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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第4期》 ‐鏡面の花、水面の月、どうか、どうか、いつまでも。‐
232/259

   『幸せのための我が侭』 4/4




「……心音の強さも脈の間隔も変わらず。他の臓器も正常。骨の歪みなども無い。今日も問題無しじゃ」

 じっと閉じていた瞼を開けそう告げた天井花イナリに、ひづりはほっと胸を撫でおろした。

 水曜日。今日は《和菓子屋たぬきつね》の畳部屋で凍原坂の体調確認を行う日だった。他でもない《主天使》の襲撃の折に天井花イナリが切断し《治癒》した彼の傷の経過を診るためである。あれ以降の《滋養付与》は《フラウロス》が担っているし、本来の知性を取り戻した彼女は《フラウ》だった時よりずっと《治癒》を上手に使えるようになってはいるようだったが、しかし凍原坂を直接手に掛けた責任を感じているのだろう天井花イナリは『わしが斬った傷じゃ。フラウロスには任せておけん』とこの毎週の役目を最低でも半年間は自分が担うと申し出たのだった。

「ありがとうございます、天井花さん」

「ありがとうございます、白狐様」

 昼寝をしている《フラウ》を脇に、凍原坂と《火庫》が恭しく頭を下げた。天井花イナリは座布団の山に戻りながら「よい」と短く、ばつが悪そうに答えた。これも凍原坂の体調確認を始めてからすっかり恒例となった光景だった。

「良かったです、凍原坂さま。この診察の日、わっちはいつもはらはらするのです」

 《火庫》が凍原坂の腕にぎゅうとしがみついて切なそうに言った。

「大丈夫だよ。天井花さんが診て下さっているんだからね」

 緋色の炎を灯す《火庫》の小さな頭を凍原坂は優しく撫でた。《火庫》は嬉しそうに彼のてのひらに頭を擦り付けた。

「……? ひづりさん、どうかされましたか?」

 凍原坂がこちらを見ながら不思議そうな顔で言った。ぼーっとしていた己に気づき、ひづりは慌てて首を横に振った。

「い、いえ! 私も、凍原坂さんが無事で良かったなって、思いまして……」

 などと咄嗟にそう繕ったが、しかし実のところ考えていたのは全く別の事だった。

 頭の中にはまたあの『夜不寝リコが百合川に告白した瞬間』が思い出されていた。もうずいぶん経つというのに、それは未だに鮮明にひづりの脳内に居座っていた。

 ──恋人。愛し合う恋人同士だった西檀越雪乃と凍原坂春路。時が流れ、様々な事情を経て少し形を変えながらも、今も同じく愛し合う間柄を手放さなかった二人。

 好き合う二人。恋路。恋愛。

 …………アサカ。

「──り。ひづり? どうかしたのか?」

 天井花イナリに声を掛けられ、ひづりはまたはっとなって瞬きをした。

「あっ……」

 表の戸締まりを兼ねた凍原坂一家の見送りをするところだった。いよいよ変に思われたらしく一同の視線が今度こそこちらに集まっており、冷たい夕暮れの風の中ひづりは顔だけが火の様に熱くなった。

「す、すみません、私、今日なんだかちょっとぼーっとしてるみたいですね、あはは……。あぁ、大丈夫ですよ、体調は全然良いので、そんな心配そうな顔しないでください」

「そう……なんですか?」

 凍原坂は天井花イナリと目を見合わせ、それからまた心配そうにひづりを見た。

「案ずるな。明日の文化祭の準備で今日は少々慌ただしかったのであろう。お主らは気にせず帰れ」

 天井花イナリが間に立ってそう言った。

「とーげんざか。降ろせ」

 するとてっきり皆寝ていたものと思っていた《フラウ》が凍原坂の背からずるりと降りた。

 それからてくてくとひづりの方へ歩いて来て、天井花イナリの顔と見比べ、眼を細めた。

「とーげんざか、《火庫》。貴様らは先に帰れ。わっちは少しひづりと話をする」

 突然の事にひづりと凍原坂と《火庫》は、え、と声を漏らした。

「《ボティス》。貴様には少々不得手な問題が起きておるのであろう? この間の借りもある。ここはわっちに任せてみよ」

 《フラウ》は天井花イナリを真っ直ぐ見ながら言った。

 天井花イナリはしばらく無言で居たがやがて瞬き一つしてから「分かった。凍原坂、《火庫》、そういう事じゃ」と言い、すたすた店の中へ入って行ってしまった。《フラウ》も当然の様にその後に続いた。

 店の前に取り残されたひづりと凍原坂と《火庫》はまた顔を見合わせたが、凍原坂はもう何か察した様子で、《火庫》と手をつなぎ、「私にはよく分かりませんが、《フラウ》も天井花さんも必要があると思っての事なのでしょう。ひづりさん、すみませんが《フラウ》と話をしてあげて下さい」と言って、《火庫》ともども頭を下げ、駅前の方へ歩いて行った。

 今度こそ一人ぽつんと置いて行かれたひづりは、一体何なのか、と思いながら店の鍵を閉め、天井花イナリと《フラウ》が居るであろう畳部屋へと向かった。





「恋路の話であろう」

 畳部屋で二人きり長机を挟んだ格好で向かい合い座ったところ《フラウ》は短く言い放った。

「は……はぃ……?」

 訊き返した声は部屋の外で閉店作業をしている天井花イナリたちに聞こえないようにという意識からか思わず小さなものとなり、ひづりは正直に答えたような形になってしまった。

「隠す必要は無い。《ボティス》も分かっておるからこうしてわっちと貴様を二人きりにしたのだ。さぁ話してみよ。《ボティス》よりは得手だぞ」

 《フラウ》は自信満々に手招きをして見せた。

「…………」

 私が最近ぼんやりしてしまう回数が増えている事と、その理由に、天井花さんは気づいていた……? 改めて部屋の外の天井花イナリの事を思い、ひづりは恥ずかしくなった。

 出来ればこの事は感づかれたくなかった。《アウナス一派》や《イオフィエル》の事でいっぱいいっぱいの今、一番しっかりしなければいけない自分が、『アサカの事が何故か最近ずっと気になって頭の中がぐちゃぐちゃなんです』などと浮ついた状態にある事を、そんな無様を、天井花イナリにだけは知られたくなかった。

 しかし。こうして《フラウ》にまで見抜かれ、天井花イナリ公認で相談の場まで設けられてしまった今、もう誤魔化すのは無意味だと思い、ひづりは諦める事にした。

「恋路とは、たぶん少し違うと思うのですが……」

 アサカが文化祭で自分のやりたい事を優先するようになったのを見て安堵したが、しかしその途端、アサカが遠くへ行ってしまうような喪失感を抱いた事。

 夜不寝リコが百合川に告白するのを見てからというもの、ふとした瞬間に恋愛というものの事で思考がいっぱいになってしまうようになり、そしてその度にアサカの顔が頭に浮かんで苦しくなる事。

 上手く言語化も受け止める事も出来ずここ数週間胸の内に渦巻いていたそれらをひづりは一つ一つどうにか伝わるように言葉にしていった。

 ひづりの話を聞き終えると《フラウ》は不思議そうな顔をした。

「わっちの目にもあのアサカという娘は誰より貴様を好いておるように見える。貴様がアサカを娶るのでは駄目なのか?」

「……。それは……」

 考えなかった訳ではない。いやむしろずっと、この十年、胸の中ではそればかり想像して来た。

 アサカはいつも自分を信じてくれる。支えてくれる。死ぬまでだって一緒に居てくれそうな、そんな暖かな眼差しで見つめてくれる。

 だから、もし自分が願えば、口に出せば、そういう可能性もあるのかもしれない。アサカは自分の全てを受け入れてくれるのかもしれない。

 ……けれど。ひづりは膝の上で握った拳にぎゅっと力を込めた。

「私はもう、アサカを私のトラブルに巻き込みたくないんです。《アウナス一派》や《イオフィエル》の事もそうですが、それ以前から……私は、昔から問題ばかり起こして来ました。中学の時には、私が揉め事に首を突っ込んだのが原因で、アサカは剣道部を退部になったんです。すごかったんです、アサカは。剣道でもっと上に行けたんです。それを私が駄目にした」

 荒んでいた中学時代に犯した、今でも思い出しては後悔で眠れなくなる、人生最大の過ちだった。

 アサカは「そんなこと気にしなくていいよ」と言い、それからも変わらず接してくれているが、しかし大事な幼馴染の人生の選択肢を一つ自分が潰してしまった事実をどうして気にせずに生きてなどいけるだろう。

 官舎ひづりはその償いが出来ないまま、幼馴染の優しさに甘え、今日までこの幸福な日常にみっともなく居座らせてもらっているだけだった。

 だから。

「私では、駄目なんです。何の力も無いのに、アサカを危険に巻き込むばかりの私じゃ」

 これ以上アサカの人生は奪えない。自分にはアサカと結ばれて幸せになりたいなんて我が侭を言う資格はない。

「ふむ……。」

 《フラウ》は腕を組んで目を伏せた。それからちらりと襖の方を見た。ひづりもそちらを見た。もしかしたら襖を挟んだすぐ向こうに天井花イナリが居て、この情けない《契約者》の話を聞いているのかもしれなかった。

 やがて《フラウ》は腕を解き、ひづりの眼を見つめ、言った。

「以前から思っていたが、やはり貴様は己のための我が侭がどうも下手なのだな。その歳にしてはしっかりしていて、家族や周りの大事な者のためと思えば何でも出来る反面、自身の欲に対する意志や考えが弱い。自己犠牲とはまた別のもののようだが、己を苦しめているという点では同じだ」

「……っ」

 ざっくりと刃物で胸を刺されたようだった。

 我が侭が下手。それはひづりも以前からたびたび自覚する事があった否定できない評価だった。

 そう。父も姉も、友人もクラスメイトも、これまで出会って来た人達皆、《自分の欲しいもの》をちゃんと胸の真ん中に持っていた。それを活力にして日々を生きるのが人として当たり前だという風に。

 ひづりにはそれが無かった。幸せでいて欲しい人達や失いたくない人間関係というものはあったが、もし相手に拒否されたらきっと自分は食い下がりもせず諦めてしまうだろう、というのが他でもない自分だから分かっていた。

 自分には、《自分の欲しいもの》をこの手で握り捕まえておく、その意志がない。

 だからなのだろう。百合川に想いを伝えた夜不寝リコの姿が、あの勇姿が、頭から離れないのは。

 もし自分が《自分の欲しいもの》とちゃんと向き合える人間だったなら、あの日の夜不寝リコのように、もっと早くに、アサカに気持ちを伝えられたのだろうか。

 アサカが自分を好いてくれている理由なんて何だっていい、私はアサカが欲しいんだ、と、そう思い切る事が出来たのだろうか。アサカを不幸にしてでもアサカと一緒に居たいと思えたのだろうか。

 両目の奥が熱を持ち、うつむいた視界はぼやけてしまっていた。何もない人間である自分の情けなさが改めて恥ずかしく、悔しく、耐え難かった。

 すると徐に目の前が暗くなり、ふわふわしたものが頭を覆った。いつの間にかそばに来ていた《フラウ》が抱きしめてくれていた。《火庫》からはしない、はっきりとした『猫の匂い』に包まれた。

「嘆く事は無い。貴様はこれまでアサカを護りたいと思い、行動して来たのであろう? ならば明白だ。貴様にとってすでにアサカは貴様の《内側》に居る。そしてそれはアサカも同じ事。ようやく歩き出した貴様らに必要なのはほんの僅かな時間だけだ。互いに大人になる事を受け止めるための時間、そして貴様もアサカも我が侭になるための時間がな。《ボティス》もわっちらもその時間を護る。貴様らは安心して成長せよ」

 それはとても優しい声だった。母猫に毛づくろいされる子猫たちはこんな気持ちなのだろうか、と思うような、そんな安心感が彼女の腕の中にはあった。



 ──べじょ。べじょ。



「……ん?」

 不意に髪と頭皮に濡れた様な生暖かい感触と摩擦を覚え、ひづりは一気に現実に引き戻された。

「え、え? え!? な、なに、何してるんですか《フラウ》さん……!?」

 がっしりと掴んだひづりの頭を《フラウ》はべろべろと舐め始めていた。

「はぐ、はぐ。どうだ、わっちの舌で舐められれば皆元気が出るのだ。今は《ボティス》も貴様もわっちの家族も同然。遠慮などするな。ぐむぐむ……」

「いやその待っ、うお、おああ……」

 じょわ、じょわ、と濡れたやすりで頭皮を削られるような感触。正直言ってかなり気持ちが悪かった。しかもさっきまで愛情たっぷりだった《フラウ》の腕は今まるで石像の様にびくともせず、こちらの一切の抵抗を封じていた。

 ……《火庫》さん、これまで安易に羨ましいとか思って本当にすみませんでした。天井花さんも、今後はちゃんと私も助けに入ります……。とひづりは心の中で二人に謝罪した。

「おい!! 何をしておるか!!」

 すると襖がドカンと音を立てて開き、天井花イナリが飛び込んで来た。

「何もへったくれもない。しょぼくれたひづりに毛づくろいをしてやっているのだ。べろべろ」

「ふざけるでない!! さっさと離れんか!!」

 いつかの様に天井花イナリと《フラウ》は取っ組み合いになり、畳部屋をごろんごろんと転がった。解放されたひづりはほっとしたが、そのまま二人を大暴れさせる訳にもいかないのですぐに宥めに入った。

「て、天井花さん、《フラウ》さんも、落ち着いて……」

 しかし。

「お主!! 最初からこれが目的だったな!! 恭しい顔なぞしおって、こざかしい!!」

「何を嫌がる事がある!! 貴様もついこの間わっちに髪を舐めさせたではないか!!」

「ひづりの前でその話をするなッ!!」

 二人はもうすっかり頭に血が上ってしまっているらしく、ひづりの声など聞こえてもいない様子だった。ごんごんごん、と二人の《角》がぶつかり合う音が畳部屋に響き、恐らくかなりご近所迷惑になっていた。

「あらまた喧嘩しているの? お写真撮っておかなくっちゃ! 二人の絡み写真、人気あるのよね~!」

 ひょいと顔を覗かせるとちよこはデジカメを取りにだろうすぐ二階に上がっていった。

「イナリちゃん、駄目だよ、お部屋壊れちゃうよ!」

 続いて片付けの途中だった和鼓たぬこも現れてひづりと一緒に制止を手伝ってくれた。

 それからおよそ十数分後、天井花イナリの髪の一房がずぶ濡れになり、《フラウ》の頭に大きめの打撲痕が出来上がった辺りで、ようやく《悪魔の王様》二柱の大暴れは止まった。一応二人とも周囲に気を配ってはいたらしく建物の柱が傾くといった類の損害は出なかったが、ただ二人の服と巻き込まれた座布団数枚と脚が折れた長机と畳部屋の畳全部は買い替えになりそうだった。

 帰り際、《フラウ》はひづりに「我が侭の見本としてはまずまずだったであろう」と得意げに笑い、《転移魔術の魔法陣》の光の中に消えて行った。

 一人で抱えていたものを打ち明けたからか、はたまた《フラウ》と天井花イナリのまるで子供の様な喧嘩の仲介で疲れたからか、ひづりは胸に痞えていたものが少しばかり軽くなったように感じていた。

「くそ、拭いても拭いても臭いが落ちん……少し早いがもう風呂に入ってしまうか……」

「天井花さん、ありがとうございます」

「む? 何がじゃ?」

 明日の文化祭一日目、凍原坂一家も来てくれるという話だった。ひづりはその時改めて《フラウ》にもお礼を言おうと思った。












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