『出会った時から』 4/6
「……なんで今日、こんな事したの?」
手水舎の向こうに見つけた木造のベンチに夜不寝リコを座らせ、それからひづりもその隣に腰を下ろした。
「凍原坂さんは、たぶん《火庫》さんの中で雪乃さんだった頃の《記憶》がまた蘇って、それで婚前旅行に来たことがあるっていうこの神社に行ってみたくなって、でも子供一人でこんなところ歩いてたら迷子だと思われるだろうから、だから夜不寝さんを保護者として連れ出したんじゃないか、って言ってたけど……やっぱりそうなの?」
夜不寝リコは仏頂面で視線を足元に固定したままだったがその問いには一つばかり頷いて見せた。
「……そう。でもそれならそれで、夜不寝さんは凍原坂さんや一恵さんに書き置きの一つもしていくべきだったんじゃないの? 《火庫》さんに秘密にしてって言われてたとしてもさ。凍原坂さん、すごく心配してたよ。仕事だっただろうに、朝から《和菓子屋たぬきつね》に来てさ。一恵さんも軽くパニックになってたって。……夜不寝さんは皆に心配を掛けたかったの?」
露骨に責める言葉選びになってしまっていたがひづりは正直遠慮をする気にはなれなかった。夜不寝リコは今日それだけの事をしていた。
夜不寝リコはバッと振り返ってひづりを睨んだ。それをひづりはじっと睨み返した。
「言いたい事があるなら言ったら? 今は夜不寝さんが猫被らなきゃいけない相手、居ないんだからさ」
彼女はそのままひづりの眼を見つめていたが徐に視線を正面へ向けると両手で額を押さえながら大げさな溜め息を吐いた。
「……そうだね。春兄さんか母さんには伝えとくべきだった。それは本当にそう。悪いとは思ってる。でも……火庫にあんな風に……切羽詰ったみたいに頼まれたら、ウチには分かんなくなった」
「分からなくなったって、何が?」
夜不寝リコはひづりの問いにしばらく反応を見せなかったが、やがて冷たい眼差しで振り返った。
「……官舎さんってさぁ、天井花さんや和鼓さんが悪魔だって最初から分かってたんでしょ? 聞いたよ和鼓さんから。官舎さん、お姉さんが天井花さんたちに無賃労働させてたの、止めたんだってね。それってなんでなの? 二人共悪魔だって最初から分かってたのに、なんでお姉さんのこと止めようとしたの? 官舎さん、別に正義感が強いとかってタイプでもないでしょ。悪いけどウチ知ってるよ。なのになんで会ったばっかの、それも人間でさえない悪魔二人のために《正しいこと》なんてしたの?」
ひづりは面食らった。急に一体何の話を持って来られたのだろう。けれど夜不寝リコの眼は真っ直ぐこちらへ向けられたままで、どうも全く無意味で無関係な問いではないらしいと思えたので、少々腑には落ちなかったがひづりはひとまず答える事にした。
「それは、姉さんが悪い事したら叱るのは昔から妹の私の役目だったからだよ。姉が悪い事してて、それが分かったら、妹なら普通止めるでしょ」
「止めない」
ひづりの答えを夜不寝リコはやや強めた声で否定した。
「自分や自分の家に迷惑が掛からないなら、普通は止めたりしない。他人を蹴落として幸せになる権利は誰にでもある。家族だろうが姉妹だろうが、それを逐一やめさせようとするなんて普通じゃない。だから官舎さんのそれは絶対何か別の理由でしょ。正義感でも、妹としての義務感でもない、もっと別の……。ウチ、物心つく前に姉さんが死んだから姉妹ってよく分からなかったけど、でも火庫の前世が姉さんだって分かってここ数日一緒に過ごしてみて、それで確信した。官舎さんのやってるそれは絶対に《普通の妹》なんかじゃない」
そう言って彼女はまるで不潔なものでも見るかのような眼をした。それは以前初めて母親を連れて《和菓子屋たぬきつね》へ来た日に見せたのとよく似た表情だった。
彼女の言いたい事がまるで分からずひづりは眉根を寄せた。
「さっきから本当に何? 私と姉さんの事が今何の関係があるの? 私は凍原坂さんにも一恵さんにも心配掛けて、そのうえ連れ出した《火庫》さんとはぐれた馬鹿に、どうしてそんな馬鹿やったのか、って聞いてるんだけど」
要点のはっきりしない夜不寝リコに苛立ちからひづりもつい喧嘩腰になってしまった。
夜不寝リコはぴくりと左の目尻を痙攣させた。
「へえ……本当に無自覚なんだ? 周りの事だけじゃなくて自分の事まで鈍感とか、ほんと、あんたそういうとこマジでキモいよ」
ひづりも頬が軽く引き攣るのを感じた。それと同時に、駄目だ、感情的になり過ぎてるぞ、と心の中で冷静な自分が声を上げた。
一つ深呼吸をして気持ちをいくらか落ち着けてからひづりは返した。
「今朝、教室でちょっと気に掛けてたけど、やっぱり夜不寝さんの転校の話してる人、一人も居なかった。転校の事を私に知られたくなくて、それでクラスの皆にも言えなかったんでしょ? 悪かったって思ってるよ、それは……」
確かに気が利く方かと言われたら自信は無かったが、それでもそれくらいは私だって気付くよ、というつもりで言ってやった。
すると夜不寝リコは眉根を寄せて「は?」と零し、それから声を上げて笑った。
「ははは! ウチがクラスの皆に転校のこと話さなかったの、全部自分のせいだと思ってたんだ? はっ。馬っ鹿じゃないの? 勘違いだからそれ」
「勘違い?」
笑い終わりに空を見上げてふうと息を吐いた後、夜不寝リコはまた酷く冷たい眼をした。
「ウチは同情されたくなかっただけだよ。もし引っ越しを決めた先月の半ばくらいに転校のことクラスで話してみなよ。そこから一ヶ月、クラスの奴らにずっと哀れむような眼を向けられるんだよ。両親の入院のために転校しなきゃいけない夜不寝さんかわいそう、ってさ。ほんと勘弁して欲しい。あんな連中に同情されるくらいなら死んだ方がマシ。だから言わなかったし、転校直前まで知られたくなかったんだよ」
それが彼女の強がりなのかそれとも本音なのかひづりには分からなかった。
「……夜不寝さんはこれからどうしたいの? 何にそんなに焦ってるの? 今の話を聞いても、今日の事、夜不寝さんはやっぱり自暴自棄になってやったようにしか思えない。確かに転校までもう二週間しか無い。だから学校の事も、お店の事も、夜不寝さんにとってはもうどうでもよくなったの?」
昨日から考えていた事、そして今朝の家出について聞かされてから抱いていた印象などをひづりはそのまま口にした。
夜不寝リコは一瞬怯えた様な顔をして、それから、どうやら足はもう良くなったらしい、勢いよく立ち上がって声を荒げた。
「だったら何!? 自分はしょっちゅう学校サボってるくせに、人には説教!? ……っていうか、春兄さんと天井花さんは分かるけど、なんで官舎さんまでこっち来てるの? 別に来る必要無くない? それとも何、心配してますアピール? 気持ち悪い、そんなのでウチがあんたの事信頼するとでも思った訳!? そもそも最初っから気に入らないんだよあんた! 愛想笑いの一つも出来やしないくせに、学校じゃあのどんくさい金髪とブリっ子眼鏡に守ってもらって、店じゃお姉さんや天井花さんにフォローしてもらってさ!! いいよね、甘やかされて綺麗な気持ちのまま生きていける奴はさぁ!!」
「はぁ?」
これにはさすがにひづりもカチンと来て夜不寝リコと同じ様に立ち上がりもうそのまま額同士をぶつけるくらいのつもりで顔を近づけた。
「甘やかされてるって? あの起きてる間は悪いことしか考えてないような姉さんを見張らなきゃいけないのがどれだけ大変か、あんたに分かるってのかよ!! 今回だってあんたや凍原坂さんが姉さんの悪巧みに利用されそうでずっと気を揉みっぱなしだってのに、人の気も知らないで!!」
「誰がそんな心配してほしいなんて言った!? ウチのことも春兄さんのことも、ウチらの問題でしょ!? なんで他人のあんたにそこまで口突っ込まれなきゃいけないんだよ!!」
「それは……そんなの、凍原坂さんに迷惑掛けられないからだよ!」
「迷惑ならとっくに掛かってるだろうが!! 火庫たちを店に通わせて、危険な状況に置かせて、何を今更だこのクソ女!!」
ばしん、と夜不寝リコの放った平手がひづりの右頬を打った。
「……ッ!」
ひづりは夜不寝リコのそのちょっと高そうな上着の袖を掴むと同時に足を掛けた。夜不寝リコの体が低い位置でぐるんと回転し、固められた境内の土の上に背中からどすんと落ちた。
「ぐえぅっ」
受身をし損なった夜不寝リコの口から低い悲鳴が飛び出し、顔は苦痛に歪んだ。そのままひづりは倒した夜不寝リコのお腹に跨って両腕も押さえ込んだ。
「言いたい放題言いやがってさ……。私が心配したのはね、《火庫》さんだけじゃなくて夜不寝さんもだよ。私だってあんたの事なんか大っ嫌いだよ。でも同僚になっちゃったんじゃないか。あんたが働くとか言い出して、姉さんが雇うって言い出して、それから《火庫》さんの……前世での妹だって分かって、店で《火庫》さんと仲良さそうにしてるの見てさ。大嫌いだけど、もうどうでもいいクラスメイトじゃないんだよ。だから凍原坂さんにも一恵さんにも黙って家出したあんたにイラついたんだ。自分には味方は居ないみたいな顔してさ、本当、本当に馬鹿じゃないの。クソッ。さっき愛想笑いがどうとか言ってたよね。じゃあ言わせてもらうけど、私から見れば夜不寝さんは無闇に媚び過ぎ。見てて気持ちが悪い。あとそのオン眉似合ってない。それと最初の頃ウエストの太さで笑いやがったけど私は運動してるから腹筋もあるし身長差だって十センチ近くあるんだからそれくらいの差が出るのはしょうがないだろうが……!!」
ひづりはこれまでの鬱憤を全て吐き出した。気付けば両手は掴み上げた夜不寝リコの上着を破いてしまいそうなくらい力がこもっていた。
「はぁ、はぁ……。…………」
と、ここでひづりはようやく我に返った。手を離し、馬乗りになっていた夜不寝リコの体からゆっくりと退いた。
ああ……やってしまった、もうこんな軽率に暴力は振るわないつもりだったのに……いや、でもこれはちょっとしょうがないだろう、先に手出したのあっちだし……とぐるぐる考えが巡り、急速に頭の中が冷めていった。
そして冷静になったついでに、先ほど天井花イナリが残した「ほどほどにな」という言葉の意味を理解して思わず額を押さえた。ひょっとしたら彼女が《認識阻害魔術》を掛けて行ったのは《転移》のためだけでなくこういう事態になるだろうと予想してだったのかもしれなかった。
「う…………」
仰向けに倒れこんでいた夜不寝リコの口元から小さな声が漏れた。見るとその両目にはじんわりと涙が滲んでいた。
それから彼女は両手で顔を覆って泣き叫んだ。
「うああああああああ!! ああ、ああああううあああああ!!」
うるっせぇ泣き声……! ひづりは思わず少しのけぞった。元々よく通る声質である分、至近距離で発されたその絶叫の様な泣き声は強烈に鼓膜に来た。夜不寝リコはそのまま両足をばたばたと暴れさせた。
「ぐうう!! うぐ、おえっ、ぁあああああー!! くそっ、くそっ、ぐぞぉおー!! やだやだああー!! こんな暴力女に百合川ぐんを盗られだぐないいい!!」
介抱を請合っておきながらこんな状態では……ちょっとすぐには天井花さん達に連絡出来そうに無いな……とひづりが自己嫌悪しつつ参っていると夜不寝リコは泣き喚くついでにそんな事を言った。
「…………は?」
一瞬彼女が何を言ったのか分からず、ひづりは呆気にとられてぱちりと瞬きをした。