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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
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   『雨の日のバス停』    2/6




 連日空はよく晴れていたがそれでもちゃんと雨期は迎えていたらしい、正午になって急に強い雨が降り始めた。初めて出向いた場所だったため雪乃は大慌てで雨宿り出来そうな場所を探していた。

「あっ! 良かった……!」

 建物の角を曲がったところで運良く屋根のあるバス停を発見し、その下へすぐに駆け込んだ。ふうふうと息を整え、それから濡れた頭や鞄をハンカチで拭った。

 道路は広かったが人通りの少ない区画なのか周囲に人気は無く、時刻表を見ると次のバスまでまだしばらく時間があるらしいと分かった。看板には神田錦町と書かれていた。

「…………」

 屋根を打つ雨音を聞いていると次第に落ち着きを取り戻し、冷静になっていった。そしてため息が漏れ、額を押さえた。

 またやってしまったのだ、と後悔が押し寄せていた。

 あれから一年が経とうとしていた。秋を終え、冬になり、春を過ぎていた。これは明治大学駿河台キャンパスで始まった夏のオープンキャンパス、その六回目の参加の帰りに浮かれた気分のまま神保町を散策していて降られた雨だった。

 眼鏡の青年に痴漢から助けて貰ったあの運命の日。あれから雪乃の胸の中は絶えず彼の事でいっぱいになっていった。

 雪乃は調べた。眼鏡の彼が凍原坂春路という名である事。やはり明治大学の駿河台キャンパスに所属していて、今はそこで数学教授の手伝いをしているらしい事。いつも中央線を使っている事。吉祥寺の外れにあるアパートで一人暮らしをしていて、週に二回は必ず近くのファーストフード店で食事をしている事。実家が秩父の郊外にある事。少なくとも今は恋人が居ない事……。

 知らずにはいられなくてこの一年弱、立川から吉祥寺、そして彼の職場が在る神保町まで毎日の様に往復で通った。それを苦に感じた事は一度も無かった。むしろ生き甲斐であると言っても良いくらい、雪乃の時間の多くは凍原坂春路の生活を調べることに使われ続けていた。

 彼の事を愛していた。調べれば調べるほど彼の事が好きになっていった。自分の全ては彼のためにあるとさえ思うようになっていた。

 しかし。

「なんでかな……なんでこうなのかな……」

 声は雨音に掻き消され、気にしなければならない人目も無いと思うと、雪乃はいつものように涙を止められなくなっていた。

 こんな風になりたかった訳ではなかった。誰がどう見てもストーカーに他ならない己のこの行為を雪乃は正しく自覚していた。自覚しながら、やめられずにいた。

 凍原坂春路。彼に関わりたいと思うなら、後日明治大学へ赴いてあの日電車で助けてもらったお礼を言う、ただそれだけで良かったはずだった。しかし雪乃はその第一歩を踏み出せず、こんな風にこそこそ彼の周囲を調べまわるばかりで、お礼を言いに行くタイミングなどもう全く逃し、そして気付けば再び秋を前に依然変わらず凍原坂春路の生活範囲へと足を運び、やがて明治大学でオープンキャンパスが始まると今度はそれを名目に何食わぬ顔で構内を歩き回っては大学で働く彼を観察して心を満たしていた。いけないと思いながらこの一年、雪乃は何一つ変われなかった。

 分かってはいるのだ。こんな事を続けていたらいつか彼に気付かれ、嫌われ、警察に逮捕されてしまうだろう、と。その結末を思う度に全身の血が凍ったが、しかし同時にその瞬間己が抱くであろう苦く甘い感情に強く焦がれてもいた。

 自分はどうしてこう歪んでいるのだろう、どうして普通の人が歩むような幸せの道を行けないのだろう……。雨の降るバス停で雪乃は一人めそめそと泣いた。

「…………!」

 強まって来た雨音を良い事にそのままうぐうぐと嗚咽を漏らしていると、ふとすぐ近くで雨を蹴る足音が聞こえ、雪乃は驚いてびくりと肩を震わせた。

 足音は隣で止まり、動かなくなった。足音の主はどうやら雪乃と同じく雨宿りしようとこのバス停に駆け込んで来たらしかった。

 誰か来てしまった、泣いていたのを見られただろうか、と雪乃はその人から顔を背けつつ涙を拭った。恥ずかしさで顔が熱くなっていた。

「…………? ……!?」

 ちらり、とそれとなく横目でその人物の顔を確認した瞬間、雪乃は思わず眼を見開いた。

 凍原坂春路だった。どしゃぶりの雨で濡れた髪や鞄を触りながら彼は困った様子で道路の方を見ていた。

 何故? なんで彼がこんな所に? この一年彼がこっちの方面に来る事なんてなかったはずなのに……。雪乃はほとんどパニックになった頭で考えを巡らせた。

 すると雪乃が振り返った格好で硬直していたのを変に思ったらしく、凍原坂もこちらを向いた。

「……あっ。ど、どうも……?」

 彼はぺこりと頭を下げた。一年前に一度合ったきりのその視線に雪乃は思わず胸が苦しくなり、つい顔を背けてしまった。

「ど、どうも……」

 どうにか搾り出すように返したその声は小さく、この雨の音の中で伝わったかどうかは怪しかった。

 もしかしてこれまでつけ回していたのがついにバレて、それを問い質すために彼は自分を追いかけてここまで来たのだろうか……? ……あぁ、でも、あの春路さんがこんな近くに……どうしよう、初めて言葉を交わしてしまった……。冷静になったり浮かれたりで雪乃の頭の中はますます訳が分からなくなっていった。

「酷い雨ですね。あんなに晴れていたのに、本当に急で困ります」

 雪乃のいっぱいいっぱいの胸の内も知らず、凍原坂は冗談っぽく言った。

「そう、ですね……」

 そこでまた会話が止まった。雪乃も彼も道路の方を向いた格好のままほとんど身動きをせず、しばらく時間が流れた。

「……あの。最近、よく明治大学に来られてますよね……?」

 徐に凍原坂が言った。ぎゅう、と心臓が縮こまるのを感じ、雪乃はまた石の様に体が固まった。やっぱり気付かれていたんだ、私がこの一年ずっと家の周りをうろついていた事……。

 だが、「あぁ、でもこれで私のこれまでの行いが責めてもらえる。彼に私の事を責めてもらえるんだ」と思うと、雪乃は硬直した体がふっと楽になった気がした。そして今凍原坂がどんな顔をしているのか、これからどんな顔を向けてくれるのか、知りたくなった。これでもう二度と彼に会えなくなるなら、それをちゃんと両目に焼き付けておきたいと思った。

 ……しかし。

「大学に勤めてます、凍原坂と言います。入学、こちらに考えてらっしゃるんですか?」

 振り返って見た凍原坂の表情は明るく、警戒心の無い子猫のような顔をしていた。

 ぽかん、として雪乃はすぐに返事が出来なかった。

「……え、ええと……まぁ、その……はい……」

 どうも彼の表情を見るにこの一年ストーカーをしていた事が気付かれていた訳ではないようだった。

 だが、そうであるとしたら、明治大学のオープンキャンパスに参加していた事を彼に気付かれていた、という部分がちょっと引っ掛かった。確かに六度も参加したのはやり過ぎたと思っていたが、とはいえ凍原坂が担当している講義に直接参加したり彼が居る講義室に入った事は一度もなかったし、また参加者らしき高校生は時期が時期故にいつもかなりの数が居た。ストーカーがバレていた訳でもないのに、あんな大勢のオープンキャンパス参加者の中で彼が自分の顔を憶えていた、というのは、一体どうした事だろうと思えた。

 凍原坂は何やら落ち着かない様子で頬を掻いたり視線を泳がせたりした後、控えめな声で訊ねた。

「あの……もし、人違いだったら申し訳ないんですが……中央線、よくご利用になられてますか……?」

 どくん、と一際大きく心臓が鳴った。そしてそのまま鼓動のリズムは速まって体温もどんどん上がっていった。

 ……まさか。そんな都合の良い話あるはずがない。何度も否定してきたはずだった。

 彼が、あの時の事を憶えてくれているなんて、そんな──。

「去年の秋、電車で困っていらっしゃいませんでしたか……? その……知らない男性から、迷惑な行為を、とか……」

「!!」

 胸の中で爆発した感情を抑えられず雪乃はぱっと振り返りそのまま一歩踏み出して言った。

「そうです! あの時、携帯のアラームを鳴らしてくれましたよね!? 私のこと、助けてくれましたよね!?」

 もし彼があの日の事を憶えてくれていたなら、雪乃はこれをちゃんと確かめたかった。

 あの時鳴らした携帯電話のアラームは、私を助けようとしてのものだったのですよね、と。

 私を助けるためにやってくれたことだったのですよね、と。

 すると凍原坂は眼を大きく見開き、それから眉を八の字にして自身の胸に手を当て長い息を吐いた。

「やはりそうでしたか……。似た雰囲気でしたから、大学で見かけた時から、そうなんじゃないかと……。…………あの時はすみませんでした」

 向き合い姿勢を正すなり彼は頭を下げた。

 困惑が頭を駆け抜け、雪乃は慌てた。

「な、なんですか? どうして謝るんですか? やめてください、顔を上げてください」

 雪乃に言われ凍原坂は顔こそ上げたが、しかしその表情は変わらずしぼんだ風船のようだった。

「……あの時、たぶん痴漢だろうな、とは思ったんですが……でも、はっきり見ていた訳ではなくて……。……実は僕、あの時大学で預かった備品を抱えていて……あれを汚したり壊したりしたら怒られると思って…………だから、声を掛けたり、あの男性を捕まえたりする勇気が出なくて……。良かれと思ってあんな事をしましたが、でもあなたがあの男性を捕まえて駅員に突き出すつもりだったなら、本当に余計なことをしてしまったな、と、後になってから気付いたんです」

 雪乃は驚いた。彼があの日の事を憶えていただけでなく、そんな事まで考えて気にしていたとは、今まで思いもしなかった。

 あの時の彼はそれまでに雪乃が出会ったどんな男性よりも輝いて見えた。勇敢で優しくて、心をまるごと奪われても構わないと思えるほど素敵だった。だから、こうして肩を竦めて小さくなる彼の姿を前に雪乃はたまらない気持ちになった。

 気付けば雨に濡れた彼の手を両手で包み込むようにして掴んでいた。

 そして言った。

「私、嬉しかったですよ。私が同じ立場だったら、電車の中で携帯のアラームを鳴らすなんて、きっと出来なかったと思います。あの時、あなたの眼を見て、あぁこの人は私を助けてくれたんだ、ってすぐに分かりました。余計なことなんかじゃありませんでしたよ。本当に、あの時はありがとうございました」

 本当ならもっと早くに伝えるべきだったその言葉を、雪乃は図らずもこの日想い人のこんなにも近くではっきりと口にする事が出来た。

「あなたはとても素敵な人です。私には、分かっていますから……」

 それからそのまま口が滑り、そんな事まで言った。雪乃はハッとしてすぐに「しまった、こんな言い方だと変に思われるだろうか」と焦った。

 だが。

「……そう……ですか。そう言って頂けるなら、良かったです、本当に……」

 凍原坂は雪乃の失言に何か感じ取った様子はなく、ただ叱られた後の子供の様に目元と鼻を赤くしながら静かにそう言った。そんな彼の表情を雪乃は可愛いと思った。

 それから数秒ほどしてようやく彼の手を握ってしまっている己を自覚し、ぱっと手を離した。顔がじんわりと熱を持っていった。

 これは運命ではないか、と雪乃は思った。神様がくれたチャンスなのではないか、と。

 覚悟も算段も無かった。ストーカーである自分がそんな事を伝えてどうするのか、など冷静になりもした。

 けれど、誰も来ないこの二人きりの静かなバス停が自分の人生の最大の分岐点であるような気がして来ると、もう湧き上がった感情を止める手立ては無かった。

「あ、あの……!」

 雪乃は再び凍原坂に向き直り、言った。

「なんでしょう?」

 彼は首を傾げた。

 雪乃は決意を固め、問うた。

「と、凍原坂さんは、大学にいつ頃……何時頃、通われているんですか。やっぱり、今も中央線を使われているんですか」

 本当はそんな事とうに調べ尽くして知っていたが、今は必要な問いだった。

 彼は案の定、何が気になるんだろう、という顔をしたが、すぐに正直に答えた。

「ええ、中央線です。朝はそこまで早くないですが……帰りは結構遅くなる事が多いですね。どうしてですか?」

 すぅ、と雪乃の肺が雨の街の空気をいっぱいに吸い込んだ。

「わた、私! 明治大学を第一志望で受験に臨むつもりでして! もし受かったら……その、私もはる……春に凍原坂さんと同じ明治大学に通う事になるので、でも、ええと、その……。距離! 私、立川なのですが、駿河台キャンパスまではちょっと遠くて……。あの時と同じ様な事が今後またあるかもって思うと……。その……だから……」

 顔を上げた雪乃の視線が凍原坂の眼鏡の奥の眼差しと絡まった。

「出来れば、その、一緒に……。あの時のこと、もし気にしてくださってるんでしたら、来年から……私と一緒に、大学へ通ってくださいませんか……?」

 雪乃が言い終わるなり凍原坂はぽかん、とした顔で固まった。当然だった。こんなもの遠まわしでもなんでもない、直接好きだと告白しているようなものだった。

 雪乃も到底これが正しいタイミングの、正気の発言であるとは思っていなかった。不審がられる事も覚悟していた。明らかに焦って前のめりになっていた。だが、この一年ストーカーでしかいられなかった自分がこの先何かのタイミングで《彼の何か》になれる事なんて絶対に無い気がして、だから言ってしまったのだった。絶対に伝えなくてはならない気がしたのだ。

 凍原坂はしばらく硬直していたがやがて考えがまとまったのか照れた様子で頭の後ろを掻き、それから姿勢を正して雪乃に優しい顔を向けた。

「……頼りない僕なんかで良ければ」

 その瞬間、雪乃の視界が涙で歪んだ。かつてない程の熱い喜びの感情が胸いっぱいに押し寄せ、錆び付いて止まっていた何かが綺麗に動き出したような、そんな心地の良い感覚が体の隅々へと拡がっていった。

 ……なりたい。この人の恋人に。絶対に。

 自分を変えたい。優しいこの人のために、なんとしてでも……。





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