『いくつになっても』
少し前に流行ったそのアヒージョという名のスペイン料理を、実はこの日ひづりは初めて食べた。とは言え、テレビなどで流行物として取り上げられていた当時、ハナが学校の休み時間に「美味しかったよ~!」と嬉しそうに語っていたのを聞き、またその帰り道にたまたま寄ったコンビニエンスストアで『アヒージョ味のスナック菓子』なる物が並んでいたのを発見し手に取ってみた事があったため、全くそれがどのような味の料理であるのかをひづりは知らない訳ではなかった。
しかし、もちろんその菓子は日本人向けに調味されたものだったのであろう、販売会社の思惑通りひづりの舌には中々に好みの味として記憶されていた、のだが、そのちょっとばかし面倒くさがりな性格ゆえに、わざわざ自主的にスペイン料理店に出向こうという気持ちにも、また『レシピを調べて作ってみよう』とも、結局一度も思わなかったのだった。
流行に対して極度に無関心という訳では無いが、しかしちょっと人よりずぼら……それが官舎ひづりという少女だった。
ただそれ故に、腕に自信有りだという紅葉が作り、夕飯にバゲットやサラダと共に盛り付けられた本物のそれを口にした際、ひづりはそれまで自身の食事経験が『アヒージョ風スナック菓子』で止まっていた事をずいぶんと悔いることになった。
要するに、とても美味しかったのだ。下ごしらえなどの手伝いはしたが、調理自体はほとんど紅葉がしていた。なので食後にちゃんとしたレシピを聞こう、とひづりは思っていたのだが、残念ながら彼女は夕飯に酒を結構食らっており、そのためちゃんとした分量などの説明は期待できそうに無く、ひづりは酒臭い叔母にくっつかれるだけの食後を過ごす事になった。
「へへへぇ~! 聞いた聞いたぁ~? ひづりちゃん、あたしのアヒージョとっても美味しかったってさ~! どうさ姉貴ぃ! 羨ましい? どう羨ましい? へへへへぇーん。ふひひ……」
彼女は食器が片付けられたダイニングテーブルで椅子を三つほど横にくっつけて並べると、スマートフォンでレシピを調べていたひづりの膝に頭を乗せて寝転がり、瓶の酒を片手に長女の甘夏につっかかった。
幸辰と共に食器洗いをしていた甘夏はちらりと振り返ると不敵な笑みを浮かべてそれに応えた。
「あら。じゃあ明日の夕飯は私がフルコースを作らせて貰うわ。ひづりちゃん、秋刀魚の塩焼き、好きよね? この間知り合いから良いものを貰ってね、冷凍してあるのよ。楽しみにしていてね」
ふふふ、と彼女は笑って見せたが、その言葉の端々からは露骨に紅葉に対する攻撃的な響きが漏れ出していた。
「……それはもちろん楽しみですし秋刀魚の塩焼きも好きですけど……甘夏さん、紅葉さんこれ今酔っ払ってるだけなので、あまり真に受けないで下さい。紅葉さんも挑発しないで下さい。お酒取り上げますよ」
ひづりは甘夏をなだめつつ、同時にお酒で良い具合になっている膝の上の叔母の額を、ぺち、と叩いた。
「いー。んじゃ明日は姉貴が作りなよぉ! そんでどっちの夕飯が一番だったか、ひづりちゃんと兄貴に答えてもらおーじゃん!!」
紅葉はにわかに体を起こすとその酒瓶を握り締めた手で姉を指差し、宣戦布告した。
「……へぇー。紅葉は私に勝てる気でいるんだ……?」
うわ、甘夏さん本気の声だ。……この酔っ払いめ、何を勝手に人を姉妹喧嘩の渦中に引き込んでくれてるんだ。
「姉さん? 紅葉? お盆休みは休みだからお盆休みって言うんだよ……?」
甘夏の隣の幸辰が、ひづりの意思を代弁するように少し呆れ気味に突っ込みを入れた。
「兄貴は黙ってて!」
「ゆーくんは黙ってて!」
十も違う姉妹はしかし同時にそんな言葉を口にした。それから少し睨み合った後「ふんっ!」と互いにまた顔を背け、甘夏はその手を食器の片付けに、紅葉はその頭をひづりの膝へと戻した。
……同じ年の差姉妹と言っても、うちとはだいぶ違うなぁ、とそんな事を考えつつ、およそ三十八年間彼女達に上下から挟まれ、また愛され続けて来た父にひづりはまたちょっとだけ同情した。まぁ、三人揃って嫌い合っている訳ではないのだから、兄妹としては良い方なのだろうけども。
「そういえばみーちゃん、《アレ》、まだひづりちゃんには見せないのか?」
するとリビングの方でソファに寝転がって一人テレビを見ていた佳代秋がふと顔を上げ、紅葉に訊ねた。ひづりは彼を振り返ってから、また膝の上の酔っ払いに視線を落とした。
《アレ》? とは?
紅葉は一瞬フリーズしていたが、瞬きと同時に「そうだった!」という顔になってその手の酒瓶をテーブルに、どん、と置き、体も起こした。
「そうじゃんそうじゃん! 忘れてたじゃん! 酒飲んでる場合じゃねぇ!! あーんもう、佳代くん言うの遅ぇー!!」
「えぇーうっそ、僕が悪いの?」
何か知らないが、理不尽にキレた酔っ払いに、佳代秋は半笑いで肩を竦めていた。
「ちょおっと手ぇ洗わせて! はい!」
紅葉は兄と姉の間に腕をねじ込んでそのどうもお酒でべたべたしていたらしい手を洗い、それを自身のシャツで拭うと、そのままぱたぱたと小走りでダイニングを出て行ってしまった。
「まったくもう。四十も前なのに、相変わらず落ち着きの無い子だわ」
甘夏はため息を吐きつつ、洗い終えた最後の一皿を食器乾燥機に静かに置いた。
「佳代秋さん、《アレ》って何です?」
ひづりが訊ねると、彼は紅葉が走り去った先を見つめながら「まぁすぐ戻って呼びに来るよ」とにやにやしながら答えた。
そんな彼の言葉通り、一分もしないうちに走り去ったのと同じ足音が戻って来てリビングに顔を覗かせるなり「ひづりちゃん! 兄貴も洗い物終わった!? じゃあ来て来て!!」と手招きしつつ騒いだ。
ひづりと父は顔を見合わせて小首を傾げつつも、大人しく紅葉の誘導について行った。
「わ、えっ、これって――」
奥の間の隣にある、かつて親族が集まった際に食事の席としてよく使われていた十六畳の広い和室。そこで紅葉が用意していた物を見て、ひづりは口を衝いて察しの声を零した。
昼過ぎに到着した際、佳代秋が大事そうに抱えていた大きな四角い風呂敷。今それは畳の上でぴたりと解き広げられ、中に積んで納められていたらしい、その平たく細長い四つの桐の箱を等間隔で綺麗に並べて見せていた。
爽やかな桐の香りに、加えてもう一つ、ひづりのよく知っている匂いがした。先月からもうずいぶんと嗅ぎ慣れた《それ》にひづりは我知らず胸が高鳴っていた。
「ではでは、ご照覧あれー」
まだしっかり酔いが回っているようだが、紅葉はそれでもその体に二十年の歳月を通して染み付いた優雅な所作で以って順番にそれらの蓋を持ち上げていった。
四つの桐箱の中身が、ついにひづり達の眼前に露になった。
「…………綺麗、です……」
口唇から零した言葉はやはりそれ以外にとても選び様が無かった。ひづりは眼を丸くしたまま是非も無く膝をたたむと手までついて食い入るようにそれらを眺めてしまった。
白色で紅葉や若竹が描かれたその桔梗色の生地の傍らに添えられているのは組み合わせとしてはやや色味を強く見せる黄色の帯。
花色と白色が十センチ角ほどで分けられた市松模様、そこへそれぞれ反転色の藤模様が描かれた生地。帯は落ち着いた象牙色。
仄かに黄み掛かった黒と白を組み合わせた矢羽模様に、浅葱色のアヤメが描かれた生地。華やかな萌葱色の帯。
そして紗綾形がうっすらと描かれたシンプルな象牙色の生地に、橙色と雄黄色が交互に並ぶ帯。
並べられたそれら四つの反物は、一週間前に彼女が『仕立てて、事前の誕生日プレゼントにする~!』と確言したそれに間違いないようだった。
しかしその生地の柄や模様の綺麗さに見惚れていたひづりだったが、よく見るとそれが生地でなく、すでにそれぞれちゃんとした一枚の浴衣として完成した状態で桐箱に納められているのだという事に気づいて更に驚愕した。
「……え、ま、待ってください紅葉さん? これ、もしかして、もう全部、完成してるんですか!?」
確かに、自分達が行く予定の夏祭りの日程について紅葉に教えてはいた。まだもう少し先なのだ。だからこそ驚いた。
採寸してからたったの一週間しか経っていない。それなのに、もうお願いした四枚の浴衣が完成している。しかも天井花さんや和鼓さんが纏っているのと同じ、素人目にも素晴らしい出来であることが分かる、手抜きなど一分も見受けられない、見事な仕上がりで。
《呉服楓屋》の女将、楓屋紅葉。毎日方々からの依頼で多忙を極めているであろう彼女が、たった一週間で、それも普段の仕事の合間に、こんな素晴らしい浴衣を自分たちのために四枚も。
ひづりは感謝や感動を飛び越えてもはや呆れそうになった。どれだけ凄いのだ、この人は。
「おお? 気づいた? そうだよ~! 約束通り、紅葉お姉さんからぁ、ひづりちゃんへのぉ、事前お誕生日プレゼントで~す! ずっと早く完成しちゃったから、もう持って来ちゃったんだぁ~」
戸惑うひづりに、しかし紅葉はまるで何でもない事のように酒の入った笑顔で自慢げに両手を広げて語った。……今そこに居るのが、お酒の入っていないシラフの時のかっこいい紅葉さんだったら惚れてたかもしれないな、とひづりは内心尊敬と一緒にそんな冗談を思った。
「でも紅葉お姉さんねぇ~? ほんとにすっごく頑張ったんだよぉ~? だ、か、ら。えへへ……褒めて褒めて~。えへへ」
彼女はにわかに立ち上がって並べた浴衣の桐箱を迂回してこちらへ来ると、またごろりと寝転がってひづりの膝の上に頭を乗せて来た。……ほんと、酒さえ入ってなければよ。
しかし仕立てたその速度も凄まじいのだが、その配色のセンスにもひづりは驚嘆していた。
その四つの桐箱の蓋が全て開けられた時点で、ひづりは『どれが誰の浴衣なのか』が一目で分かってしまったのだ。官舎ひづり、味醂座アサカ、奈三野ハナ、そしてラウラ・グラーシャの四人分。色の指定などしていなかったはずなのに、各々にどの色と柄の浴衣と帯が合うのか、彼女は完璧に見抜いていたようなのだ。
改めてひづりは彼女の和裁士としてのその素晴らしい技量に、今はこんなザマではあるが、それであっても気後れするようだった。
「すごいです、紅葉さん、すごいですよ。ありがとうございます」
ひづりは一周回ってもはやちょっと困ってしまいつつ、叔母の頭を撫でてあげた。「でへへ」と笑みに顔をまた赤くしながら紅葉はひづりのお腹に顔を埋めて丸くなった。
「ひづりちゃん。それね、仕事の合間にみーちゃんが仕事以上に真剣に仕立ててたから、相当な物になってるよ。それとちなみにだけど、それ、誕生日のプレゼントって理由で受け取る話になってるんだろ? でも間違いなく、うちの紅葉が本気で仕立てた着物だ。間違っても相場とかの話はしない方が良いよ」
隣であぐらを掻いていた佳代秋がそのように少し意地悪な口調で笑った。……うん、確かにそれはやめておこう。どう考えても払える額ではない。着るアサカたちにも話さない方が良いだろう。酔っ払……紅葉さんも、きっとそれを望んでいないだろうし。ひづりは叔母の頭を引き続き撫でつつ、改めてそれらの浴衣をぼんやりと眺めた。
「――じゃあ、甘夏お姉さんからはこれを」
するとおもむろに立ち上がった甘夏がそう言いながらそばの戸棚を一つ開け、綺麗にラッピングされた四角い箱を取り出してひづりにうやうやしく差し出した。
「え、と……甘夏さん……これは……?」
急なことで戸惑いこそあったが、それでもひづりはちゃんと理解していた。受け取ったそれは誰がどこをどう見ようとも、一分の違えようも無く、上等な贈り物の様相を呈していたからだ。
それから甘夏は、体を起こして眼を見開き呆気に取られている紅葉を振り返って、ふふん、と少し得意げな顔をした。
「誕生日プレゼントよ。もちろん、ひづりちゃんへのね。紅葉が事前の誕生日プレゼントに浴衣を仕立ててあげようとしてる、って聞いてね。そうしたら、私だって……ねぇ」
そう言ってまたひづりの眼を見つめ、彼女は少し照れくさそうな顔をした。
「……開けてみてくれる? ひづりちゃん」
色っぽく首を傾げ、そんな切なげな顔と声音でお願いしてくる伯母に対し拒否など出来るはずもなく、ひづりは頷くと同時に視線を手元に落とし、包み紙の端を摘んでゆっくりと開いた。
和紙の中から現れたその高そうな漆塗りの木箱を前に一度ひづりは息を呑んだが、ふと視線を上げた先の甘夏が期待に満ちた眼差しをこちらに向けたままその顔を少しばかり赤くして落ち着かなさそうにしていたので、思い切ってその蓋を開けた。
「……わぁ」
それは太さの異なる白線が三つほど入り混じった直径三センチほどの二藍色の球に金色の細長い板が長さを変えて三列、藤の花の様に連なって揺れる、和服用の髪飾りだった。髪が短いひづり用にだろう、根元はかんざしや櫛ではなく、ヘアピンの形式を取っている。
「……気に入ってもらえたかしら?」
煌びやかなそれに思わず見惚れていたひづりに、甘夏が少し不安げな声を転がして来た。ハッと我に返るとひづりは我知らず身を乗り出すようにしてはっきりと答えた。
「はい! とても、とても可愛いと思います! ありがとうございます!」
それを聞くと甘夏はそれはもう心から安堵しきった顔になって自身の胸に手を触れ深く息を吐いた。
「良かったわ。とても悩んだの。紅葉がどんな浴衣を仕立ててくるか分からなかったから、たとえどんなものにでもちゃんと似合う物を、と思って……。ええ、それこそお店で何時間も……。でも、ええ、気に入ってもらえたみたいで本当に良かったわ。それじゃあ、さ、早速着けてあげましょうね。……あぁ、そうだわ。紅葉、せっかくだから、浴衣も今、着付けしてあげましょう? あなたも、ひづりちゃんの髪飾りが浴衣に似合うところ、見たいでしょう?」
呆然としていた紅葉に甘夏はそのようにやや挑発的に提案した。
我に返った紅葉は眉根の皺を一度に寄せるとにわかに立ち上がって両足をどっしりと開き、「良い度胸してんじゃないのさぁ!!」と叫びながら実姉を指差した。
……あれ? また姉妹喧嘩に巻き込まれてる……? しかし気づいた時にはもう遅く、甘夏が幸辰と佳代秋を部屋から追い出すと、紅葉はさっさとひづりの服をぽいぽいと脱がし始めてしまった。