『悪魔と暮らすということ』
実は官舎本家への帰省に際して「天井花イナリたちを一緒に連れて行く」という案をひづりは一応だが考えた。二人と会わせたい人が居たし、もしよければだが、お墓参りにも彼女達と一緒に行きたいと考えたからだ。彼女達はサトオに店の留守番を任されていたが、帰省の間の一週間くらいなら構わないのではないか、と。
けれど実際のところ、それらはまず無理であろう、という事は、ひづりも最初から分かってはいた。店番の他にもいくつか問題があることをひづりは忘れていなかった。
まず、彼女たちの姿が依然として吉備ちよこによる《認識阻害魔術》によって『普通のフィンランド人』に見えているとは言え、その後当然降りかかるであろう「店の従業員さんが何故、官舎本家にまで来ているの?」という質問に対する周囲への良い言い訳が思いつかず、またちよこのように《認識阻害魔術》でそれらを誤魔化すこともまだひづりには出来ないのだ。
また天井花イナリも「サトオに留守は任せよと言うた手前、わしはこの店を空ける気は無い」と答えた。大抵の事は「ちょっとくらいなら」、という寛容さを見せる彼女だが、こと根城でありこの《人間界》に於いて重要な居場所であるその《和菓子屋たぬきつね》に関する事ではただ一分の譲歩も無いのだ。それをひづりも本当は分かっていた。
ただ彼女はそこへ「しかしお主がわしらに会わせたい者が居る、という件に関しては少々残念ではある。しかしそれも今はちよこめが入院しておるが故のこと。いずれ叶うことであろう。そう肩を落とすでない」と続けてくれた。姉が退院する来月以降なら期待しても良いと知れば、ひづりもその件で落とす肩は無かった。
しかし仮にそうでなくても問題はまだ一つあって、むしろこれが一番大きな問題と言えた。
定期配達という手段に踏み切るに至ったが、しかしこれらは天井花イナリと和鼓たぬこ、各々が毎日自ら買いに行けば済む、という、ただそれだけの話だった。けれどそれをひづりが何故彼女達にさせないのかと言えば、やはり一つの懸念が頭の中に在って、どうしてもそれが拭えないからなのであった
それは他でもない、《認識阻害魔術》が使えるちよこが入院している今、仮にもし出かけた先で和鼓たぬこに対し害を成す者が現れた際、天井花イナリがその怒りを抑えられない可能性が高い、という点にあった。
いつかは彼女のあの禍々しい剣を『丸めた新聞紙』に見えるよう、ちよこが《認識阻害魔術》を掛けてくれたが、彼女は今病院に居る。加えて、あの剣は取り出したり消したりするたびにその《認識阻害魔術》の効果から勝手に解放されてしまうらしく、事前に掛けておくことが出来ない。つまり、その銃刀法違反を誤魔化す事が出来ないのだ。
天井花イナリ自身も《認識阻害魔術》を使えるには使えるらしい。しかしこの《人間界》で和鼓たぬこに対して敵意ある者が現れ、また攻撃や侮辱を受けた際、天井花イナリが激昂してあの剣を取り出すほどの段階に至った時、彼女はもはやとても周囲に気を配れるほど冷静な状態にはない、という事を、ひづりは過去の実体験から確信として捉えていた。実際、問えば彼女自身も「……怪しいところじゃな」と語った。
それが一番の懸念だったのだ。近所で彼女があのような剣を持ち出し、人へ向けているところを多くの市民に見られた時、天井花イナリと和鼓たぬこはこの近辺で暮らしていく事が非常に難しくなる。それがひづりには何より恐ろしいのだ。
此処が彼女達の居場所でなくなってしまう。そのようなことだけは絶対にあってはいけない。
だからサトオの「《和菓子屋たぬきつね》の留守番をしておいてほしい」というお願いにも、そういった意味合いが多少含まれていることをひづりも理解していた。
どんなにひづりが彼女達を受け入れ、彼女達もまた同じ想いを胸にしているとしても、それでもやはり天井花イナリと和鼓たぬこはどうしようもなく《悪魔》なのだ。
ちよこによる《認識阻害魔術》が未だ効果を発揮しておりその『人間の大人恐怖症』がかなり抑えられているとしても、それでももし肌が触れるほどにまで人間の大人に接近された場合、和鼓たぬこはその《サキュバス》としての力を使ってしまわないと決して言い切れないだろう。相手がどうであれ、また人を殺してしまう可能性は高い。
彼女達《悪魔》がこの《和菓子屋たぬきつね》で生活して来られたのは、やはりちよこによる《認識阻害魔術》という強力な誤魔化しの力あってのことだった。それがまだ今のひづりには獲得できていない。口惜しさが胸に広がるようだった。
だが出来ないのであれば仕方が無い。天井花イナリも「まずは《防衛魔方陣術式》を覚えよ」と言った。《認識阻害魔術》による誤魔化しが効かず、天井花イナリたちの悪い噂が広まることもまずいが、直接的な、たとえば《ベリアル》のような者が接近してきた際にまた何も出来ない、という、そちらの方が問題だからだ。
それに実際、現状ちよこが居なくても二人が店の中で大人しくしてさえいれば、それらひづりの懸念している問題はほぼ起きる事は無い。彼女達の《人間界》での生活は守られる。
ただ「《悪魔》二人きりでなければそれも話は少しだけ変わる」、ということも、ひづりは部分的に希望的観測ではあるが、確かな現実としても見つめていた。
ひづりの母である万里子や姉のちよこによって軟禁され、店の外、つまり《人間界》での活動への耐性が低い天井花イナリと和鼓たぬこだけでならともかく、そこに人間として十七年間《人間界》で生きて来たひづりが加われば、やはり事情は変わってくるはずなのだ。
ひづりも少々堪忍袋の緒が細い性格ではあるが、しかしこの二人の《悪魔》のためなら有事の際にもちゃんと冷静に仲介が出来る、そんな自信が今はあった。「大切な二人のためなら自分の我くらいどうにか抑えて見せよう」、という覚悟が、《レメゲトン》を受け取るよりずっと前に、すでにひづりのその胸の内には生まれていた。
それに万里子とちよこに首輪を繋がれていた時と違って、天井花イナリは今ひづりと《契約》の関係にある。それ故、これまでとは多少彼女のその心の持ち様というものも違って来ているはずだった。彼女は自分の事を『お気に入りだ』と言ってくれる。なら、自分がすぐそばに居れば、彼女も以前よりは冷静さを保ってくれるはずだ、という期待が少しは持てる。
だから今日、三人で出掛けるのだ。天井花イナリはひづりを意識して、そしてひづりは二人の事を意識する。それによって、何があっても気持ちを多少は抑える事が出来る。ひづりは《魔術》に関してまだまだ非力だが、これまでに彼女達と培った関係による《力》を見落とすほど愚鈍ではないつもりだった。
しかし久々の事である。実に一週間ぶりだった。ひづりと、天井花イナリと、和鼓たぬこ。この三名で出掛けるのは、姉の病院を出て《和菓子屋たぬきつね》へ向かったのが最後だった。その上、明日からしばらく会えなくなる。
だから出来るだけ今日は楽しい午後にしよう、とひづりは考えていた。そうなるよう頭を働かせて、二人にとって幸いの日になるよう努力しよう――。
そんな決意を胸に、ひづりは二人の《悪魔》と共に明るい午後の商店街へと八日ぶりにその足を踏み出した。