信長の港
1
海が見える。汗を少々滴らせ、足を進める。
そこは鮮やかな海だった。と思うと、波がいくつも隊列を成して不可逆なうねりをつくる。気がつくと、潮風が男の回りを通り抜ける。男はストンと腰を下ろした。男は尻が砂で汚れるのも躊躇わない。もう一人の男もそれに倣い、座した。
ここは津島であった。
「相も変わらず、津島は栄えておる。」
信長はそう呟いた。隣にいる堀田道空は頷く。
「左様でございまする、これも全て弾正忠様のお蔭。」
信長は満足気に胸を張る仕草をし、目配せをした。
「それはそちらが欲のまま商いに精を出しているからではないか。」
「滅相もござりませぬ。銭は人を選びまする。」
「ほう、ならば銭は如何様に人を選ぶ?」
「そもそも銭は物心にて人を判ろうとします。人血を吸い上げ、脳漿に血を通わせた金策こそに銭は寄ってきまする。」
「ふん、では物心無くして銭儲けは為せぬと?」
「左様、また人の心をも写すのが銭の本分とも言えますな。」
「人の心を?」
「はい、先程申し上げた金策、手段には当然千差万別ございます。その中で人は何を見出し銭を得るのかを浮かべるのです。すると、血眼になりあれやこれやと思案する者も居れば、じっとまるで冬の寒さに打たれる木切のように銭が降ってくるのを待つ者も居りまする。」
道空の半ば講釈めいた論議に耳を傾けて幾ばくかの解答を得た信長は迷っていた。自身の腑に落ちぬ思慕を打ち明けようか。信長は言う。
「ならば銭の価値は人間が決めるのか、そうでないのかどちらだ?」
「ふむ、それは人次第ですな。しかし今まで申し上げた論を用いるなら、銭の価値を決めるその裁量さえも銭に囚われた者として…」
「そなたは銭に囚われたか?」
「それは武家の御仁に何故刀を差すと問うようなもの。」
「哀しき男よの。」
「囚われた檻の中の方が心地良い場合もございましょう。」
「…。」
つい先程まで知らなかった沈黙が二人をさらう。
少し押し黙った後、信長が口を開く。
「津島の市へ参らなければの。」
「確か奥方様に何か…。」
「そうよ、帰蝶が以前津島の市を忍んだ折に、目を引く美しい反物を見たという。それをわしも見分したいと思うての。彼奴の目が間違うておらなんだら買うてやろうと思う。」
「誠に若殿と奥方様は鴛鴦ノ契に値する仲睦まじさでございますな。」
「それ程響きが良いものでもない。ただ彼奴の機嫌を損ねるのが気詰まりなだけじゃ。」
「では何か奥方様の…あ、いえ…。」
これ以上踏み込むのは野暮だと感じた道空は語を濁した。
「夫婦とは難しいものよの、道空。」
肩を窄めて笑う信長に道空は、空虚感に似た何かを感じた。
「はやく行かねば。」
信長はそう言うと、岸辺を後にした。
二人は馬に跨り、走らせる。信長は道空の先を駆ける。野道を駆け抜け、だだっ広い田畑が前に広がる。まだ潮風が向い風となって流れてくる。暫く経つと、活気がある声たちが近づいてきた。
「聞こえてきましたな。」
「うむ。」
先走っていた信長はハッと手綱持つ手を緩め、馬の速度が落ちる。道空も後に続く。
段々と商人であろう人々が通っている。その中に一人の男が信長一行の元へ寄ってくる。小袖をまくって浅黒い顔が西日に照らされている。
「お待ちしてました。三郎の旦那。」
「うむ、また見ぬ間に雄健さが増したか。」
「はは。某の顔をご覧になって褒めるものは旦那だけじゃ。」
この軽輩な輩は誰だ。そう訝しげに道空は顎に手を当てて黙り込んでいると、信長がそれをちらりと見て言う。
「此奴は津島商人の倅じゃ。わしの幼少からの友朋でな。」
「商人の?」
そう道空が問うと、商人の倅がにこりと笑いを浮かべた。
「初にお目にかかります、道空様。某は津島商人の服部小平太と申しまする。以後お見知り置きを。」
男はそう言うと、銭と反物を差し出し、続けた。
「わしらここの津島商人を統括しとる惣領を三郎様に担って頂いておるのです。」
「ほう、かねがね噂は聞いていたが、本当のようだったとは。」
道空は半ば感心したように言う。
「道空には申してなかったか。」
「はぁ、某は美濃にて長いこと山城守様に伺候しうるばかりで、津島の内報はここの所余り…」
「そうであったな、ん。小平太、この銭は如何なる了見で持ってきた?」
小平太が小気味良く応える。
「へい、それは旦那に以前風流踊りにてここいらの民草を一挙に招いてくだすって、わしらの市をそれは盛況なものにしてくだすった時の細やかなものにございます。ご無礼ながら是非お受け取りくだせぇませ。」
「はは、あの時は中々娯しいものであったな。」
「へい、それはそれは、周りの国衆の方々にも目を掛けてくだすって、津島の市は東海一とお褒め預ることもありました。」
「しかし、それは受け取れん。」
「え、何故にございましょう。」
「反物を奥に頼まれての、その代金ということで取っておいてくれ。」
「はぁ、ならばしかと心得ました。」
小平太が幾許か考え銭袋を懐に戻した。