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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐
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   『きっと同じ気持ちで』




 飲食店街を出て宿へと戻り、噂通りのご馳走を頂くと、いざお待ちかねの温泉の時間がやってきた。

 実のところ、母に幼少の頃から連れ回されるうち、ひづりも温泉というものが結構好きになっていた。最後の最後まで母の身勝手旅行に本気で反対しなかった理由はそこにあったのだ。

「ひづり。タオルはこうでよいのか?」

「はい、そうです。端をこうして巻くようにしてですね……。あ、和鼓さんお上手ですよ」

「むぅ。準備もなかなかのものじゃな」

「ああ、天井花さんは先におぐしを上げておいた方が良かったかもしれませんね。よかったら、お手伝いしても?」

「うむ、良い、触れる事を許す。こと此度の温泉旅行に関してひづりは造詣深いのであろう。頼りにしておるぞ」

 だがひづりは今回もこのように、脱衣所でタオルの巻き方や温泉の入り方などを事前に教えるなどしてあくまでも平静を装っていた。母や父との旅行によって、はしゃいで子供扱いされたくない、という感覚が、ほとんど習慣のように身についてしまっているのだ。特に今回は天井花イナリの前で背伸びしたい気持ちが強かった。

 しかしやはり今回の旅行のメンバーで温泉宿を本当に本気で一番楽しみにしていたのは間違いなくひづりであった。あの日、チケットを譲ってくれた千登勢が帰宅した後、ひづりは即座にこの温泉宿の情報を休憩時間中ずっと検索していたほどだった。加えて旅行が決まってからの一週間わくわくして内心ずっと落ち着かなかったし、昨日など楽しみ過ぎてあまり眠られなかった。夕刻前、父との電話で『旅行好きはちよこに遺伝したな』という話に同意はしたが、旅行はともかく、温泉や銭湯自体はひづりも本当は大好きなのだ。千歳烏山に住んでいた頃は近場に大きめの銭湯があったのでよくアサカと一緒に行っていたのだが、現在住んでいる新宿の近辺にはそういう通いやすい距離と手ごろな価格の銭湯が無かった。姉のちよこの結婚を機に、千歳烏山の広いマンションから二人暮らしで充分、かつ学校に通いやすい新宿駅に近い現在のマンションに越したのだが、その部分に於いてひづりは引越しは失敗だったなとずっと悔やんでいた。今でもアサカの家へ遊びに行った際はたまに馴染みの銭湯に行くが、やはり少しばかり遠いのである。

 ともかく、今日はちゃんとした温泉旅館なのである。行きにもちらりと見えたが、錦帯橋の掛かる錦川を挟んだ向かいに位置する岩国城を眺められるというこの旅館の温泉は檜風呂と岩風呂で分けられており、それらは日替わりで、今日は岩風呂が女湯となっているとのことだった。岩風呂も好きだが、明日は檜、明日は檜……とまだ二十四時間先の事を楽しみにしながらひづりは着替え、準備の終わった天井花イナリ、和鼓たぬこ、花札千登勢と共に浴場へと入った。

「はぁぁ……」

 岩風呂温泉はホームページで見たよりずっと広く、十八時を回った今はすでにそこら中で白熱電球が灯されており、彼方には、今は暗くて見えないが岩国城とその足場である山の峰のシルエットを夕暮れの空に臨んでいた。

「良いところですわね」

 洗面台までの道すがら、隣の千登勢が少し屈んで顔を近づけてこっそりと言った。元々身長差からしていたことだったが、そうして話すのはもうひづりと千登勢の間ではちょっとした冗談というか、習慣というか、お約束のようになっていた。

「はい、とても。来られて良かったです」

 振り返ってそう返したところで、ひづりの視線は無意識に、吸い寄せられるようにそのすぐ下を向いた。

 胸。一瞬ひづりの思考が停止した。それくらい、やはり、スーツ姿で見た時も思った通り、そして先ほど着替えている時もとんでもない大きさのブラをしていたのをちらりと見ていたが、やはり花札千登勢の胸は大きい。隣に並んでタオル一枚巻いただけの状態ゆえにはっきりと分かってしまったその大きさは、とても同じ血縁者とは思えないほどの迫力を持っていた。叔母はどうやら、姉の分を全部吸い取って生まれてきたのだな、とひづりは母のとても平たかった胸に思いを馳せた。

 そして胸と言えば、和鼓たぬこもすごいのだ。ひづりはちらりと、今度は天井花イナリの隣を不安げに歩く和鼓たぬこを見た。彼女が巻いているバスタオルは千登勢と同じくまるで丈が足りておらず、彼女の豊満な胸は今にも溢れこぼれ出そうになっていた。おそらく千登勢と同じくらいの戦闘力だとひづりは見ていた。

 ハナもかなりあるのだ。確かFだと言っていた。ひづりも一応Dではあるが、それはアンダーバストが細いゆえのDであり、アンダーバストどころか全身の骨格からしてスタイルの良いハナの胸は、ひづりとたったカップ差が二つとは思えないほど自己主張が強かった。頭の良さと同じく、彼女のその部分にはひづりも若干の敗北感を抱いていたが、しかし今両隣に居る怪物はそんな生易しいものではなかった。裸を見ないながらも「あれはKくらいあるのでは」とハナが以前言っていたが、まさにそれくらいはありそうだった。加えて百七十センチに届きそうな長身、腰は綺麗にくびれ、骨盤は広くて太ももの曲線が美しい。

 そんなひづりの今の心を保つのは、そのようなヴィーナスに挟まれてなお何の気無しにいつも通り品のある所作でシタシタと歩く、天井花イナリに他ならなかった。と言っても彼女もその百四十に届かない身長でまさかのCはあるというのだから驚かされたが。

「どうしたひづり。そうじろじろと」

 ひづりの視線に気づいたらしい、天井花イナリがにわかに顔を上げて口の端を少し上げつつ眼をかすかに細めた。ドキリ、とひづりは焦った。

「……ふふ、良い良い。こうして縮んだ身とは言え、我が玉体、見惚れるのも仕方の無いことよ。噂に聞いておった景観が霞むやもしれぬが、それでも良ければその眼に焼き付けておくことを許すが?」

 結い上げた長い白髪のうなじ辺りを自身の指でそっと撫でつつ、また機嫌が良さそうに天井花イナリは答えた。おお……さすがは王様って感じだ……とひづりは一人、結局また孤独感を味わうこととなった。

 うん、和鼓さんと天井花さんは《悪魔》だからスタイルがすごくても仕方が無い。うん、仕方ない。それに千登勢さんは血縁だし、私もそのうちあれくらい……とまではいかなくても、今よりもっと成長したっておかしくない。成長期ですし。うん、そうだそうだ、うん。とひづりは内心暗示のように呟いて精神を保ち、温泉を純粋に楽しむことに集中する事にした。

「お待たせ~」

 手洗いに行っていたちよこが遅れてやってきた。

 ひづりの視線が思わず姉の胸に行く。Cだっ……たと思う、確か。生まれて初めてひづりは姉がただそこにいるだけで頼もしいと感じた。そして来い。今すぐ私の隣に来い。千登勢さんと和鼓さんに挟まれる、この想いを味わえ。




 温泉初心者の天井花イナリと和鼓たぬこに入浴前の作法などを教えて、いざ入浴、というところになって、にわかにちよこが訊ねた。

「あら? そういえば《フラウ》ちゃんと《火庫》ちゃんは?」

 ……ああそうか、男湯の前で別れる前に手洗いに行っていたから、その話を姉は聞いていなかったのか、とひづりは気づいた。

「あの子たちなら凍原坂さんと一緒に男湯だよ。見た目の年齢が年齢だし平気でしょ。それに私達じゃ、あの《二匹》、おとなしくさせられないだろうし」

「なるほどねぇ~。あ~でもそれはそれで、向こう、つらいかもしれないわねぇ」

 つらい? 何が? とひづりが首を傾げた矢先、敷居の向こう側からにわかに《フラウ》の笑い声がこだました。

「にゃはははーん! でっかいお風呂ではないか! 良いな! 気に入ったぞ! にゃは! にゃははあん!」

「ああこらこら! 《フラウ》! 走らない! 止まりなさい! 危ないから!! 体を洗ってあげるからこっちに戻って来なさい!」

 岩風呂と檜風呂の間には涼み処への通路があるはずだったが、知人の声だからか、二人の声はやけにひづりの耳に届いた。

「では凍原坂さま? このわっちめが、凍原坂さまのお背中、お流しいたしますわ」

「ありがとう《火庫》」

「……あっ、ひひ、くすぐったい! ひひあははは!」

「ああもう《フラウ》ったら、暴れないでおくれ。すぐだから我慢しような」

 丁度近いところに居るのか、普通の話し声でも耳をそばだてていればどうにかそこそこ会話の内容は聞き取る事が出来た。

 凍原坂は《二匹》を娘として扱っていると言っていた。家での入浴も普段からこんな感じなのだろうか、と思うとひづりは何だか暖かい気持ちになった。自分も姉も、子供の頃は父に入浴の世話をしてもらっていたから。

「じゃあ次は逆向きに。今度は私が《火庫》の背中を洗おう」

「おお! いいぞぉ! ではわっちが今度はとーげんざかの背を洗ってやろう! ……どうだ、とーげんざか! 上手いだろう! 背を磨くのもわっちは一流だからな! にゃははん!」

「ああ、とても気持ちが良いよ、《フラウ》」

「あっ、あっ、ああぁん、凍原坂さま、そのような所こすられては、わっちは……わっちは……あっ、あっ」

 《火庫》さん!? ちょっと待って!? あっち側、本当に大丈夫!? 主に《火庫》ちゃんが凍原坂さんの人間性を疑われるような声出してるけど本当に大丈夫!? サトオさん、凍原坂さんが何か誤解されて何かあったりしたらその時はちゃんと助けてあげてね!? 他人のフリしてないだろうな!?

「どうしたひづり。入らぬのか?」

 心臓をドキドキさせながら檜風呂の方を見つつ凍原坂の身を案じていたところ、隣の天井花イナリがひづりの腰を手の甲で軽く叩いた。はっ、と我に返り、振り返る。どうも、まだひづりから温泉の入り方を教えて貰っている気だったらしい、天井花イナリも和鼓たぬこも湯の前で立ち尽くすひづりの横に並んで立っていた。千登勢もそれに倣ってか、隣に立っていた。

「あ、ああ……いや、たぶん、たぶん大丈夫……たぶん……。……入りましょう」

 和鼓たぬこはおっかなびっくりしていたが、それでも普段入っているお風呂とそこまで違いのあるものではないと気づいたようで、それからはリラックスした表情で肩まで浸かっていた。かわいい。

「大勢で入ると聞き、妙な風習と思うておったが、さもありなん、悪いものではないのう」

 天井花イナリも湯加減にまた機嫌を良くしたらしく、そんなことをこぼした。特に和鼓たぬこと一緒に入浴出来るのが嬉しいのだろう、彼女のそばで同じように肩まで沈んでいた。

 連れて来てよかった、とひづりは心から思った。彼女達が幸せで居てくれると、ひづりも嬉しい。それは人間がおよそ《悪魔》に対して抱く感情ではないかもしれないが、それでもひづりは正直にそう思うし、そういった自分の気持ちを否定するつもりもさらさらなかった。

 これは勝ち取ったものだ、とひづりは捉えている。たった二人にほとんど店のことをやらせ、給料も休日も与えていなかった姉を、少々荒っぽくなったが説き伏せる事に成功し、彼女達に人間の世界での娯楽施設をこうして堪能させられるまでになった。

 そうか、まだたった一ヶ月なのか。ひづりはもう何ヶ月も過ごしたような気がしていた。

 けれどまだ一ヶ月なのだ。これからも続いていくこの日々を、自分は守っていきたい。ひづりも肩まで沈んで深い息を吐いた。

 今日、飲食店街でようやく気づき、そして父に話したことをひづりは思い出した。

 この旅行は、自分の旅行なのだ、ということ。官舎ひづりが誘って集めた、大切な人達を伴った、官舎ひづりの旅行なのだ、ということ。

 父は『色んなものを見ておいで』と言っていた。もちろんそのつもりだ、とひづりは思っている。そしてもうすでにこうして二人の《悪魔》の幸せの顔を見られた。

 明日は観光に出向く。そこでまた彼女達の顔に笑顔が浮かべば良い。そしてまた宿に戻ったら、今度は檜風呂だ。どんな顔をするだろう。私は何を思うだろう。

 ただそこでたくさんの思い出が出来るのだけは確かだ。自分にも、天井花さんたちにも、千登勢さんにも、凍原坂さんたちにも。ついでに姉夫婦にも。

 月が強く光っている。昼に快晴だったからだ。雲がなく、屋根に遮られない限りの空を星々がきらりきらりと輝いている。岩風呂と檜風呂の間にあるという涼み処の方へ出れば、五等星、いや六等星まで見えるのではないだろうかという瞬きだった。温泉を出たら、そちらへも皆で行こう。

 ――楽しい。ああ、こうして親しい人を連れまわすのはこんなに楽しかったんだね、母さん。








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