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A2

日本一まで、あと、6287話!!

   一


 示したとおり、にきびという悪魔はもはやドラゴン級の悪魔だ。これほど恐ろしいものと俺は出会ってしまったわけだが、一番きついのは周囲の反応なのだ。

 つまり、にきびができていても、周囲が普通なら問題ない。しかし悪人が0,0001パーセントの現実ではそれは願望でしかない。

 それから、頭に出来るにきびは痛恨の一撃だ。コンボ攻撃を仕掛けてくる。にきびができる。それで終わらない。髪の毛を引っこ抜きやがる。さらには後頭部に出来るといたくて眠れない。もはや地獄絵図だ。

 ここまで行くと、もはや人間の風貌としては見られなくなる。つまり、早期対策が必要な悪魔で骨折などよりもたちが悪い。骨折なんて可愛いものだ。

 このにきびのせいですべてを壊されたような気がするが、このにきびに感謝しているところも今となってはある。

 恐らく、ここまで堕落した人間は自分ぐらいだろうと思う。金も時間もすべて持っていかれた観がある。それでも、その代償にくれたものは大きい。痛恨の一撃が精神に打ち込まれる感触というものを知ったような気がする。そして神になれるチャンスも与えてくれた。プライスレス。お金では買えない究極の機会だ。


   二


 だが、俺にとって、にきびは補助的なものでしかない。俺にとって一番大きかったのは、思想のおかしさだ。俺の思想はかなりおかしい。

 だが、俺の思想は神をも凌駕する可能性を持っている。キリストなど俺にとっては通過点に過ぎない。聖書が何千億部も発行される意味が分からない。本当の神は精神世界に眠っているのに、あたかも神を崇拝しようなど、俺の思想からすれば甚だおかしい。もちろん、それは俺の馬鹿げた勘違いであるかもしれない。だが、神が現在の数学的、科学的解釈によって理解できるはずがない。精神世界ではファンタジーそのものが現実になってくる恐ろしき世界だ。この世界にいる神は単なる現実では話にならない。これはもはや超次元のレベルだ。

 俺の目指す神は恐らくだが、精神世界である条件を満たしたときに出現するものだ。その条件は伏せられているので、無限空間に物質を落下させるような確率的な話になる。それは能力に関わらず、すべての人間が均等に持つ確率だと思う。

 俺の思想によれば、まず次のことがいえることになる。

1、人間の配下にいるものは人間の配下にあるものでしか、自らを表現できない。

2、神の配下にいるものは神の配下にあるもの、人間の配下にあるものを用いて、自らを表現することが出来る。

 これを簡略化すると、神を得るための条件は、精神世界つまり妄想より得た事実と、経験つまり現実より得た事実を掛け合わせることによってしか神を表現できないのだ。数学的に、科学的に考えて、どうしてもつじつまの合わないものがあるとすれば、それは神の配下にあるものなのだ。

 俺は神の配下にあるものこそ、すべてだと思っている。人がどう生きるべきかなど、そんなものは必要ない。なぜなら、俺からすれば、神の配下にあるもののうち、神を手に入れることが、人生における目標だからだ。

 どう生きればいいのか? 神を得ればいいのだ。途方もないことだ。1兆円手に入れようとか、宇宙旅行をしようとか、太陽を粉砕しようなんていうちっぽけでくだらないものを夢に持っている暇はない。ましてや地球の低級レベルの夢なの早くから捨てて、神のみを目指せばいいのだ。

 俺は神だけを見ている。程度の低いものは何も求めたくはない。しかし、人間自体、程度が低いから、人間の肉体が生き続けるために、恐るべき妥協をしなければならないのだ。

 それに人間の配下にあるものも必ず、神を得るために必要になってくるはずだ。そうでなければ肉体の存在意義がない。

 俺が小説を書いていることはこの小説が存在する時点で自明なのだが、俺は最初、小説というのを誤解していた。

 俺が小説を読み始めたのは高校生になる頃で、それまでは小説というものを読んでこなかった。活字を目で追うというものが億劫だったからという単純な理由だ。

 しかし、俺が小説にはまったのは、単に面白いと思ったからではない。

 まず、言うと、面白いものなんてない。俺は楽しめない人だ。俺を楽しませることが出来るのは自分だけだ。だが、小説に恐るべきものを見出したのだ。

 これは作家を馬鹿にするものではないと最初に述べておく。これはあくまで、俺が思うものでしかない。

 俺は、ほとんどの作家より作家として格上だと思っている。つまり、俺は書き手としてトップクラスの実力を誇っていると自分で言える。自惚れといわれればそれまでだが、俺の作る作品が、他作家の作る作品より劣っているのであれば、俺はそう思うものを節穴だと思う。ただ、ひとつ言っておくと、俺の初期作品は、俺の思想に反するものもあるから、他作家に負けている場合も多いかもしれない。

 俺の初期作品は全部で27作品だ。これらはいかにも考えて作った作品だ。つまり、数学の答案を作るかのように作った作品だ。俺はそれらの作品を読み返して腹を立てることが多分にある。「なんてことだ、オーマイガー」となる。理由は簡単。俺の思想に忠実でない、俺の魂より生じた作品でない。出来れば消したい。消し去って、俺から切り離したい。だが、神は恐らく読んでしまっている。

 もう引き返せない。俺はこの27作品によって、魂を汚された気分に陥る。読者のものには何とお詫びをすればいいものかと考えてしまう。そして、それがわずかでも残ってしまうことに俺は怒りと憎悪を感じるのだ。

 だが、真の俺が作り出す作品は恐ろしいものである。これらはもう人間の読むべきものではないのだ。

 俺は、夏目漱石にも三島由紀夫にも志賀直哉にも谷川流にも作家として劣っていることは100パーセントないと断言出来るのだが、芥山龍之介と太宰治の二名だけは、どうしても勝てるという絶対的根拠をもてないでいる。

 俺がこの二名を知ったのは、高校生になってからだ。俺は魂より生じる作品というものだけを欲した。精神世界とはすなわち、魂が体験する世界だ。

 ここから湧き上がってくる小説とは、はっきり言って、恐るべきものだ。エンターテインメントなど必要ない。俺は小説を楽しいと思って読んだことなどない。文章がすごいなんて思って読んだことはない。

 俺はただただ、小説より作者の魂を読み取りたかった。俺の勝てないと述べた二名の作品は読むとそれだけで恐怖を感じることすらある。作ったのではなく産まれた作品なのだ。俺の思うに、羞恥心、恐怖心を持ちながら、産まれたものだと思う。その羞恥心には恐るべきものがあると思う。

 俺も同じだ。小説を生み出すことほど恥ずかしいものはない。肉体をさらけ出すような次元とは桁が違う。精神をさらけ出すことほど羞恥なことはない。もう、精神異常者でなければ出来ることではない。そう、それが小説だ。売春というレベルのものではない。これは危険を含むものだ。

 だから小説を書くためにはまず真の小説を書かないようにしなければならない。何が何でも精神をさらけ出さずに作品を書かなければならない。

 だが、俺は真の小説を書かなければ神には決して届かないと思うのだ。だから、俺の27作品はまさに抜け落ちた作品だ。そんなものはいらないのだ。神に捧げるまでもないものだ。

 俺が小説を書き始めたのは神を得るためだ。だが、神をおびき出すためには驚くほどの羞恥と恐怖を超えなければならない。重なる憎悪と日々闘い続けなければならない。

 真の作家はまさにその連続だったに違いない。もはや、精神が破壊されるのを待つばかりの生活に自棄になってしまったに違いない。

 小説を書く場合、書こうと思えば、1日あたり原稿用紙240枚は書ける。俺の初期作品は2日で完成していたものばかりだ。

 だが、書いても書いても神に近づかないのはなぜか。脈絡を意識しすぎたのかもしれない。神のいる精神世界では脈絡のない世界だ。そこで生きているのに、現実というレベルの低いものを投影させすぎた結果、精神世界の道を閉ざしてしまっていたのかもしれない。小説で最も大切なことは、常にありえないことでなければならないことだ。現実から抜け出したひとつの恐怖、または羞恥の塊でなければならない。キャラクターが平気で恥ずかしいことを言ったり、それに対して、真面目に反応する奴がいたり、痛い香具師が平気で意味不明な思想をまともな国民に聞かせて、納得を得たり、それらは要するに願望の固まりでもある。作者の考える願望が小説にて、叶えられているのだ。真の小説を読むと、その作者の必死の嘆きや苦しみ、憎悪すべてを感じることが出来る。それは魂より生じた作品だからだ。これらを得てこそ、初めて、作者と読者はひとつのコミュニケーションを得ることが出来るのだ。そして、このとき初めて、読者は小説より、人生において最も有意義なものを得ることが出来るのだ。

俺の精神世界は、恐らくだが、世界で一番恐ろしい作品群だ。ここまで怖い作品はない。別に幽霊が出たとか、そういう意味ではもちろんない。

 俺の作品は恐ろしい。会話を追うだけでもその恐ろしさが分かる。俺の憎悪や恐怖、嫉妬、憤怒さまざまなものが次々と繰り出されてくるのだ。

 これらはもはや安易に子供に読ませることが出来ない。

 そんな作品群で構成されていく精神世界の存在意義はもちろん、神を追うためだ。だが、俺の作品が行き着く場所は恐らく、恐ろしい場所だ。読者の精神を破壊してしまうかもしれない。子供には絶対に読ませられない。作品が次々に完結していくと、世界がわずかに顔を出す。その世界は恐ろしくて、一目見た瞬間、読者は俺の憎悪や哀しみによって、その精神は支配され、俺の絶対的信者へと成り下がってしまう。だが、その世界を見るためには鍵が必要だ。世界を開く鍵がなければ世界は開かない。そして、その鍵は俺の憎悪や哀しみそのものなのだ。それらを拾い集めたものが見る恐怖のありようは神そのものであり、俺もそのとき初めて、神となる。

 だが、これらは俺の羞恥心、恐怖心が抑制してしまうかもしれない。俺はその作品において、ただの物にしたくない。

 俺の野心は他作家と桁が違う。他作家が金儲けに小説を書くというのなら、俺は読者を俺の信者にして、俺という神を心で信仰し続けるような状態にさせるように作品を書くのだ。つまり、俺は全世界の人間を配下に置くのだ。そんな野心を持つ作家が他にいれば、とことんまで争おうではないか。どちらが多くの信者を手に入れることが出来るか。しかし、読者を跪かせるのは容易なことではないのだ。

 読者も馬鹿ではない。作者が本気になっていないと振り向きもしない。小手先のプロットに頼って、閉鎖的に読者を操り人形のごとく操ろうとしても無駄だ。ここで頭の悪いものは簡単に操られてしまうが、真の読者というものはダメだ。

 真の読者を跪かせるためには、まず作者が馬鹿にならなければならない。読者が読者の意思によって、俺に跪かせるがごとくだ。強制的に跪かせるのは作家としてどうかしている。真の読者を支配するためには本気で読者の精神を支配してしまわなければならない。人の肉体は支配できても、精神は決して支配できない。

 俺の文学はそこから発したのだ。つまり、俺は精神世界そのものを提示することで、信じられない作品群を生み出し、神そのものを構築しようとしたのだ。

 精神世界を提示することほど愚かで恥ずかしいことはない。こんなことは他に出来るものがいたら、ぜひ、その作者の作品をお目にかかりたい。だが、これを実行したとき、作品は単なる文字を飛躍して、パズルのワンピースとなって、神の一部となるのだ。それはもはや娯楽の域ではない。生きる目的そのものだ。つまり、俺の作品そのものが人類の完結になるのだ。全人類は俺のために存在し、俺を認めることで、そのものの人生を完結させることが出来るのだ。まさに、それが神の姿だ。

 俺は神になる。全人類の迷いをすべて取り去って、全人類に安らぎを与える。全人類は俺を信仰することを人生の目的とすればいいのだ。俺を認めることが人生の完結となるということは、それだけ、俺の作品群が桁外れのものでなければならない。つまり、明確に神を捉えていなければならない。そこに難しいものは存在しない。なぜなら、精神世界とはいかなる難しいものも容易なものに置き換えられてしまう理想的な世界だからだ。精神世界が俺のテリトリーとなる。そして、人類の救済者として、俺は神となり、これまで神と名乗っていたものに戦いを挑む。精神世界での戦いだ。俺の精神世界で戦えば、俺の勝ち。相手の精神世界で戦えば、相手の勝ち。そういう単純な戦いになるのだ。


   三


 俺は今、部屋にいる。何をしているのかと言うと、精神世界にいる神に祈りを捧げているのだ。俺が将来、お前を越えて新たな神になると。神をXとすると、X+1は存在しないといったが、それは現実だけ。精神世界ではいかなることも起こりえるのだ。

 俺には深いエピソードがいくつかあるのだが、それらは俺がいかに現実世界で多くの憎悪を得たのかを示すものだ。

 新しいところから見ると、俺は大学時代、一度だけ恋人を得たことがある。それが猫だったことから、人間に対する憎悪がうかがい知れるだろう。

 俺はその猫を永遠に愛し続けるつもりだった。この悲しい話は涙なしには語れない。


 俺が大学に行ったのには何の理由もない。進学校だったから、就職が厳しい。だから適当に大学へ行けということで、受ければ受かる大学に行くことになった。

 俺に友人はいなかったから、一人寂しく入学式に望んだ。サークルに入るつもりも何かをするつもりもなかった。ただ、適当にことが進めばいいと思っていた。

 だが、俺にとって、人間と時間を共に過ごすことは苦痛そのものでしかなかった。大学へ行き続けることが苦痛になりつつあった。友人はもちろんいない。

 そんな俺はいつも独りで昼食を取っていた。パンであったり、プロテインバーであったりはしたが、一日の食費は500円を切っている。

 ボーっと食事を取るのだが、場所は講義の開かれる某号館の後ろで、そこは警備が厳しい場所だった。警備員が何度も通る。

 そんな場所には野良猫が多く生息していた。高校が隣にあって、体育の授業などが見えたりした。景色はいい。近くに山があったし、都会景色も見えた。

 俺は恋人など今まで一度もいたことがなかった。

 ある日のことだ。そこに一匹の白猫が通りかかった。その猫は可愛らしい容姿をしていた。可愛い目を持っているだけでなく、ニャーニャーと可愛い声で鳴く。そして、大人しく非常に家庭的な猫と見えた。俺はパンを齧っていた。

猫は恐る恐る俺のほうへ接近してきた。しかし、途中で止まる。怖がっているのか、なかなか接近してこない。

「これがほしいのか?」

 と聞くと、ニャーと可愛らしく鳴いた。俺と猫はしばらく見つめ合った。猫の潤んだ目を見ていると胸が熱くなった。

 俺はパンを地面に置いてみた。すると、恐る恐るだが、猫がこっちを目指し始めた。そしてパンを捉えて、可愛らしく噛み付き始めた。

 ここで関節的なキスは完了した。そして、半分ほど齧り終わると、鳴きながら、俺のところへ寄ってきてくれた。今まで誰も来てくれなかったのにその猫は来てくれたのだ。お腹をひっくり返して、観察すると、雌だと分かって、さらに俺の関心は高まった。

 俺は猫の頭や首もとを撫でたり、お腹をさすったりして、講義をサボって、遊ぶことにした。猫は俺の膝に乗っかったまま、動かず、くすぐったそうに鳴いていた。講義は90分ごとで、午後に最大で270分の授業があるのだが、さすがにさぼれない講義もあって、俺は途中で猫と別れた。

「また明日な」

 こうして、猫と別れた。次の日も猫は来てくれた。例によって、体をさすって、楽しむのだが、猫はいつまでもそこにいてくれた。いつまでも、俺が底にいる限り、彼女は俺の傍にいてくれたのだ。

 だから、ずっと猫と遊んでいた。最大で夜に十一時までだ。猫は夜に弱いらしく(その猫は例外なのかもしれないが)夜になると、眠そうにする。あくびみたいなこともしていたし、それが可愛らしかった。猫の耳は外側をくすぐると、ぴくぴくと震えた。あまり触られるのは嫌らしく、ニャーニャーと鳴いたので、あまりしてはいない。ひげを引っ張るのはあまり嫌ではないらしい。尻尾はかなり嫌がる。女性で言う性感帯になるのだろうか。よくは分からないが、尻尾を触ろうとすると、けっこう暴れた。

 俺のファーストキスはそれから七日目に訪れることになった。猫はいつも、俺より早く到着しているのだが、その日はいつも以上に、甘えてきた。膝に乗っかって、顔を擦り合わせてくるのは、二日も前からあったことだが、それが顕著だった。ずいぶん、親しくなったので、俺は告白をする決意をした。

「僕と付き合ってくれませんか」

 とけっこう緊張しながら言ったと思う。すると、少し遅れて、猫はニャーと鳴いた。俺はそれを肯定だと受け取った。抵抗しなかったし、可愛い顔をしていたからだ。

 唇を重ねようとするのだが、猫の口は思った以上に分かりにくい。しかも噛み付かれる危険性があったので、慎重に舌でなぞる。しかし、毛が舌にあたるばかりで、喉が渇くばかりだった。ちなみに、動物と接吻するのは、病気が移るからあまりよくないと一般に言われている。だが、病気程度で引き換えに出来る俺の恋ではなかったので、俺は舌で口元をペロペロと舐めた。犬よりは暴れないから、猫とキスをするのはやりやすい。ただ、顎の力は強いので、気をつけないと、かまれるかもしれない。俺はかまれなかった。

 人生で一番興奮したときだった。もう彼女に人生を捧げるつもりだったし、その日木曜日で大して重要な授業がなかったので、ずっとキスをしていた。だが、警備員が何度も通るから、そのたびに、びびった。

 名前は付けなかった。つけるという発想もなかった。ただ毎日、愛し合うことだけを考えていたからだろう。

 さすがに猫と性交渉はしなかった。だが、破局せずに関係が続いていれば、していたかもしれない。それは分からない。

 俺とその猫との関係は突然終わりを迎えることになった。あまりに悲しい別れとなった。その日は別に嫌な予感がしたわけではなかった。だが、その日、嫌な連中と出会った。同じ大学に通う集団だ。話したことはないし、名前も知らない。

 確か、実習で一緒になったことのある連中だと思う。髪を染めていたし、7人ぐらいでゲラゲラしていたから、俺とは対極にあるものたちだ。

 俺が猫と会っていた場所は聖域である。というのは、その場所は警備員は通るが、それ以外の人間は通らない。まあ、通らないから昼食場として利用していたわけだ。

 その聖域をその7人は侵した。俺が猫と愛し合っていた愛の巣に堂々と侵入していたのだ。俺が遅れて、そこへ行くと、なんと猫がそいつらに弄ばれていた。

「猫がおったんよ」

「ほら、ニャーニャー」

 そんな感じか、嫌、もっと雑談の中に紛れていたから、もっと近代的な会話だったと思う。そいつらは猫を引っ張りあげてどこかへ連れて行ってしまった。

 もちろん、追いかけたさ。しかし、俺に話しかける勇気があると思うか? 俺に猫を救える勇気はなかった。俺は俺が許せなかった。

 俺の彼女だ。死んでも助けたい。だから追いかけた。せめて猫に飽きて、どこかに捨てたら俺が後で抱きしめに行くつもりだった。しかし、その不良は猫を連れて、どこかへ消えてしまった。

 近代の不良だ。猫なんかに興味はないはずだ。どこかに捨てているだろう。そうしたら、明日また会える。そう信じていた。

 眠れない夜だった。ただ、猫の無事を祈った。俺のすべてだ。なくしたりはしない。

「頼む無事でいてくれ」

 しかし、そこに猫は着てくれなかった。次の日も。次の日も……。

「君がいなくなって、ガランとしちゃった。でもすぐに慣れると思うんだ。だから心配するな」

 なんて言ってみたが、俺は放心状態を抜け出せなかった。何度も泣いた。会いたくて探し回ったさ。

 探している途中、たくさんの集団に出会った。ぺちゃくちゃと楽しそうに話している。それがすごく煩わしかった。涙が出た。もうすべてが嫌になった。

 猫がいなくなり、俺はたそがれに身を沈めていた。だが、その猫とは再会できた。しかしすでに手遅れだった。

 俺の大学には文型君もいる。環境何とか科みたいなところの文型君五名ぐらいがいた。すごく怖そうな格好をしている。その文型君が猫を飼い馴らしていた。

 俺はその猫の楽しそうな顔を見て、自殺しようと思ったさ。分かってるさ。猫に悪気はない。猫は人間みたいに考えて行動なんかしていない。でも、なら、あの思い出はなんだったんだ。俺は俺は……。文型たちと楽しそうにする猫に背を向けた俺は一度だけ振り返った。目が合うことはなかった。文型のぺちゃくちゃとした話し声だけが聞こえてくる。

「さよなら、そしてありがとう」

 涙ながらに俺はその場を去った。それが俺を壊した。数日後、発狂した俺は大学を辞めた。俺にとって、最初で最後の恋愛は終わり、混沌の渦巻く引きこもりへと転じていく。だが、俺はその猫と出会えたことを後悔などしていない。こんな冴えない俺が恋愛の楽しさというものを味わえたのだから……。もし、俺が死んだら、また会えるだろうか。


   四


 俺の次のエピソードだが、これはかなりおかしな話だ。俺にとって、不良というものや校則などを守らないものというのは校則を守るが人の悪いものよりずいぶん人間としていいと思った。

 俺が高校三年生のときのことだ。俺のクラスは格差社会だった。成績優秀で校則もよく守って、教師の信頼のあつい者、成績は底辺で校則も破って、教師から注意ばかり受けているもの、この二種類がいた。

 結論から言おう。本当に善意に満ちている人が多かったのは後者だ。しかも、すごく優しい人がたくさんいた。

 何でこんなことになったのか? 俺が思うに、それは人間の見方にあると思う。社会人というのは悪人である。悪人から評価を得られるのは悪人だけだ。すると、教師の信頼があついというのは悪人の証拠だ。

 どこから話していこうか……まず名言から。

『自分の狡猾さを社会のせいにする奴にいい奴はいない』

 この名言は実にぴしゃりと当てはまる。社会は厳しいというふうに自分に善意がなくて、悪者だということを社会に責任転嫁する奴にいい奴はいない。

 これは長年の鋭い観察より得られた事実なので、かなりの割合で正しいと思う。本当にいい教師はそんなことは絶対に言わない。

『社会は厳しいけど、自分だけは善意を持ち続けたい』

 と教えてくれた魅力的な先生がいた。もちろん、今の社会、善意は役に立たない。悪意が正義だ。狡猾さが正義だ。だから、その先生の言い分は、人間の配下ではいい指導方法ではない。でも、神の配下から見れば、すごいいい指導だと思う。俺はそれに感動した。

 それ以来、たとえ、俺独りでも、俺は困った人の力に極力なれる人になりたいと思った。それで損をしてもだ。

 そこで、最初考えたように成績優秀で校則もよく守って、教師の信頼のあつい者というのは狡猾さの度合いを示すものだ。

 それは俺が三年間色々なことと接して身に付けてきたものだ。ちなみに俺の高校ではそれは100パーセント当てはまる。

 ここでは匿名にするが、俺の身近にはA君、B君、C君、D君、E君、T君、Y君、T2君、A2君、W君、Xさん、Yさん、Zさん、X2さん、Y2さん、Z2さんがいた。

 ちなみに俺は基本的に席を立たない。誰とも会話をしない。それは人と接するのが、苦手だからだ。だが、この中で、T君、Y君、T2君、A2君、W君、Xさんは6大神人間として捉えてもいい。Xさんがすごい。なぜなら、Xさんは女子だ。女子なのに、同姓ですら、ほとんど友人のいない俺と話をしてくれたのだ。まさに神だ。

 で、共通点。彼らは特に成績が言いわけではない。教師に一目置かれているわけでもないし、真面目かというとそうでもない。

 だが、だがしかし、素晴らしいと表彰されるような程度のクズ人間とは一線を画す。それは何か、それはですね、つまり善意を持っている人間だということだと俺は理解した。

 まず、俺はすごくネガティブな人間だった。そんな俺を徹底的に気にかけてくれたのが、この6人だった。この6人がいないと高校生活も途中でリタイヤしていたことだっただろう。

 まずその1.これは俺が足を怪我していたときのことだ。体育の時間に、球技選択があるのだが、そのときに倉庫の鍵や道具の後始末を当番がやるのだが、俺がその当番が回ってきた。俺は倉庫の鍵を閉めることになった。相方(成績はまずまず、かなりまともと評判の人)が道具をしまうことになったのだが、相方がボールを閉まった後に、しまい忘れのボールがいくつか残った。俺は歩くのもやっとの状態だ。

 まともな奴は悪戦苦闘している俺を見ても目もくれず、去っていく。たいがい、仲のいい友人と話しながら、着替えに向かう。理由は恐らく、俺を手伝うメリットがないからだ。そんな仲がいいわけでもないのに手伝う暇なんかないというわけだろう。

 しかし、不良のT君とすれ違ったとき、ボールを持ってくれた。決して、もてないボールの数というわけではない。俺が言いたいのは、手伝ってくれたという事実だ。もちろん、不良にはそんな深い意味があったわけではないだろう。ドリブルしながら、遊んでいたし、しかし鍵をかけるまで、俺のことを待ってくれていた。一人というのはやはりどこか不安だ。最後まで不良は付き添ってくれた。

 些細なことだが、俺は、「善意のある人だ」と思った。今でもすごく感謝している。もっと些細なことでは、例えば職員室に行くとき、Y君はいつも付き添ってくれた。独りで職員室へ行くというのはネガティブな人間には辛いことだ。それをY君はよく知っていてくれた。まともな人間は絶対にしてくれないことだ。

 善意といえば、普段の会話などでも顕著に現れる。

 女子の話をすると、正直、教室の席からゆっくり観察していると、みんな同じに見えた。仲のいいもの同士で集まって、ぺちゃくちゃと話をしている。いつも同じ光景がずっと続く。そういう女子に俺はあまりよい印象はもてなかった。

 しかし、ある二人組の女子がクラスは違うがいた。だいたい、女子というのは4人も5人も集まって昼食を食べている。俺などは独りで食べる。I君や後、挙げ忘れていたけどK君もすごくいい人だ。すごい善意の持ち主。もうオーラで分かる。こういう人が増えたら、日本はよくなるんだろうなと思いながら見ていたのだが、二次元のキャラより、I君とK君はいい人だ。驚くほどだ。

 で、ここでは二人組の女子がいたんだけど、その二人組はルックスがいいかといわれると、恐らくそれほどでもない。だがしかし、俺が今から恋人にしたいと思うなら、その二人組のどちらか以外にありえない。その二人は普通の女子から外れていた。観察していると、オーラだけで分かる。

 その二人組というのは、恐らく、俺が人生これまでで、一番言葉を多く交わした女子(家族は除く)になる。そんなたいそうな話はしていない。個人的な話などはなかったよ。だがだが、それでも、あんなに善意のある女の子が三次元にいることに俺は甚だ感動した。

 女=悪魔の方程式が掲示板で上がっていたが、俺はけっこうな割合で当てはまると思う。実際、俺の高校時代の女ははっきり言って、打算とかそういうので生きていたと思う。もちろん上辺だけど。でも上辺ってけっこう重要だ。

 その女子二人は他の女子とはまったく違った。すごく可愛いといわれる女子が俺のクラスには五名もいた。でも、もし俺はその五名から選んで恋人に出来ると言われても、取らないね。俺はリア充じゃないから、女をインスタントみたく扱えない。俺にとって、女は性格がすべてなんだ。なんなら、恋人が祖母や母親でもいい。

 それを俺は高校時代に教わった。その二人組の特に片方は、本気で惚れた。可愛い女の子ではない。でも、その女子より魅力的な女子が校内にいたかというと、ノーだ。

 俺が言いたいのは、髪を染めたとかそういう意味の分からないことで人を判断している日本社会がある限り、狡猾な人間は増えるばかりだし、善人がニートになるばかり。善意があればあるほどニートになりやすい日本社会は少し怖いね。不良でも本当にいい人はたくさんいる。むしろ、まともな奴のほうがすごく怖い。俺は少なくとも、いい先生に教わった、『社会は厳しいけど、自分だけは善意を持ち続けたい』で行くつもりさ。死ぬまでね。

 こうして考えると、ニートの構造がよく見えてくる。労働者の思い上がりでクズ扱いされているけど、こんな欲に塗れた世の中だからこそ、生産性のないニートが必要なんじゃないだろうか。労働者は悪人だから、何を言っても聞かないのは分かっているけどね。


   五


 最後のエピソードになる。

 今でこそ、ニートだが、俺はけっこう色々なものに挑戦してきた。その挫折の過程を追ってみよう。注目してほしいのは、挫折の決め手になったもの。もちろん、心の弱さが決め手なんだけど……。

 1、部活動 2、受験 3、ボクシング 4、受験2

まず1から

高校入学 ハンドボール部に入る。経験はない。

第一回 三年生がけっこういい人だったので、好感がもてる。

五月 割と頑張る。なかなか。

7月 三年生引退。二年生の性格の悪さは異常。(キーパーだけがずば抜けて性格がよかった)

8月 理論もクソもないのに、二年生は権力で一年生を支配。全力を出すと、ディフェンスのさい手が顔に当たったと言って切れだす。手を抜く。

数ヵ月後 プロの試合と比較して、そもそも根本のやり方から間違っているが、それを指摘しても無駄。ボールを回さないからと切れだす。

 ボール回すことだけに専念する。とにかく個人競技でないものは低能の集まりの場合、打算とかそういうものだけで決まる。やってられない。こっちは正しいやり方を提示しているだけなのに、権力で支配するだけ。くだらないので腰痛を機にやめる。俺はままごとをやりたいわけではないのだ。結局、国体にすら出られず終わっていたみたいだ。ままごとだから当然だが……。

 2、受験

高3 いい加減、にきびがうざいので、T大学を目指し始める。

受験科目を調べる。国80、英120、数120、理科120と分かる。高得点を取れるのは、数と理科なので、この2つで合計180を取ろうと思う。

 社会の時間に理科をやると、教師が切れだす。

「関係ないだろ」

 と言っても、意味が無いので、仕方なく受ける。しかし、社会は現社と決めている俺に世界史は意味なし。しかも国語も、漢文は漢文道場で短気決戦をするつもりだったので、必要ない。授業時間が浪費されていく。しかも、分かりやすい授業が出来る教師かというとそうでもない。むしろ下手糞。河合塾の参考書のほうがよっぽど分かりやすい。

「授業のときに、河合塾の参考書読んだほうがいいじゃん」と言ったら、教師は傷つくのかと思うと、言えず、意味もない授業を受ける。

 英語が危ないので、後期試験を目指すようになる。ここでは数学300、総合200なので、数学者志望にはやりやすい。しかもセンターは4科目。しかし……。

 国語の時間に数学をすると、教師が切れだす。

 結局数学が出来ず。しかも意味のない授業を受けさせられる。こっちは1年しかないから厳しいのに……。

 結局、教師や周囲の生徒がうざくなって、投げ出す。予備校に通っていれば、こんなこともなかったんだろうな。

3は即行で終わった。

 ボクシングスタート にきびがひどくてプロテストは受けられません。終わり。また治ったら頑張ろう。しかし、治らない。治らないけど、ボクシングは続けよう。このごろ、マイクタイソンにピーカーブーにはまる。ティム・S・グローバー氏からヒントを貰って、トレーニング理論を作り上げる。ダンベルベンチ25キロ時にダンベルを落として、怪我。思いのほか長引く。治ったと思って、スクワット開始。肩が破壊される。踏ん張ったときに立ち上がれず、後ろに転倒。手首をかなり損傷。ベンチプレス(85キロ)が挙がらず、胸が圧迫され、死にそうになる。火事場の力が出たのか、何とか挙げて、脱出。それ以来、高重量ベンチに恐怖心が。サイドレイズで腕の付け根が痛くなる。数日かかる。リアレイズで首がおかしいことに。上腕三頭筋が効いている気がしなくて、重量を上げる。フレンチプレス時に腕が壊れる。リストカール時に手首に激痛が走る。ランジのときに膝を地面に激突させて、激痛が走る。スクワットよりジャンピングスクワットのほうがいいのではないかと思ってやる。スクワットのままの重量でやってしまい、転倒。体が前に仰け反る。ヤバイほど背中が痛む。パワークリーンで勢いよくやりすぎて、バーが顎に激突。死ぬほど激痛が走る。デッドリフトで腰を痛める。

 にきびが治らないので、やめる。最近治りだしたが、トレーニング機器がなくなっていた。クレアチンを飲んでいると、ドーピングだと親が言って、切れだす。(本当はドーピングではない)高いのに全部捨てやがった。

4もけっこう早く終わった。

 東大を目指す。後期理科一類。東大のホームページを見る。『後期一本化』『安易に科目を捨てる人ではなく応用力のある多彩な人に来てほしい』とか言い出している。即行やめる。数学者志望が源氏物語を読めても仕方がありませんので。

 こうして挫折を繰り返したが、俺はよかったと思っている。もし続けていたら、それはそれでよかったこともあったと思うけど、今のひとつの幸せを得ることは出来なかったと思う。挫折はいけないとかよく言うが、

『挫折をしても、人は幸せになるチャンスを得ることが出来る』

 と俺は言いたい。何かを頑張るのは大事。でも、挫折しても、幸せにはなれる。挫折したときにこそ、チャンスだと思うことが、人生で重要だと思う。


   六


 俺が思うに、人間は馬鹿と天才に二極化していると思う。簡単に言うと、社会でまともに生きていけるのは、とてつもない天才かとてつもない馬鹿だけだということ。

 馬鹿というのは社会人の多くの凡人だ。能力がなく、

「ぼくちんを犬小屋にいれてくだちゃい。べろべろー」

 と言う犬のことだ。汚らわしいが、生きるためには仕方がない。天才というのは犬小屋のオーナーだ。馬鹿を使う側。考えてもみれば、社会というのは、

『天才が上に立ち、そこに人がついていく』

 ように出来ている。だから、天才が人を選ぶのだ。天才の立場からすると、馬鹿に来て欲しいとと思うだろ?

 頭のいい奴より従順な奴に入って欲しいだろ? 天才は自分が地に落ちるのが嫌なのだ。だから、馬鹿な従順人間を集める。これによって、馬鹿と天才の社会が出来上がった。

 考えてもみれば、天才が頭のいいものを取ると思うか? 優秀な企業スパイをわざわざ入れたりしない。

「革命を起こしてやる。この会社をどん底まで落としてやる」

 みたいな野心家を大企業が入れるだろうか? 答えは否。企業のトップに立つ天才からすれば、限りない馬鹿だけが欲しいのだ。

 ニートというのはどういう人種か。それは馬鹿ではないが、天才でもない。つまり、人間を偏差値で示すと、55〜60に位置するものだ。

 社会で必要なクラスというのは45〜54、61〜70だ。44以下だと、さすがに使えないし。71〜は頭がよすぎて、とんでもない革命を起こそうとして、自滅する。

 ニートというのは社会大半の馬鹿より優秀だが、それゆえにどっちにもいけず。社会から淘汰されたものたちだ。

 ニートに必要なのは、馬鹿になるか、天才になるかのどちらか。どちらかに行けば、社会にはめ込まれる。

 日本という国は少なくとも、頭のいい人間は必要ない。だから、ゆとりだろうとそうでなかろうとあまり関係ない。必要なのは個性のない従順馬鹿だ。社会のいうことに何の疑問も感じず従えるもの。はっきり言うと、思考力が欠如しているとしか思えない。

 ニートはやや頭がいいので、選択権が生じている状態だ。馬鹿になるか天才になるか。決められず、労働していないものだ。

 そこで、磁石だと考えよう。馬鹿と天才に磁石があって、社会人の多くがどちらかにくっついている図。ニートは引き合う力が均衡している中心にいると思えばいい。力は相対的にゼロだ。

 磁石にくっつくと、一生そこで飼い殺されると考えよう。

「ぼくちん、馬鹿でーす」

 と言っている犬が下を見れば、見える。そんな状態だ。そこから、神の配下にはいけない。すると、ニートは神の配下にいける唯一の人間だ。

 ニートが社会復帰するにはどうすればいいのか? まず馬鹿になるか天才になるかを決めなければならない。人が怖いというのは多くの場合、中間で浮遊している状態で、不安定な体に怯えているだけだ。馬鹿になれば、大抵、対人恐怖症は治る。どうやって、馬鹿になるのか。簡単だ。思考力を封殺してしまえばいい。頭が中途半端にいいがために、多くの思考を展開してしまう。数学でもすれば、あっという間に成績が伸びるだろう。だが、頭がいいために、数学の必要性を考えてしまう。よって、長続きしない。大学は一部を除いて、馬鹿が行くところだ。意味もない(少しはあるが、無駄も多い)学問を何時間も勉強するからだ。高学歴が偉いのは、天性で大学に入ったものだけだ。それはつまり、桁外れの知能を持っているもの。

 努力で入ったものは馬鹿だ。なぜなら、大学は所詮研究所の下にある教育機関。研究して、大発見をしたり、学者になるために行く場所だ。就職するために行くのではない。大学に理由付けをしていない。だから馬鹿だ。

 大学とは努力して、いいところにいくためにあるのではない。自分の能力に合ったところに行けばいい。つまり、受験勉強など、普通にちょくちょくとやればいい。それ以上やっていいところにいくぐらいなら、P≠NPでも解くための準備をしておけ。くだらない受験勉強に何時間も費やすのは馬鹿な証拠だ。

 要するに、数学をやるときに、数学を教えるために数学をやるという練習のための練習というものに近い。大学とはそもそも高等学問を習う場所だ。本来受験勉強というのは、せいぜい、直前に一時間ほど勉強して、受けるところだと思う。いいところへ行こうと行かないと同じ学科であれば、同じように高等学問を習う。違うのは入学試験で点が取れたか否かの違いでしかない。入学試験を分析してみると、数学であれば、もはや数学パズルで天才が解くべき問題と化している。つまり、努力して、典型問題をマスターするような極めて遠回りなことをしていても時間だけがもったいなくなるだけだ。

 こうして、無理して高学歴を目指すものは総じて馬鹿な可能性がある。もちろん、学歴に命を賭けているような人はそれで構わないが、将来、研究をしたり、優秀な医師を目指したりと本来の意図を完全に見失ったものだといえよう。

 ニートは頭がいいので、本気で大学を受ければ、偏差値65(全国レベルの模試の偏差値)までなら、楽に入るものがほとんどだろう。しかし、そういう人材は社会には必要ない。東大卒の凡人社会人など必要ないのだ。東大卒が欲しいのはもう少し上の天才の領域であって、そこいらの雑用とは違う。こうして、学歴を目指していると、たちまち、本質を見失ってしまう。ところで、受験に受からせようとするための本はたくさんあるが、世界一の数学者になるための本とか、世界一の工学者になるための本というのはほとんどない。これが日本社会なのだ。要するに、多くの受験生が馬鹿で、ただ学歴だけを重視してしまっているのだ。

 よく考えれば、世界一の工学者になろうとして、受験する受験生なんてほとんどいない。俺は真におかしいと思うのだ。もちろん、日本社会の多くは馬鹿の集団だから、こういう野心家が増えるのはいいことではない。

 野心家が増えれば、馬鹿が減って、天才が増えてしまう。すると、たちまち社会はおかしなことになる。馬鹿が多いからこそ、天才がうまく社会を作り上げていたのだ。

 そして、天才が増えることは革命になる。馬鹿の多くが天才となっていくと、社会は激しい競争に捕らわれる。それはもう怖いほどだ。

 こうして、天才が増えることは決していいことではないと思う。しかし、俺は少なくとも天才になりたいので、馬鹿のやるように、学歴を求めたりしない。なぜなら、俺の目標は神だ。学歴など程度の低いものは求めていないのだ。

 馬鹿は程度の低い目標しか持てない。だから、高学歴だけを目指して、世界一の工学者になろうとか、宇宙を解明しようとか、そういう発想が出てこない。

 そして、馬鹿が多いからこそ、ニートは増えるのだ。ニートは天才と馬鹿の間に揺れるものたちだ。能力さえ続けば、ニートはすぐにでも天才になれる。しかし、天才を目指すことすら、程度の低いことと思うのだ。

 つまり、タイムマシンを作るとか、未解決定理をすべて解くとか、そういうことすら、俺には程度の低い目標なのだ。俺は神になること。万物の創造主にて、すべてを司るもの。まさに俺に勝てる人間はいない。


   七


 馬鹿と天才について考え始めたのはニートになってからだ。馬鹿と天才を決めるのは、学力だとか、運動能力だとか、そういう物差しで計ることの出来る能力の差ではないと思うのだ。天才とうのは、最も扱いにくい人種だ。そして、馬鹿というのは最も扱いやすい人種だ。俺がどこかの社長になったとすれば、俺は真っ先に馬鹿を募集する。扱いやすい馬鹿はまさに有能な人材である。

 扱いやすいということはつまり、言ったことを素直に受け止めると言う意味だ。そういう面だけを考えれば、俺は馬鹿ではなく、天才だ。俺は人の話を素直に受け入れない。

 単純なところからいくと、put off が計画などを先延ばしにする。延期するという意味があると学校では学んだ。しかし、putは物を置くという意味だと学んだ。どうして、それが延期するという意味になるのか。馬鹿は丸暗記して納得してしまうのだろう。そして、大学受験ではそれさえ知っておけば解ける。馬鹿でも解ける問題だ。だが、天才はその中身にこだわるのだ。『置く』にoffをつけるだけで、『延期する』という意味になる。これはなぜだと常に疑いを持つ。英語だけでなく、日本語でもそうだ。ブタに真珠がどうして、価値の分からないものに高価なものを与えても意味が無いという意味になるのか。だいたい、ブタでなくても、犬や猫に真珠を与えても、同じだ。どうしてブタにこだわるのか。それを知らなければ気がすまないのだ。

 そんな奴だから、精神論というものに対しては、納得いかないのだ。頭の悪い教師は精神論で子供を言い聞かせるらしい。俺には通用しない。たとえば、やれば出来る。という精神論。これは元気付けようという意味で言った単純なことではあるのだろうが。俺はその意味を考えてしまうのだ。やれば出来る。出来ない確率をまったく考慮していない。

 そんな俺は恐らく、親や教師からすれば扱いにくいと思っただろう。馬鹿は何でも「そうなんだ」と言える。だが。天才はそうではない。納得できないものを精神論で納得させようとしても無駄だ。天才と馬鹿はそこが違うと思うのだ。

 天才は上下関係などもすべて、納得しない。だから。日本社会は天才が住みにくいのだ。馬鹿が日本社会では安定する。天才は安定しない。

 だが、天才だけが使う側に回ることが出来る。馬鹿はすぐ一般常識とか目上の意見に納得してしまう。自らの思想に忠実でないというより、思想すら持ち合わせてないのだ。馬鹿でないと社会で安定しない日本を俺はいいと思っている。

 ちなみに俺は決して馬鹿にはなりたくないと思っているが、天才になりたいとも思わない。そういう人間の配下に属したくないのだ。


   八


 ところで、日本の教育機関というのは従順な馬鹿を育てる機関である。学校が楽しいと思った瞬間、「ああ、私ったら、馬鹿になったのね」ということだ。学校が嫌になればなるほど、天才に近づいている。不登校になると、ほぼ天才だ。いじめられる者の多くが天才だ。だから、いじめにあって辛いときは、馬鹿がうじゃうじゃいる中で自分だけが天才だと思えばいい。IQに差があると、話のつじつまがあわなくなる。馬鹿と天才というのはこれと同じ。格差がありすぎて、話のつじつまがあわなくなる。馬鹿はすぐに外見の欠陥を見つけて、馬鹿にし始める。だから、いじめを受けるものというのは、馬鹿多数のような外見を持ち合わせていない。ブスかイケメンかを決める指標は流行だ。要するに周囲との比較。エイリアンがイケメンという流行が発生すれば、それが土台となる。

 つまり、外見とは極めて相対的なものだ。それに対して、内面は絶対的なものがいくつかあるように思う。

 学校というのはいかに馬鹿になるかで楽しいか辛いかが決定される。優等生ともてはやされたいなら、馬鹿になることだ。だが、一度馬鹿になると、そこから、飛躍するのが難しくなる。馬鹿は結局馬鹿なのだ。論理的でもない言葉を納得し、思想も築けないまま、死んでいく。もはや、国民は量産型馬鹿と化している。その中で、νガンダムクラスの天才になりたければ、天才になることだ。

 量産型馬鹿というのは斬られ役だ。人工知能を植えつけられて、天才の意のままに動かされる。支配された操り人形というわけだ。神に操られるならまだしも、人間に操られる人形は総じて、醜い。ひどい有様に映る。

 俺は神そのもの。俺の操り人形は世界そのものなのだ。

 どうして、日本が量産型馬鹿製造所なのかと言うと、まず、宿題だ。これが量産型馬鹿を造り出す制度のひとつ。もうひとつは教師の有様。

 教師はまさにいい教師と悪い教師に二極化している。馬鹿教師か天才教師かという意味だ。馬鹿教師というのは、

 生徒を洗脳しようとする、論理ではなく精神論で解決する、教師権力を行使する、給料泥棒。生徒をさんざん懲らしめておいて、給料を奪っていく最低な奴らだ。

 天才教師というのは、

 自らの思想を提示するが、それを生徒に強制しない、生徒の個人問題に一切介入しない、自由度の高い、かつ分かりやすい授業を展開する。

 俺は天才教師を数名知っている。すごい奴は本当にすごい。だが、最低な奴はまさに最低。

 まず授業だけでもわかる。授業で、生徒に課題を指名する教師は馬鹿が多い。

「出席番号●●の人、前で問題を解いてください」

 馬鹿のやることだ。なぜなら、生徒の中には内職をしているものもいるからだ。つまり、すでに目標が決まっていて、授業が不要なものが別の課題をその授業でやるのだ。わざわざ当てられるのでは集中できない。自らで考え行動しているものがいるのだ。それを考慮できない馬鹿教師は即刻給料を全額返して、ホームレスになることを勧める。逆に発表制にしている教師は頭がいい。

「これ分かる人、手を挙げて」

 といった感じだ。そういう教師は頭がいい。生徒の自主性を尊重し、なおかつ内職の妨害をしない。天才生徒からすれば、いい教師だ。

 だが、当てるまではいい。だが、問題はその先にある。当てられて、

「わかりません」と答えたときに、

「そうですか、それでは、次の人」

 となる教師はまだ天才に入る。

「何でだ?」とか「予習しているのか?」とか「授業を聞いているのか?」という教師は馬鹿である。

 後は授業のやり方だ。まず、教科書の内容を黒板に書く教師は頭が悪い。教科書を読めばいいだけのことだ。独自の理論をしっかりと提示できない授業しか展開できない教師は即刻ホームレスになることを勧めたい。

 教師は「生徒を東大に入れてやる」とか「偏差値30の奴を70にしてやる」というふうな野心を持っていなければならない。

 どこか忘れたが、予備校の講師を馬鹿にする馬鹿教師がいた。その教師はろくに説明も出来ないくせに、わけの分からない御託を並べる。予備校の講師というのは教えるプロだ。毎日のように努力をして、独自の授業を確立してきている。だから、受験生は金を払ってでも、授業を受けにいく。それを何の努力もせず、マニュアルに沿っている給料泥棒がとやかく言える次元ではない。教師が悪ければ、生徒の発展はない。生徒は分かりやすい参考書でも手に入れて、本腰据えて取り組んだほうが有意義だ。

 授業だけではない。教師は生徒に対する接し方も学ばなければならない。まず、教師は原則として、生徒間の動きには介入してはいけない。

 いじめが起こる原因は馬鹿にイージー、天才にハードな環境を作っているからだ。これらを平均化させないから、いじめが起きて、自殺者が出る。

 イージー・ハード、これらをすべてイージーにしながら、独自の思想を生徒が持つようにするのが、教師の役目だ。これが出来ない教師はホームレスになればいい。

 イージーにするのは簡単だ。特に馬鹿が九割の日本社会では。

 一部の天才を除いて、生徒を操るのは簡単だ。だが、操り状態にしたあと、それを放り投げると、生徒は爆発してしまう。

 いじめをする生徒は「いじめられるほうにも問題がある」と指摘するようだ。だが、その多くは天性によるもので、各人の努力では解決しにくい。それにどうして、馬鹿にあわせるために努力をしなければいけないのか。天才は馬鹿と馴れ合うのが嫌だから、馬鹿にいじめられるのは当然だ。

 そして、これは当然だが、天才はいじめには屈しない。

 いじめ問題で厄介なことは馬鹿と天才の間にいるニート予備軍がいじめられると言う点だ。そして、これに気付いていないものが多すぎる。

 天才はいじめられていても、馬鹿を見下しているから、問題ない。問題はその間に揺れているものだ。馬鹿でもない天才でもない。中間の人間。この人間がいじめられるときそこにいじめの大きな問題が浮上してくる。

 いじめを解決させるためには、早い話、中間を馬鹿に引きずり込むか、天才に引きずり込むかする必要がある。

 天才教師はいじめを直に触ったりはしない。抗がん剤を入れまくるような治療はしない。自然治癒が可能でないかを最後まで検討する。

 馬鹿教師はいじめが出たら、いじめている生徒を呼び出す。意味が無い。それで解決するのは馬鹿の馬鹿だけだ。少しでも馬鹿から浮遊していたり、沈み込んでいる奴らには無駄。逆効果。

 いじめは自然治癒。これが一番いいのだ。頭のいい教師はいじめが分かっても、生徒には介入しない。まずは分析、それから、解決への筋道を立てる。いじめを直接問題にせず、日常の中で解決させる。難しいことだが、それが出来なければ教師失格なのである。

 馬鹿教師は感情的な言動や精神論でしか、解決する術を知らない。論理を持たない馬鹿教師はホームレスになればいい。

 論理と言っても特別な論理は必要ない。

「なぜ勉強するのか?」と生徒が聞いてきて、「そう決まっているから」と答える教師がいたが、こういう教師が馬鹿教師の典型である。そう答えられると、生徒の多くは質問を切ってしまう。「なぜそう決まったのか?」という質問を切ってしまうことで、生徒は疑問を抱いたまま、授業に臨む。

「なぜ、勉強するのか?」「その真理を追究するためさ」と答えた教師はなかなかすごい。「社会のため」はダメだ。なぜなら、「どうして社会のためになるのか?」と返される。そうすると、数学をはじめ、さまざまな学問の社会貢献の塩梅を提示しないといけなくなる。生徒が退屈してしまうだけだ。

「なぜ、学校に行かないと行けないのか?」「義務教育だ」馬鹿教師の典型である。「学校に行く真理を追究するためさ」希望に満ちた答えである。

「なぜ、人を殺してはいけないのか?」「ダメに決まっているだろ。何でそんな質問をするんだ!」馬鹿教師の典型である。「生死の調和を図るためさ」「死に対する答えが見つかっていないからさ」

ピーちゃんが来た……。

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