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A5

日本一まで、あと6284話!!

講演を終えて、ようやく一息ついた。「仕事があるから」と俺はすぐに帰った。かなり遅くなっていた。かなりたくさんの行事を抱えているから、算数の予習をして、仕事を済ませると、午前二時になった。

 クラスの子たちとはだいぶ馴染んできた。特に美咲ちゃんと会話が成り立つようになったのが大変な進歩だ。だが、まだ完全ではない。まだまだ躊躇いとかそういうものが強く心に残っている。それがなくなると、もっと楽になれるかもしれない。

 九月ももうすぐ終わりに近づいていた。運動会のために毎日二時間も練習する。応援合戦の練習が大半を占めている。

 赤と白の二つに分かれていて、俺は赤組の練習を見ているのだが、康平君の声は遠くにいても聞こえてくる。美咲ちゃんは声を出しているか分からないが、それとなく口は動いていた。休憩の時間になると、美咲ちゃんは席を外れて、学校の後ろ側に向かう。駐車場前の木材などが積んでいるところに腰を下ろしていた。

 俺は美咲ちゃんの後を追っていって、その隣に座るのが日課になっていた。白組が教室の中で練習していて、その声が響いてくる。

「熱くないか?」と尋ねると、「ちょうどいいぐらい」と美咲ちゃんは答えた。「動いていると熱くなっちゃう」とけっこう当たり前なことを言ってきて、「熱いのは嫌い?」と返すと、美咲ちゃんは「嫌い」と即答した。

 そんな感じで、どうでもいいような会話をするようになっていた。授業も少しばかり熱心に聞いてくれるようになっていた。

 約分の授業をしていたときだったと思う。素因数分解をして、大きな数の約分をするプリントで分からない問題があると、美咲ちゃんは洋子ちゃんと一緒に聞きに来たことがあった。二人が仲良くなっているかどうかは分からないが、いつ話をするようになっていたか自分でも分からなかった。昨日の時点では二人は話をしていなかったから、今日、何かあったのだろうか。ともかく、人の関係は一日にして変わるから、いつまでも気が抜けないことを思い知った。

 放課後になると、また運動会の練習が始まる。俺はM先生と倉庫に向かっていた。昨日、コートに白線を引いたのだけれど、サッカーをしたせいで、ほとんど消えていた。

「サッカーは禁止にしたほうがいいですね」と言うと、「真ん中やったらいいんだけどね」と言われたので、俺は応援団長でもあって、足が一番速い六年生に、「サッカーは中央でやるように」と言っておいた。しかし、次の日には、線がまた消えていた。

 その日、算数の時間中、みそらちゃんの気分が悪くなったので、保健室に連れて行った。かなり苦しかったようで、保健室で嘔吐してしまった。気分が悪くなったことはみそらちゃんの自己申告だったが、かなり最初のほうからムカムカしていた様子だった。

 言い出しにくかったそうで、俺は頭を抱えた。その点を全く考慮していなかった。何かあったときに言い出せるような雰囲気を作るか、俺自身が早くに気付かなければならなかった。完全な俺の手抜きが原因だった。

「気分が悪くなったら、僕に遠慮なく言ってくれて構わないよ。そうだ、何かがあったら、こうやって手を組むことにしよう。そうしたら、僕が気付くからね」と言うと、みそらちゃんはコクリと頷いて、手を組む練習をした。

 それから、午後の授業が終わった後に、みそらちゃんが来て、「トイレ、一人で行くのが怖い」と言って、ついてきてほしいという。俺は困った。

「外まででいいか?」と尋ねると、コクリと頷いていた。怖いテレビ番組でも見たのかもしれない。

 そんな感じで全員が馴染んできたので、俺は予期もしないことを頼まれるようになった。サッカーに誘われることはよくあって、忙しくないときは出ていたのだが、PKのゴールキーパーをしてほしいと言われて、行ってみると、一方的に俺がキーパーをして、子供達はただ蹴りまくるだけだった。五年生の女子がいきなりやってきて、破廉恥な質問をしたりした。曖昧に答えていると、満足したらしく帰っていった。


 運動会が近づいて、かなり用意が忙しくなった。リレーで使うコーンが足りなくて、近くの小学校から借りてくるなど、使い走りをされた。

「予行演習は流れだけ」と言うことに決まった。

 その頃になると、美咲ちゃんともかなり話をするようになっていた。これはちょうど運動会の数日前だったから、十月のことだ。

 二日の日、予行演習で、つまりは運動会の予行をする日だ。目的は当日スムーズにプログラムを消化させるためで、俺は早朝からさまざまな用意に追われていた。

 子供が登校してくる時間になって、M先生に花壇に水をやっておいてほしいと言われ、やることになった。康平君と将太君がやってきて、「今日、リレーは走るのか?」と訊いてきた。走ることを楽しみにしていて、走るという答えを期待していたのだろう。「今日は流れだけだな」と答えると、がっかりしていた。「放課後、走る練習をしていいのか?」という質問には「いいよ」と答えた。

 リレーを楽しみにしている生徒はかなり多かったので、放課後などストップウォッチを借りに来て、50メートル走で競い合っている生徒はたくさんいた。

 俺も走らされた。六年生には速い生徒が多く、危うく負けそうになるほどだったが、何とか負けなかった。「速く走る方法を教えてくれ」と5年生や6年生がこぞって質問に来た。俺はとりあえず、以前本で読んだ正しいスプリントのフォームを教えた。走ることにはあまり詳しくなかったので、それしか出来なかった。

 そんなわけで、放課後はリレーの練習で燃えていたというのがこの頃だった。十月二日も同じように行われていた様子だったが、俺はその日美咲ちゃんと話をしていた。その日、ロング休み時間(二時間目の後の30分の休み時間。ちょうど予行演習が終わった後だった)に美咲ちゃんが俺のところを訪れてきて、「一人はつまらないから、一緒にいてほしい」と言うので、「図書室で本でも読もう」と言って、連れて行った。「どんな本を読もうか」「面白いのがいい」と美咲ちゃんは言うのだが、面白いというのは人によってさまざまなので、俺は選択に迷った。選択にかなり時間をかけてしまったのだが、それでよかったのだ。美咲ちゃんは一人が嫌なわけだ。つまり、本を選んでいる間の、美咲ちゃんを待たせている時間というのは、苦痛というわけではないのだ。実際、美咲ちゃんと本棚を眺める時間が休み時間の半分が過ぎていたが、美咲ちゃんはずいぶん楽しそうだった。

 結局、本は読まず、タイトルを眺めるだけに終わった。「漢字、読めるか?」と訊くと、「これとこれが分からない」と指を差していたので、俺はその漢字を教えた。それから「漢字のドリルをするのは嫌い」だと美咲ちゃんは言った。「計算と漢字はどっちがいい?」と聞くと、「どっちも嫌い」と答えた。「筆算の掛け算と小数点が嫌い」と具体的な話もしていた。

 そういうことがあったので、俺と美咲ちゃんの関係は特別なものになっていた。ちなみに俺はものを頼みやすい先生らしく、五年生の生徒などが突然やってきて、「習字道具忘れた」と言ってきた。5年生の担任には言わず、俺のところへ来たところが面白かった。「鉛筆を筆だと思えばいいさ」と言うと、笑っていた。後で、「学校にいたときは習字道具を忘れて、ずっと立たされた」と大人しい五年生が泣きながら言ってくれた。それがとても苦痛で、今でも考えると、胸が痛むと言っている。その子は繊細な子なのだ。そういう生徒を考慮しない教師に俺はますます腹が立った。

 それ以外にも、忘れ物をして、俺のところに言いに来る生徒がかなり多くなっていた。忘れ物をすると、相当苦痛を覚える。だから、俺は「ランドセルを忘れたこともあったな」と冗談気味に言って、そういう苦痛を和らげてやることに専念した。忘れ物で苦痛を覚えるのは仲間がいないからだ。『自分だけ忘れる』これが一番苦痛で、それを苦痛にさせないように俺は心がけた。人間は完全な脳を持ち合わせていない。だから忘れる。それを許容できない教師は許せない。社会に出れば、確かに忘れてはならないことはたくさんあって、忘れない癖をつけておかなければならない。だが、それを苦痛という洗礼で覚えさせると、子供の精神に大打撃を残すこともあるのだ。

 俺は精神に打撃を与えず、かつ、子供の力を引き出すそういう教育を目指したかった。精神的強さは打撃を受けると上がると思っている馬鹿が多いが、そんなことは決してない。なぜなら、精神的強さは環境によって、大きく左右される力だからだ。極めて、相対的でしかも、打撃が強すぎてはいけない。

 精神的強さとは「この環境では強いがこの環境では弱い」という感じなのだ。だから精神的強さを得た人でその人が裕福なら、「お金をすべて放擲した環境」で強いままかと言うとそうではない。つまり、ある精神的強さが上がると、他の方面で下がる。精神的に強くなるとは環境が変わることを意味する。その方法が苦痛というのは間違っている。環境を変えるのは、自分の意志以上に周囲のサポートだ。

 だから、精神的強さを鍛えようとするのではなく、苦痛を繰り返しながら、「自分に適した環境を見つける」ことが大切なのだ。

 そこで、俺は子供のもっている最大の長所を見つけ出したいと思っていた。「長所こそがその人の適した環境」だからだ。今の日本では「基準が絶対的になる傾向にあり、ひとつの環境に縛り付けよう」とするので、「極めて不平等」なわけだ。

 俺はここに来ている生徒のために「その生徒の適した環境」を見つけ出してやりたい。それは自分で見つけるものと頭の悪いことを言う者もいるが、「環境」とは数学的に存在するものだ。つまり、その適した環境という場は微分法を学ぶ、積分法を学ぶというようなプロセスを得ないと辿り着けない。そういう根本を得る手段を教えなければならないのだ。

 俺は精神的に打撃を与えず、論理的に物事を考えられるようになり、かつ、自分の適した環境を得られる、そんな教育を目指したかった。

 ここに来ているものの多くは身体的ダメージではなく精神的ダメージで苦痛を覚えているものだ。だから、俺は精神的な傷を癒し、学校ではない別の環境を与えることを主眼に色々なことを考えた。

 だが、十月二日という日は特別なものになった。

 ロング休み時間に美咲ちゃんに一緒にいてほしいと言われて、その放課後、応援合戦の練習が終わった後、美咲ちゃんがやって来て、「家に帰りたくない」と言ってきたのだ。俺はけっこう戸惑ったが、どうしてとは聞かず、「図書室に行こうか」と言った。

 図書室に行ったのだが、美咲ちゃんは、俺の膝の上に座りたいと言うので、仕方なく座らせて、図鑑を眺めていた。昆虫の図鑑で、世界一大きな蝶とかセミも載っていて、俺も夢中で読んでいた。しかし、美咲ちゃんの親が心配するし、そもそも下校の付き添いをさぼって、俺はここにいるので、「家まで送っていくよ」と言った。すると、美咲ちゃんは俺のところに泊まるとまた突飛なことを言ってきたので、訊かずにはいられなくなり、しかし答えにくいことは訊きたくないので、「家は嫌いか?」と訊いた。

 美咲ちゃんはとてもたくさんの量の涙を流し始めたので、俺はただ抱きしめてあげることしか出来ず、適切な言葉を探した。美咲ちゃんは「家は嫌い。お母さんもお父さんも学校も大嫌い」と泣きながら答えてくれた。何度も繰り返して、親は嫌い、学校は嫌いと言い続けていた。かなり痛々しい光景で、先生が図書室に来たほどだった。俺は、

「解決しますので、下がって」と先生を下がらせて、美咲ちゃんを撫で続けた。それでいい。憎悪をすべて吐き出せばいいのだ。人はしきたりに縛られて、辛い思いをすることもある。人を悪く言ってはいけない。親には感謝しないといけない。そういうしきたりは何が何でも守らないといけない。そう教えられる。だが、俺はそうは思わない。美咲ちゃんを見てそう思った。美咲ちゃんは本音をただ吐き出している状態だった。ただそれだけのことなのだ。それで楽になれるのなら、すべて吐き出してしまったほうがいい。美咲ちゃんは二十分以上も泣き続けていた。美咲ちゃんにとって、親は嫌い。学校は嫌い。というのは本音なのだ。それを隠して、苦痛を得ていたのなら、それを吐き出してしまえばいい。そしてそういうものが美咲ちゃんを苦しめているのなら、俺はひとつの決心をした。親も学校も嫌いでどこにも安らぎの場がないのなら、自分がその場になろうと思った。美咲ちゃんという一人の少女を助けるためだけに俺は全力を尽くそうと思った。

 俺はすべてを切り替えた。すなわち、客観的な論理など、もはやすべて捨てていい。いや捨てなければならない。美咲ちゃんのためだけの自分を作ることにすべてをかけた。それが俺の役目なのだろう。たぶん、俺は感情移入しただけなのだろうが、美咲ちゃんという一個人を助けるためだけの人間になろうと決めた。それからの俺は普段とさほど変わらなかったと思うが、美咲ちゃんだけを見るようになった。最初は四年生全員を見ていた。とはいえ、そう決心しても、恐らく、そんなに変わらなかったはずだ。というのは、俺は自分からは話しかけない。滅多なことでは話しかけないのだ。美咲ちゃんにしても、それ以来、俺から話しかけたことはほとんどない。俺は生徒を中心に捉えたかった。だから、生徒が俺に話しかけやすいように、俺を相手にしたら、精神的苦痛が絶対にない。そんな状態を作りたかった。だから、俺は向こうが話しかけてくるのを待つという体勢はここに来た日から変わっていない。

 ちなみにその日、俺は美咲ちゃんを家に送った。美咲ちゃんが親を嫌うなら、俺が親に代わって、愛情を注いでやれるように。それを主眼に置いた。

 俺は弱者には意外に好意を持たれることに気付いた。弱者と強者の境界は紙一重ではなくかなりはっきりしている。

 俺は生まれて、今まで、友人などろくにいなかった。周囲はみな強者だった。悩みがあったにせよ、強者に変わりはない。俺は美咲ちゃんを家に送った後、強者を犠牲にしてでも、弱者のためにありたいと思った。教室に来ている生徒はみな学校で馴染めなかった弱者で、非常に強い苦痛を持っている。俺はそういった子の味方だった。

 その翌日、美咲ちゃんは普通に登校してきていた。算数の授業中も普通だった。その日、6年生が何人かやってきて、「ボールの空気が抜けた」と言ってきた。そこで、「空気を入れるから手伝ってくれ」と言って、空気入れをし始めた。俺は、「これで、風船を膨らませてみないか」と言って、九月初期から引き出しに入ったままになっていた風船を持ってきて、爆発させた。そういうことをしていたから、俺は「面白い」というイメージを持たれていたらしい。その日もサッカーがあったのだが、十月に入って、下校時間がまた絞られる結果となった。サッカーが終わるまで、美咲ちゃんはずっと待っていたので、「一緒にやってみるか?」と声をかけると、「見るのがいい」と答えた。けれど、下校時間になって、人がいなくなると、美咲ちゃんはサッカーボールを持ってきて、「一緒にしたい」と言ってきた。下校時間なので、俺はM先生に怒られてしまうが、美咲ちゃんのためにも、こっそりとリフティングのやり方を教えた。俺自身、62回とか108回とかばらつきがあって、うまく出来るわけではないので、「四回やってつかめたらすごい」と言った。美咲ちゃんは二回目で前に飛ばしてしまって、うまく出来なかったのだが、何度も繰り返していると、ようやく前ではなく上に蹴り上げるコツを掴んで、六回や八回など、出来るようになっていた。

 それから、美咲ちゃんを家に送っていった。美咲ちゃんの両親共に俺は話をしたことが何度かあるが、すごく丁寧だし、優しいししっかりした親だ。それでどうして美咲ちゃんがこんなふうになったのか。俺にはすぐ分かった。俺の場合とすごく似ていた。俺の親もすごくしっかりしている。だが、しつけをしっかりする。愛情を注ぐ。そういったことが親の立場と、子供の立場ではまったく違う。ピーマンが好き、嫌いと同じで、親が愛情を注いだと思っても、子供は全く愛情を受け取っていないこともある。そのようなことが繰り返されたことと、後ひとつは、美咲ちゃんが言っていたことなのだが、「すぐ怒る」ということだった。俺の親もすごく怒る。しかも相当怖い。美咲ちゃんも「怒ったらすごく怖い」と言っていた。怖いと言っても、漫画的な怖さとは桁が違う。俺もよく知っている。ライオンを見ての怖さと親に怒られる怖さでは違う。幽霊を見ての怖さも違う。親の怖さとはまたすごく特別なものだ。だから、俺は「決して怒らない」親が絶対に必要だ。

 頭がやや悪い段階のもの(ほとんどの日本人だが)は「怒らないと子供は甘える」と思うらしいのだが、それは全く違う。子供が甘えることと、怒るとは相互性はまるでない。なぜなら、そういうものは子供の観点で捉え方が異なるからだ。相対的だから、この子にとっては怒られるはこう映る。別の子にとっては怒られるはこう映る。そして、それが0から100まで変わってくる。ある子には、希望に映るかも知れぬものが絶望に映ることもある。だから「怒らないと子供は甘える」のではなく、「怒らないと甘える子供も存在する」が論理的な言い方である。美咲ちゃんはそのタイプではない。美咲ちゃんは現時点では、人間や社会に対して強い恐怖を覚え始めている。「怒る」ことで、慢性的な恐怖を覚えるようになっていた。だから、俺は決して怒らないことにした。またすべてのタイプにかなり平等(誤差や例外はある)に効果が現れるのが『論理』なのだ。俺は、それを強調して、美咲ちゃんに当たっていた。「ご飯を食べる理由」「食べすぎが悪い理由」「カップラーメンばかりだと体に悪い理由」理由なしに理解している人が多いのが日本人だから、日本では『頭が悪いほうが社会では生きやすい』のだ。日本という国は『多数派が支持され、少数派は淘汰される』し『頭が悪い者のほうが多い』から賢くなることで、『淘汰される』。そういう国を瓦解させてしまいたいと俺は思っている。とはいえ、俺は美咲ちゃんを守ることだけをただ考えていたので、そういうものは二の次だった。俺にとって、景気がよくなるとかそういうことはどうでもよく、ただ、絶望する人が少なくなってほしいと願っていた。そのためには、国民が『思考力、想像力、論理力』の底上げをしなければならず、教育制度の見直し、初頭教育を『具体例の暗記から論理的解釈』へ移行させることを最も急ぐべきものと考えた。頭が悪い者などはゆとり教育が『頭の悪い人間』を生産していると考えるらしいのだが、実はほとんど関係ない。ゆとりでなかった時代は学習内容で言うと、『高校数学ではBに確率分布、Aに数列を導入している』などで、残念ながらそれが『自然科学・数学の発展に貢献している』とは言えない。要するに環境が変わってしまったことが原因なのだ。『自然科学の発展、経済学の発展』などはゆとりか否かは関係ない。そういうものを発展させる者は、サヴァン症候群だったとか、一部の分野に情熱を注いだとか『ゆとり教育か否かとか、社会の犬を作るための制度』から切り離された部分にある。娯楽の質が上がり、若者の選択的集中力が上がったため『学力は下がった』が『頭が悪くなったわけではない』『学力が高くても、何かを進歩させられるわけではない』ゆとりだから、ゆとりでないからは『犬の質』に変化はあっても『天才』を増減させる効果はない。だから、ゆとり教育は『選択的集中力の上がってきた世代』にしてみれば、よい政策だった。逆に『初期から犬志望の者』にとってはゆとり教育は『弊害』だったというだけの話なのだ。『論理力』を身に付ける教育制度にしないと、『不平等な社会』は継続していくし、『戦争はないが和平のレベルでは戦争時代よりひどい』ことにもなりかねない。


 そういうことがあって、俺は美咲ちゃんだけを守るように務めた。美咲ちゃんも俺の前ではかなり色々なことを話してくれるようになったし、笑ってくれるようにもなった。

美咲ちゃんは感性の鋭い子で、「いい人以外からは褒められるのも嫌」と言っていた。親が怒るのも嫌で、優しくされるのも嫌だと言っていた。つまり、美咲ちゃんにとって、それらは取り返しのつかないほどに怖いものになっていたのだ。育ててもらうことに、感謝の念は沸かず、恐怖だけが募るようになっていたのだ。こうなってしまっては、美咲ちゃんのように考え込む子に心を開かせることはまず無理だ。無理をして、さらにおかしなことになりかねない。俺は親が嫌いでもいいと考えていた。その代わりを自分が出来ればいい。少なくとも、安心を感じられる人間がこの世に一人いれば絶望は感じない。

 運動会はイマイチ盛り上がることもなく終わった。これだけの少人数で、しかも、意欲的な子供が少なかったから仕方がないのだが。

それからは、放課後、美咲ちゃんと過ごす時間が増えて、図書室で色々な本を読むようになったのだが、美咲ちゃんは俺にかなり特別な好意を持つようになっていて、「キスをしてみたい」と言ってきて、戸惑った俺は「それは成人式を迎えないと出来ないことで、それより早くすると、警察に捕まってしまう」ととてもおかしなことを言ってしまったのだが、その頃から、美咲ちゃんの好意が踏み込んだところにあることは分かった。

 俺は対策を考えていたのだが、E先生に『キスを迫られたらどうすればいいか?』と相談することは出来ず、俺は悩んでいた。倫理的な干渉がなければ、別に減るものでもないし、身体にダメージを与えることもないので、してもいいのだが、それがエスカレートさせるスイッチになる可能性もあるから、俺は完全に避ける方法を考え始めた。

 それと時を同じくして、康平君が風邪で休むようになっていた。俺は給料が入っていったから、何かをお見舞いに持っていこうとA市の果物専門店を見ていた。

「風邪のときに食べても問題がない果物でオススメはないか?」と俺は店員に聞いたので、店員は困って、「ちょっと専門外ですね。知り合いのかかりつけ医に聞いてみましょうか」と笑いながら言われたので、お願いしますと言うと、その店員(30代前半ぐらいかと思う)は本当に電話をして、「オレンジなどどうですか? ナシは硬いから」と言って、オレンジを持ってきてくれたので、「もらいます。後、サプライズになる果物はないですか?」と言って、驚くほど大きなさくらんぼを買っていった。

 康平君はほとんど元気になっていて、持ってきたさくらんぼに興味を持ったらしく、おいしく食べていた。

 美咲ちゃんの件は解決策を手に入れないままで、しばらくはその話題から遠ざかっていた。とは言え、露骨に身体の接触を求めてくるようになっていたから、俺は解決策を見つける必要があると思って、M先生に相談したのだが、M先生も「そういう問題は難しい」と頭を悩ませて、「仮にキスをしたとしても、絶対秘密にしておかないといけない」と行為の後のアドバイスをもらった。それからさらに数日は、その話題から遠ざかっていた。ただ、俺がクラスにかなり馴染むと、かなり多くの生徒の要求を受け付けるようになっていて、ほとんど毎日、俺のところに生徒が来た。六年生に「スポーツ選手になりたいから、色々と教えてほしい」という子がいて、その子は足がかなり速い子で、運動会前は50メートルは7,3秒で走っていた。それで、どんなスポーツがいいのかと聞くと、「なれたら、何でもいい」と言うので、俺はアドバイスに困った。やや昔は、運動生理学を学んでいて、どういったスポーツで、どのような力が必要で、どこを鍛えたら、これだけの力が発揮されて、というようなことを半ば知っているのだが、それらがスポーツの競技によって、異なるので、ひとつに決められなかった。

「どんなスポーツが好きか?」と訊くと、「走ること」と言うので、恐らく短い距離のことだと思い、「百メートル走の選手などはどうか?」と訊くと、「それがいい」と言うことになった。俺は「才能」という言葉を使うのが嫌いで、才能の問題なら、それを数学的に示されないと納得出来ない人だった。つまり、「あなたの神経の反応速度はこれだけで、努力でこれだけしか伸ばせない。すると、絶対に足りない」と言った感じだ。しかも「どすいて努力でこれだけしか伸ばせないのか?」という質問にも答えてもらえないと納得出来なかったから、俺は「無理とも出来る」とも言わず、「将来、100メートルを10,5より速く走れるようになったら、十分チャンスがあるよ」とだけ言って、「今、何をすればいいか?」と訊かれたので、「長く走らないことと、短く、全力で走ること」とだけ言っておいて、「色々なことを勉強しないといけない。怪我のこと、練習のこと、栄養のこと。怪我のことを勉強するために、理科を勉強しないといけない。理科を勉強するために算数を勉強しないといけない」などとけっこう長いことを言った。その子は真剣に聞いて、深くお礼を言ってくれた。親に言っても、頑張れとしか言ってもらえなくて、不安だったとも言っていた。とはいえ、夢で人生を瓦解させるものもいるから、俺は正直、あまりその気にさせたくはなかった。ただ、夢で人生が瓦解したというのはひとつの見方に過ぎない。むしろ、夢で人生を過ごしたというほうが正しいかもしれない。

 とにかく、俺がその子に何度も言ったのは「走るのは、一時間だけ。走りすぎると、逆に遅くなる」と言うことと、「毎日、練習しないで、休養を取る」ことだった。

 四年生の中では、みそらちゃんと洋子ちゃんがよく俺のところに来て、洋子ちゃんなら「勉強を見てほしい」、みそらちゃんなら「将来が不安」などといった感じだった。

 俺はみそらちゃんもかなり心配していた。というのは、みそらちゃんの親は小学校に戻ってくれるようにと願っていて、みそらちゃんから聞くには「早く小学校に行けるように」と言われ続けているようなのだ。「学校は嫌な人がたくさんいるから行きたくない」とみそらちゃんは俺に言ってくれた。みそらちゃんも涙を流していたので、俺はかなり痛切な思いになって、一度、親と話をしないといけないと思ったのだが、俺は正直、この面会ですごい体験をした。

 これはちょっと先の話なのだが。みそらちゃんの親と会って、論理的に「小学校には無理して行かせなくてもいい」ことを述べたのだが、みそらちゃんのお父さんはなぜか、テレビのリモコンを持ってきて、俺に渡し、電池を取り出してみろと言う。かなり口調が怖いのだが、言うとおりにすると、「電池を貸せ」と言う。渡すと、投げつけられて、「学校に行かなくてもいいとは、馬鹿にしとんのか」と怒鳴られ、「落ち着いて話をしよう」と言っても聞かず、お母さんが何とか止めて、「今日は帰ってください」と言われ、俺は帰った。それから、みそらちゃんはかなり怒られた様子で、次の日、かなり元気がなかったが、それでも俺のところに来て、放課後にずっと泣いていた。ずっと泣くのを我慢していたみたいだった。

 そんなことがあって、俺は美咲ちゃんだけでなく、みそらちゃんのことも考えなければならなくなって、かなり複雑なことになってしまった。


 そんな感じで美咲ちゃん以外にも注意を向けていると、美咲ちゃんが、俺のことは嫌いだと言って、本を投げてきて、最後は川のほうまで走っていってしまって、俺は追いかけることになった。「ごめん」と謝っても、最初はほとんど聞いてくれなくて、五時を回った頃からようやく機嫌を取り戻してくれて、家まで送っていった。そんなことがあって、次の日は美咲ちゃんと洋子ちゃんが引っかき合いの喧嘩をしていて、K先生が止めたらしいのだが、俺はその頃、教室を出ていて、いなかった。原因が分からないとK先生は言っていた。俺のことだろうと思って、美咲ちゃんと放課後話をした。

 俺が構ってくれないからと言うので、謝ると、「この前、待ってたけど、来なかった」と俺を非難してきた。いつのころだろうと、遡ると、10日ほど前のことだった。俺はもう忘れていたけれど、美咲ちゃんは覚えていた。俺は美咲ちゃんを守ると言っていたが、傷つけてしまっていた。俺は反省し、放課後は美咲ちゃんと過ごすことにして、サッカーにも顔を出さず、相談も忙しいと言い、日誌も、K先生に「お願いします」と言って、美咲ちゃんに付き合うことにしたのだけれども、11月になって、音楽会のことが決まり始めると、また例の話題が再発してしまった。

 放課後、美咲ちゃんと本を読むのが日課になっていた。本を読むと言っても、美咲ちゃんは俺にもたれて、寝てしまうことが多くて、時間を俺と過ごすことに重要な点があったのだ。普段はほとんどどうでもいいことを話している。

「昨日の夜、家にキツネがいた」と美咲ちゃんが言って、「どのあたり?」と聞き返すと、「川のほうに走っていった」と言うので、「エサあげたら懐くかも」と言うと、「何を食べるの?」となって、「やっぱり肉かな」と答えて、「牛肉とか?」「そうそう」「生でもいいの?」「うーん、焼いてあげたほうがいいかも」「焼いてる間に行っちゃう」「そっか、じゃあ、最初から出来てるやつのほうがいいか」「冷凍?」「缶詰とか」「私、缶詰開けられない」「やっぱり生でもいいかな」とそんな感じで続くのだが、他には「蛇に噛まれた」とか「好きな食べ物」とかあまり難しくない会話をしていた。

 その日も本を読みながら、英語の話になったのだが、その佳境あたりで、「漫画で、中学生でもキスをしていた」というので、俺は言葉に詰まって、「漫画だから」と言うと、「漫画はよくて本当(現実の世界のことだろう)はダメなの?」「そうなんだ」と答えるほかなくて、俺はあまりに露骨な回避をしているのではないかと思ったのだが、こういう状態ではうまく論理を組み立てられずにいた。「漫画になったら」と言ってきたので、俺も誤魔化すのが難しくなって、「絶対内緒。約束出来る?」と訊いて、美咲ちゃんは出来ると答えたので、俺は椅子を引いたのだが、椅子が摩擦力のせいで、なかなか引けなかったので、25キロほどの美咲ちゃんを持ち上げて、机の上に座ってもらって、俺は低い体勢から、美咲ちゃんの後頭部を引き寄せて、ほんのわずかだけ、唇を重ねて、すぐに離した。驚くことでもないが、四年生になると、女の子としての機能は完成していて、フェロモンというものか、俺にはよく分からないが、そういう匂いを感じたので、俺はかなり興奮してしまい、顔も体も熱くなっているのを悟った。「家まで送っていく」と言って、俺は冷静を装ったが、ほとんど興奮を覚ます効果がなくて、それが性的興奮だったことを罪に思いながら、美咲ちゃんを家に帰した。その間、会話はなくて、とてもぎこちなかった。

 俺はもはや仕事が出来る状態ではなく、県に提出しなければならない書類も書かずに、家に帰ってしまった。体の様子がおかしいので、しばらく何も考えないようにしていたのだが、ほとんど効果がなかった。ほとんど水面に唇をくっつける程度のものなのだが、感触ではなく、精神的なものが俺をおかしくしていたのだ。

 だから、俺が立ち直るのはまず不可能で、後悔が強かった。美咲ちゃんのほうはどうだったのか、それを考えるのも怖かった。


 そういうことがあって、11月は極めて、怖い月になった。次の日の授業で、美咲ちゃんはごく普通にしていたが、俺は内心動揺を隠せず、授業こそ、普通にこなしたが、精神状態は不安定だった。

 休み時間に美咲ちゃんがやってきて、俺の手を引っ張るので、俺はかなり怖くなって、けれど、平凡を装って、図書室に向かった。

 美咲ちゃんは「内緒にしてた」と言ってきて、「そうか、ありがとう」と言うと、美咲ちゃんは落ち着きのない様子になって、行動を迷って、混乱しているような感じで、最終的に俺の袖を引っ張って、「本」と言うので、俺はホッとして、「何が読みたい?」「図鑑がいい」と言うことになった。美咲ちゃんは俺が座るまで、ずっと立っていて、俺が座ると、その上に跨って、頬を胸のあたりに擦りつけてきたのだが、何かの求愛の一種なのか、直感的な行動の一種なのか、とにかく、俺はよく分からないまま、冷静を保とうとするのだが、どうもうまくいかず、美咲ちゃんを引き離して、「図鑑を読もう」と言うと、美咲ちゃんはようやく冷静になって、頷いて、俺の上に座った。もたれてきて、「読んで」と言ってきたので、俺は惑星の大きさのところを読んだ。

 それだけで終わったが、美咲ちゃんが混乱している様子なので、M先生に「美咲ちゃんの様子に異変がある。自然にもとに戻るだろうか?」と相談したが、「どうおかしいのか」と訊かれ、俺は手短に話すことにしたのだが、「詳しいことは専門家に聞くほかないねえ」

 しかし、専門家にこの事情を話すのは気が引けて、独学で探すほかないと思った。

 放課後、美咲ちゃんがやってきて、また本を読むことになったのだが、美咲ちゃんが「もう一回キスがしたい」と言うので、慌てて、「今度こそ、警察に捕まってしまう」と言うと、美咲ちゃんは泣きだしてしまい、俺はもはやどうすればいいのか分からなくなって、そもそも正解は存在しない。ここで突き放して、美咲ちゃんが致命的ダメージを負えば、俺の責任だ。だが、倫理の干渉もある。俺はこのときから倫理を徹底的に考えるようになった。生命倫理から、道徳まですべての倫理を考えた。だが、ここでは二つの倫理がせめぎあった。俺が出した結論は『倫理は矛盾している』ということだ。

 倫理は矛盾しているから、無限ループになっている。つまり、倫理に従う以上、「解はないし、間違った選択をしてしまうことがある」『目の前に泣いている人がいる。泣いている人がいれば、笑わせたい。小手先の演技では笑わない。それでも笑わせたい』→『笑わせるためなら寿命が縮んでも、警察に捕まってもいい』と言う言葉を俺は思い出したのだが、俺はそれから『倫理や法律の持つ限界』を感じ取った。

 今、俺と美咲ちゃんはたった二人の空間に閉鎖されている。だから、外部の干渉は一切なく、あるのは人間の配下で、絶対的に存在するそれらだ。俺はもし、美咲ちゃんに背を向ければ、「俺は俺自身を助け、美咲ちゃんを殺した」ことになってしまう。「俺を殺してでも、美咲ちゃんを助けなければならないのではないのか」俺は自らの多少の不幸で、目の前の少女の一時期の不安とか涙を止めることが出来るなら、喜んで、不幸を取るに違いない。俺は確かに法律を認めている。法律は納得できるし、絶対的にあってほしい。だが、この瞬間、その絶対的なものに従うと、ひとつの輝きを消してしまうかもしれない。神の配下にあるものは決して背けない。物理法則には誰もが従わなければならない。神様は不平等だと言うものもいるが、それは違うのだ。神はすべてに平等な『法則』を作ってくれた。この世に幸、不幸、平等、不平等があるとすれば、それらを作ったのは『神』ではなく『人間』だ。生まれつきの力だって『神は平等なゲノムの法則を作って平等としている』そう、不完全な『人間』が不完全な『法律』を作ったから、不完全な『世界』になった。ただそれだけのことなのだ。不完全な人間が創った法律が完全になれるはずがない。だから『法律には絶対に従わなければならない』ではなく『法律には不完全な点があり、時には背かなければ最も大切なものを失ってしまう』というわけなのだ。

 俺は美咲ちゃんを守ると決めた。だから、そのために禁を破らなければならなかった。だが、それを破っても、俺は誰もが不幸になるとは思わなかった。美咲ちゃんが望み、それを俺が受け入れるというただそれだけのことなのだ。『倫理は不完全』倫理に従うと、大切なものを失う。だから、俺は文系の学問が嫌いだった。完全になれない。エゴイズムのみで成り立ち、そこに絶対がない。俺はそれらを学ぶことに恐怖すら感じた。文系の学問は俺に恐ろしいものを与えた。歴史では戦争の歴史を学ぶのだ。勝手な解釈で言語を文学にしてしまい、勝手な解釈で絶対的法律を作り、勝手な解釈で倫理までも作ってしまった。そのような学問に恐怖を覚えた俺は逃げるように数学を学び、物理学を学んだ。今、その文系の学問がかけがえのない少女を奪おうとしているのか。こんなところにまで手を伸ばしてきたのか。もし、俺がその文系の学問に忠実だったら、美咲ちゃんを、この手で潰してしまうところだったのかもしれない。激しい怒りと恐怖が俺を貫き、俺は神にのみ忠実に生きることを再確認した。

 俺はここでどうして文系が嫌いだったのか、それを具体的に感じることが出来たように思う。それらをどうして、俺は避けたのか。心が拒絶したのかもしれない。もし、未来を予知して、今この瞬間、俺が間違った選択をしないために、文系を拒否したとすれば、俺は今、神に感謝しなければならない。神だけが平等を与えてくれる。間違わない選択をさせてくれる。だから、神に忠実に生きれば『どんな苦痛もそれが間違いでない』のだ。天国も地獄も関係ない。人間の作った法律で天国や地獄が決まるはずがない。『この世は神の創ったルール』だけがすべて。そして、神のルールは反することが出来ない。だからこそ『完全』で正しいものなのだ。だが、もちろん、神のルールから派生した法律だ。俺は何も根本から異論があるわけではない。ただ、どうしてもそれに背かなければならないことがあることを言いたいのだ。

 俺はただ美咲ちゃんを守りたいだけだった。

 俺は美咲ちゃんに向かい合ったのだけれど、美咲ちゃんはかなり涙を溜めていたので、その涙を拭って、両肩を持って、抱き寄せた。その肩はかなり細く、握ると、潰れるのではないかと思わせた。こうして抱き寄せると、美咲ちゃんのおでこが俺の肩に当たる程度で、接吻を行うには美咲ちゃんの位置が低すぎる。もう少し美咲ちゃんを引き上げようと思うのだが、どこを支えようか迷った。ここまで来ると、緊張が先行して『仕切りなおし』に持っていくことすら難しかった。そこで、まず椅子を引く……しかし引けない。そうしているうちに美咲ちゃんのほうから上がってきて、ようやく目線が同じ位置になったのだが、もう少し美咲ちゃんには上がってきてほしく、右手で美咲ちゃんの腰のあたりを掴んで、左手で押し上げていった。何とか美咲ちゃんが上に見えるようになったので、人間の配下にある絶対的なものを越えることがいつでも可能になった。美咲ちゃんは何も言わずに、俺の肩のあたり、ただし、美咲ちゃんの爪はやや長いので、食い込んできて、それに気が散ってしまい、具体的な場所は不明というあたりを掴んでいる。だが、はたして、これでいいのかという罪の意識が最後まで俺を躊躇わせた。だが、躊躇うことで、美咲ちゃんを潰してしまっていいのか、と俺は何度も心でつぶやいた。

 俺はまず右手の位置を考えた。美咲ちゃんの背中に持っていったのだが、人差し指が美咲ちゃんの先端に触れる位置においた。美咲ちゃんの髪は肩下十センチにかかるほどだから、背中の中心あたりか。すると、左手は必然的に美咲ちゃんの首元と決まるので、そこへ左手を伸ばした。

 そうして後は、左手がスイッチになる。美咲ちゃんのほうは動かないから、不意の爆発というようなものはなかった。

 だが、俺はかなり性的に興奮していた。要するに、相手が子供であるから、決して興奮してはいけないと人間が主張しても、神の創った人体はそうそう簡単にその主張通りに出来ないものだ。とはいえ、俺は美咲ちゃんを守ることがすべてだ。この興奮にしても、美咲ちゃんを守るためのものなのだ。だから、おsれを罪に置換する必要はない。

 ここは閉鎖されている。誰も来ないし、誰も邪魔は出来ない。ここですべてが完結する。だから、これが外部に齎す影響は皆無だった。

「内緒だよ。絶対に」と俺は一言言って、美咲ちゃんの返事を待たず、左手を引き寄せた。だが、恐らく、俺の顔もわずかに近づけたから、予想していたより早く重なったものと思われる。接着と同時に放たれるものもあった。すべての感覚が反応するわけだ。それがすべて第一の興奮により始まった、わずかな面積の接着というものが伝える興奮に最も敏感な状態になっている。

 俺たちはなかなかはなれなかったのだが、長時間重なっているうちにほとんど一体化したようになって、自分のものか相手のものかそういう判別も難しくなる。とはいえ、まだ唇は一切動かしていない状態だ。鼻で大きく息をすると、新しい刺激が出現する。この匂いは筆舌に尽くしがたい。何かに近いものを探すと石鹸などそういうものに属するはずだが、人工的なものとは比べ物にならない自然的なものを含んでいる。

 一旦解くと、俺はもう美咲ちゃんを一人の異性として捉えざるを得なくなっていた。要するに、ロリコンでないと、性的興奮などは感じないとか、そんなものは作り話の中でしか通用しない。実際は、ほぼ完成形に近い女性を見れば、その興奮は感じる。問題は人間の配下ではそれが罪になることだ。たとえ、それを拒んで、少女が一人、この世から消えても、俺は『罪』が与えられない。だが、少女を助けるために接吻をしたということが知れれば、俺は『罪』を受ける。これが人間なのだ。こんなものなのだ。人間は。文系はこれが限度なのだ。そして恐ろしく、汚く、醜い。こんなものを俺は信仰していたのか。一時期でもこのようなものを信仰していた俺は、もうそれだけで、自分を見失いそうになる。この醜いものが世界で一番大切な少女の命さえも奪う可能性を持っていたのか。俺にとって、そのようなことは許すことの出来るものではなかった。

 俺は美咲ちゃんのもとにもう一度唇を持っていったが、今度の接触で、外部から内部へとその接触が移行していた。不思議なことだが、このような行為において、物理的、化学的に変化することは、単純な物質の交換でしかないのだ。たった一つの交換。それは両方にとって、決して、不利益なものではないはずだ。だが、それを完全に抑圧してしまう人間に俺は一段と恐ろしさを感じた。魔女狩りと変わらないこの抑圧は、人間の配下が、ある一個人の都合で決定されているような気がしてならない。

 この接触で、美咲ちゃんは俺を求めようとして、その舌を伸ばしたのだろうが、例えば、その接触が第一の接触より罪を広げるものであるなら、人間は接触そのものではなく、その物質の交換量に罪の深さをおいたことになる。

 この接触が悪質だとするなら、俺はその論理が聞きたかった。この接触で、俺は美咲ちゃんから何かを感じ取っていた。それは幸せと呼ぶものなのかもしれない。自殺を繰り返していた頃の美咲ちゃんが得ることの出来なかったものなのかもしれない。それを悪質として、幸せを粉々に打ち砕いてしまうのか。それが文系なのか。もう、俺は恐ろしさでめまいを覚えるほどだった。

 第二の接触は第三の刺激を齎していたが、それは耳が感じるもので、その刺激ですら、物理的な音波の性質を考慮すれば、大げさなことではないのだ。理系でものを考えると、いかに人間が他の生物はもちろん、その辺の石ころと『平等』であるかが分かる。人間が石より、蚊よりも身分が高いとしたのは、あくまで『文系』だった。

 キスというものは運動なのだ。力学で説明がつけられる。それを文系は改竄を試み、力学で解決させないレベルに持っていった。自然から人工に切り替えてしまったのだ。

 美咲ちゃんとの接吻は十分を超えるものだった。行われた行為は物質の交換であり、唾液や口内細菌などが交換されたのだろう。質量に換算して、無視できない量にあたるだろう。コップ一杯の水を超える量かもしれない。それを文系の学問が入り込み、最終的に行為は人間的に禁忌にあたることになる。つまり、もし、文系が神の配下にあれば、絶対的法則を超えてしまったことになる。それほど、大きな行為だったわけだが、その禁忌の中で美咲ちゃんは確かに笑ってくれた。抱きしめたときに、「一生忘れない」と美咲ちゃんはつぶやいた。俺は確かに救えた気がしたのだ。たった一人の少女かもしれない。それにそれはその少女のわずかな間だけかもしれない。寿命が縮まっても、警察に捕まっても、それでも、美咲ちゃんを確かに俺は救うことが出来た。明日になれば、その救いは意味を成さなくなるかもしれない。それでも、俺は今までの人生の中で最も重要な働きをした。文系の抑圧があった。そこで、俺は負けていれば、美咲ちゃんにこの幸せを与えることは出来なかった。俺はたった一人の少女にこの幸せを渡すために、数年も前から、文系を否定し、神の配下に移行し、そして、文系の作り出した人間の配下で、苦痛を受け、生きることにも絶望していた少女に幸せを与えるという事実を成し遂げた。誰にも出来なかったことなのだ。俺は多くを考え、思考してきた。そして、誰もが出来なかった美咲ちゃんを救うことを、俺は成功させた。

 俺は美咲ちゃんの親に出来なくなっている愛情を注ぐという役目を担わなければならない。帰り道の美咲ちゃんはいつもと確かに違っていた。気持ちも表情も確実に晴れ渡っていた。出会ったときの美咲ちゃんは本当に辛そうだった。

 それから、俺は確かに美咲ちゃんをいい方向に導くことが出来たと思っていた。思っていたのだが……神は俺を罪深き人間と見たのかもしれない。そうだ。人間ではない。神が明確に俺たちに牙を向いてきた。神の牙は人間のそれとは比べ物にならないほど、徹底的で執拗で、決して逃げることの出来ないものだった。

パンダさんも好き。でも猫さんのほうがもっと好き……。

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