『二厘の花に』 3/7
「ななな、何やってんだアサカッ!?」
双眼鏡を鞄に押し込み、あたしは大慌てでアサカの後を追った。
江の島で告白すると言うからてっきり龍恋の鐘という所へ向かうのかと思っていたのに、何故かそっちへの道は素通りするし、その後二人きりで雰囲気のいい海岸へ行ったと思ったら、今度は官舎ひづりを置いて一人でどこかへ走り出してしまった。距離があったので会話なんかは聞こえなかったが、少なくとも告白を終えたという雰囲気ではなかったし、例の手紙を渡した風にも無かった。
アサカのやつ、ここへ来てまさかまた弱腰になってしまったのか……? これじゃあたしがアレコレ手を貸す前に逆戻りじゃないか。勝手に尾行してるあたしが言えた事じゃないかもだけど、二人の顛末を見届けられるのは今日が最後だってのに……。
「チュ、チュチュ、チュ?」
「……確かに、そうかも」
いや、メルの言う通りかもしれない。直前までアサカの表情にははっきりとした決意の様なものがあった。それがこんな風に、急に逃げ出すなんて変だ。
電話。そうだ。さっきアサカが出た電話、誰からだったんだ? 官舎ひづりとの大事なデートをドタキャンする程の、何か、良くない事でもあったっていうのか……? さっきから掛けてるのにあたしからの電話には何故か出ないし……。
とにかく、まずはアサカを見つけて追いつかなくては。官舎ひづりも、その後ろを追っていたあたしも、びっくりするような速度で疾走するアサカにあっという間に振り切られてしまった。視界の悪い江の島で見失った人間を見つけるのは恐らく不可能だ。しかし幸い江の島からの出口はあの江の島大橋しかない。船もあるらしいが、その船着き場も橋の中腹に繋がっている。そしてアサカがこのあと江ノ島駅と片瀬江ノ島駅のどちらの駅へ向かうにしろ、橋の構造的に彼女は必ず高架下を通って片瀬江の島観光案内所の前に出なければならない。だから、先にあたしがそこで待ち構えていれば確実にアサカを確保出来る、という訳だ。当然あたしがこっそり二人のデートを尾行していたのがバレてしまうが、構わない、この際もうアサカの尻を蹴っ飛ばす役に徹してやる。先ほどの電話が誰かから用事を頼まれた、とかなら、昨日の恩もあるし、あたしが代わりに行ってやる。とにかく今日のデートをこんな形で終わらせては駄目だ!
「メル、落ちないようにしがみついてて!」
胸の中のメルにそう伝え、あたしは全身に《身体強化》を施した。そして周囲に人目が無いのを確認してから足に力を込め、跳んだ。
一瞬で景色が下へと流れ、シーキャンドルの天辺すら超えた。風を切る音の中、江の島全体を見下ろす。さすがにアサカと言えどまだ島を出られてはいないはずだ。
素早く《転移魔術の蔵》を開き、緊急脱出道具の一つである小型ハンググライダーを取り出した。取り回しを優先して常時全てのパーツを展開状態にしてあるため《蔵》の収納スペースを大きく圧迫していたが、実際こういう時にも即座に役に立ってくれる優秀なアイテムだった。
「うぐっ……!!」
沖の風を一気に浴びたハンググライダーの翼が揚力を得てあたしの体を乱暴に舞い上げた。《身体強化》で握力を強化していなければ確実に振り落とされていた。
久々だったので少々手間取ったが、それでも数秒で風を掴む事に成功し、あたしは機首を橋の方へと向けた。風に押され、ぐんぐん前に進んでいく。
島の上空を出て、橋を越え、浜辺が近づいて来る。
と、その時だった。
「はぁ!?」
思わず声が出た。これなら人も多く道の曲がりくねった江の島を走らなければならないアサカよりは速く橋の向こうへ到着出来るはず、と思っていたあたしの視界に、遥か眼下の橋の歩道を物凄い速度で走る黒髪の人影が飛び込んで来た。一体どういう運動神経をしていれば行き交う人が大勢いる場所であんな速度を出せるんだ……? まずい。浜辺に着陸してから追って間に合うだろうか……?
「よしっ、よしっ、あたしの方が速い!」
アサカらしき人影がまだ橋の中腹辺りを走ってる時、あたしのハンググライダーは海水浴場に着陸した。
「すみません! これ落とし物に届けておいて下さい!!」
「え? え? お、落とし物??」
《蔵》にしまう時間も惜しかったので着地地点の近くに居たカップルにハンググライダーを押し付け、あたしはそのまま高架下に入り観光案内所の前へと向かった。
「はぁっ、はぁっ、アサカ、まだ来てないよな!?」
息を整えながら辺りを見回してアサカを捜す。時間的にまだ橋に居るはずだったが、どうにも観光客が多く、あたしの身長で人捜しは少々難があった。
「あ! アサカ!! おーい!!」
するとその時、人ごみの中、高架下から出てすばな通り方面へ向かうアサカの姿が見えた。向こうもあたしに気づいたようで眼鏡の奥の眼を丸くしていた。
だが。
「え、ちょっと!?」
アサカは少しも減速せず、あたしを無視してそのまま行き交う人ごみの中に潜り込んでしまった。
あ、あんにゃろぉ……! このあたしにも事情は話せないってか……!? でも行き先は分かった。すばな通りに向かってたって事は乗る電車は江ノ電だ!
「はぁ、はぁ……。ガキ! 《魔女》ナメるなよ!!」
再び全身に《身体強化》を使い、あたしは跳躍した。近くのビルの屋上を猫の様に駆け、江ノ島駅へ向かう。本来なら白昼堂々こんな風にこんな理由で《魔術》を使うべきではないが、この雑踏だ、もし誰かに見られたって、追い掛けたり顔が分かるほど綺麗に撮影したりは出来ないだろう。たぶん。
大体二十ほどの屋根を跳んだところで線路が見えて来た。数時間前に利用したばかりの江ノ島駅だ。手前の建物の屋上で一旦止まり、人目の無さそうな日陰から地面にするりと着地する。それから駆け足で江ノ島駅の改札を抜け、看板の後ろに隠れて──。
「捕まえたああ!!」
「きゃああ!?」
数十秒後、のこのこと駅構内に入って来たアサカの胴体にタックルする勢いでしがみ付いた。
「ラ、ラミラミさん!? ど、どうして!?」
「どうしてもクソもありません!! アサカさんこそ何でひづりさん置いて帰ろうとしてるんですか!! 今日、ひづりさんに大事な話をするんでしょう!?」
周囲の視線があたし達に集まっていたが気にしていられなかった。改めて近くで見たアサカの顔色は酷く、表情も見たことが無いくらい焦りの色で染まっていた。
「そ、それは……ええと……急用が出来て、それで……」
視線を泳がせながらアサカは切羽詰まった様に腕時計を見た。
「と、とにかく、私一人でどうにかできますから、大丈夫ですから──」
「いいえ!! アサカさんは今自分じゃどうにもならない事で困ってるって顔をしてます!! そういう時は大人しくあたしや周りの大人を頼って下さい!! 何があったのか言わない限り離しませんよ!!」
駅構内に入って来た電車の方を見たアサカに、あたしはしがみついたままの両腕に更に力を込めた。
「……わ、わかりました、もう逃げません、から……」
アサカは体から力を抜き、抵抗をやめた。顔を見るとどうも嘘では無さそうだったので、あたしも逃げられない程度に少し腕から力を抜いた。
「まったく、一体何だって言うんですか。いきなり走って逃げ出すなんて。この際言っちゃいますけど、二人の様子、朝からメルと一緒に見てました。それについては後で改めてちゃんと謝りますけど、今はこっちです。電話、あの時掛かってましたよね? 誰からですか? 何を言われたっていうんですか」
本当に迷惑な話だ。何の用事だったのか知らないが、今日のこの大事な大事なアサカと官舎ひづりのデートを邪魔するようなタイミングで電話して来やがるだなんて、なんて間の悪い奴だろう。どこの誰が──。
するとアサカは急にぼろぼろと泣き出して、鼻も真っ赤にして言った。
「……お父さんを、誘拐したって……。誰にも言わずに、一人で来い、って……」
「……は?」
到着した電車の扉が開き、大勢の観光客らが駅構内になだれ込んで来た。変な体勢で突っ立っているあたし達を迷惑そうにしていたが、そんな事を気にする心の余裕は無かった。




