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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐
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   『私も本が好きだから』




「……しかし、本当にラウラ、日本語上手だね。昔日本に住んでたとか?」

「いいえ。でも、オーストラリアに日本人の友達は居ました」

 ……おや? ひづりは一瞬、彼女の顔に影が差したのを見逃さなかった。嘘の影だった。けれど何か、どこか、今までに教室で見て来たそれらと少しその様子が違うようにひづりには感じられた。

「その友達のおかげもあって。あとは独学でした。敬語も謙譲語も出来ますよ」

 だがその影はすぐに消え、笑顔と共に『独学でした。敬語も謙譲語も出来ますよ』という強烈な右ストレートがひづりの顎を打った。

 独学。話し相手の日本人が居たとしても、独学で。ほお。この七面倒くさい、ひらがな、カタカナ、前後の繋がりで読みや意味がいくつにも変化する漢字、敬語、丁寧語、謙譲語を。ひづり自身、敬語丁寧語謙譲語は怪しいのに、ほお、独学で。

 もうやだこの子怖い。

「……面倒くさかったでしょう。特にカタカナと敬語と謙譲語」

 尚も宙を浮かぶ自尊心を眺めながらひづりが問うと「そうですね。カタカナは未だにちょっと理解しかねる部分がありますね。和製英語というのですか? あの辺りの用途の判別が難しいです」と追い討ちを掛けて来た。

 駄目だこれは。聞けば聞くほど自分がダメージを受けている。ひづりは自身の自尊心を回収するべく別の話題を探す事にした。

「ひづりは、母国語についてどう考えていますか?」

 しかし先に回り込まれてしまった。ひづりは諦念気味に脱力した体で返した。

「……日本語について……。あーん……。そうだね…………昔は美徳とされてたものが時代についていけなくなって……そのせいで言語そのものが日本国民のあらゆる生活の側面……仕事や思想や恋愛に於いて、大いにグローバリズムへの移行を乗り遅れさせ続けてる……かな」

 ようやく帰って来た自尊心がひづりの口唇を動かした。

「美徳、ですか?」

 ラウラが首を傾げた。彼女が真摯に聞く姿勢を呈してくれたため、ひづりも居住まいをしゃんと正してちゃんと答えることにした。

「例えば、敬語や謙譲語。あれらは、日本以外の国にも似たようなものがあるって聞いたことがあるけど、少なくともこの国では、古くから言葉自体が『贈り物』として捉えられてきたんだ」

「贈り物……」

「そう。昔の日本人は、言葉すらプレゼントの一種だと考えたんだ。偉い人、お殿様、愛する人。そういった相手に贈るなら、言葉さえも飾り付けなくては、なんて思ったんだ。ただ実際、それらは美しいものだと私も思う。敬語や謙譲語、ラウラが普段使っている丁寧語もね」

 ひづりはそっとラウラの唇を指差した。

「でも、日本人はそれを義務化してしまった。根強い全体主義がそうさせたんだと思うけど、とにかく、偉い人も私たちみたいな一般人も、必須のものになってしまったんだ。仕事をする上でも、日常生活を行う上でも用いなくてはいけなくなってしまった。けど、相手の機嫌を取るための言葉がそもそも装飾華美であればあるほど良いという考え方自体が間違いなんだ。本来なら、本当に大事な時にだけ使えば良いんだ、丁寧に着飾った言葉なんてのは。心の底から尊敬する人とか……愛する家族とか……そういった相手に大切な事を伝えたり、手紙を書く時の、本当に特別な言葉にしておけばよかったんだ」

 そう呟きながら、自然とひづりの頭の中には天井花イナリや父の顔が浮かんだ。

「その上、英語が世界的な共通言語として認められていって、現在ではアメリカと親しい間柄になりながら尚、それを覚える気がないと来てる。英語と向き合いながら、しかしその用途を覚えず、正しい発音も覚えず、それどころかネイティブな発音を学校の英語の授業ですると笑われる始末。英語を話せる日本人は少ない。話せる人は学校で話せるようになったんじゃない。自分でちゃんとした英会話教室に通って習得したんだ。日本の学校の英語の授業ほど無駄なものは無いと思う」

 実際、ひづりたちが受けている学校の英語などただの記憶力とパズル能力を測るためのものとしてしか機能していない。英語を話すためのものではない。

「日本企業の働き方の意識とかが問題視されてるけど、その一因として『日本人の言語に対する敬意の無さ』が、実際のところかなりの割合で含まれていると私は思ってるよ」

 自身の語調が次第に熱を持つのを自覚しつつも、しかしひづりはそれらを真摯に聴いてくれるこのラウラという英邁な少女を前に、ついそのまま、自身の頭の中にくすぶっていた『とある仮定の話』をしてしまった。

「新しい日本語を作るべきなんだ。言うなれば英語みたいに短く効率的で、また海外から日本に何かを学びに来る人も覚えやすい、そんな簡略化された形態の日本語を作って、それを中心言語として日常でも仕事でも用いつつ、同時に学校の英語の授業では実用的な英語かグロービッシュの会話技術習得に力を入れるべきなんだ。……けど、日本語の方はまず無理だろうね。仮にその新しい日本語を作るとして、スタート地点としては敬語とタメ口の中間辺りを混ぜて削って形にすべきだろうけど、まずそのスタートが切られる機会が来るよりも先に、日本という国が前進する力を失っている可能性の方が高い。いや、もうすでに日本の経済は破綻してる。国そのものが機能しなくなって、これからは先人によって積み上げられてきた色んな文化というものが粗末に扱われるようになる。衣食住足りて礼節を知る、というくらいだし、経済に失敗した国から文化遺産なんてものは瞬く間に破壊されて歴史から消えていく。あるいは逆に生まれもするだろうけど、変革する意識もなく経済破綻した国で生まれた文化なんて、きっと自転車操業止まりが関の山なものだろう」

 口に出してしまうと、ひづりの母国語への思想とはあまりにも悲観的で厭世的だった。ひづり自身も語って驚いた。絶望的で、何より、「なんと聞いていて楽しくない話だろうか」と愕然とした。

 そうである。こんな話、楽しくもなんともない。せっかく良い質問をしてくれたラウラに、なんとも悪い事をしてしまった、とひづりは落ち込んだ。

 けれどラウラは、表情を変えないままにそっと呟いた。

「ひづりは、とっても賢いですね」

 ……嫌味かしら? とすぐに思ってしまうのは日本人の悪いところか、とまた自虐的に思いつつひづりは正直な返事を転がした。

「どうせ成績は万年、中のちょっと上止まりですよ……。ごめんね変な暗い話して……。反省してる……。こんな暗い話に進むとは自分でも思わなかった……忘れておくんなまし……」

 ひづりが椅子の背にもたれて顔を覆いまた天井を見上げると、ラウラはしかしはっきりと「いいえ」と答えた。見ると、彼女は背筋を伸ばしてひづりに向き直っていた。

「過去から学び、現状を正しく見つめ、未来の映像を考えられる。それは誰にでも出来る事ではありません。それは学問とは少々異なる、人の脳の性能の優秀さですよ」

 図書室ゆえにその声量を自制しているとしても、普段の転げまわる元気な犬のような振る舞いからとても同一人物とは思えないような真面目な声音でラウラははっきりとそう言い切った。

 ひづりはそのままおもむろに手を下ろしてラウラのその真剣な金色の瞳を見つめ返した。

 ラウラは嘘を吐く。酷く分かり辛いが、それがひづりやハナには微かにだが感じ取ることが出来て、違和感として胸に残り、その発言が、行動が、何らかの嘘に端を発したと分かる。ハナの鋭さの由来は分からないが、ひづりには《悪魔》のように人を平気で騙す姉が居た。だからそれが分かる。

 だがやはりこうした話題……文字、言葉に関しての話だけは、彼女はどこまでも素直で実直で何より真摯である、ということを、ひづりは今改めて確実なものとして捉えるに至っていた。

 ……この娘はずっと図書室に閉じ込めておいたら良いのでは? と、もちろん冗談だが、ひづりはそんな事をちょっと考えてしまった。

「ただ、ひづり? さっきのお話ですけど、絶望こそ世の常ですが、希望も、いつだってあるものなのですよ」

 ラウラはおもむろに視線を外して正面を見ると、いつもは百合川が掛けているその席で再び背筋を綺麗に伸ばして言った。

「日本が今、少子高齢化に対して何の対策も取らずに来たせいで経済破綻を引き起こし、若者は働き過ぎと過度なストレスで長生き出来ないとさえ言われていますが、その分、無能な年寄り連中は近いうち一斉にくたばります」

 若干穏やかではない単語が出たが、ひづりは黙って耳を傾けた。

「その後、少なくなりすぎたひづりたち今の若者だけで日本を支えていく事は、現実的に見て、困難を極めるでしょう。それでも、日本は地球の国の一つです。隣の国、遠い国。仲の良い国、仲の悪い国。それぞれの思惑は、日々変化を続けています。そんな中で、日本が孤立することは絶対に無い、と私は見ています。日本の経済力に関しての評価は世界的に見て最低極まりますが、けれど、捨てる神あれば拾う神あり、という諺もあるように、海の向こうから、何かが日本にもたらされる事も十分にあり得るのです。それが良いものであれ、悪いものであれ、それによってまた世界は動きます。敵でも、友達でも、国々というのはやはり、この丸い地球の中に在って、互いの存在を認める事で成り立っています。奪い、騙し、利用されることもあれば、救い、助け、友として戦ってくれる国もあります。日本という国は、あまりにそういった事に対し疎いように思います。役立たずの年寄り共がくたばった後……いや今からでも、あなたたち若い日本人はきっと世界を見て回るべきなのです。世界は広くて、思った以上に残酷で、そして思った以上に優しい事を、あなたたちは知るべきなのです」

 傾き始めた西陽がいつの間にか図書室の分厚いカーテンの隙間から帯となって伸び、ひづりとラウラの間に一筋の光の壁を作り出していた。その細い陽光の帯は図書室に浮遊する細かな埃をふわりふわりと照らし出し、それらがフィルターのようになって、整い過ぎているラウラの優しい笑顔をまるで非現実的なものの様にひづりに見せていた。

 ――自分は今、一体誰と話しているのだろう? ひづりはラウラの言葉を聴き、受け止めつつも、しかし語る彼女のその様子から「同じ女子高生である」という認識が完全に消え去っていた。

 語った内容は政治的なものだったが、しかしそこに俗世的なものは無く、むしろもっとずっと広い視野を持って世界や国を見ている……例えるなら……そう、《皇族》だとか……そういった、人の上に立つ人間の雰囲気が今のラウラからは出ていた。

 ラウラ・グラーシャ。彼女は誰なのだろう。嘘で塗り固められたその奥に、本と文字を愛するその本質の奥に、一体何が柱として存在しているのだろう。

 そもそもおかしいのだ。明らかに度を越えた容姿と、とても十七歳とは思えない見識を備えた才女が、世界的に遅れをとり続けている日本の、こんな小さな高校に交換留学に来ること自体――。

「ひづり? どうしました? ……あ、私、ちょっとうるさかったですか?」

 ラウラは慌てて口元を押さえ、眉を八の字にして周囲に視線を投げた。

 彼女の急な表情の変化にひづりも我に返り、慌てて否定した。

「い、いや。大丈夫。そんなことないよ。……ラウラが私の話に真面目に返してくれて……それが私にとってとても良い勉強になったな、って思って……ちょっと感動してた」

 少し冗談っぽくひづりが言うと、ラウラはまたにっこりと笑顔になった。

「そうですか。私の知恵が役立つのは嬉しいですし、話し合うのも楽しいですよ」

 英明な美少女、という表現がただ一つ似合うその笑顔に、ひづりはやはりこの少女はただの留学生などではないと確信した。海外の同い年の少女がどんなものかなど分からないが、しかしだからといってこんなに綺麗で頭の良い子が、どうしてわざわざ綾里高校なんかに転校してくるものだろうか。

 今朝を以って彼女のひづりへの過剰な接触は控えめになった。けれど今日もまた相も変わらず理解出来ないタイミングで見せる嘘の仕草や言葉と、そして何よりその同学年の少女とは思えない怜悧で博識な物言いに、やはりひづりはラウラ・グラーシャの人物像というものを上手く捉えかねていた。

 ただ、今日ラウラと話せた時間はとても楽しかった。先週末の疲労の二日間が何だったのかと言うほどにひづりの心は穏やかであった。おそらく本の話をする時に綻んだ彼女のその笑顔が、そして彼女が語ってくれた本に対するその思想が、とても心地良いものとしてひづりの胸に触れていたからだ。

 まだ分からないことだらけで、思う以上に難しいかもしれない。これからひどく長い時間が掛かるかもしれない。けれど、それでも今日は楽しかった。話して、とても楽しいと思えた。いつかきっと自分はこのラウラ・グラーシャという少女ととても良い友達になれる、そんな予感すらするほどに。柄にも無くひづりがそんな事を思ってしまうほどに。

 そして同時に、本の話をする時だけ正直になってくれる彼女にとって、ここがまず一番の《心地良い場所》になってくれたなら。それはきっと何より素敵なことだ、と、図書室を愛するひづりはやはりそう思わずにはいられないのだった。








 第2期、3話お読みくださってありがとうございます。

 一話まるごと一箇所で過ごさせる、という無謀なことをしました。反省してます。たぶんもうしません。


 次回、4話はついにひづり達の高校が夏休みに入ります。お盆の帰省の準備としてひづりは天井花イナリ、和鼓たぬこの三人でお出かけする事に。

 私としては三人のやりとりがやはり一番好きなので、これから書くのがとても楽しみです。ではでは。



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