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A8

 残り6000話までの数年がね。

 美咲が正常な赤子として生まれてくれたことが唯一の救いだったとはいえ、一時は危険に晒されている。紗耶がいなくなると、しばらくは紗耶の家にお世話になっていた。仕事は正式な退職を告げず、辞めた。だが、美咲を育てていくためにはそれは許されず、紗耶の親にも迷惑をかけるわけには行かなかった。

 その頃、俺は実家に美咲を連れて戻り、しばらくは俺の親から養育費を貰うことになった。保険が取るに足らないものだったため、それらは美咲のための貯金にした。俺は養育費を貰っただけで、美咲には指一本も触れさせなかった。俺の防衛本能は継続されていたのだ。どうして、俺の大切な美咲を汚らわしい手で触られないといけないのか。俺は四六時中美咲の面倒を看ることにした。だから、俺の手に美咲が渡されてから、俺はすべての人間の接触を断ったつもりだ。触れるのが、例えば、止むを得ないのなら、俺も納得できた。風邪をひいて、それを診てもらうためなら納得出来たが、自己満足のために頭を撫でたり、抱っこしたりする奴は許せず、そういう魔の手から美咲を守るために俺は美咲のところに二十四時間いることにした。

 病院で育児のすべての情報を手に入れた。しつけや接し方はすべて俺の方法を取った。特に小さい頃は俺以外の情報を与えたくなかった。だから、美咲と俺およびそれ以外の人間に隔離して、俺は美咲のためにすべての時間を費やしていた。美咲は0歳のうちはよく泣いていたが、やがてほとんど泣かなくなり、言葉もどんどん覚えていった。標準語で、比較的温和な会話を心がけていたからか、それとなく美咲は優しい女の子に育っているような気がした。だが、家にいると、間違いなく外部の干渉があった。馬鹿親が大声を上げて喧嘩するから、美咲が怯えてしまい、俺は親を殴り飛ばして、外に出たが、今度はわけのわからない連中が話しかけてきて、そいつも殴り飛ばして、川原にいった。川の音が小さな上流のほうに向かい、川の音を聞きながら、色々なことを語りかけた。


 しばらく後、俺は美咲のためにもここを出なければならないと思い、親にお金を出させて、よそに移った。最初は紗耶の家に行こうと思ったが、たとえ、紗耶の親であっても、美咲を渡す気にはなれず、全く別のところに向かった。二万四千円の家賃でアパートを借りた。ほとんど人の入っていない場所で、関係も稀薄だというので、そこに決めたが、国道からも切り離されていて、自然豊かないい場所だった。とはいえ、大家が言うには、このあたりも開発の計画が立っていて、どんどん都市化するらしい。

 美咲とそこで住むようになったのだが、近くにある水の澄んだ川があって、山のほうに続いているので、山の近くまで美咲を連れて行って、鳥の声を聞いたり、川を眺めたりするようになった。親に金を出させて、何の見返りもしない俺はひどく親不孝な奴だ。だが、親不孝でもいい。美咲のためなら、どんな悪役にもなれるし、どんな奴も利用してやる。E先生も利用していた。

 美咲と二人きりで静かな環境を手に入れたのだが、不便な点もあった。店がないので、一時間も歩いて、町に向かい、オムツやミルクを買わなければならなかった。夏場は暑いので、非常に高級な日傘を差して向かうのだが、美咲を連れて行かなければならず、大変だった。美咲は暑さにはかなり強く、ごくごく普通にしていた。店の冷房をむしろ嫌がり、俺は用事を済ませて、そそくさと帰った。

 美咲のためにパソコンを封印していたので、アパートには情報源が一切なく、しばらくは世の中のことが何もわからなかった。総理大臣が変わっていることを知ったのは、どっかで流れていたラジオを聞いたときだった。それほど美咲に掛かりきりになっていた。美咲は2歳になるとかなり言葉を覚えていて、ほとんどの言葉に反応していたし、4歳になると、もう俺以上に社会で生活出来るのではないかと思うほどになっていた。


 住民票に登録されているために、幼稚園の案内が来て、俺はそれを破り捨てて、ゴミ箱に放り投げた。どうして、美咲をそんなわけのわからない怪しいところに向かわせなければならないのか。

 この頃、美咲はほとんど俺の傍を離れたがらなかったから、俺は幼稚園など行かせず、そのままにした。この頃、美咲はなぞなぞが好きになっていたので、俺は色々ななぞなぞや引っ掛け問題の本を買っては一緒に読んでいた。美咲は俺のことを「お父さん」と呼ぶようになっていて、恐らくだが、俺以外の人間の情報がかなり少ないはずだ。俺は決して怒らなかったが、4歳の美咲はほぼすべての常識的な法律は習得していて、『人や物を傷つけない』『迷惑をかけない』などといったことはすべて覚えた。わがままを言うこともなく、山に行っては、二人だけで遊ぶようになっていた。美咲は大人しい子だった。人との関わりがないぶん、普通の子供がなかなか馴染めないものに馴染ませた。自然とか星空とかそういったものだ。運動不足にならないように柔軟体操をしたり、自然的な山に出かけたりした。そうして、美咲は俺といることが安心であって、楽しいことだと思うようになった。幼稚園には行かせず、社会との関わりも少ないまま、俺たちは過ごしていた。美咲をそんな場所に行かせることが出来るほど、俺は安定した心理を持っていなかった。過保護に美咲を可愛がっていた。美咲の願いはほぼすべて叶えることに専念した。

「お父さん、山に行きたい」と美咲が言うと、山に行くし、遠慮なく何でも俺には言うようになっていた。俺はそれが嬉しく、そして幸せを感じることが出来た。美咲はとても可愛い女の子に育っていたが、子供としては表情や態度、性格に突起が全く感じられない。要するに大人びた感じに育っていた。俺の育て方は反社会的なものだったと思う。それがこのような女の子を育てたのだろうか。とにかく、俺の嫌いなタイプの性格に育ってくれなくて、良かったと思った。

 美咲に「幼稚園に行きたいか?」と訊くと、「お父さんと一緒がいい」と言ってくれる。だから、幼稚園など行かせず、ただ、俺は美咲のところにいた。だが、美咲が成長するにつれて、お金がかかるようになってきて、親集りでいるわけにもいかなくなった俺は内職を探した。「鶴一羽あたり十二円の内職がある」というので、それをやろうと思ったのだが、「他にも折ってもらわないといけない」と言われ、『鶴』や『やっこ』などを折る仕事をすることになった。「私も手伝う」と言って、美咲もやってくれるのだが、俺より美咲のほうが上手に折る。つまり、俺より美咲のほうがすでに社会人として優れていたわけだ。

 美咲は五時間、六時間も折り続けるので、「無理はダメだ」と言うと、「楽しいから」と言って、美咲はたくさん折ってくれた。

 小学校、つまりは義務教育課程に入って、美咲を小学校に行かせなければならなくなったのだが、俺はそれに対して過剰反応を示した。小学校は俺にとって忌まわしいものなのだ。第一の美咲がこの小学校に、命を奪われかけたのだ。そこに自分の美咲を置くなど考えることが出来なかった。まして、幼稚園から上がってくる奴らなので、美咲がそのまま馴染めるはずもなく、また、他人がもし美咲を傷つけたらと思うと、俺はとても美咲を学校に通わせることなど出来なかった。案内が届いたとき、美咲は鶴を折っているところで、「美咲、学校は行きたいか?」と訊くと、「お父さんと一緒がいい」と美咲は答えた。会話の中で学校の制度は口頭していたが、実際に、学校と言うものを美咲に見せたことはない。だから、俺はジレンマに苦しんだ。要するに、このまま美咲といるべきか、学校に行かせるか。学校に行かせたほうが、美咲のためになると思った。

 だが、俺は結局美咲を学校に行かせることはなかった。当然、俺のもとに教育関係者が来た。言い合いを美咲に見られたくなかったから、「用事があるから、留守番しているように」と言った。美咲はかなり不安な表情をしていたが、「すぐに帰ってくる」と言うと、「すぐだよ」と俺に言い聞かせて、納得してくれた。

 外で話をして、学校に行く勇気がないと相手は思ったのだろう。不登校の生徒と認知されるようになって、担任と名乗る男性教師に、家庭訪問などは必要ないと言って、自宅に来させないようにした。

 美咲は誰にも渡さない。誰にも傷つかせない。紗耶が命を賭けて、俺に残してくれた最も大切なものなのだ。紗耶に手を合わせて、美咲を守ってくれと祈ったりもした。


 小学校が始まっても、美咲を学校には行かせなかった。当時の俺たちの生活は午前六時に起きて、といっても美咲はそれより遅めに起きる。俺が六時に起きて、三十分ほどすると、美咲が洗面所に立っていた。過保護な俺は栄養学を完全なものにしたいと思い、美咲の体重や体脂肪率を考慮していた。美咲は好き嫌いが多かったので、美咲の食べられるもので栄養を満たすものを選んで、それを食べさせた。

 美咲は料理以外のすべての家事をやってくれるようになっていた。アイロンもかけることが出来るようになっていたし、掃除機も使う。窓も床も拭いて、お風呂の掃除もする。俺は感心しながら、鶴を折っていた。美咲が一日に170ほど折ってくれるので、440ほど毎日折ることが出来た。夕方を過ぎてから、俺たちは買い物に行くのだが、美咲は本以外には興味を示さず、本も図鑑やクイズの本などだけで、漫画とか小説などは興味を持たなかった。俺は美咲を実家に連れて行ったことがあって、そのときに、俺の聴いていたCDを持ってきたのだが、美咲は気に入って、よく聴くようになった。とはいえ、最近の歌詞はかなり刺激的なものが多く、美咲が妙な疑問を持つようになったので、対応にやや困った。夕食と言っても、原材料をそのまま食べることが多い。キュウリとキャベツは生で食べるし、じゃがいもとかぼちゃを一緒に湯がいて、そのついでに豆も湯がいて、味のないままに食べていた。ごま塩がご飯のおかずだった。とはいえ、そんな食事でも美咲は満足してくれた。というより、その味しか覚えていなかったのだろう。

 夕食を終えると、静かな夜の中、鶴を折ったり、本を読んだり、夜景を眺めたり、音楽を聴いたりと実に内向的なことをしていた。美咲はかなり内向的な女の子に育った。大きな声で、あれをしろ、これをしてはいけないなどとは一切言わず、それでも、美咲はとてもいい子に育っていた。

 とはいえ、俺も美咲に何かを教えてやろうと思った。教育を幅広くせず、興味を持つ題材を探すような感じを心がけた。美咲は右利きだったから、右脳より左脳がいいのだろうかと思ったが、美咲は絵がとてもうまかった。画家的な絵というよりは漫画的な絵ではあるが。美咲も絵を描くことに興味を覚えたらしく、よく描くようになった。そんな感じで毎日が過ぎていくのだが、美咲は居場所をここに確立していたのだろう。

 俺たちの生活には邪魔が多く入った。学校側が家に来て、「あなたは子供をダメにしている」と言ってきた。美咲は俺のことをよく心配してくれて、俺が困っていることにすぐ気付いて、訪問者を外に連れ返す手助けをしてくれた。美咲はドスンと男にぶつかって、「お父さんを返して」と涙声で言ったので、俺は頭に来て、訪問者を帰らせた。美咲を泣かした奴は許せない。だが、美咲の手前、その拳を止めることが出来た。美咲は俺にしがみついてきて、「私、ダメなの?」と訊いてくるので、「ダメなのはあいつらだよ」と言い聞かせた。もし、このことで美咲が不安になってしまったのなら、俺はそいつを許さない。大切な美咲を不安にさせたということは、ほとんど死刑と同じ罪だ。俺の心理はただ美咲の保護だけに向かっていた。だから、本当に守るとは過保護にすることではないなどと宗教臭いことを言われても、本能は変わらない。ライオンなどは生存しているその瞬間自体が幸せなのだ。そして死は不幸だが、死ぬと何も感じることが出来ない。だから、彼らは幸せ以外の何もないのだ。生存しているという事実だけなら、生存しているものに共通だ。人間はそこにステータスを付け足したから、幸せ、不幸が生まれた。幸せを求めるから不幸が生まれたというのは皮肉だが、周囲とのステータスの格差が幸せのレベルに明確な数値を与える。今の俺はステータスに則らない思考しか出来なくなっていた。

 美咲はさほど気にすることなく、次の日も鶴を折っていた。俺はこんな子供に労働をさせているのかと思ってしまい、かなり情けなさを感じた。美咲は毎日2000円も稼ぎ出してくれる。月にすると、60000円も稼ぎ出してくれる。十時間も鶴を折り続けてくれる。音楽を聴きながら、ひたすら折っていると、年収170万ぐらいにはなり、約55万円の貯金をすることが出来た。

 美咲は俺のすべてだった。美咲と四六時中過ごすようになっていて、美咲も俺のことを完全に信頼してくれていた。銀行に行っている三十分も家を離れると、美咲はすごく不安そうになって、「遅いよ、お父さん」と言う。学校に行くこともなく、美咲は家のことは何でもこなすようになっていた。

 美咲が小学二年生になるころには、美咲は高校の理科を学ぶことが出来るようになっていた。ただ、美咲はどうしても、等式の変形をうまく理解することが出来なかった。

PV=nRTをnについて整理すると、n=PV/RTだが、それを見て、「お父さん、分からない」と言うので、ここが現時点の限界なのだろう。とはいえ、それ以外のことはほとんど理解して、比較的興味深く見ていた。学校側がプリントを届けに来るのだが、そのプリントがあまりにやる気のないもので、丸めて捨てた。所詮は万人を相手にしたものだ。一人一人の個性に合わせたプリントなど義務教育と言う犬養成マニュアルに出来るはずがないのだ。この頃、俺は美咲に合同式を教えていたのだが、−1≡3(mod4)などの負の剰余がイマイチ理解するのが難しい様子だった。

 運動会があるなどと、学校側が言ってきても、俺は無視した。もう美咲を学校に行かせることはしたくない。とはいえ、社交性が重要なステータスの現代、社交性が必要だと思い、俺は美咲を連れて出かけた。美咲がこの頃一番興味を示していた獣医学の研究を見学させてくれるというので、K大学に付属している研究室を訪れたのだが、そのときの博士が論文のコピー(古いものだった)をくれて、美咲と一緒に話を聞いた。とても簡単に噛み砕いてくれたので、美咲もだいぶ飲み込んでいた。

 それ以外に、動物園に連れて行ってやって、「子供が興味を持っているので、世話をするところなど見学させてもらえませんか」と係りの者に言うと、丁寧に案内してもらって、少し待っていてくれと言われて、美咲とモルモットを抱っこしたりして遊んでいると、妙な動物を見せてもらえて、「カモノハシです」と説明された。

 俺たちが外に出ることはそれぐらいしかなかった。この頃から、美咲に内職を手伝わせることがとても悪く感じるようになって、「美咲、ありがとう、もう十分だから」と内職の時間を減らすように言ったが、「お父さんが大変だから、手伝う」と言って、美咲は続けた。俺は感動した。寝る前は本を読むのが日課になっていたが、俺たちは同じ布団で寝ている。今日も一緒に本を読んでいたのだが、美咲が不意に泣きだして、俺は「どこか痛いのか?」と訊くと、「何でもない」と美咲は答えるのだが、明らかに異常だったので、俺は心配になって、美咲を抱きしめていると、「お父さん、無理しないで」と言ってくれた。俺がどこか無理をしているように見えたのだろうか。「大丈夫だよ」と答えた。


 美咲が二年生の頃の担任は若い女教師で家に来なくてもいいと言っても、やってきて、「美咲ちゃんは元気ですか?」と訊いてくる。奥で美咲は絵を描いているときで、俺はさっさと教師を帰そうとしたが、「美咲ちゃんが学校に来られるように、私も願っています」と言ってきて、「美咲に無理はさせたくないので」と言うと、「会わせてもらえますか?」と言う。「美咲が嫌がるので」と言って、教師を帰らせた。

 俺は美咲をこのままに保存しておきたいと思っていたのだろうか。正直、何も考えてはいなかったと思う。ただ、言えることは、美咲を傷つけるものはすべて敵で、俺はその敵から美咲を守らなければならない。そのためなら、義務教育にも従ってやる。親は義務は守らなければならないという。俺は「老人は荷物だから死ねと言う法律が出来たら、お前らは天皇バンザーイと言って死ぬのか」などとわけの分からないことを言ったりしてしまっていた。とにかく、どんな法律も文系の恐怖からも美咲を守ってみせる。それだけが俺の役目だった。

時間が経過して、美咲は賢くなった。生物と化学、生化学なら恐らく大学院レベルほどだと思う。だが、それは身に付けたというよりかは興味関心に引かれて、刷り込まれたというほうが正しい。東大後期の生物など、軽く解いていたから、程度は高めと言っても問題はなかった。美咲はもっと本格的な実験などをしたかったに違いないが、当時の環境ではとても不可能だった。

とはいえ、美咲にとって、最も重要なことは俺が傍にいることで、俺が買い物に行く用意をするのを見つけると、すぐについてきた。美咲は礼儀正しいし、思いやりもある。紗耶の血を引き継いでいるのだろうか。買うものは固定される方向にあったので、お店に入ると、美咲は買い物籠を持って、野菜エリアに行って、買い物を始める。俺は美咲を守るために常に周囲をうかがっている。少しでも美咲を傷つけたと判断すれば、そいつを許せない。美咲はお菓子をあまりほしがらなかったから、必要なものが揃うと「入れてきたよ」と俺に買い物籠を差し出してくれる。「何かほしいものはないか?」と訊くと、「ハッカの飴がいい」と言う。美咲はハッカが好きだった。必要なものとハッカの飴を買って、すぐに帰宅する。「他に行きたいところはないか?」と訊くと、「ない」と答える。「お父さんの行くところについていく」とだけ言った。

家に帰宅して、必要なものを冷蔵庫(かなり小さい)に入れて、美咲は洗濯物を取り込んでくれる。俺は鶴を折ることに専念するのだが、美咲はすぐに手伝いに来てくれる。目が悪くなるのだが、美咲は俺が作業をしている間は決して、やめないから、俺は作業を中断して、「外に行こうか」と日が暮れて、人目がつかなくなったら、美咲と山のほうまで出かけた。川の音を聞いて、景色を眺めていく。美咲は疲れると、俺の膝の上に座って、眠いと言ってきた。「そろそろ帰るか」と言って、美咲を負ぶって家に帰る。美咲を寝かしつけると、暗いところで鶴を折るのだが、一時間もしないうちに美咲が起きてきて、手伝い始める。「ごめん、明るくて眠れなかったか?」と訊くと、美咲は首を横に振って、「お父さんがいないから」と答えた。午後十時までには寝かせたいので、俺は午後十時に眠りについた。この頃、357羽まで、作業の速度が落ちていた。半分近くは美咲の手柄だ。

とはいえ、内職の稼ぎは生活費で、この頃、まだ親の仕送りがあって、それを貯金にした。年収170万といっても、140万近くまで落ち込んでいたから、五十年続けても、6000万円にしかならず、それだけでは、美咲を大学に出せないと思い、親の仕送りをひたすら貯金していた。子供にバイトをさせないと大学に行かしてやれないというのはいわば親の甘えだ。多少無理をすれば、例えば18時間労働すれば、大学費用ぐらいよぶんに稼ぎ出せる。副業禁止でも、副業に属さない稼ぎ場はある。俺は美咲が一生生きていけるだけのお金を貯金したくて、かなり切り詰めた生活をした。紗耶が残してくれた美咲を不幸にさせるわけにはいかない。その責任の重大さを感じていた。ここまで、紗耶のことを美咲には話さずに来た。紗耶が母親だということを美咲はまだ知らない。そのようなことを話題に出さなかったが、紗耶のことを知らないままに美咲をさせておくことに恐怖を覚えた。ただ、紗耶のことを思い出すと、気持ちが一気に沈んでしまう。結局、最後は一緒にいてやることは出来なかった。言葉をかわすことも出来なかった。紗耶は美咲を見ることも出来ないのだ。紗耶が生き返ってほしいとは思っても、そんなことは出来ない。だから、何も考えないほうがいい。だが、それでいいのか。

俺は思い切って、美咲に「お母さんのこと分かるか?」と写真を見せた。美咲は写真を見て、「知らない」と答えた。「美咲のお母さんなんだよ」と言うと、美咲は写真を深く見て、それでも無関心そうに「分からない」と言った。美咲の中に母親は映っていないのだろう。紗耶が生きていれば、美咲は……。その先を考えることはとても怖いことだった。

美咲を守ることだけに徹していた俺は、美咲を一度も学校に行かせず、いつも傍にいた。美咲の教育は俺が行った。教師などに支配されたくはない。特に美咲に、国語や社会は教えなかった。俺は当時、文系の科目にはとても恐ろしいものを感じていた。国語の教科書に載っている児童小説や不完全な評論や詩などはすべてエゴイズムの塊で、それらを学問として捉える恐怖は並々ならない。文章はすべて、化学と生物の本で読ませて、書かせた。とはいえ、美咲が興味を持ったのは生物だけで、化学はその補助だった。

美咲は生物はかなり詳しくなって、俺よりも立派な知識や生物的な分析力や推理力を備えているだろう。文系の学問は非常に怖い。言語にまで学問の手を浸透させているのだ。それをまるでスパルタ指導を受ける兵士のような面持ちで勉強している人たちがとても怖い。俺は怖くて、美咲に国語や社会を勉強させる気になれなかった。

紗耶がいなくなって、俺にはもう美咲しかいなかった。義務感からのみ俺は美咲を育てているわけではなかった。俺が存在するための必要十分条件が美咲が存在することなのだ。だから、美咲がいなくなることは、俺がいなくなることと全く同じ意味を持っている。俺の命は美咲の命に委ねられていた。今度は神にも渡さない。美咲を学校から切り離し、敵から美咲を隔離し、美咲を幸せにするために俺はずっと美咲の傍にいた。

だが、美咲が成長して、親を煙たがる日が来るだろう。俺はその日が来ることも恐怖していた。少なくとも、今、美咲は俺を必要としていた。美咲は一人で何でもこなすようになっていた。大人のしている仕事をしてもこなすだろうし、家事も完璧にこなせる。だが、精神的支えに俺を必要としている。だから、俺は美咲の傍に居続けた。美咲も不安にさせたくはない。ただそれだけを考えて、生きていた。

内職は続いた。美咲は二百羽も鶴を折ってしまう。折るのが本当に速い。そして丁寧だ。半日で二百羽を折って、一息つくのだ。鶴を折るのに1分だからすごい。正方形を作って折り返すまではほんの数秒。そこから、手先を起用に動かして、流れるように鶴を作って、次へ向かう。集中力が一時間ちょっとは切れず、一時間で七十羽以上も折ってしまう。俺は五十八羽が限度で、かなり雑だ。とはいえ、俺は『ぱっくんちょ』や『やっこ』を作るよりは、鶴のほうが好きだ。ぱっくんちょはかなり早く作ることが出来るが、失敗しやすいのだ。この鶴、何に使われるのかと思って尋ねると、用途の広さに驚いた。病院の患者にあげるだけでなく、鶴の舞とか、そういう演出に使われるらしい。

相変わらず、家に教師がやってきて、「美咲ちゃんはどうですか?」と言いに来る。俺は一度だけ美咲を会わせたのだが、美咲は丁寧に自己紹介して、頭を下げた。「学校は行けそう?」と失礼な質問を教師はしてくる。美咲は「行きたくない」ときっぱり答えた。だが、俺はそのとき美咲を学校に行かせることに対して、やや不安を拭っていた。美咲はしっかりとしていた。教師を相手にはっきりと言葉を喋る。とはいえ、美咲が望まないのなら行かせる気はない。初等教育で美咲を潰されてはたまったものではない。やり直しのきかない美咲のたったひとつの命を小学校程度に汚されたくはない。美咲は「学校は嫌」とはっきり俺にも言った。俺でない例えば、無神経な親だったら、「馬鹿言うな!」と怒鳴っているのだろう。例えば、俺が死んで、美咲がそんな親のもとに行ってしまったら。そう考えると、俺は美咲の傍を離れるわけにはいかなかった。「学校なんて行かなくていい」と俺は美咲に言った。人間の配下では行かなければならない。だが、そういう『義務』は不完全だ。そんな不完全なものにすべての人間を当てはめたら、気質特異性に近いものがある人間は一部が欠損してしまう。それが『不登校』『自殺』という形で出ているというのなら、『義務』の不完全さに気付いて、何とかしなければならない。すべての人間を同一の物質と見なすことに俺は同調出来ない。だから「学校に行かなくてもいい」と俺は堂々と言った。学校に行って、並々ならない苦痛を味わうよりはマシだ。すべての人間が同じ課題で同じ苦痛を受けるわけではない。苦痛は相対的で、『彼』は50の苦痛。『別の彼』は70の苦痛などと言った具合だ。

美咲は俺の傍を離れたがらなかった。俺は後になって気付いたのだが、美咲が家事をして内職を手伝ってくれるのは、俺のためだった。紗耶と同じ性質を美咲も引き継いでいたのだ。俺は美咲にいつも言うのは「疲れたら、休んでもいいんだよ」

 美咲は放っておいたら、どこまでも作業を続けてしまうかもしれない。とはいえ、俺に負担をかけないために遠慮している窮屈さはさほど受けてはいないはずだ。お腹がすいたら、「お父さん、お腹空いた」と言って、ぺこぺこだという素振りをする。疲れると、床に転がるし、「お父さん、山に行こ」と言ったりもする。俺は美咲にとって必要だった。だから、まだ元気でいなければならない。俺と紗耶の遺伝子が半分ずつ与えられて、美咲は生まれてきた。その美咲は俺にとっては特別なのだ。美咲を守るためには人間の絶対的な法則を守り続けるわけにはいかなかった。


 美咲を手放さないこと。それが俺の生きる意味だった。その日、三学期が始まって間もない頃だった。学校に関わっていない俺たちには関係のない寒い日だった。寒いから、すぐ買い物を済ませて帰るつもりだった。

 美咲と手を繋いで、外に出かける。買い物とは人間の配下にあるものと関わらなければならないことだった。親から仕送りを貰う、内職をする。これらは厳密に人間の配下に関わったとは言えない。外の世界を歩くこと、たくさんの人の中を歩くこと。これを通して、はじめて、人は人間の配下にあるものに真に怖いと感じるのだ。

 その日、寒いとはいえ、雪は降っておらず、風もさほど強いとはいえなかった。美咲が風邪を引かないように、マフラーなどをつけて、外に出た。道を歩くこと三十分。自然界に近い場所から人間界に出る。そこには夥しい車が通っている。俺は思うのだが、車を数えたら人の数より多いような気さえする。とはいえ、車を運転するのが人間なのだから、走っている車が人間より多いということはない。だが、国道沿いなどは歩いている人間より、車のほうが多くなる。俺たち二人しか道を歩いている者はいなかった。俺は人間界と自然界の紙一重の境界で生きているのではないかと思った。俺は車に強い恐怖を覚える。だから、ここまで免許を取らなかった。何の恐怖も感じず、あるいは少しの恐怖しか感じず、車を運転している人たちが至極不思議に見えた。そもそも恐怖が強いと車など運転できない。俺の恐怖は車だけでなく、電車や飛行機にも感じる。電車に乗ることはいくらかあるが、とても怖い。電車の場合、電車そのものより、周囲の人間が怖い。車はそれ自体が怖い。俺は走り抜ける車の何台に一台が事故を起こすのか。何台に一台の車の運転手が命を落とすのか。車は便利だ。ビジネスなどが広範な近代、そういった乗り物があれば便利だ。だが、便利と危険を取引した人間の悪魔の意志が見え隠れしている。人間は完全に安全にはなれない。だが、その安全のレベルを簡単に上げることが出来る。危険を取り除けばいい。そこでは多くの障害と取引になる。人間は取引をことごとく避けてきた。

 俺たちはそんな車をぼんやり見つめながら、店に入った。美咲は一息ついていた。外と中の温度差はかなりのものだ。冬になっても、俺たちの食生活は普遍だ。同じものを買って、さっさと店を離れた。人と出会う機会を最小限にすることが、俺たちの生活だった。美咲が荷物を持つと言うので、「重いぞ」と言うと、「大丈夫」と言った。美咲は荷物を両手で持って歩くので、「無理はするな」と言って、俺は荷物を持った。美咲は手を擦り合わせて落ち込んでいたから、何かを臨時に買って、それを持たせようと、本屋を見つけて、生化学の本を見つけて、それを美咲に持たせた。書店には夥しい量の本がある。全く売れないままに残る本もある。売れないと著者が泣くというより、路頭に迷ってしまうだろう。本を書く人間が増えすぎている。この99パーセントの馬鹿げた本の中からいい本を見つけるのはまさに地雷撤去作業だ。地雷を踏むと、命はなくならないが、お金が消し飛ぶ。だが、買ってみなければ分からない。悪い本など多くはないが、本の良さの決定は相対的なものだから、誰かがこの本がいいと言って、何かの賞を与えても、ほとんど意味がない。意味があるのはそういう宣伝に乗せられるミーハーぐらいだ。売上が本の優秀さに現れるというのは変な話だ。賞を取るか取らないかはよし悪しの問題ではなく、あらかじめ、何かの基準が決まっている。大概はお決まりなので、俺は賞で騒がれている本は買わない。買って得したためしがない。それどころか、もう俺は美咲のために本を買うのであって、本自体、読まなくなった。そんなものを読んでも時間の無駄にしかならないことに気付いた。美咲も読む本は決まっていて、漫画や小説などはまず読まない。前に面白いと言われている児童書を見せると、「つまらない」と言った。

 本屋を出て、また寒い大気に身を晒すと、美咲がひどく寒がったので、「早く帰ろうか」と言うと、美咲は手を擦り合わせて、息を吹きかけたりしていた。

 帰り道を急いでいた。人間の恐ろしさ、それは神の恐ろしさとは異なる。だから、人間の配下にあるものは嫌いだった。そもそも神が齎す脅威は本当に神に由来するかは分からないが、それらを犠牲的に見なすと、神の配下にある脅威は自然災害に現れる台風や地震だ。火事は厳密に神のものとは言いがたい。地震も台風も何か理があって、それに基づいて起こる。理不尽な場合もあるが、厳密に理不尽とは言えない。だが、人間の配下にある恐ろしさは規模こそ小さいかもしれないが、理不尽だ。神の配下から来る脅威は紗耶や美咲ちゃんを俺から切り離すという圧倒的絶望を与えるものだった。だから、美咲を守るためには神の配下の脅威を近づけさせないことがすべてだと思った。だが、小規模な攻撃を理不尽に仕掛けてくる人間の脅威。それは本当に恐ろしい。

 美咲がひどく寒がるので、俺は一旦立ち止まって、しゃがんで、美咲の両手を握って、「もうすぐだから」と励ました。美咲は「ありがとう」と言って、手を繋いで歩き出した。人が少なくなり、狭い道に来て、かなりアパートが近くなったので、俺も一息ついたのだが、それと同時に車がやってきて、曲がり角で大きくスリップして、俺たちに車の側面が激突してきた。反射のレベルを超えた咄嗟の出来事だったので、美咲を庇うこともなく、俺は転倒して、感じた腹痛が予想以上に大きなものだったことに気付いて、すぐに美咲を探したのだが、幸い美咲は怪我をしておらず、俺も腹痛はすぐに引いた。美咲は「怖かった」と言って、俺にしがみついてきた。運転手が降りてきて、「大丈夫ですか?」と気のない返事をするので、その男を俺はただひたすら殴りつけた。一歩間違えれば、美咲が死んでいたのだ。俺はその怒りで男を殴り飛ばして、美咲を抱えて、すぐアパートに戻った。

「美咲、もう買い物は、僕、一人で行くから」と言った。美咲は相当な恐怖を覚えて、しばらくは俺の傍から離れなかった。

 俺は怒りなのか憎悪なのか分からないものを感じていた。美咲を攻撃してきたものはすべて敵だ。俺は美咲を守るためには外に一歩も出すわけにはいかないと思った。

 それ以来、美咲を外に出さないようにしたが、俺が出かけるとき、美咲はひどく心配してくれて、「早く帰ってきてね」と体を震わせながら言ってきた。「用事が終わったらすぐ帰ってくる」と言って、俺は出来るだけ急いで用事を済ませて帰ってきた。帰ると同時に、美咲が飛びついてきた。美咲の外に対する恐怖は想像以上のものになっているらしく、寝るときに「お父さん、死なないで」とかすれた声で言うので、「絶対死なない。安心しろ」と言って、美咲を抱きしめた。俺は本当に許せなかった。美咲をこれだけ怖がらせたものが許せなくなって、理性を超えてくる高い感情の突起を抑えるのが難しくなっていた。

 美咲は前と変わらず、内職を手伝ってくれるし、家事もしてくれる。とても、丁寧でゴミの仕分けも完璧にしてくれる。この頃になっても、教師がやってくるので、俺は「もう来るな! 美咲を殺す気か」などとヒステリック気味なことを言って、教師を追い返した。外に出ることを唆すものは美咲の命を脅かそうとする奴らだ。俺は美咲の命を完全に守るために外には出さず、窓から自然だけの景色だけを見せた。


 だが、結局、俺が美咲を傷つけることになってしまった。俺は買い物に行かなければならないので、「すぐ帰るからな」と美咲の頭を撫でた。「早くだよ」と美咲が言うので、「分かってる」と言って、買い物に向かったのだが、車に対する恐怖や怒りは並々ならぬものになっていて、体が震えるほどだった。何を思ったのだろう。俺は道に飛び出して、「お前ら、ちょっとは遠慮しろ! 人の命がかかっているんだぞ!」などとわけの分からないことを言って、交通の安全を乱すようなことをしてしまった。出てきた運転手と殴り合いにまで発展した。俺はただひたすら美咲を恐怖に陥れたものたちを破壊しようとしたのだろう。だが、びくともしないほど、人間は強かった。警察が関わって、俺は複数の罪で警察に逮捕されて、拘置所に連れて行かれた。とはいえ、凶悪犯を逮捕するものとは違い、手錠もはめられなかった。拘置所で、「待っているように」と言われたのだが、「子供が待っている」ことを言うと、「電話番号は?」と訊かれて、「電話はない」と言って、住所を言うと、連れてくるよと何とか了解してもらえた。俺は美咲のことが心配で自分のことはどうでもよかった。俺は結局美咲を守ることは出来なかった。理性を越えて、本能が先に出てしまった。ようやく戻った理性で後悔しても仕方がない。早く美咲に会いたかった。

 殴った相手は軽症、交通は乱れたが、事故は起きていなかったので、軽犯罪として扱われた。美咲が到着して、すぐ俺のところへ来た。俺は美咲を抱き上げて、抱きしめた。「子供を心配させたらあかんぞ。しっかりせえよ」と言われて、俺は釈放にになった。俺は美咲を背負って、外に出た。送っていくと言われたが、車に乗るのは気が引けたから、約二時間かけて、徒歩でアパートに戻った。

 俺は本当に情けない。ほとんど理性を失ってしまっていた。美咲を守るための本能が理性を超えてしまっては、結局、人間の配下では美咲を助けることは出来ないのだ。人間の配下とはそういう場所なのだ。守るためには理性を失わない。自然界とはわけが違う。美咲が泣き止むことはなく、夜になっても、ただ美咲を抱きしめていた。

 翌日になって、ようやく美咲は立ち直って、買い物(昨日はいけなかった)に行くとき、「私もついていく」と言った。昨日のことで不安になったのだろう。俺は「それじゃあ、背中に乗って」と言って、美咲を負ぶって、買い物に出かけた。俺たちはもう人間から逃げるようにしか生きていけないのだろうか。過保護な本能を沈めることは出来そうもない。美咲を学校に通わせるなんてことは出来そうにないのだ。だが、人間の配下に入っていなければ決して生きていくことが出来ないのかもしれない。

 俺は美咲を学校に行かせることを視野に入れていた。美咲は十分立派な頭を持っている。生物や化学は最後まで到達しているし、数学も高校レベルだ。授業についていけないということはないだろう。だが、問題は別にある。学校ではそんな授業は重要ではない。人間との付き合いが最重要課題なのだ。美咲は標準的な小学二年生としては大人しすぎる。会話についていくというのは厳しいだろう。俺がいない中で時を過ごすのは苦痛でしかないはずだ。俺自身、美咲と俺の関係が稀薄になるのは嫌だった。だが、ここで人間から切り離していて、生きていける気がしなくなっていた。

 俺はとても悩んだ。さりげなく、「先生が学校に来いと言っている」と切り出すと、「嫌」と美咲は答えた。不登校ではなく登校を拒否している。面倒くさいのではない。家のことを完全にして、毎日2000円ものお金を稼ぎ出している美咲が面倒くさいを理由に行きたくないと言っているのではない。美咲は学校へ行くのが怖いのだ。俺から離れるに対しても恐怖を抱いている。俺によりかかっているのではなく、俺が必要なのだ。必要な要素に俺が刻み込まれている。生まれてから、ずっと俺は美咲の傍に居続けた。誰との関わりも持たせず、ここまでやってきた。その俺が学校に行けと言い出しているのだ。俺は馬鹿だった。美咲を苦しめてまで学校に行かせたくはない。

 結局、俺は美咲を学校に行かせなかった。俺はもう美咲を学校に行かせないことにしようと思った。だから、俺は美咲の親として、そして教師となろうと決めた。美咲に追いつくように、生物や化学を学んで、その間に数学や論文の書き方などを教えて、人間社会で生きていけるように的を絞った教育を施すようになった。

 美咲は数学が苦手……と言っても、小学三年生で、高校数学のほとんどを理解しているから、標準的な小学生からすれば超越しているが、三角関数の合成公式の原理を理解させるのが難しく、負担を強いている気がして、簡単にすると、それを見抜いてしまう。だから難しかった。美咲は分かるまで考え込むから、時間がどんどん過ぎていった。夜遅くなってしまい、数学はひとまず切ることにした。

 美咲を家に出さなくなって、学校側としてはかなり心配になったのだろう。面談会があることを伝えて、どうしても来てほしいと言うのだ。「二者の面談ですか?」と言うと、そうだと言うのだが、美咲は俺から離れることを拒むから、「それは出来ない」と断った。どうしてそこまで露骨にこだわるのかと相手は思ったことだろう。俺と美咲の関係がどういうものなのか、分かるほうがおかしい。俺たちは命を共有している。そんなことを言っても無駄だから言わなかったが、相手側が俺たちを異常者と見たのは間違いなかった。

 ところで、俺は美咲とは四六時中一緒にいる。美咲が生まれてから、自慰行為のひとつもしていない。この長期間、射精を封殺した経験ははじめてで、紗耶が妊娠したときは紗耶が慰めてくれたから、実質、何の前触れもなく封殺したことになる。とはいえ、さすがにお風呂を一緒に入るのはやめたほうがいいかもしれないと思っているが、美咲とはまだ入浴を共にしている。結果、一緒にいない時間というのは皆無に等しかった。美咲のほうにはプライベートというのがないらしい。これがもう少し時間が経過すれば、なくなるのだろうか。それはそれで悲しいものがある。

 学校を切り離してから、このような生活が続くことになった。だが、この生活もそう長くは続かなかった。魔の手はいたるところから伸びている。俺が関与しない部分から伸びているのだ。恐ろしくそして全く気付かないままに魔の手は伸びて、俺たちを破壊する。その破壊はひとつの神秘だった。


 美咲が三年生になってしばらくが経過した。七月のことだ。俺たちを破壊する魔の手がやってきた。その魔の手は執拗で喰らいついたら決して離さない。圧倒的権力で俺たちを引き離し、美咲を追い詰めた。

 俺たちの生活は平和で幸せなものだった。美咲はよく笑っていたし、俺自身、何の不満もなかった。だが、学校に行かなかった。そのことで、俺が児童虐待をしている疑いがあるということで、警察や関係者が家に来て、話をすることになった。学校に行かないのではなく、俺が行かせていないことを知って、彼らは俺を美咲から引き離してしまった。確かに俺は俺の意志で美咲を学校には行かせなかった。だが、美咲が学校に行くことを望まなかった。相手側が「しつけのあり方として問題がある」ととてつもなく頭の悪い発言を始めた。法律の仕事をしているとは思えないほど常識から外れていたのだ。怒りを感じた。そんな頭の悪い間違った解釈で、俺は美咲から引き離されたというのか。美咲には俺が必要なのだ。それを、こいつらは知らずに、引き離して、こんなわけの分からない議論を俺に仕掛けたのか。論理的に返そうとしたが、美咲への防衛本能が先に出て、「勝手なことを言うな!」とその場で騒ぎを起こしてしまった。

 美咲は紗耶のところに預けられることになり、俺は親としての権利を一時期取り上げられることになった。暴力事件も起こしてしまい、また拘置所に入れられた。俺は虐待などしていない。虐待をしている親は他にたくさんいる。俺は何度も「美咲に会わせろ!」と驚くほど大きな声で言ったが、外に出ることは出来なかった。美咲と会えないまま、その日が過ぎた。美咲がいなくて、おかしくなりそうだった。夜、寝ることが出来ず、夜中にも関わらず、美咲を返せと叫び続けた。美咲も俺を必要としているはずだ。これこそ、虐待だ。何度訴えても、人間の配下にある絶対的なものはびくともしなかった。「ふざけるな、何で美咲を傷つけるんだよ!」と何度も訴えた。悔しくて死にそうだった。こんな奴らに美咲が傷つけられている。こんな奴らにそんな権利はない。そして、外に出られない俺自身にも腹が立って、頭を策にぶつけ、出血した。美咲と会うこと。俺はそれだけを要求していた。だが、すべて却下された。美咲の姿を想像すると、恐怖で死にそうになった。美咲も今、苦しんでいるに違いない。傍にいってやりたい。そう思うたびに、策に打撃を加える。恐らくは一トンでも壊れない柵だ。人間の打撃など、分子間力よりも無視できる力なのだろう。結局、美咲には会えなかった。

 翌日、係りの者が「君の子供は専用の施設で訓練を受けて、学校に復帰出来るようにしつけをやりなおしている」などと馬鹿なことを俺に言った。しつけをやりなおすだと? 復帰できるように訓練するだと? 俺はその係員を殴ろうとして、柵はびくともしなかった。係員は精神異常と見たらしく、俺に精神鑑定を施すらしい。ふざけるな。俺は正常だ。美咲は俺を必要としている。俺以外のしつけなど何の約にも立たない。美咲を傷つけるだけだ。もし、美咲を泣かしてみろ、絶対に許さないからな、などと叫び散らしていた。俺は怖かった。訓練? 美咲に一体どんなことをするというのか。俺の一番大切な美咲に何をするのだ。貴様らの汚らわしい訓練など必要ない。貴様らが勝手に美咲の精神を弄繰り回す権利などない。俺は発狂してしまい、昏睡薬を打たれた。

 美咲が美咲で亡くなってしまう。俺のことも分からなくなってしまうのではないか。それがとても怖かったのだ。まるで、美咲に改造手術を行うと宣言されたような気分だった。手術が終わると、前までの俺の大切な美咲はなくなり、普通に学校に通い、俺を必要としなくなり……。ふざけるな。お前らに美咲を返る権利は無い、美咲を返せ!

 拘置所にいる一分一秒が恐怖だった。今も、美咲の改造が続けられていて、どんどん俺を忘れていく。それも人間という汚らわしい奴らの手によって、社会の犬に変えられてしまう。美咲が助けを求めているかもしれない。どうして、傍に行ってやれないのか。俺は美咲を守ると決意しただろ。何度も床に拳を叩きつけた。何も見えないのだ。美咲がどんな連中に何を言われているのかも、叩かれていないだろうか。泣いていないだろうか。苦しんでいないだろうか。係りのものが毎日、「君の子は素直にやっているそうだよ」と言いに来る。それが怖かった。美咲が奴らに懐柔されてしまったのではないか。素直? 俺と会えないこの状態で、素直に、無事に生きているというのか。「美咲に会わせてくれ!」と俺は懇願した。「君が落ち着いたらね」と係りのものが去っていく。俺は多くの涙を流した。美咲が美咲でなくなってしまった。悔しさ、絶望感、そんなものが湧いてくる。一番大切なものが目の前で汚らわしい連中に犯されている気分だった。俺は死にそうになって、祈り続けた。「紗耶、美咲を助けてくれ。守りたいんだ」だが、ある日、係りのものは笑いながら、「学校に登校したみたいだよ」と俺に言った。そんなはずはない。美咲は「嫌」と俺にはっきり言った。俺に本音をぶつけたのだ。その美咲が学校に行ったというのか。まさか、美咲をしかりつけて、脅すような方法で学校に行かせたのではあるまいな! 俺は悲しさと恐怖で涙が止まらなくなった。

 美咲が学校に馴染んでいることを聞かされ、「仲のいい友達が出来たそうだよ」とも聞かされた。よかったねと俺に言う。いいわけあるか! そんなの少しもよくない。美咲が変えられてしまった。俺が大切に育ててきた美咲を人間は改造しやがったのだ。美咲はあのままでとてもいい子で、優しくて、幸せだったのだ。それをすべて奪ったのか。真実が知りたい。美咲に会いたかった。美咲は今、どうなっているというのか。もう何ヶ月、ここに入っているだろう。美咲が変わっていく。怖くてたまらない。大切なものが守れなかった。俺は美咲と会って確かめたかった。俺のことは覚えているか。俺のことをまだ必要としてくれるか。あの頃から変わっていないか。俺の大切な美咲でいてくれるか。すべてが変わってしまったような気がするのだ。それは怖くてたまらない事実だった。


 十二月五日、俺はようやく釈放になった。放心してしまって、右も左も分からなかった。分からない方向に分からない距離歩いて、寒い風が通り抜けた。

 前方から歩いてくる学校帰りの少女が見える。笑いあい、喋りあっている姿はごく普通の小学生たちだ。美咲はああではない。美咲はあんなふうに笑いあったり喋りあったり出来る子ではない。俺が一番よく知っている。美咲は俺のために色々なことをしてくれて、外に対しては恐怖を持っていた。人と会話をするときも、言葉を慎重に選ぶ子だった。そう、だから美咲ではない。だが、中央にいるのは紛れもなく美咲だ。だから、俺は立ち止まり、美咲を見つめた。声は出ず、ただ動揺が大きかった。

 だが、美咲は俺を気にもせず、冷たい風と同じぐらいの速度で、俺の横を抜けていった。奴らの改造の恐ろしさを知った。今頃、美咲が学校に行けるようになって、良かったと思っているのだろうか。いい子になったと思っているのだろうか。だが、俺の知る美咲なら、必ず、俺に気付いて、必ず、足を止めるはずだ。両隣の友人が足を止めなくても、俺のために足を止めるはずだ。美咲はもう美咲ではなくなっていた。俺は怖くて振り向くことも出来なかった。話し声がなくなり、俺は道の前に立っていた。人が横を抜けていく。「どうしましたか?」と訊くものもいた。俺は無言で歩き始めた。俺の大切なものはすべて守りきれなかった。もう俺の役目はすべて終わった。美咲ちゃんを俺から切り離し、紗耶を切り離し、そして、美咲を切り離した。俺からすべてを切り離した。

「紗耶、会いに行ってもいいよな……」とつぶやいて、俺はどこにもなく歩いていった。人間も神も俺に敵対した。だが、ショックだったのは俺が美咲と繋いでいた絆を容易に断ち切ってしまう人間の力だ。心理学を知り尽くしたあいつらなら、俺と美咲の絆を断つことなど簡単だったのか。もう立ち直ることなど出来そうもない。もう俺の守るべきものは何もない。すべて、奴らが奪っていった。


 この俺はすべてにおいてダメな人間なのだ。あれからアパートで数日を生きた俺のもとへやってくるものはいなかった。美咲もやってきてはくれなかった。会うこともなかった。会いたくもなかった。美咲は全く別の生き物に変えられてしまったのだから。しかし、俺の部屋には確かに残っている。美咲の匂いも思いでも残っている。窓を開けて、美咲と眺めた景色を眺め、美咲が使っていた歯ブラシやお箸も残っている。それらが夢のかけらのように見えた。俺はそれらをすべて処分し、親にも連絡をせずに、そこで数日を過ごした。美咲が帰ってきてくれることを願ったのだろう。美咲と折った鶴が二羽落ちていた。見た目が綺麗だ。美咲が作ったものだ。恐らく、俺が連れて行かれて、ギリギリまで折っていたものだろう。

 俺はその鶴を解体して、正方形の折り紙に戻した。何かが記されている。

『お父さんをかえして』

 そう書いてあった。丸みのある字。美咲の字だ。俺は折り紙を握り締めて、その場に転がった。美咲が妙に懐かしく感じられる。美咲が0歳のときから、小学三年生になるまで、ずっと一緒に生活をしてきた。涙が止まらなくなり、俺は息を止めた。意味はない。息が苦しくなれば、息をしてしまう。時を待っても誰も来ない。いや、インターホンを鳴らすものが幾人かいた。俺は出なかった。出るつもりはない。俺はこの場を動くことも出来なかった。怖いとは思う。だが、美咲がいなくなったこの世界に何が残っているというのか。ここで目を閉じれば、紗耶に会えるのか。美咲ちゃんにも会いたい。もう一度、会って、俺のことを愛してほしかった。もうここには絶望しか残っていないのだから。守ることが出来なかった。何一つ守ることが出来なかった。失格だ。人間としてではない。俺は人間の配下にはいないのだから。



 ・制作期間 09年 3月19日〜7月30 校正期間 校正は入っていない。

 ・作品ナンバーおよび分類 1 私小説・一人称

 ・参考資料 『輝ける子 100メートルを10秒で走れと言われてもさ、いっくら努力しても走れない奴っているじゃん 明橋大二』『なぜ生きる 明橋大二・伊藤健太郎』『日本人のしつけは衰退したか 広田照幸』『Y氏の隣人 吉田ひろゆき』『「ニート」って言うな! 本田由紀・内藤朝雄・後藤和智』『いじめの社会理論 内藤朝雄』『ニートの心理学 荒木創造』『断食療法50年で見えてきたもの――人類は愛と慈悲の少食へと進化する 甲田光雄』『断食療法の科学 体質改造の実際 甲田光雄』『断食・少食健康法 宗教・医学一体論 甲田光雄』『あなたの少食が世界を救う 甲田光雄』『朝食を抜いたらこうなった 甲田光雄』『トリックの心理学 樺亘純』『心理操作ができる本 渋谷昌三』『先生と生徒の恋愛問題 宮淑子』『天才はなぜ生まれるか 正高信男』『誇大自己症候群 岡田尊司』『「ダメな教師」の見分け方 戸田忠雄』『自殺するなら、引きこもれ――問題だらけの学校から身を守る方法 本田透・堀田純司』『問題は躁なんです――正常と異常のあいだ 春田武彦』『大学への数学 マスターオブ整数 黒木正憲・栗田哲也・福田邦彦・石井俊全』『「親力」で決まる! 子供を伸ばすために親に出来ること 親野智可等』『ウィキペディア、多数項目参考』『各種ホームページ多数参考』『2ch 各板、多数書き込み参考』『ガンジー ジョン・ミルズ』『ニートおよびひきこもりのブログ多数参考』

 ※そのほか、たくさんの経験や体験談を参考にさせていただきました。

 コオロギのごとく進むことにしたい

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