『失望』 4/5
『──ザザッ。……こちら《回収者》、デルタからの報告です……』
インカムに通信が入った。《ボティス王》から逃げながら意識を其方にも向ける。
『──先ほど山へ入った《ボティス王の契約者》たちですが、現在、待ち伏せさせていた獣共を回避、対処しながら想定よりも速く道路へ向かっているとの事。どうしますか。オーバー』
「……何?」
俺は思わず訊き返した。デルタチームは先ほど《ボティス王の契約者》たちがD3地点から山中へ入った、と報告して来た監視の動物班だった。故にてっきり今度は、《契約者》たちを捕まえた、という報告が来たのだと思った。
其れが、捕まえるどころか、足止めすら出来ていない……? 如何言う事だ。D3地点から道路へのルートは、奴らが山へ入った際に選ぶであろう可能性が最も高いと判断し、動物達の待ち伏せの数も他ルートより多く当てていた筈。其れをこんなにもあっさり切り抜けるなど、有り得ない。
何か《仕掛け》でも無い限り──。
「…………」
横目に改めて背後の《ボティス王》を見る。罠と言えば彼女も此の一帯に気持ち程度でも足止めになればと思い仕掛けておいた人間の罠……トラバサミや地雷といった罠に先程から一切引っ掛かってくれない。彼女には蛇と同じピット器官がある。故に周囲の木々や土よりも若干温度の低い金属で出来た罠は感知出来る、という事なのかも知れない。
……其れだろうか? 若しや《ボティス王》は《契約者》との別れ際、其のピット器官の一部を《契約者》に分け与えた? 其れによって待ち伏せの動物達を避けたり、事前に位置を特定して対処している……? 果たして其の様な事が出来るのか分からないが、視認しようがない待ち伏せを全て回避したとなれば、そうとしか考えられない。
だがまぁ良い。邪魔な《フラウロス王》を呼ばれない為には《契約者》達を此の山から出さねば良いだけなのだ。最悪此の儘道路に出られても構わない。そうなった場合を想定しての手も既に打ってあるのだから。
「……《バルバトス》、了解した。少し早いが、タンゴチームに次の行動を指示しろ。オーバー」
『ザザ……《回収者》、了解。オーバー……』
さて……此方は此方でやらねばならない。
《ボティス王》。今回初めて使ってみたが、お前が人間製のトラバサミや地雷に引っ掛からないだろう事は予見していた。故に、人間製の罠ほど数は用意出来なかったが、此れまでの運用からお前の熱源感知に捕捉され難いと分かっている木と蔓だけで作った罠も此の山には幾つか設置し、そして其れに《新たな罠》を組み合わせてみた。其の罠の地点に俺達はもうじき到達する。
見えた。目印の小さな沢。
さぁ、どうだ。
──ザンッ!!
「ぐっ!?」
沢を超えた場所に仕掛けておいた地雷を《ボティス王》がひょいと避けた瞬間、其の足元で仕掛け用の小さな枝が弾け跳び、麻布に包んでいた黒い粉塵が一気に舞い上がって彼女の全身を覆った。
当たった。やはり。
「周囲の木々と温度に差が無い木と蔓の罠は依然お前であっても見抜けない。そして……幾らお前であっても、眼球に同じ《上級悪魔の角の破片》が入り込めば、失明は免れない……此の罠は有効だった様だな……」
粉塵は事前に折って砕いておいた俺の《角》であり、今回の《ボティス王》との闘いで使おうと計画していた、今回初めて採用した罠だった。自らの《角》を大きく削った事で《魔性》と《神性》が低下し、《ボティス王》の追走速度に対応出来なくなるかもしれない、という懸念もあったが、幸い今の彼女は《金色の月》の姿と違い手足が短く、リスクは帳消しになったと見て問題無さそうだった。
しかし、一瞬動きが鈍り閉じた両目からは出血も認められたものの《ボティス王》の足は止まらず、其の顔は変わらず真っ直ぐ俺を正面に捉えていた。ピット器官、其れから触手の様に用いられる頭髪がある限り、視力の剥奪は彼女にとって戦闘継続に大した支障は無いのだろう。
だが其れでも此の複雑な山の地形を全て把握するのは困難であろうし、何より俺が仕掛けた木と蔓の罠への対応は此れで完全に不可能となった。
引き続き彼女を誘導し、また別の場所に仕掛けていた木と蔓で作った罠をタイミング良く作動させる。木のしなりでせり上がった倒木が彼女の足をとり、微かに姿勢を崩させる。其処へ間髪を容れず俺は矢を射る。彼女は反応して身をよじったが、矢じりは確かに其の脇腹を抉った。
彼女に背を向け、再び全力で逃げる。
「……はあ、はあ、はあっ……!」
興奮で呼吸が乱れる。彼女を射止められる。勝てる。今度こそ。今日こそ。遂に。
『この状況ならボティス王は契約者らと別れて俺を追う』……其れは《ボティス王》にとって此の不利な状況の中での唯一真面な手が其れだけだった、というだけの事。俺の仕掛ける木と蔓の罠を上手く予知出来ない事も彼女は織り込み済みで、圧倒的に不利を承知で、俺を追うべく此の山へと飛び込んだ。俺が前回の、前々回の、そして前々回の其のまた前の敗北も踏まえて今回新たな罠を用意しているであろう事も承知の上で。
嗚呼。其の心の、何と美しい事だろう。如何なる逆境を承知しようと、彼女は決して諦めないのだ。折れない。歯向かった敵、俺を殺す事以外考えていない。絶対的な力を持つ王者の振る舞い。此の日本という国の《神性》に縛られ本来の《金色の月》の姿を失って尚彼女から絶えず暮方の緑光が如き輝きが放たれているのは彼女の中に在る其の侵し難い気高さが微塵も失われていない事の証明に違いない。
おお、金色の《角》と髪と瞳を持つ、妖しき女王、《ボティス》……。いつか世界の終焉、夜空で冷たく燃える月が墜ち水面で揺蕩う朧と一つに重なる時、其の最果ての美こそがお前であったと誰もが思い知るだろう。
彼女を知り堕天した三千年前、俺は彼女の為だけに王国に美術館を建てた。各国の人間の画家に描かせた『月明かりの無い夜』をテーマにした絵画は既に十分な数が揃ったが、其の中心に展示するための最も重要な《金色の月》だけが、此の三千年間、一時たりとも満たされなかった。
我ら《悪魔》の身体は死後儚くも塵と化してしまう。故に展示する《ボティス王》は生きていなくてはならない。首から下は最低限生存に必要な臓器のみを残し、後は全て取り払う。二時間おきに《魔術封じの矢》で彼女の《治癒》能力を奪いながら、俺の《治癒魔術》と《滋養付与型治癒魔術》によって其の状態のまま生かし続ける。永久に我が王国の美術館に《金色の月》を展示するのだ。其れが今日遂に叶う。
《ボティス王》。お前を討ち堕とせたのなら。俺はきっと此の世のどんな狩人も芸術家も到達し得なかった真の光の彼方を見るだろう。
故に、ああ──。
「今日こそ俺だけの月明かりになってくれッ!! 《金色の月》ッ!!」
──ドオッ!
「う、ぐ……」
作動した七つ目の罠によって大きく体勢を崩した《ボティス王》の右の前腕に俺の放った矢が命中した。落ちた彼女の《剣》が草むらへと消える。
良し! 良し! 良し!! 此れで左腕、両目、右腕の機能を奪った。今までで最も早く、そして最も大きな傷を彼女に負わせられた。
漸く手に入れられる。究極の美を。此の心を捕らえて離さぬ彼女を。胸が苦しく、涙が止まらなかった。最早己が走っているのか止まっているのかも分からなかった。視界いっぱいの木々のざわめきが、雨音が、ぬかるんだ土でさえ、俺を祝福してくれている様に感じられた。
「三千年の悲願……今日こそ……今日こそ俺は……」
『……ガガ。こちら《回収者》。《ボティス王》の鎮圧状況ステージ4を確認。戦闘状況に問題は無いか。オーバー……』
感動に打ち震えていると《回収者》から連絡が入った。
「……此方、《バルバトス》。戦闘は問題なく継続可能。オーバー」
『……こちら《回収者》。了解した。しかしこちらからは木々が邪魔でそちらの状況が確認し難い。以後、状況ステージ更新毎に連絡されたし。《ボティス王》を確実に殺せる状況になった時、私がその場に居なくてはならない事をくれぐれもお忘れなく。オーバー……』
「……………………了解」
そうであった。忘れていた。今回俺は『ボティス王を殺せ』と《アウナス》に言いつけられていたのだ。
何と言う事だろう。音の無い暗闇に取り残された様だ。悲願であった《ボティス王》の生きたままの首、其れがもう後少しという所にあるのに、俺は《金色の月》を諦めて彼女の心臓を止めなくてはならないのだ。
《アウナス》。芸術の分からないクソが……。奴は《ボティス王》が持っている可能性が高いという《ソロモン王の指輪》を求めているらしく、俺に付けた《回収者》も事前に其の為の特殊な《転移魔術》を施されているという話だが……《指輪》など、今更あんな物を手に入れて一体如何するというのだ? 奴は昔から野心ばかりで何を考えているのか正直理解出来た例が無い。
だが。此度俺が《ボティス王》との邂逅を果たせたのは奴のお陰だ。此の狩猟の為の準備やら情報やらを寄越したのも奴だ。そうでなくとも昔奴の同盟では何度か世話になった。仲間への恩を忘れ配慮を欠いた者は舞台に立つ資格を失う。義には義で返さねばならない。
……あまりに惜しい。あまりに惜しいが……《ボティス王》、此度の俺は《アウナス》の犬だ。お前の美しさを完璧な状態で愛でる日は、またいずれ……。
また…………。
「…………?」
異変を感じ、手近にあった木を掴んで足を止める。
見ると、背後の森の中、《ボティス王》が立ち止まっていた。
「…………」
彼女は少しだけ俯いた姿勢で、仄かに肩で息をしていた。一体如何したのだろう。此の程度で彼女の体力が尽きる筈はない。何が──。
──ザッ。
直後、彼女は俺に背を向けて走り出した。彼女がガサガサと枝葉を掻き分ける音が遠退いて行く。
「……《ボティス王》……?」
取り残され、俺は立ち尽くした。彼女の音はやがて雨音の中に消えて行った。
「…………。…………。……」
まさか。
「…………嘘だ」
下瞼が痙攣した。掴んでいた木の幹が俺の握力に耐え切れずへし折れて倒れた。
「ぅう、うおおああああ、があああああああッ!!」
狩人にあるまじき獣が如き慟哭が我が口から漏れた。
「逃げた、だと、あの、ボ、《ボティス王》が……ッ!?」
此れ迄に何度、どれだけの傷を与えようと、かつて今以上に追い詰めた時であっても、彼女の瞳から闘争の炎が消えた事は無く、決して引く事なく俺を追い、最後は此方の予想もしない機転によって彼女は幾度も俺の首を刎ね続けて来た。
そんな彼女が、逃げただと……?? 俺を知っている者なら、此の距離まで詰めておいて背を向けて逃げるなど絶対に有り得ない。絶対に。俺を良く知る彼女なら尚の事。
彼女は最初に判じた筈なのだ。俺から逃げれば勝ち目は無いと。だから《契約者》達と別れ、俺を追ったのだ。其の筈だった。
其れなのに。彼女は今、何もかもを投げ出して逃げた。勝つ事も、考える事も、誇りさえも。たかが両腕と目を負傷した程度で、まるで敗北を悟った獣の様に、あんな、尻尾を巻いて。
あんな無様に……ッ!!
腸から沸き上がった灼熱の衝動のまま俺は胸を弓の様に反り再び天へ向け大声で叫んだ。上顎と下顎の《角》に反響した声がバリバリと鼓膜を叩いた。
「ぐうう、うううううう……っ!!」
先程までの歓喜の涙は、苦く重い憎しみの涙へと変わっていた。
此の様な冒涜が果たして此の世に在って良いものか。今、世界の全てが腐った無価値なヘドロの様に思えた。
「……許さぬ」
あの美しい《金色の月》を穢したのは誰ぞ。
あの白く醜い狐に堕としたのは誰ぞ。
殺さねばならぬ。あの様な醜態を晒す《ボティス王》など此の世に在ってはならぬ。
気づけば涙は止まり、胸には怒りの炎だけが燃え盛っていた。
此処が森で本当に良かった。あの様な醜い振る舞いをする《ボティス王》は、誰の瞳にも映さぬ儘、欠片も残さず歴史から葬らねばならない。
「……現代の、《ボティス王》よ……。お前は《金色の月》ではなかった……。失敗作の、醜き獣……。必ずや殺してやる、俺が、此の手で……!!」
弓を握りしめ、俺は逃げた畜生を仕留めるべく走り出した。




