A7
残り6000話を切るまでが勝負なんだよね
俺は何も言わず、仕事に出なくなり、アパートに来てくれたM先生に退職することを伝えて、ほとんどアパートに引きこもった。E先生が「一度会おう」と言うのを「外に出る気力がない」と言うと、すぐ家に来てくれた。E先生は美咲ちゃんの件に関して、特に何も言わず、「うまい店を見つけた」などと言って、俺をその店に連れて行き、悄然とした俺をほぼ無視して、普通に会話をしようとした。E先生はプロだから、そういった配慮をすぐに行えたのだろう。だが、俺はもはやすべてを失っていた。だが、どうしても思い残すことがあるのだ。それを思考すると、活力となり、生きる力をくれた。俺は美咲ちゃんに対してメッセージを何も用意していなかった。つまり、俺はそのとき、自害することを前提にし、死んだとき、確実に美咲ちゃんを探し出せるようにしておかなければならないと突飛なことを考えるようになっていたのだ。
だが、考えているうちに、馬鹿らしくなったり、美咲ちゃんのことを思い出して、おぞましい絶望に苦しんだりした。俺は結局解を提示できず、E先生のくれるお金で数ヶ月も生活していた。ほとんど、無駄に生きているような感じだった。憎悪はなく、絶望が大半を占める状態だった。
そんなときにE先生が「僕の患者に女性がいて、君のことを話すと、会いたいと言うんだ。会ってみないか?」と言ってきた。「失望させるだけだ」と答えると、「それはまずない」と言うので、E先生が仲介するのならということで了承すると、俺のアパートに、E先生が例の女性を連れてきた。『紗耶』という名前の女性で、E先生からは21歳と聞いていた。ほとんど高校生ぐらいの女性だった。うつ病の疑いで治療を受けているらしいのだが、うつ病とはほど遠いほど、話はしっかり出来ているし、容姿のレベルも高い。最初はE先生が「俺と似た症状」だからと、アドバイスを次々と俺と紗耶さんに聞かせた。それから、紗耶さんが「独り暮らしですか?」と訊いてくるので、「そうです」と答えた。「私は両親と暮らしてます」と紗耶さんは言い、最終学歴が『中卒』で、中学校を出てから、仕事をしないで、家にいるそうだ。家の農業は手伝っているらしいので、怠けているわけではないらしい。俺も何か言うべきだったが、言うに言えないことしか持っていなかった。「仕事はしていましたが、辞めました。ついていけなくて」と言うと、「仕事をするだけでも偉い」と褒められた。それから定期的に会うようになって、E先生が来なくても、紗耶さん一人で俺のところに来るようになった。紗耶さんは行動的ではなく、家庭的で、恐らくは大人しい部類に属するだろう。E先生の分析はさすがと言うべきか、俺と相性がいいことを確信したからE先生は持ちかけてくれたのだ。
紗耶さんはまず強者でない。少なくとも、俺の十代の頃出会った女性とは違う。同じであれば、すぐに分かる。そもそもうつ病を患うということは、他人に対する思いやりが強いのだ。「お茶を淹れますね」と紗耶さんが言うので、「ご馳走になります」と答えた。「このやかんは使ってもいいですか?」「はい、ここを回して、少し経つと熱くなってきますので」と電気コンロの使い方を説明して、俺は奥で待った。
他人を気遣う能力という意味では紗耶さんはすごいものがあった。話をしていて、分かったのだが、紗耶さんは他人の気遣いが曲線的なのだ。要するに一定の規則がない。誰にも同じ気遣いをするのではなく、相手を見て、その場その場で適切な気遣いをする。それは会話の言葉を吟味するところにも現れている。だが、俺はやはりそういう気遣いする人にとって、話しやすい相手らしく、「相手のことを考えると、言葉も考えてしまいます」と言うのだが、俺の場合はあまり考えずに言葉を紡げるというのだ。「僕の前では別に考えなくてもいいですよ」と言うと、「助かります」と言っていた。
それから、比較的相性が良かった俺たちは定期的に会うようになって、俺は紗耶さんになら話せると思って、美咲ちゃんの件を話したのだが、話すとどうしても涙ぐんでしまい、紗耶さんはあまり動揺することなく、俺の傍に来て、「どうぞ、胸を貸します」と言ってきた。俺はかなり動揺した。そのようなことを言われた経験がなかったのだ。とはいえ、紗耶さんはいつもそこまで気遣いをするのか、疑問に思って、「大胆でビックリしました」と言うと、「ほかの人には出来ません」と紗耶さんは答えた。俺は弱者として受け入れられていたのだろう。紗耶さんの場合、その性質上、受け身な俺とは相性が良かったのだろう。気遣いするタイプは主導権を取ることが出来て、はじめて、その威力を発揮する。そういうことは心理学を学んでいた頃から知っていたが、実際に接して、それがよく分かった。俺としても紗耶さんの家庭的な雰囲気が気に入った。社会から半ば隔離されている弱者同士、それなりに親しくなることが出来た。
だが、美咲ちゃんのことをこのまま忘れて、紗耶さんと親しくなることがいいことなのか、罪を考えてしまう俺はずいぶんと迷った。つまり、美咲ちゃんのためにも俺はやはり死ぬべきで、死んで美咲ちゃんを抱きしめてあげるべきなのではないか。俺の彼女は美咲ちゃんなのだ。命を捨ててでも守らなければならない大切な相手だ。
美咲ちゃんのことを俺は決して忘れることはないだろう。けれど、美咲ちゃんへの思いが次第に薄れていることは自覚していた。時間が経過して、紗耶さんが夕食を作りに来てくれたりするようになって、緩和が進み、俺は死を考えることが亡くなっていた。
紗耶さんは「まずいときはまずいと言ってください」と夕食を作りに来たときに、俺に言った。意外な言葉で俺は戸惑いながら、「好意を仇で返すのは気が引けますけど」「そうしているうちに好みにあった料理が出来るようになるんです」と紗耶さんは笑顔で言ってくれる。紗耶さんの気遣いはもう敬服に値する。俺の親などはまずいと言うと「それなら食べるな」と言う。紗耶さんは「まずい」を受け止める気遣いを持っているのだろう。そんな優しさがこの社会では荷物になってしまうのか。その気遣いで、他人のペースについていけなくなっているのかと思うと、俺は悲しくなって、「紗耶さんのような家庭的な女性は初めてで感動しました」と言うと、「そうでもないです」と紗耶さんは答えた。
そんな感じで、紗耶さんは優しすぎるところが問題だった。優しいというのは人間社会ではさほど必要にならない。むしろ、優しさが傷になって、他人と接することが出来なくなることもある。『優しい』が『不利なステータス』になるこの社会は本当に恐ろしい。俺はせめてその優しさを褒めたいと思う。その優しさで傷ついているのなら、その優しさを最大限受け入れようと俺は思った。紗耶さんは家事の全般をやってくれるようになり、E先生は俺にずっとお金を渡し続けてくれた。
俺は人の優しさとか愛情というものを、そのときはじめて知ったような気がする。親と過ごしていても絶対に気付けなかった。俺はいちいち感動してしまった。その優しさはあまりに大きくて、心を豊かにするものだった。
紗耶さんと親密になって、こうも何度も会っていると、関係がプラトニックを越えるのは自然なことだった。その日、紗耶さんは夕方頃に俺のアパートに来て、寒かっただろうと思って、コタツを用意していたのだが、俺がコタツに入って、向かいに紗耶さんは座るだろうと思っていると、俺の隣に入ってきて、「寒かったです」と言うので、俺は緊張を隠せず、「いつもすみません」と答えた。それから、会話がなかったので、何か言おうと思っていると、紗耶さんがもたれてきて、あどけない目を向けてきた。俺はそれをスイッチか何かとは予想していたが、それをいきなり、確定的なものとして、押し倒したりするには気が引け、紗耶さんの肩のあたりを撫でたりしていると、紗耶さんが乗り出してきて、俺は最後まで受け身のままだった。受け身といっても、スイッチの後は、相手の許容を確認できたから、俺も少しばかり積極性を持ち、唇を重ねた。キスというものは美咲ちゃんと俺を繋ぐ行為だと、俺は完全に見なしていたので、このキスは新型で、旧型と切り離されたものに感じた。美咲ちゃんのことを思い出してしまったところに、二つの行為が同じ流れに属することが分かる。ただ、俺は美咲ちゃんに対する思いがいまだに強いことを悟った。美咲ちゃんが俺の中にはまだあり、それが涙となって現れたような気がした。
「すみません」と俺は謝ってから、もう一度キスに望んだのだが、美咲ちゃんへの好意を悟ったのではなく、会えないことへの悲しみが思い出されて、それが涙となったことを理解して、もし、美咲ちゃんが俺の中にいて、それが苦痛にしかならないというのなら、紗耶さんに美咲ちゃんを断ち切ってもらいたかった。
美咲ちゃんのことは忘れられない。一緒に過ごしていた頃を思い出すと、今でも涙を止めるのが難しい。だが、美咲ちゃんをずっと胸に秘めていることは、俺自身辛かった。美咲ちゃんが俺を呼んでいると思うたび、あのときの「行かないで」という訴えを無視してしまったことを思い出すたび、ひとつずつ、美咲ちゃんに近づくが、決して、接することがない悲しみに辛さを覚えてしまう。
紗耶さんはもう21歳だから、経験はなくとも、知識や想像での光景は持っているだろう。俺も経験はないが、想像は持っている。だから、何をすべきかはすぐに分かった。想像が楽であるというのは本能に刷り込まれているからなのかもしれないが、キスをして、二人が相手の了解を確認すると、次に移行する。俺は紗耶さんを押し倒す形になったのだが、それは一種の流れで、連続したものだから、そこでせき止めるということは出来ないから、それに悪い気持ちを添付するのはほとんど無益なことだと思った。
交わりはあったが、その後、いきなり何かが変わることはなく、または羞恥を切り離すためか、「それではこれで失礼しますね」と紗耶さんは帰っていった。最初、俺は失望されたのかと思ったのだが、次の日、またやってきて、体を重ねるに至ったのでそういうわけではなかった。それで安心して、紗耶さんのことを思うことが出来るようになった。
俺と出会ってから、紗耶さんは医者に掛かることがなくなった。E先生も大丈夫だろうと言っていた。俺たちは仕事をしていないから、ほとんど毎日会うことが出来た。俺が最初、紗耶さんのところを訪れたとき、両親を紹介されて、両親共に優しい方だった。嫌な感じがなく、とても話しやすかった。父親は将棋が強く、「対局の相手になってくれ」と言われたので、相手をしたのだが、歯が立たなかった。定期的に行って、畑仕事を手伝っていたが、俺も紗耶さんと付き合うことには、このままでいるわけにもいかず、履歴書を買ってきて、紗耶さんと一緒に書いた。紗耶さんは字が上手なので、住所などを書いてもらって、求人情報を当たった。普通自動車免許を持っていないと受け付けないところがほとんどで、免許不問の場所は月給114000円などのところだった。
とはいえ、今は拾ってくるところに行くしかない状態だった。もはや、俺は紗耶さんのために何とかしないといけないとしか考えていなかったので、ただ職を見つけることだけに専念した。情けない俺は面接の会場の前まで紗耶さんに来てもらった。「頑張ってくださいね。応援しています」と紗耶さんは励ましてくれて、人がいないのを確認して、そっと唇を重ねてくれた。俺はかなりやる気になって、面接に向かったのだが、「うちはどのような会社だと思いますか?」という思いもよらない質問が来た。事務所の手伝いなので、事務的な仕事をするところと答えると、「違う違うそういう意味じゃなくて、もっと別の意味で。分かるでしょ?」と嫌な顔をして訊いてくるので、分からないと答えると、溜息をつかれた。面接が終わって、紗耶さんが「お疲れ様です。どうでしたか?」と尋ねてきた。ずっと待っていてくれて、缶ジュースを差し出してくれた。「変な質問をされた。ダメかもしれません」と言うと、「そうですか、でも、お疲れ様です」と紗耶さんは笑ってくれた。たぶん不採用だから俺はかなり落ち込んだのだが、紗耶さんはかなり豪華な夕食を作ってくれて、気持ちが晴れた。とはいえ、その紗耶さんのためにも仕事が必要だった。後でE先生から聞いて分かったのだが、いい会社かそうでないかを見分けるには専門家がいるぐらいだそうだ。俺の受けたところはダメな会社らしい。だが、大手はすべて学歴重視だし、俺は能力に欠けるから、無理だ。まともな会社を専門家に選んでもらった。ついでに面接の指導も受けた。「選んだところに、筆記試験を課すところはないから、面接がすべてだよ。履歴書も高卒なら犯罪歴がなければそんなに気にはしてこない」ということだった。
面接は紗耶さんにも手伝ってもらって、かなり上達したつもりだったが、紗耶さんは話しやすい相手で、正直あまり参考にはならなかったと思う。
専門家の言うとおり、まともなところはまともな質問をしてきた。「食品営業部では、一日に何件も業者を回ってもらわなければなりません。一日を通して歩く気力はありますか?」「はいあ、あります」と言うと、試験官は和むような笑みを浮かべて、「君は若いし大丈夫そうだろう。なかなか厳しいんだけど、今、人手も不足してるからね。君にぜひ戦力になってもらいたい」「私でよければ、お願いします」と言うと、また笑って、「給料は安いけどね」と言って、その日のうちに採用の通知をくれた。まともな場所は試験官の質も違うんだなと俺は感心した。その人は本当にいい人で、俺が「お願いします」と言うべきところを、頭を下げて、「よろしくお願いするよ」と言ってきた。
仕事が決まったことを紗耶さんに伝えると、紗耶さんも喜んでくれた。「今日はサービスしますね」と言われた。俺が就職した場所はほとんど誰でも入れる場所だった。初任給手取り100000を切るような場所だ。だから、俺は情けなく、「生活がかなり厳しくなるかもしれない」と言うと、「けっこうですよ」と言ってくれた。俺たちは付き合いをしている仲ではあるが、結婚することは約束していない。告白があったのは紗耶さんのほうからで、俺は受動的に頷いていた。いつの間にか、ほとんど同棲生活になっていて、紗耶さんが俺のところに泊まることが多くなっていた。
仕事はほとんど誰にでも出来ることだ。言われた会社を回り、頭を下げ、取引と言っても、事前に話がついている相手なので、説得したりそういうことをしたわけではない。頭を下げて、相手の機嫌を損ねない。それだけだった。
そういうことを一日やって、家に帰る。紗耶さんが夕飯の準備をしていることが日課になっていた。紗耶さんのところにも何度か行った。紗耶さんが少し席を外している間に紗耶さんの母親がやってきて、「紗耶をもらってくれないか」と言うので、俺は「ぜひ、お願いします」と答え、父親も「ありがとう、任せるよ」と言ってくれた。とはいえ、俺はまだ結婚するには早いと思った。ほとんどお金もない。そこで、紗耶さんには結婚をすることを言わなかった。
言わないうちに妊娠が発覚し、それから、しばらくして、女の子だと分かった。E先生にも報告したのだが、M先生とも俺は多少の交流があったので、伝えた。「おめでとう」ではなく、「頑張りなさい」と言われた。「はい」と答えて、紗耶のことを抱きしめた。
美咲ちゃんのことはかなり遠く感じることが出来るようになっていた。紗耶さんを守ること。守り続けること。それだけが俺の気持ちになっていた。それ以外が思考できなかった。防衛の本能が過剰に働くのは至極当然だった。俺はかなり恐怖を覚えていたのだ。この世のすべてが恐怖に移る。紗耶を傷つける奴がいれば、そいつは許せない。紗耶を守るためには社会に潜む悪魔という名の人間を遠ざけなければならない。世の中には悪魔ばかりではない。E先生やM先生のような方もいるし、会社の先輩に当たる、Kさんもとてもいい人だった。
ある日、紗耶さんのところに泊まりに行ったというより、妊娠して以来、俺はほとんど紗耶さんのところに泊まっているのだが、父親が「結婚式は挙げるのか?」と言われて、「紗耶さんは挙げたくないと言ってますし、僕も……」と口ごもると、「あの子が望むようにしてやってください」と言われた。俺たちは婚約届けを出して、式を挙げることはなかった。ほとんど知られないままに俺たちは結婚した。結婚前に一度だけ、俺の親に紗耶さんを会わせたが、親は何も言わなかった。ようやく、俺のことが片付いて安心したのだろう。婚約してからは、この家を使えと言われたので、俺はアパートを出て、紗耶さんの家に入った。会社で氏が変わったことに気付いたKさんに結婚したことを言うと、かなり意外に思われて、それから、かなりのお祝い金をくれた。Kさんはまだ結婚されていなかった。とはいえ、俺が結婚できたのは、相手が紗耶さんだったからだ。普通の女なら、金がないだけで、論外だし、俺の経歴を見ても、論外だろう。紗耶さんは絶滅の危機にあったところ、俺が偶然見つけ出した世界で一番大切な人だった。世界で一番だから、防衛本能が至極高まって、紗耶さんと買い物に出かけたときのことだが、知らない若者が紗耶さんにぶつかって、何も言わず、去っていったのを見て、俺は若者に掴みかかってしまった。紗耶さんが止めて、問題にはならなかったが、俺は休日、紗耶さんのボディガードのようなものを務めるようになった。
買い物は紗耶さんの母親が行ってくれるようになって、俺も「あまり無理しないで、ゆっくりしていてくれ」と言った。紗耶さんは「大丈夫です」と言って、洗濯物を干したり、食事を作ったり、家事全般をかなりこなした。
俺は男女の絆と言うものが、これほど強烈なものとは思わなかった。もしかすれば、俺たちだけかもしれないが。俺は一人のときは色々なことを深く考えていたが、紗耶さんと一緒に過ごすことになってからは、そういうことを考えなくなり、ただ、紗耶さんと一緒にいたいとだけ思うようになっていた。他人のいずれよりも紗耶さんを優先した。県の病院に通うときには車がないので、電車を使わなければならないのだが、そのときは休みを貰って、俺が付き添った。座席がなくて、俺はわざわざ人に声をかけて、座席を開けてもらった。紗耶さんのためなら、自分から他人に話しかけることも出来た。さらには周囲に目をギラギラ輝かせて、少しでも紗耶さんの体に触れた奴は痴漢として、たたき出すつもりでいた。紗耶さんは俺だけのものだというそんな考えもあるいはあったかもしれない。天皇より、総理より、誰よりも、圧倒的に大切な人だ。誰よりも俺は優先して、紗耶さんの身を案じた。難病に苦しんでいる者を見ても、死に掛けている者を見ても、紗耶さんが優先される。がめついおばさんの意味が分かった気がする。がめついおばさんは何よりも身内を案じているのだ。他人すべてを放擲して、身内の、例えば孫や息子のためだけにすべてを注いでいる。だから、がめつくなるのだ。今の俺はいかなる善意も他人にはもたなくなっていた。所詮、善意というものは真に守るものを持っていないものたちだけが持っているものだ。俺の祖母はとても優しかった。だが、それは他人のすべてを捨てても、俺に愛情を優先させてくれたからだろう。
俺は紗耶さんのためにお金を稼いでいる。他人には、たとえ乞食がいても一円もやる気はない。俺は、乞食に金をやらないことや優しくない人たちを『善意のないもの』と考えていたが、早計だった。そういうことだったのだ。彼らは守るべきものだけを見つめていたのだ。そのためには、乞食に一円すら与えることが惜しい。自分の子供、または妻、または親か。とにかく、この世の多くの悪意は相対的に受け取っていただけだったのだ。視点を相手に移せば、悪意などない。
俺は紗耶さんと一緒に暮らすようになって、つくづくそれを思い知った。みんな、守るために全力になっているのだ。守るためだったのだ。今思えば、野生動物は取った獲物を他人にやったりはしない。他人が獲物に近づいてきたら攻撃する。守るために攻撃するのだ。その愛情は桁外れで、それは他人を顧みる暇もないほどの愛情の強さなのかもしれない。とはいえ、思考力にかける野生動物がそんな大げさなことを考えてはいないだろうが。人間もそれに近い性質を持っているのだ。
とにかく、俺はその性質が強すぎた。紗耶さんを腫れ物に触るような手付きで扱っていた。電車を降りるときも、気を遣いすぎて、「そんなに気を遣わなくてもよろしいですよ」と言われ、「ごめん」と謝った。妊娠が数ヶ月に渡ると、お腹も膨らむのだが、各種栄養が足りなくなるらしい。「特にビタミンCや鉄分ですね」と言われ、それらを多く含む食材を教えてもらい、「よく噛んで食べて下さい」とアドバイスを貰った。
妊娠と言うと、卵の発生で、その家庭は割球がだんだん割れていくようなものと俺は習っていたが、発生過程は実に不思議なものだと思う。自分のアイデンティティも脳もどんどん作られていくのだ。人工的に作ることの出来ないものを作ることが出来る。これが自然なのか。神なのか。桁はずれだ。その神は平等な遺伝子に従って、子供を作っているのだろうか。しかし、俺には不思議に思えてならない。まるで、物理法則を超越する何かがそこにはある気がしてならない。発生とはそれほど俺には不思議に見えた。
難しいことはともかく、お腹の中で俺の子は無事に育っているらしいので、安心した。「名前、何にしますか?」と家に帰ってから、紗耶さんが言ってきたので、俺はしばらく考えた。名前は当たり障りのないものがいい。別に名前に自然科学を操作する力はない。ただ、名前は人間社会で環境を操作する力がある。珍妙な名前をつけられると、それだけでコンプレックスになる。それだけは防ぎたい。俺は有名な名前をいくつか考えてみた。『莉子』『京子』『愛美』『琴美』『真希』『美希』……いくつか挙げたが、『当たり障りのなさ』『読みやすさ』『親しみやすさ』などの総合点ではそれらが上位に来るのだろう。(個人差はあるが、個人的ベスト6だ)だから、そんな感じか。別に俺は何でも良かったので、「紗耶さんは、何かいい名前があるの?」と聞くと、「全然、一緒に考えましょう」と言うことなので、俺はインターネットでも名前ランキングを見たのだが、俺は一瞬愕然とする。『美咲』という名前がとても人気があると書いてあったのだが、美咲ちゃんの名前とかぶってしまうから、俺は避けるように別の名前を探し始めた。胸を抉られるような思いが一瞬心に生じた。自分の子に『美咲』と名付けるという発想が発展して、俺はそれを抑えようとした。別に美咲ちゃんが生き返るわけでもないのだ。『美咲』という名前は、名前だけを見れば、俺の挙げたものにも匹敵する親しみやすさがあるが、俺にとっては、どうしても美咲ちゃんを連想させてしまう。
俺はずっと忘れていた美咲ちゃんを思い出し、なぜか、ずっと美咲ちゃんが俺のことを呼び続けているような気がしてきた。だから、俺はかなり苦しくなった。
「何かいい名前がありましたか?」と紗耶さんに訊かれて、俺は無意識に「美咲とかは?」と答えていた。俺は美咲ちゃんと自分の子を重ねていたのか。だが、もっと別の意味。美咲ちゃんに会いたかったからなのかもしれない。俺の責任のような気もした。
「……可愛いですね。そうしましょうか」と紗耶さんは言った。少し躊躇ったのは、俺から美咲ちゃんのことを聞いていたからだろう。「漢字は美しいに咲くですか?」とすぐ尋ねてきた。「そうだよ」と答えると、紗耶さんは実際に紙に名前を書いていた。
俺の子が『美咲』と名付けられることが決まってから、紗耶さんはお腹に向かって、「美咲、美咲」と言っていた。俺はしばらく複雑な気持ちだったが、すぐに馴染むようになった。
名前が美咲と決まってから、それが両親にも伝えられて、俺も遅れて、自分の両親にそのことを告げた。
自然科学のシステムそのものを創り出した神は人間すら創るようになった。俺はそれが怖かった。俺はやはり防衛本能が異常なのだ。紗耶さん、そして美咲。守るべきものが増えて、俺は神の手に二人の命が握られているような気がしてきた。俺の大切な二人だ。たとえ、神であっても、許せなかった。だが、どうすることも出来ない。俺はそんなことでストレスを感じていた。
出産が近づいて、俺はずっと紗耶の傍にいたいと思ったが、有給休暇には限度があり、いつ生まれるか分からない状態ではいつ使うべきか分からなかった。それに、子供が生まれれば、育てなければならない。お金を稼ぎ続ける必要があった。
俺はかなり不安な面持ちで仕事をしていた。それをKさんが指摘して、出産が近いということを知らせると、「いつでも電話もらえるように携帯もちなよ。とりあえず、何かあったら俺の携帯にかけてくるように言ってやるよ」とKさんが力を貸してくれた。当時の俺は携帯電話すら買う余地がなかった。だが、美咲のためとあれば、用意ぐらいはする。だが、俺の防衛本能は異常で、電磁波のあるものを一切遠ざけた。パソコンも二階の部屋に隔離し、テレビを見ないようにと紗耶に言ってしまった。とはいえ、紗耶は本当にテレビを見なかった。医者は「電磁波はどこでもありますよ。そんなに気にしなくていい」と言うのだが、どうしても俺は過保護になってしまう。
「紗耶、どこか痛いところはないか?」と俺は何度も心配した。出産が近づいたときあたりから、俺は紗耶を呼び捨てにするようになっていた。「大丈夫ですよ」と紗耶は言う。
そんな感じだったから、栄養学も学びなおして、妊婦のための栄養学まで調べた。紗耶さんは「ありがとう」とだけ言ってくれた。
俺は過保護に紗耶を守ってきたのだが、それなのに、紗耶は一度体調を崩した。三十八度七部ほどの高熱を出して、風邪ではなく、何かの食中毒の可能性もあるとして、すぐに救急車を呼んだ。
人間では太刀打ち出来ないのだろうか。それが神の創り出した領域なのだろうか。いかなる防御の壁もいとも簡単に突き破って牙を向いてくる。その破壊力はすごい。反則だ。そうだろう、不治の病なんて反則だと思わないか? どうしても治せない病気を作り出して、人々を苦しめるのだ。または、人への挑発か? 医者はよく分からない病気を俺たち(紗耶の親も含む)に告げて、治らないと告げた。神の卑怯なところは不可能なもので攻撃してくるところだ。もちろん、人間はもっと理不尽だ。やる気になれば、鉄砲打って、健康体を一瞬にして、殺してしまえるのだから。だが、それは人間が憎悪や劣等感を抱かないとそんなことはしない。神は俺たちのどこが気に入らなかったというのだろうか? それとも、これに及んで、平等な成り行きだというのだろうか。論理的かつ理論的に病気が発生したというのだろうか。論理も理論もあるなら、どうして、分子生命学が発達した今日でも、原因が分からないのか。人間にかけられた呪いとしか思えない。もはや科学ではなくオカルトに頼るほかないような気がした。
俺はすぐに紗耶のところに行った。出産が始まり、切開が必要だと医者が言って、俺たちを下がらせると、いかなる震動、音も通さない部屋の奥に紗耶は入れられた。俺は紗耶に近づく死神を探すかのように病院内を歩き、もし、霊というものがあり、死神を止めることが出来るのなら、「止めてくれ!」と叫びたかった。この圧倒的理不尽な神の攻撃はあまりに間接的だ。神はどこにもいない。いないところから、鋭い牙を向けてきたのだ。その恐ろしさは程度を逸脱していた。俺にとって最も大切な人に神は何の躊躇いもなく襲い掛かったのだ。
「腹膜炎が起こっている」と言う状態らしく、かなり危ない状況だと、医師は伝えていた。俺は医学からも物理学からも目を背けるほかなかった。助けるためには超越したものが必要だ。だが、それらが人間の前に姿を現すことはまずない。どこを歩いても、走っても、それらは出現しなかった。
やがて、俺の前に結果が突きつけられた。美咲は全く息をしなかったらしい。紗耶は身体にダメージを受けすぎていた。骨盤が破壊されて、息も途絶えるほどだと聞く。俺がようやく紗耶と対面したときには、紗耶は何も話してくれなくなり、美咲だけが何とか一命を取り留めた事実だけを話して、気の毒そうに執刀医は去っていった。俺はつかの間、紗耶の手を握っていて、その後、「美咲はどこだ?」と周囲の者に尋ねた。「今は危険な状態で面会謝絶だ」と言うので、俺はまた頭を抱えた。また、美咲を俺から隔離するのか。そして紗耶まで奪ってしまうのか。俺は紗耶を抱きしめ、ただひたすら俺を認識してもらいたいために体温を送り続けたが、神は人体から完全に魂を取り去っていた。紗耶は目覚めず、俺に何も言わず、去ってしまった。せめて、もう少しぐらい話をさせてくれてもいいところを、一部の時間も残してはくれなかった。紗耶に話すべきことはまだたくさんある。それを俺は言えないままに、紗耶と一切の関係を断たなければならなくなってしまった。紗耶が亡くなり、俺はもう美咲だけしか残っていない恐怖を感じながら、紗耶を探していた。探して見つかるものではない。だが、俺の本能は探す余地を見出すことによって、何とか哀しみを抑えようとしていた。
とにかく書けば進んでいく感じなんだよね




