『お前がそれを願うなら』 3/6
『正直言って、意外だ。もしアサカとひづりを番にする手助けを《魔女》にさせて、それが成功したなら、お前自身で言った通り、お前はあの《魔女》に借りを作る事になるだろう。アサカとひづりもきっとあの《魔女》を気に入る。そうなれば今後どうあってもお前はあの《魔女》を殺し難くなるんじゃないのか?』
『いや、その段階はもう過ぎておる。ひづりもアサカも既にあれを随分気に入っておるようじゃからの、始末するのは諦めた。故に別の使い道を考えたまでじゃ。あやつに取り込まれたわしの臣下もその方が喜ぼうからの』
『そうなのか……』
平日の学校などとは少し雰囲気の違う「アインの散歩」という休日に交流出来る特別な舞台を提供する事で《魔女》がアサカとひづりの仲を上手く取り持てる機会を与える、というのがその《ボティス》の言うもう一つの重要な目的だったらしいが、しかし彼女の口から直接説明された今もそれは何かの冗談だとしか思えなかった。
《ボティス》は、俺が知っている中でもかなり国民を大事にしている《悪魔》だった。それこそ《魔女》など見つけ次第首を刎ねるものと……いや、実際にそうしかけたらしいが。
今の《ボティス》にとっては、《魔女》に対する怒りより、自身を取り巻く今の環境の方が大事、という事なのだろうか。
ただそれはそれとしてその《ボティス》の考えに俺は少しほっとしていた。
『ふふ』
『なんじゃ。何が可笑しい?』
『いや、この間俺に会いに来た《グラシャ・ラボラス》の事を思い出したんだ』
八月の暮れ、《グラシャ・ラボラス》が人間の学生の格好をして味醂座家を訪ねて来た。アサカから借りた文房具を返し忘れたから届けに来た、とか言っていたが、あいつは俺に気付いていて、アインの中に居る俺に《交信》でこう言った。
『──ひづりは《ボティスが持つ性質》のせいで不幸な目に遭うかもしれません。私は直に《人間界》を去ります。見返りは何を要求してくれても構いません。《ナベリウス》。どうかひづりを護ってあげてください──』
それは一方的で、俺が『一体何の事か』と訊ねても彼女は無視し、そのまま踵を返してどこかへ行ってしまった。
《ボティスが持つ性質》。「《蛇の悪魔》である《ボティス王》と関わった人間は皆破滅へと向かう」、そんな俗説が古くから人間の間では語り継がれていると言う。《グラシャ・ラボラス》はどうやらその俗説と《ソロモン王》が《天使》や国民から見放され処刑されるに至った経緯とを重ね、ひづりの身を案じていたようだった。
だが。
『やはりあれは《グラシャ・ラボラス》の杞憂だ。俺がアサカを想うように、お前もひづりの幸いを願っている。呪いなど迷信だ。子供二人の恋路にやきもきするようなお前が、ひづりを不幸になどするものか』
《ソロモン》の死は、あの時あいつの立場であいつなりに考え、至るべくして至った結末だ。それに《ソロモン》とひづりとでは立場や時代など何もかもが違う。《ボティス》と関わったからといってその生涯が同じ道を辿るはずもない。
『…………』
『……む? どうした《ボティス》?』
てっきり『当たり前じゃ。絶対にひづりは死なせん』くらい返してくるかと思っていたが、何故か《ボティス》は無言だった。
少しして彼女は静かに言った。
『わしもひづりが可愛い。じゃが……《グラシャ・ラボラス》の言葉も、わしには否定が出来んのじゃ』
『どういう事だ?』
《ボティス》は重々しい口ぶりで語った。
『……わしがひづりを気に入っておるのは、あやつが気持ちのよい性格をしておる事や、たぬこに良うしてくれた事がきっかけであった。しかし……しばらくして妙な事が起き始めた。《先代のボティス》はかつて《ソロモン》と約束をしたと言う。遠い未来で果たされる、よくわからない《約束》であると。《ソロモン》と直接言葉を交わしたのは《先代》であって、わしではない。わしの中にあるのは《先代》から聞いた話と、引き継いだ《思い出》だけじゃ。故にその《約束》の詳細は知らんはず……でありながら、ある時から、ひづりを見るたび、何故かわしの中でその《約束》に関係しておると思しき《思い出》が度々蘇るようになった。まるでその《約束》とやらがひづりに関係があると、そう言っておるかのように……』
彼女は深い深いため息を吐いた。
『《先代のボティス》は、《ソロモン》が死へと向かった事をあまり気にしておらぬ様子であった。いつの世も《ボティス》とはそうした事で悩んだりはしないものであったと。わしも少し前までそうであった。……わしは、《グラシャ・ラボラス》があのようにわしを邪険にするようになった本当の理由はそこにあったのではないか、と最近そう思う様になった。人間に伝わる《ボティス》の俗説はあながち間違いではないのではないか、と……。故に分からぬのじゃ。この《ボティスの思い出》に従って《ソロモン》と《先代》が交わしたという《約束》を追い掛けながらひづりのそばに居る事が、本当にひづりにとって良い事なのだろうか、と。ひづりの幸いを思うなら……わしに人間を不幸にする《呪い》があるのなら、わしはひづりとの生活を諦め、《魔界》へ戻るべきなのではないか、と。しかし先日はそうした思いから行動を誤り、ひづりを泣かせる結果になってしもうた。……こんな事は初めてなのじゃ。数か月前には思わんかった事を今では思うようになっておる。今、わしはわしの考えが分からぬ。これまでは、面白いと思った人間、気に入った人間が、その人生を懸けてどこへ向かうのか、それを眺め愉しむのが、わしの、《ボティス》の本質と思うておったのに……今のわしは、それと同じくらい、ひづりの命が大事に思えておる……』
彼女は酷く混乱している様子だった。《ボティス》がこんな風に取り留めも無く感情を吐露するのを俺は初めて見た。
それから彼女は我に返った様に瞬きをし、言った。
『すまぬ。らしくもない事を言うた。忘れよ』
その声音は再びいつもの調子に戻ったが、俺はすぐに返す言葉が浮かばなかった。
俺は驚愕していた。《ボティス》は今、その内面に、《ボティス》としての性質に、大きな変化を迎えようとしているのだ。三千年前、《悪魔》は《ソロモン王》と出会って多くの変化を得た。あれからまた新たな変化を、彼女は今、この《人間界》で成そうとしている。
三千年前に《悪魔》たちに生じた変化はどれも《願い》だった。死の世界の象徴であった俺が人間の生活を見守りたいと願ったように、全てを焼き尽くす炎だった《フラウロス》が家族を願ったように、今、《ボティス》は再び大きな《願い》を抱いている。
三千年の時を経て再び悩み苦しみ願う彼女の姿が、俺には直視出来ないほど眩く見えた。
だから俺は沢山考え、言葉を選び、伝える事にした。この胸の想いを、彼女に。
『《ボティス》。《ソロモン王》はお前と関わったことを後悔などしていないはずだ。それは恐らくひづりも同じ。どんな結末になったとしても、あの子はお前を恨みはしないだろう。だが、お前がそうしてひづりの死を恐れるなら、お前の中の《ボティス》が変化しつつあるのかもしれないのなら……《今のボティス》が望む未来は、《先代》の時とは違う、全く別の結末になるはずだ。俺はその未来を信じている』
もしこの場に居たならきっと《ソロモン》も同じように彼女へ祝福を贈っただろう。
道の先に折り返し地点である神代植物公園の木々が見え始めた。振り返ると《魔女》が変な声で喘ぎながら別の生き物のような走り方をしていた。
『そうとなれば、友人の新たな門出の手向けとして、俺も一つ《魔女》の手伝いをしてやろう』




