マクリル誕生
統一前暦70年。
マクリル大帝は、ナザール帝国と呼ばれた国の一地方、シュドルツェにて産声をあげたという。
私の曽祖父アーベルの残した日記によれば、とても元気の良い赤児だったという。
マクリル大帝の父はナザール帝国の皇族に連なる、サナキア公爵ルドルフ。
勇猛果敢な将軍として知られており、武門の名家サナキア公爵家に相応しい人物と目されていたという。
サナキア公爵ルドルフは情豪としても知られており、その子供は公認されているだけでも男子9名、女子13名に及んだという。
情豪であったことは間違いないようだが、曽祖父アーベルの記録によれば、子供を沢山作ったのは致し方のないことだったようだ。
その原因はルドルフの父、マクリル大帝にとって祖父にあたるディルクにあるのだという。
ディルクは生来、病弱であったために軍役に耐えられなかったという。
四番目の男子であり末子であったため、当初はそのことが問題になることは無かった。
軍役に出ることができないディルクは、領地経営に専念することで戦地に赴く兄たちを支え、また領地を富ませて民心を安定させていた。
その風向きが変わってきたのは、長兄、次兄が相次いで戦死したことからだ。
三兄がそれを受けて、家督相続を固辞したのだ。
「私も戦陣に身を置く身。それである以上、いつ死ぬかわかりません。
それならば、弟が家督相続した方が良いのではないでしょうか。」
その時、三兄はそう語っていたと伝わっている。
そして、その言葉を残した三年後、時の皇帝アウグスト三世の親征に従って従軍。
大敗を喫した戦いの最中、殿軍として奮戦。
味方を逃すことに成功するものの、自身は深傷を負ってしまい、帰国直後に亡くなってしまう。
その結果、ディルクは家督を継ぐことになるのである。
サナキア公爵家にとって幸運だったのは、相次いで三人の公子を失ったこと、特にアウグスト三世の親征の失敗によって戦死した三兄の存在が、その後の軍役免除に繋がったことだろうか。
それによりディルクは家督を継いだ後、領地経営に専念することができたのである。
そして皮肉なことに、病弱であったことから健康に人一倍気を使っていたディルクは、長生きすることになり、四人の男児と二人の女児をもうけたのだった。
当時のサナキア公爵家家令の残した記録によると、長子ルドルフは父ディルクを毛嫌いしていたという。
ルドルフは、父ディルクによって、"武門の名家"としてのサナキア公爵家の名誉は失墜したと考えており、その名誉を取り戻すべく積極的に軍役に参加した。
そのルドルフの苛烈なまでの、武門の名家への想いは弟たちにも浸透し、四兄弟は戦場に身を置き続けていた。
その戦いぶりは、サナキア公爵家の四獅子と称されるまでになっていた。
ただ、それもルドルフが30歳にして家督を受け継ぐと、大きな転機が訪れる。
それは、相次ぐ弟たちの戦死である。
弟たちが相次いで戦死した結果、ルドルフは多くの愛妾を抱え、多くの子を産ませることになる。
後の大帝マクリルは、ルドルフが42歳の時に六男としてこの世に生を受けたのである。
☆ ☆ ☆
マクリルを産んだのは、何人目になるかわからないルドルフの愛妾エメレンツィア。
そのエメレンツィアの実家は、サナキア公爵家と領地を接するブルノ男爵家。
爵位こそ持つものの、一地方貴族でしかない。
何代か前には、サナキア公爵家に連なる者の娘を迎え入れているから、まるっきりサナキア公爵家と縁が無いわけではなかった。
ルドルフがエメレンツィアを見初めた出来事は、伝わっていない。
いくつかの逸話が残っているのみである。
その逸話によると、ルドルフが主催した狩りで、颯爽と現れて大きな鹿を射止めた姿を見て、ルドルフが惚れ込んだというものがある。
また別の逸話では、狩りの帰りにブルノ男爵邸に立ち寄った際、非常に利発は様子を見て気に入ったとも伝わっている。
ただ、はっきりとわかっていることは、18歳の時に実家に戻ってマクリルを産んだことである。
そしてもう一つ、エメレンツィアはマクリルを産んで間もなく、産後の肥立ちが悪かったようで、流行り病によって亡くなったこと。
このふたつだけははっきりとしている。
そしてマクリルは、ブルノ男爵バルトルトの元で養育されることになる。
そしてマクリル六歳の時、大きな運命の転機が訪れるのである。