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A3

日本一まで、あと6286話!!

   一


 なぜ人を殺してはいけないのか? この問に対する答えに精神論を持ち込んでいる限りは、凶悪犯罪は収まらない。また、車や電車など死に関係するすべてを廃止しないと殺人は収まらない。

 それはやや哲学要素を含みながらだが、論理的に説明することが出来る。

 俺は今、部屋でボーっとしているのだが、殺人事件はまったく減らない。人の憎悪がある限り殺人はなくならない。殺人を無くすには憎悪の量を偏差値で表し、高い位置づけにいるものを治療することだが、それがなかなか出来ない。

 理由は馬鹿が99パーセントだからだ。これを覆すことが、犯罪を消滅させるための方法だ。凶悪犯罪をするのは天才か馬鹿と天才の間にいるものたちだ。多くは理由がある。金のため、憎悪を消滅させるため、などなど。頭の悪いものが、ゲームの影響を受けてというが、そんなものはない。人を殺したり、重罪を犯すのには、ゲームなど微々たる影響しかない。多くは欲と憎悪からくるものだ。欲があっても、憎悪がなければ犯罪にはならない。憎悪がすべてである。

 これに気付かない頭の悪いものは規制を連呼する。けれど、車だとか電車だとか、殺人兵器は便利だからと決して、規制しない。

 社会に与える打撃を考慮すれば、車を規制するなど無理だが、事実として、昔は車がなくとも、それなりに生活していたのだ。要するに環境が問題なわけだ。

 社会のために殺人兵器を規制しないから、重罪は消えない。もし、明日から、すべての殺人兵器を規制すれば、PCも携帯電話もすべてなくなる。

 すべてが消えた後、人々はそれらを復活させようと、大きな運動を起こす。死者が出るほどになるだろう。

 分かるとおり、規制は解決に繋がらない。そこで、いかにして、憎悪を駆逐するかが鍵ということになる。

 神を目指す俺は人間の生死など興味はない。俺は人とあまり関わらず、生きていくことに決めている。だから、俺は人を傷つけたりはしない。殺人とかとは無縁だ。神が人間程度にそんな労力を費やしたりはしないのだ。

 そんな奴ばかりなら、殺人など起きない。それから、憎悪と言ったが、あるステータスが低いうちは決して、殺人など犯さない。憎悪だけでは人は殺人を犯さない。

 あるステータスとは劣等感である。劣等感とはプライドによって、基準値が変わってくる厄介な代物だ。憎悪が高くても、劣等感が低いと、自らの地位を上げて、憎悪を晴らそうとするから、人に危害を加えない。劣等感はプライド修正を受ける。プライドが高いほど、危険ラインが低くなってくる。プライドが100だと、ラインが50だが、プライドが200だとラインが25といった感じだ。

 劣等感だけでは殺人はない。憎悪だけでもない。劣等感と憎悪が共にラインを超えてきたとき、人は狂気を得る。

 だから、憎悪だけなら、「活力」となって、集中力が増す。憎悪は役に立つ場合が多い。だが、これに劣等感が付くと、狂気がついてくる。劣等感がないと、自らの出世で解決しようとするのが、劣等感が募ると、「俺にはそんな力はない。だったら」となるわけだ。憎悪だけなら、活力なのだから、劣等感をいかに抱かせないかが問題になる。劣等感を溜める言葉を列挙すると、

「お前には才能がないんだよ」「頑張ったって無理だ」「お前はこれが限界だ」と言った言葉だ。何かをあきらめることは大切だ。しかし、憎悪の強いものに、このような言葉を連呼すると、一辺に劣等感が上がって、狂気を覚える。

 信じられないことに、教育機関で、当たり前に使われているらしい。憎悪が低い人にだったら、言っても、構わない。だが、プライドが高く、憎悪が強いものは、その些細な言葉が一気に狂気を作り上げることになってしまう。

 ニートは憎悪も劣等感も溜まりやすい。それにプライドも高い。だが、引きこもりのステータスが行動を抑制している場合がある。そういう場合、精神病になる可能性が高い。

 ちなみに、これらは厳正に論理的ではない。ただ、これらの多くは当たっていると思う。人の劣等感なんて見分けがつかない。

「お前には才能がないんだよ」「頑張ったって無理だ」「お前はこれが限界だ」などと頭の悪い発言を軽い気持ちで言っている限りは、劣等感は溜まる一方だ。

「お前に才能があるかないかは知ることが出来ない。やるかやらないかはお前次第。ただし、リスクがあるのは事実だ。決して後悔しないようによく考えたまえ」「頑張ったって無理な奴はいる。だが、やり方次第では可能性はある。問題は無理だったときの答えを受け止めることが出来るかどうかだ」「お前はこれが限界だが、限界はいくらでも上げることは出来る。どうするんだ?」言い方次第では、何とかなる。論理的であるかどうかが重要なのだ。馬鹿が相手なら、精神論でもやっとけばいいが、頭が少しいいと、精神論など、何の意味もない。


   二


 道徳が備わっていれば、ニートにならないわけではない。というのは、道徳を思考すると、答えがないからだ。ニートを肯定する道徳を考えることも出来るし、否定の道徳もある。だから、まず、道徳に数学的定義を与えることが必要不可欠だ。人間の配下としての道徳を絶対的に作り上げる。これが出来ていないから、法律を無視して、事件を起こすものが増える。だが、頭のいい者には不可能だ。なぜなら、頭のいい者は道徳が絶対的でないことに気付くからだ。だが、道徳で憎悪や劣等感はコントロールできないから、やはり周囲の環境がすべてを決めることになる。馬鹿に絶対的道徳を与えて、やや頭のいいものにちょっかいを出さないようになれば、劣等感も憎悪も減らすことは出来る。

 だが、絶対的でない道徳を数学的に定義することは不可能に近い。だが、出来ることはある。それが定理公式を覚えさせることだ。

本を次のように書くわけである。

『乞食がいる場合、あなたの持ち金をXとして、X/10000を乞食に与える。ただし、金銭はすべて切り上げる。また、正確な金額を払えないのなら、支払うことが出来、支払い金額に最も近い自然数だけを支払う。(1−1)

いじめの行為を行ったものはその保護者が、罰金360万円〜720万円を国に支払い、選挙権を剥奪される。いじめの該当者が大きな障害を得た場合は1500万円〜3000万円を国に支払い、自殺の場合は、さらに懲役18年から36年に処される。(1−2)

万引きは見つかり次第、その保護者が罰金75万円〜150万円を国に支払う。(1−3)

器物破損は破損費用の6倍を国に支払う。(1−4)』

 こうすれば、明確である。現在では、いじめをしても注意で終わるし、ばれないから、いくらでもいじめが起こる。未成年が相手でも、数学的に決めておかなければならない。


   三


 これに関係することなのだけれども、犯罪に起因するとして、何かを規制する頭の悪いものが非常に多い。論理と理論の観点から考える。例えば、殺人は憎悪と劣等感が共に、ラインを超えたときに起こりうるもので、何かのゲームなどの影響はほとんどない。あったとしても、もはや狂気を持っている人物であり、それらはゲームの影響がなくても殺人を犯していた。要するに、架空のものがいかに影響力が弱いかを考えることだ。とはいえ、これらは理論の観点からは絶対に評価できない。論理のしかも不十分なもので判断するほかない。

 だいたい、犯罪というのは現実に向けられる憎悪や劣等感がだいたいを占めている。もし、占めていないとすると、二次元の創作物はしているが、現実にはほとんど関わっていない人と、二次元の創作物はしていないが、現実に関わっている人との犯罪件数を比較して、後者が少ないはずである。また、時代と共に、創作物は進歩したが、それ以外のものも進歩した。だから、それ以外の進歩が影響を及ぼしている可能性のほうが高いといえる。故に、規制は別の影響が強い場合を考慮出来ていないため、頭の悪い方法である。

 性犯罪の増加からポルノ法を改善するらしい。性犯罪の増加が、創作物の進歩だけではなく、女性の魅力の進歩とか、ファッションの進歩とか、そういったものを考慮せず、二つの場合分けをしないで、創作物進歩だけに原因があるとするのは、解答として不十分である。不十分なものを正当だという政治は頭の悪い政治である。そしてそれを支持するものも頭が悪い。

 現在の社会は馬鹿と天才で構成されているので、馬鹿が勝って仕方がないが、論理的におかしいものを許しておくいい加減な政治はこの問題に関わらず、他の犯罪増加にも繋がる可能性があるし、色々な点で不安が大きくなる。

 創作物でワニに襲われるシーンを見ても怖くはない。実体験して初めて、恐怖がわかる。故に、創作物より、現実の体験に影響力が強いのは明らかである。。


   四


 俺の思想のおかしさはよく分かったと思う。このような思想を持っているがために、俺は社会不適合者なのだ。普通の人はやや頭が悪いから、何かに完全な論理を当てはめようとしない。深くは考えないし、特異な考えはもたない。

 俺と会話をすると疲れるというのが、家の者の評価だ。だが、俺はやや頭のいいものとはつじつまが合う。俺のIQは平均よりかなり高いので、低いものとは会話が出来ない。合わせるつもりもない。神の配下に身を置いている俺は人間の配下にいるものに合わせたりはしない。会話でつじつまが合わないということは話の次元が違うということ。

 だいたいの人はある情報に対して、分析という手段を取らない。分析をせずに、会話を始めるから、

「昨日、ドラマ見た?」「見た見た」「悲しかったよね」「チョー泣いた」という会話が普通に出来るし、会話が進む。俺の場合は、第一文で終わる。

「昨日、ドラマ見た?」「昨日だけで、複数のドラマがやっている。どのドラマか明確に示してくれなければ、その質問に答えることが出来ない」

 ここで、大抵、終わってしまうだろう。たかだか、世間話に、どんだけ突っ込んでいるのだと言われる。だが、もう癖になってしまった。そんな俺が人間の配下で生きるのはもう不可能なのだ。流れを汲み取れないということで、KYなどと言われることもある。

 ニートの多くは、同じく会話のつじつまを合わせることが出来なかったものだ。言えば、被害者である。それなのに、罵られる側に立つのだ。被害の上に被害では、もはや精神をおかしくしてしまっても仕方が無い。それに気付く労働者などいない。馬鹿は何かを気付くことが出来ない。

 格差が激しいと、やはり仲間を探すのも難しいし、環境についていけないものが多数出てくる。これらを改善しないと、ニートは減らない。そして、思想を完成に近づけた者は、何をしてもニートを脱出しない。脱出する気もないだろう。


   五


 俺は自殺を考えたことがあった。今は自殺をしようとも思わない。俺はまず死を考えるに当たって、生物を極めた。やはりまずは科学である。科学の段階から死を思考する。だが、現時点の生物学では、死の定義が生命活動を行っていないことであり、そこに物理学を当てはめても、やはり理解出来るものではなかった。死後の世界があるか否か。それは分からない。というのは、生が思考・想像を支えているのであって、死によって、その機能を奪うのであれば、精神世界は消滅することになる。ところが、概念として、精神世界は確実に存在する。ということは生死に関わらず、精神世界は存在する。存在するということは、それを再思考出来るということである。

 生死はあくまで、相対的、つまり自ら見て、生であるから、生のものが見え、死体、つまり死を見ることが出来るのである。死の観点に立てば、死や生の見方がまったくことなるものになる可能性がある。幽霊は実在するが、それらが生死といかに密接かが重要だ。だが、やはり、死の後、肉体は確実に生の世界に残っている。問題は、人間が肉体だけで成り立ているか、精神を切り離しているかであるが、肉体だけであるなら、死の後、脳から、情報を取り出すことが可能であり、死体を生き返らせることも不可能ではない。なぜなら、死はあくまで、機能の停止であるから、機能を復活させることが出来れば、再び動き出すはずである。だが、実際は、死を生に切り替えることに成功出来ていない。(死から帰ってきた人はいるが、明確な死体から生に戻ったものはたぶんいない。オカルトは除いてであるが)

 これは物理学的にどういうかはわからないが、死と同時に精神が切り離されることを意味しているのではないだろうか。精神は不可視で、実は幽霊のことなのかもしれない。だが、精神を思考するというのは、いかにもファンタジーである。

 精神が切り離された場合、その精神は死後の世界の自分となるわけだ。だが、肉体が無い限り、思考出来るかは疑問である。意志はあるが、記憶出来ない状態かもしれない。とはいえ、死は死んでみなければ分からない。単に機能の停止というのであれば、復活というのが可能であることを意味し、精神が切り離されるとすれば、復活は不可能である。そして、後者の場合、精神は死後の世界の自分ということになる。肉体が切り離されて、精神はどうなるのか。それはやはり逝ってみなければ分からない。

 死は、俺にとってはひとつの楽しみであるが、恐怖でもある。ワクワクはしても、やはり生を実感できる限りは実感していたいと思う。死は怖い。それに生にも重要なものが溢れているから、すべてを手に入れるまでは死にたくない。機能の停止であるなら、けっこう救われる。なぜなら、それでその人は永久欠番だからだ。だが、しかし、アイデンティティがあるように、精神は区別できるものであり、肉体とは別であると思う。

どうして、自分の肉体を自分が動かせるのか。どうして、相手の体を動かせないのか。精神が存在して、それが自らの肉体に宿っているからではないか。これらはいずれ科学が解き明かすかもしれないが、肉体を選択的に分別しているところを見ると、肉体以外に何らかの作用があるのは言うまでも無い。自分を失うということは、分別から自らの肉体すら失うことである。ということは、精神の存在率は高い。

自殺とは自らの意志で肉体を捨てることだ。そして、精神があるときとないときを場合分けすると、あるときは、死の世界となり、精神が自分になる。何となく神秘的である。

理論的に言って、供養とか、自殺は成仏できないとかはおかしい。どんな死を遂げても、肉体が機能を失う点では同じだ。それに死体は機能を失ったもので、精神すら、もはや存在しない。それを焼いたからいいというのはおかしなことである。それに自殺ならダメだというシステムは少なくとも、科学の点からはおかしい。

 自殺であろうと、何であろうと、肉体を失うのは同じ。それならば、人や病魔に殺されるぐらいなら、自らの意志(精神が決めたこと)で死んだほうがいいと言う者もけっこういる。ちょっと、論理から背を向けた話になるが、

「自らの精神によって死を遂げた場合と、精神が拒絶を以って、死を告げた場合、精神に意志があるとすれば、前者は肉体から抜け出したいと考えるはずだ。そして、後者は抜け出したいと考えるはずだ。すると、後者の死は精神が肉体に残ろうとするのではないだろうか。逆に前者は肉体から離れたいと思うのではないか」

 ファンタジーな話だが、死が機能の停止ではなく、精神の分離であるとすれば、これらは面白い題材でもある。

 俺は死について色々と考えた。死は怖い。それは俺も同じだ。そのうえで、

「あくまで死が肉体の機能の停止の意味だけでなく、精神の分離の意味があるとして、自殺かそれ以外の死かで精神の行方が決まる」

 と考えた。自殺のとき、死に何かを求めていくわけである。つまり、精神が生より死を望んだ死だ。この場合、死に「生まれ変わりたい」と願いを託した場合、精神は自分の理想的な肉体に宿ろうと考えるかもしれない。とはいえ、生きた人間には宿れない。精神は肉体を選択的に決めている。ということは、まだ精神を持っていない、例えば、膣の中で生まれた新しい命に宿るかもしれない。だが、精神には意志はあっても、記憶力も情報もないから、以前の世界にのことは知らない。そして、精神が宿った命が新しい自分になり、自らのアイデンティティとなる。その場合、命は連続的である。

 逆に、自殺でないとき、自分はもっと生きたいと思うはずだ。死んでからは情報がないから思考できない。ただ、生きたいと思う意志だけが残り、もしかしたら、機能を失った肉体にずっと居座るのではないか。そして、人に宿るということを忘れはしないか。しかし、これはまずない。というのは、生まれてくる赤ん坊の数に、生まれ変わりたいと思う人の死が綺麗に数字が合っていなければならないが、そんなことはないだろう。やはり精神は選択的に、自動的に肉体に宿ると考えるのが自然だ。

 このようなことも考慮して、俺が下したひとつの考えは、

「どのような死に関わらず、精神は選択的、自動的に肉体に宿り、生命が連続する」

 というものである。つまり、自殺だろうが、他の死だろうが、同じ赤ん坊になる。どうせ同じなら、生が長いほうがいいに決まっている。死に急ぐ必要はないということになる。

 ここで、やはり考えるのが、精神に情報を持たせて、自由に操作出来ないかというものである。つまり、生きている間に何らかの仕掛けを施して、死んだときに精神をうまく操る。そうすれば、精神のままの自分を感じることが出来るかもしれない。そして、そういうものが幽霊なのかもしれない。

 話がファンタジーっぽくなってしまったが、精神が存在する限り、否定できないことである。


   六


 自殺するかしないか、これは精神状態で決定されるものである。死の恐怖を打ち破る劣等感ないし、怒り・悲しみは恐るべきものだと思う。

 自殺せずに生きていくためには、死を易化して、いつでも死ねるから、もう一度だけ頑張ってみようと考える(劣等感を抑えることに同義)か、自殺に対して、圧倒的恐怖を植えつけるかの二点である。他にもあるだろうが、とりあえず二つだ。

 前者の場合だと、劣等感が抑えられて、活力が上がってくるが、そう思えるまでが難しい。完全自殺マニュアルを手に入れるか、新しい自殺の方法を考えるかする必要がある。後者の場合、未遂で終わればいいわけだが、これは精神を破壊する行為でもあるので、やはり前者のほうがいい。自殺は楽であるとして、自殺をする前に、頑張るというのが基本になる。これが最も重要だ。これは繰り返し使える。例えば、自殺は楽だからと、頑張った場合、かなりの挫折にも耐えられる。

 とは言え、自殺を考えるほど、思考力が高いものはそういないだろう。自殺を考えるには思考力がいる。または劣等感が恐るべき数字に達するか、精神病か。悲しみか。怒りで自殺はまずないだろう。

 自殺に思考力がいるというのは、死に対して、思考しなければ、自殺を試みようとは思わない。だが、自殺を思考対象に上げるためには、死に絶対的論理を持たないことを見抜いている必要がある。馬鹿は自殺はダメだと絶対的な大人の主張に素直に従っているから、思考しない。だから、思考力がいるのだが、死を考えると、一度、死にたくなくなる。つまり、1度目の自殺願望はその恐怖であっという間になくなる。怖いのが二回目以降だ。それからは恐怖のフィルターを抜けてくる。

 俺は自殺を否定しないが、可能な限り躊躇するべきだと思っている。まあ、これは死に関わらず、精神への作用は同じという考えに基づいているからであって、それが、正しいかどうかは分からない。最終的には各人の判断に任されるだろう。


   七


 自殺願望が圧倒的レベルまで上がってきたら、まず冷静になって、高い思考力を発揮するべきだ。ニートだと、しょっちゅう、高いレベルまで上がってくるから、そのたびに、死を否定する論拠を用意して、防ぎ留めたい。また、辛さを感じたときは自殺願望が上がりやすい。このときは論理的な思考を心がけて、辛さを噛み砕くほうがいい。

 例えば、親と喧嘩したとき、

「まず程度のレベルではこちらが上である。そして、程度の差による軋轢は普遍的に起こりうるものである。この喧嘩は必然的に起こるものであった」とでも考えて、辛さを感情のレベルで感じないことだ。

 だが、真の辛さには論理的破綻がほとんどない。辛さを紛らわせる論理を得るためには恐るべき、思考力と思い込みの力が必要になる。

 俺はこういった場合に備えるフリーソフトをダウンロードしておく必要があると思う。抽象的な言い回しだが、フリーソフトというのは能力のことで、ダウンロードは身に付けることだ。

 フリーソフトは何も教養などだけではない。例えば、憎悪を純粋な活力に変えるフリーソフト、劣等感を緩和させるフリーソフト、辛さを半減させるフリーソフト。こういったものもすべて能力だ。これらは一朝一夕では身に付かない。日ごろから思考し、想像し、徐々に身についていくものだし、狙って身に付けるものではない。

 俺は憎悪を活力に変えるフリーソフトのダウンロードに成功した。とはいえ、精度は高くない。いつでも出来ないし、出来ても、一回あたり、1パーセントを活力に変えられる程度だ。だが、高度なソフトなら、例えば、不幸を幸せに切り替えることも出来るかもしれない。能天気な人間はこういうソフトを持っている可能性がある。だが、性格は変えられない。性格とは、俺が考えるに、他人が決めるものだと思っている。自分にとっての性格というものはいい数字が出る。小説も同じだ。自らの感性で最も良きものが自分の作品で、他の作品を凌駕している。性格も自らから見ると、いい評価が出る。だが、性格とは他人と接して初めて、効果が出る。だから、他人から見て、初めて、性格の良し割るしが意味を持つ。だが、これは例外もある。それが、自らの内部に存在する憎悪や劣等感の見方である。ここでは性格が自らに適応される。ここでは自らの性格を良きものとして捕らえておくと、憎悪や劣等感を抑えることが出来る。性格によって、手に入るフリーソフトは種類が違う。自分特有の性格から、特有のソフトを作ってしまいたい。

 ソフトは馬鹿にはなかなか作れないし、馬鹿は作る必要はない。馬鹿は資格を取って、それをソフトにすればいい。

 ソフトをダウンロードするには思考力が必要だ。

「いかに胸に秘めたる憎悪を発散させるか。自分で自分を励ますにはどうすればいいか」

 難しい内容に答えを与えなければならない。しかし、これらは自らに暗示するものであり、客観的論理とは違う。あくまで主観的論理。自らに対してのみ、筋道が通っていればいい。それだけで、憎悪を駆逐することは可能だ。ただ、プライドが高いと、自らを暗示させることが難しくなる。高度なソフトが必要になり、ソフトをダウンロードするまでは憎悪と劣等感に耐えなければならない。ちなみにプライドは意図的に下げられない。

 プライドは、決して、悪いものではない。低いと馬鹿のまま抜け出せない。(社会では十分生きていけるが)ただ、高すぎると、上昇志向は強くなるが、憎悪も劣等感も高くなりすぎる。それは危険なことである。


   八


 俺が高校のとき、俺はよく周囲を観察していた。人間の特性を見出すためには、ありのままを観察することが重要だが、俺はありのままをはっきりと観察することが出来た。

 人間の性質は型にはめられないが、かなり強引に分類出来ると思う。俺が一年生のときは、ずっと椅子に座って、会話を聞き、友人関係を見て、独りで楽しんでいた。分かったことがたくさんある。例えば、四人グループだと、例外なく、一人はただの数合わせで、他の三人から、明らかに浮いているし、八人グループになると、リーダーが存在するようになっているし、二人のところは、中睦まじく話をしている。なお、三人のところは、うまく言っているところと、明らかに浮いている人がいるところに分かれた。

 俺が思うに、理想的なのはやはり二人グループか、調和の取れた三人グループだと思う。ちなみにアニメを見ていても、二人だと、調和しているが、三人だと調和が取りにくくなり、四人になると、必ず、一人、二人浮く。これは現実でも同じだ。

 二人グループは四つほどあった。他のクラスからやってきて、仲良くしていた女子グループがいたのだが、その人たちは調和が取れていた。ある日、その他のクラスの人が欠席したときがあった。そのとき、その人はある3人組に入っていった。だが、その人は3人からは明らかに浮いていた。そして、そのクラスの人が戻ると、もとの二人に戻った。

 つまり、対象の女子は仲が良かったのは、他のクラスの女子であって、他の生徒とは調和できなかった。だが、その二人は仲がよく、ある日、どんな会話をしているのか、聞きたくなった。いきなり聞く勇気などない。俺は昼休みのとき、黒板消し係りだったので、黒板を消したのだが、そのときに会話を少しだけ聞いた。すると、

「飼っていた犬がトカゲの死体に噛み付いていた」というようなことが聞こえてきて、「犬って肉食動物だっけ?」と聞き返していた。噴出しそうになった。俺はもっとすごいことを話していると予想していた。俺でも付いていけそうな話題だったので、

「そうか、別に特別な会話をしているわけではないのか」と納得して、少しだけ、その二人に興味を持ったが、結局、一度も話すことはなかった。その二人のルックスはたぶん、普通ぐらいだ。

 三人グループの女子は大きな声で笑う女子がいるところで、そこは調和が取れた三人グループだった。何というか、全員が話題についていっていたようだったし、携帯電話をいじりまくっていた。

 雰囲気的にも、俺の苦手なタイプなので、特別興味はもたなかった。

 そういえば、ある二人グループの女子の一人は容姿が優れていて、雑誌のモデルなどを遥か凌駕するものだった。その二人の会話はうまく聞き取れなかったが、けっこう真面目な生徒で、好感が持てた。話は一度もしなかったが。

 八人グループはクラスの代表的グループだった。男のグループだ。そこでは、代表的なイケメンが引っ張っている集団だった。よく女子が入り込んでいた。紙飛行機を作って飛ばしたりしていたが、俺を馬鹿にする連中が数名いたから、興味は持たなかった。

 四人グループというと、2年生のときに面白いグループがいた。そのうち三人は仲がいいのだが、一人がひどく浮いている。俺は一人だったが、あれは一人以上に悲しい感じだった。ちなみにその人、別のクラスに仲のいい人がいたらしく、二学期以降は別のクラスに移動するようになり、四人グループは三人グループになって、問題なく、調和するようになっていた。2年生のときは、女子にいい生徒はいなかった。誰もが、いかにも自分の嫌いなタイプだった。

 三年生のときは、昼食を外で食べるようにした(雨の日も雪の日も)から、食事風景はわからないが、すごく好感のもてる女子が二人いた。会話も何度かした。恐らく絶滅に近いタイプの女子だと思う。本来、女子というのは付き合いにくいものだ。孤独な男子生徒と会話をする女子など、いるはずがない。ゲームの世界ではそれが普通なのだが……。要するに、ゲームのようにはことが運ばないのだが、その二人は実に大人しくて、話し方も女の子っぽくて、丁寧で、他の女子とは桁が違う。

 再現してみると、これは数学の自主学習のときなのだが……。

 自習で、教室が騒がしくなっていた。遊びまわる生徒もたくさんいて、教師が怒鳴りにきたほどだった。俺は黙々とプリントを進めていた。対数関数の分野だった。詳しく覚えている。対数関数を平行移動させる問題と2次関数に置きかえる問題だった。けっこう簡単だったが、最後の問題が難しめだった。例の女子二人組は向かい合って、プリントをしているのだが、分からなくなったらしく、誰かに訊こうとした。だが、その二人は明らかに他の女子と種族が違う。だから、女子に訊けそうな人がいなかった。異性となると、それだけで、聞きづらい。だが、なぜか、俺のところに二人はやってきて、

「一緒にしませんか?」と訊いてきた。俺は別の人に言ったものかと思っていたが、どうも俺の様子だった。俺は「いいよ」とはっきりしない声で言ったような気がする。

 二人は椅子を持ってきて、なぜか、俺の机にやってきた。なぜ、俺なのか理解できなかったが、周囲の男子は全員、騒いでいた。静かな俺のところに来たとすると、納得できるのだが、今時、こんな女子が生き残っていることに感心した。

 まず、平行移動する際の変形について尋ねられたのだが、俺はどもってしまって、うまく答えることが出来なかった。だが、少女二人は解答を埋めていった。最後の難しい問題は整数問題っぽい奴(常用対数を使う問題だった。)だったので、けっこうてこずっていた。だが、マスターオブ整数で勉強していた俺は、数学にけっこう強く、その問題を解いていたんだ。

「私、数学全然出来ないんだよ」と可愛い声で言ってくるものだから、

「女の子だから……」仕方ないとまでつなげることが出来ず、終わっていると、

「でも、女の子はお料理とか得意なんだよ」とまた可愛い声で言われた。どもっていなかったら、意外と会話が続いたかもしれないが、緊張とどもりが重なって、これで終了した。もはや、これが三次元に対して、会話出来る俺の限度だった。ちなみに、この年代を終えると、もう女の子と会話をすることはなかった。これからももうないだろうから、大切にしておこう。

 高校生活と言うと、特によかった思い出は見当たらないが、何となく、一番重要な時期だったと思う。この高校生活があったからこそ、今がある。感謝している。


   九


 六月に入ったときだった。ちょうど、ニートになって、三年が経過した。三年も経つとニートとしての自覚も芽生え、それなりの活動を精力的に行うようになっていた。

 当時、インターネットサービスに不登校や引きこもりの人々を対象にしたものがあった。その場所は精神科医の先生が作ったものらしく、プロフィールが載っていた。E先生というのだが、大阪医科大学を卒業して、それ以来、二十年以上も精神科医をされていた。カウンセリングの教室も受け持っておられ、講演会もすでに各地で四回もされている。

 この場所の掲示板で、俺は数ヶ月も前から書き込みをしている。俺のやっていたことは人に勇気の出る言葉を送ったりといった、人を立ち直らせるための記述を残すことではなく、専ら、頭の悪い連中に論理的な記述を残すことだった。

 頭の悪い連中がこういった場所に迷い込んでくることは、掲示板利用者のためにならないと思い、二度とやって来ないような記述を残し続けた。忍耐力のあるものはそれでもやってくるのだが。

 一番多いのが、解決策を提示できない発言だ。『お前らは甘えてんだよ』と言うものがけっこう多かった。頭が悪いうちは論理を知らないから、それに対する解決策を提示できず、誰もが知っている問題点をただ示していく。

 それが、一方的で不適切な場合が多いから、俺は論理で返したわけだ。大抵は『問題に対する自らの解決策を書かなければ、問題は未解決のままである』で終わるが、『解決も糞もねえよ。外に出ればいいだけのことだろ』と言ってくるわけだ。『外に出る方法を知らないから引きこもりである。外に出ることは出来ないというのは常人では想像出来ないものであるから、想像力が必要不可欠である。その想像力がなければ、客観的に適切な解を示すことが出来ない。解を見出してから、書き込むのが適切である』などと述べている。

 こういう問題を常人が思考しようと思うと、恐るべき想像力が必要だ。外に出られないとか学校に行けないというのは理解が難しいからだ。外に出たくない、学校に行きたくないであれば、楽に想像は出来るだろうが、それとは全く異質のところにあるのが、外に出られないとか学校に行けないというものである。

 この問題を思考出来る能力を持つ常人は、全人類でも数パーセントに留まるだろう。やはり経験者で、その想像を尋常に扱えるものがその問題に向かわなければならない。

 俺は経験者で、学校に行けない、外に出られない心理を知っているし、その状態から現れる防衛能力や思考、感性なども幅広く知っている。だから、程度の高いアドバイスを与えることが出来る。だが、程度が高いだけにその人物の鋭い調査が必要になる。

 頭が悪いものは、すべての引きこもりを同じ場で統一して考えようとする。頭が悪すぎると、問題をひとまとめにして、解決策を提示していくから、それが当てはまる者以外には効果がないし、策はそれぞれ、●●のとき、といった感じに複雑な場合分けが必要である。状態を鋭く観察しなければならない。これほど難易度の高い問題をたった一通りで解決しようとするなんて、浅はかである。もちろん、たったひとつの言葉で治るものもいる。だが、治らないものが多い。だから『現在はそう言った人が何万人もいる』

 たったひとつの言葉で治るのは思考力の程度が低かったり、後一押しで治る状態にいる場合で、深層部にいるものにはほぼ効果がない。

 六月に入って、俺はアドバイスをする側に回って、色々と解決策を示し始めた。だが、これを直接本人に伝えるよりかは、その本人に最も密接な人間に見て欲しいという要求から、アドバイスはすべて本人でないものが見ることとして書いた。

 それを書き始めて、一ヶ月が経つと、E先生からメールで『興味を持ったから、個人的に話が聞きたい』ということを言われた。『メールであれば、たいていなことに答えることが出来る』と返すと、『メールでも構わない。返事を書ける機会が限られているから、間隔があくかもしれない』『それはこちらも同じだから、問題はない』と返した。それからE先生は俺個人のことを聞いてきた。俺は自分が引きこもりであることを述べた。その後、『僕の教室に来てみないか。特別公演として』と来た。『外に出るのは気が引ける』『無理にとは言わないよ』そういうわけで、E先生が引きこもりや不登校の生徒を対象にした教室で働いていることを知った。聞くと、『不登校の小学生を受け持っている』ということだった。範囲が小学生というところに難しさを覚えた。『苦労していると推測する』と言うと、『なかなか復帰に向かわない』というようなことを言っていた。当然だが、そう言った教室に来るものは、『軽度の不登校』なわけである。重度であれば、その教室にすら行けない。だから、治しやすいとは言える。だが、最後の一歩に頓挫してしまうことは自然なことだ。つまり、幻想と現実の境界は紙一重だが、環境を大きく変えるものだから、越えるのが難しいのだ。

 俺はその教室の生徒のことが知りたかったから、『子供の分析は完全に行き届いているのか』と聞くと、『プライバシーの問題だから、書けないけど、教室に来てくれるのなら、ゆっくり話し合いたいね』ということだった。

 何となく興味は持ったが、やはり外に出るのは極めて難しいことだった。俺はしばらくメールでやり取りをしたのだが、E先生はかなり優秀だと思った。

 観察やその場の咄嗟の判断が特に優秀だと思った。『教室には、いつも浮いた子がいる』というのだが、頭が悪いものは『何とか輪に入れるようにする』という。俺は『その対象の状態によって、複数の場合分けが生じる。輪に対する拒絶の度合いが重要で、極めて高い場合、さらにそこで、その対象のプライドを思考し、場合分けが生じる。場合分けが生じるから対象の観察なくして、解決は不可能。そこで、俺が課題にしているのが、分析が終わるまでの時間をどう処理するか』であった。E先生は『孤立している子が一人の場合、先生を二人用意して、一方の先生を孤立させるのだ』という。なるほどと最初は思ったが、典型的な心理学の規則にあるものだ。仲間がいれば、人間は安心感を得る。忘れ物をしても、忘れ物をした仲間がいると、安心し、忘れた人の数に比例して、安心感が増す。

 これは頭が悪くても、理解できるものであるが、適切な応用は極めて難しいのである。先生を二人にして、一人はずっと隅で座っていてもらうというのだ。その先生はいかなる生徒とも会話をせずにいてもらう。

『その方法で実際、心を開いてくれた子がいた』と言っていた。孤立している生徒が二人だと、『その二人を何とか親しくしたいが、これが難しい』とE先生は言っていた。

 こういったことを話していたのだが、俺がH県に在住していることを話したのがきっかけで、『N市に行くんだ』とE先生が言ってきたので、『自宅の近くであれば、会うことは不可能でないかもしれない。だが、会うと失望させる可能性は高い』と述べた。

『それはこっちのほうかもしれない』と笑いマークが最後についていたので、『失望を前提にしよう』として、会うことになったわけだ。

 俺は正直かなり躊躇っていた。メールで『もしかしたら、行かないかもしれない』と言った。『無理はしなくてもいい』と言うふうに返ってきた。俺は犬を連れて、夕方、川に出かけたのだが、白い車が止まっていて、メール通りだったので、俺は一旦家に帰った。会うことを躊躇うこの意味を疑うものも多いだろう。だが、引きこもりにとって、「よう、来たぜ。酒でも飲んで語り合おうぜ」などと言えるわけがなく、俺は帰ってしまった。

『程度を逸脱するほどの恐怖を感じた』と言うと、『仕方がない』と言って、結局、E先生は帰っていってしまった。

 その後もメールを続けていたが、7月と8月にかけて、インターネットを繋ぐ回線が調子を落とし、電話を切り替えるために使えなくなった。

 10月に入って、初めて、見たのだけれど、たくさんのメールが来ていた。『電話線の不備で、最後にメールをしてから、メールを見ることが出来なかった』と述べると、『納得した』と返ってきた。

 掲示板のほうにはほとんど行っていなかったのだが、そこで解決策を披露しても、多くは無駄に終わるから、俺はしなかった。子供の深層心理を得る必要があるから、徹底的にその対象者と向き合わなければならないからだ。

 俺はE先生が言っていた教室の件について、『興味深いから訪れてみたいが、さすがに遠すぎる』とメールを出した。『N市にもひとつあるんだけどねえ』と残念がっていた。とは言え、行けない場所ではない。ただ、引きこもりが電車に乗るのは難しいことだ。人の視線におけるダメージは極めて高い。

 俺はしばらくメールのやり取りだけにした。『学校の先生が嫌いという子供が多い』とメールが来た。それについて、『思考力や想像力がない先生の場合、無意識に生徒を傷つけることもあるし、平等でも、不平等になってしまう事実を知っていないことが多い』と答えた。『特に厳しすぎる先生は苦手とよく聞く』『厳しいをクラスに対して、絶対的にではなく、相対的に扱えないと、そういう先生は生徒を傷つけてしまう』『この子にはこう、あの子にはこうと言った感じだね』E先生も相対的な考えには積極的で、生徒一人一人にイメージを作っているそうだった。

『ますます興味深いが、外に出ることは出来そうにない』と俺はメールを送るようになっていた。

 俺の築いた論理を使えば、ほとんどの者を社会復帰に導くことは出来るという自信はあるが、俺は社会復帰を目指すために、対象に『矯正』という言い方はしたくない。というのは、俺自身、『矯正』されれば社会復帰は可能だ。俺の場合、『矯正』を意思で拒んだわけだ。だから、『社会復帰のすべは知っているが、それが対象の幸せに結びつくかは疑問である』と思っている。だから、『社会復帰をするときに、普通の子と同じになるように』とはしたくないと思っている。というのは、社会的なことにおいては、不登校の子供<登校している子供が明確に現れるが、本来、人間を不等号で示すのは不可能に近い。不等号をつける場合、必ず、基準が必要で、例えば、テストの得点でA君<B君と言った感じだ。

 頭の悪い教師が多く、教師はいい点を取った子を前に出して、『立派な子だ』というらしい。しかし、それは点数において、『程度が高い』だけであって、『人間としては他者と同じである』これを分けられないことで、不登校になる生徒の中には『褒められない自分は優秀でない』と思うらしい。だが、それは『限られた条件下で優秀でないだけであって、環境が変わると、優秀になる可能性は高い』坂本竜馬の『人間、好きな道によって世界を切り拓いていく』という言葉はこの条件下の自由化に則っている可能性はある。

 そういうわけで、俺は『矯正』によって、社会復帰はしたくない。

『ある条件下で、もとから標準のものと、努力をして標準のものでは、もとから標準のもののほうが有利である』だから、『矯正』はハンディを上乗せするものなのだ。『社会の犬とするなら、矯正は適切だが、それが対象にとって、良いことかはわからない。最終的には対象が思考力を発揮するべき場面を作らなければならない。そして、思考が不可能であれば、受身的な生き方になってしまう』

 考え始めると、『適切な方法』は相対的にその適切な度合いが変わってくる。だから、これらをひとつの物差しで考えるは、『頭の悪いこと』である。

 何かためになることが書いてある本の多くは『絶対的ものさしより、主張している』感じがするものでいっぱいである。売れているものもあるが、『絶対的なものでは考えていると、まるでその読者がそれを絶対的に考えてしまい、思考力そのものを奪うことになる』だがそれが意図的なのかもしれない。『思考力を低くして、社会の絶対的な規則に従い、疑うことなく暮らしていけると、ニートも引きこもりもかなり減るだろうから』

 だから、世に出回っている本は社会的である。だから、それが『駄目な本』であるわけではない。だが、『相対的であり、それらを考慮させる本』を優秀と見る俺の考えに反しているのだ。

 俺は不登校や引きこもりについて書かれた本を多く知っていて、それらはそれでいいものだとは思うが、『相対的なものを絶対的に述べている本』を俺は『頭の悪いものが書いた本』と認識してしまう。そして、そのようなものにとって、そういう本は『不快感を与え、効果がないだけでなく、怒りを覚えることもある』そういう人は少ないとは言えるが。

 俺はE先生に『普通の子と同じになれるように矯正はしたくない』と述べた。E先生にはその意味が分かったらしく、『矯正しても、また転ぶだろうしね。七転八倒を肯定するにはある程度恐怖心を取り除かないといけないと思う。不登校の生徒は嫌でも、次、不登校になれないと思うから。転べない』『その通りだと思う』と返した。

 転んでも立ち上がればいいと頭がやや悪いものはよく言うのだけれど、『立ち上がる活力が、転んだとき、ある基準より下がると立てない。転んでも『立て』が逆効果に現れる状態も存在するから、場合分けによって対処しなければならない』と考えている。思考するときりがないが、何度でも立ち上がれるのは『活力があるもの』あるいは『あと少しの活力で立てるもの』だけで、活力が著しく低い状態では『転んでも立つんだ』と言っても、効果はないどころか、逆に現れることもあるわけだ。せめて、『転んでも立ち上がればいいだけだよ』のほうがいいだろう。

 とはいえ、活力が損なわれたものに必要なのは『治療』であり、『立つ』ことではない。治療というのは『優しさ』なのだが、頭の悪いものが活力の測定もせずに『本当の優しさとは厳しさなのだ。立て、立て』と小学生低学年でも論理的に破綻しているところを見抜ける馬鹿な発言をしまくっている。

 はっきり言って、怖いほど考慮の出来ない教師が多いから『不登校の生徒』『自殺する生徒』などを食い止められない。止めることは至難の業かもしれないが、せめて姿勢を見せて欲しいものだと思う。『教師になってみれば分かる。忙しくて手が回らない』と言うものがいれば、『教師を辞めてホームレスになることを薦める』と返したくなる。大切なものを預かる限り、『常に、真剣に物事を考えなければならない』

 ところで、冬に入る頃、E先生と会うことになるのだが、そのときは、病院側にE先生に訪問を依頼した。病院のサービスのひとつで市内限定だったところを許可してもらえたのだ。

マシュマロを口に入れながら……。

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