間、
「しーごーとー、しーろー!」
モンスターよりも恐ろしい女神様の雷が落ちた。
「荷物持ちがモンスターと戦うな! ゴブリンに負けるくせに前線に出てこようとするな! 弱いなら私の後ろに隠れてろ! 自分の仕事をしろお‼︎」
「ごめんなさあああい⁉︎」
ゴブリンに追いかけられた時よりも速く、その場から走り出した。
地面に落とした自分のナイフを拾い上げて、大きなバックパックの裏に姿を隠す。
息を潜めて深呼吸。すう、はあ、と息を吐き呼吸を落ち着かせるとバックパックの裏から顔を出した。
5階層で探索をしていた私達のパーティはモンスターの群れに遭遇した。五人組のこちらに対して、八匹いたモンスター達は器用にも包囲網を敷いて私達を追い詰めようとした。
しかしマーガレットちゃんが飛び出すようにしてゴブリンを一匹倒したことによって乱戦が始まったのだ。
現在はそれぞれの相手と戦っている。マーガレットちゃんも先程の場所から移動して次のモンスターを剣で攻撃しているようだ。
私はこのままここで隠れていようかと考えたけれど、止めた。
一対一だと私は負けてしまうけれど、背後から奇襲する形ならばパーティに貢献することもできるだろうし。もしモンスターを倒すことができれば、マーガレットちゃんに褒めてもらえるかもしれない。
ナイフを右手に装備。今度は落としてしまわないように力強く握りしめる。
パーティメンバーと戦っているゴブリンに狙いを定めて一直線に駆け出した。
『シャアア!』
「え、うわっ⁉︎」
横からの不意打ち。新手のモンスターが現れた。私の突撃は途中で止められてしまう。
『シャアア!』
『シャアア!』
『シャアア!』
興奮した様子でこちらに向かってくるゴブリンが三体。しかも棍棒なんてものを構えちゃっている。
(あ、これは無理だ)
そこからの私の行動は迅速だった。
進行方向から振り返り、親友がいる方へ走り出す。
「マーガレットちゃーん、助けてー⁉︎」