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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
158/259

   『将来のことは』



 夕食後、リバティタワーに百以上ある教室の中でも特に広く、三百人以上が収容可能だというその明大駿河台キャンパス一の大講義室へとひづり達は移動した。

「こういう棚田みたいになっている教室、テレビなんかでよく見ます。大学って感じがします」

 ちょっと子供っぽいだろうかとは自覚しながらも、ひづりはその体育館みたいに広い教室をきょろきょろと見回してしまった。

「ここへ来るとみんな一度はそんな風に言います」

 凍原坂は一体何メートルあるのだろうという上下二分割の黒板の前へ来てふふふと笑った。ひづりたちしか居ないからだろう、部屋の隅に居ても普通の声量で会話が出来そうなくらい、大講義室は音がよく響いた。

 夜不寝リコは何度かここへ来た事があるのか、もう面倒になってきたという顔で早々に適当な席へと腰を下ろしていた。《火庫》も《フラウ》を背負いながら歩くのに疲れたのだろう、夜不寝リコの隣に《フラウ》を置くと自身もその横へちょこんと座り込んだ。

「ひづりさんは、やっぱり卒業後は進学されるんですか?」

 こんな教室で授業を受けるのってどんな気分なのだろうか、とひづりも適当な席へ座って背筋を伸ばし正面の黒板を見据えていると、おもむろに凍原坂が訊ねた。

「それは、ええと……」

 ひづりは困ってしまってつい目を逸らした。

 凍原坂が首を傾げ、興味などなさそうではあるが夜不寝リコもこちらを訝しそうに睨んでいるのが分かり、ひづりは観念して正直に話す事にした。

「実を言うと、進路、まだ迷っているんです。本が好きだから図書館司書を目指すのが良いんじゃないか、って担任の先生には言ってもらっていて、だから七月までは、ぼんやりとですがそうした先を見据えた進学を考えていたんですが……。でも今、対処しないといけない《天界》の問題や、私自身《魔術》の勉強をもっと進めたい、っていう気持ちもあって。だからイギリスの、母も通っていたっていう《魔術の大学》への進学も、ちょっと考えたりするんです。でも私は……母みたいに父や千登勢さんを置いて海外へは行きたくなくて……。《天界》から身を守る手段を身につける勉強をしなきゃいけないんだから、そんな意地は張っていられないって、分かってはいるんですけど……。でも天井花さんも、私のイギリスへの進学には反対意見みたいで。自分が教えるんだから必要ないだろう、魔術師共の大学なんてろくな所ではないぞ、って……。今日の、明治大学見学の話を後押ししてくれたのも、たぶんそういう理由からなんだと思います。だけど、天井花さんに頼りきりのままで……自分は本当にそれで良いのかな、って……。ずっと考えてはいるんですが、私にはどっちを選べば良いのかぜんぜん決められなくて……。……すみません、お忙しい中案内までして頂いたのに、進学の事、本当はまるで煮えきっていないんです」

 司書を目指すために日本の大学へ進むのも、母の様に《魔術》を学ぶべくイギリスの魔術大学へ行くのも、もう来年に迫った己の事でありながら、しかしひづりにはまだまるで実感が湧いていなかった。今日凍原坂に大学の案内をしてもらおうと思ったのは、そうした悩みに対して何か打開出来るものが見つかれば、と思ってのことだった。本物の大学構内を歩いてみた自分が何を思うのか、それを感じ取ってみたかった。

 けれど、明治大学構内を案内してもらい、こうして立派な教室の一角に大学生の己を想像しながら座り込んでみたところで、結局何か決心がつく様な都合の良い心の変動は起こらなかった。

 多忙であろう大学講師の凍原坂に一日時間をとって貰いながら、自分はこんな返事しか出来ない。申し訳なくてひづりは恥ずかしくなった。

 しんと静まった教室の中、凍原坂は教卓の上で指を組んだまま少し考えていたが、やがて顔を上げると「……お役に立てる話かどうかは分かりませんが」と一つ前置きしてから、言った。

「進路は、どんな順風満帆な人生を送ってきた人であっても、何が正しいかは分からないものです。選んだ後で自分の健康状態や経済状況が変わるかもしれません。仕事に対する世論の考え方が変わることもあります。良いとされていた仕事が、悪いものとされることもあります。後戻りが出来ないことも、確かにあります。ですが……。……一般的に『人一人分の幸福な人生と、数学者として生きる人生は、決して両立しない』とされている数学者の道を、高校卒業と共に選んだはずの私の人生は、十四年前、『フラウや火庫の父親として生きる人生』へと変わりました。今も数学講師としてここに雇われてはいますが、私は雪乃さんとの結婚を決めた時から、もう正しい数学者ではなくなったんです。私は数字の探求という道を諦め、家族と生きるために職業として数字を人に教えお金を稼ぐ道へと進路を選び直しました。三十歳を目前にしていた頃の事です」

 凍原坂は《フラウ》と《火庫》のそばへ来て、それから二人の頭をそっと撫でた。

「どんなに重大な選択をしても、その時自分が他の道を全く考えつかなかったとしても、何年後か、何十年後かには、また別の環境が自分を取り巻いていて、そしてその時にもまた、重大な選択の時は来るんです。進路は慎重に選ばなくてはならないのは確かですが、それでも、未来の自分の環境がどうなっているかなんて分からないのだからいっそ腹を括ってしまう、というのも、私はそれも一つの捉え方として良いのではないかと思うんです。ですから、謝ったりしないでください、ひづりさん。決めるのはひづりさんで、そして決めなければならない時は必ず来ます。今日のように大学の案内をさせて頂いて……それが今後、ひづりさんが選ばれる道の中で何かほんの少しでもお力になれるのでしたら、私にとってこれ以上喜ばしい事はありません」

 そう締めくくると、彼はふと何か気づいた様にしゃがみ込み、ポケットからハンカチを取り出して、眠っている《フラウ》の顔の周りをそっと拭いた。よく見ると彼女のよだれが椅子に小さな水溜りを作っていた。

 七月に初めて《和菓子屋たぬきつね》で出会い、天井花イナリと一悶着あったあと、凍原坂と二人店内で話した事をひづりは思い出していた。

 万里子さんの行いは、望むと望まざるとに関わらず、誰かを少しだけ幸せにしている──。彼はあの時、そんな事を言った。今でも全く疑わしい説ではあるが、けれど彼にとってそれは本当に事実なのだろう。

 数学者の道が過酷であるという話は、以前授業で進路の話になった際、二人ほど友人に居るのだという担任の須賀野がしんみりと語っていたので、ひづりも少しだけ知っていた。

 各々にいくつもの正解が存在しそれが差こそあれ成果として評価される多くの職業と違って、数学には正しい答えが一つしか無い。しかもそれは、人類が数学と出会って何万年が過ぎ、数多の数学者が生涯を懸けて求め続けて来た前人未踏の数式でなくてはならない。

 しかし、数学者が食べていくために就く教育職が奪っていくものは他でもない時間であり、何もせず一生食っていけるような資産を持たない数学者が数学者として生きていくには、凍原坂の言うように、人としてのあらゆる幸福や生活を諦めなくてはならないのだという。

 凍原坂は十代で数学の道を選び、その後で西檀越雪乃との未来を選び直したが、悲しい事故によってその未来は途絶えてしまった。数学者としての道を諦めてまで選んだ恋人との未来を、彼はそこで一度失った。けれどひづりの母、官舎万里子の気まぐれによってそれは部分的ながら蘇った。《悪魔》と《妖怪》を《契約》によって縛り付けた、《フラウ》と《火庫》という二人の娘。偽りの関係ではあるが、けれど時を過ごす内に彼女達は凍原坂の本当の娘のようになった。

 嘘でも、きっかけが何であっても、それは間違いなく官舎万里子がこの世に遺したうつくしい幸いの一つだった。

 ひづりは立ち上がり凍原坂たちの前へ来て背筋をしゃんと伸ばすと、深くお辞儀をした。

「……ありがとうございます。今日のこと、本当に」

 母への恩があるからと言うだけでこんなにも親身になってくれる人が、この世に一体どれだけ居るだろう。こんな自分にこんなにも良くしてくれる人と、この先一体何人出会えるだろう。

 そして自分が享受しているこの幸いも、……ちょっとだけ悔しいが、生前の母が遺したものに違いないのだ。大勢の人に助けられて今の自分がある事をひづりは改めて噛み締めた。

 と、そんな時だった。

「いえそんな、頭を上げてくださ…………え?」

 凍原坂の声がにわかに何か気づいたという風に途中でぴたりと止み、ひづりも視界の端にちらつく《それ》に気づいて顔を上げ、振り返った。

 少し前まで凍原坂が立っていたその広い教卓のすぐ横に、《転移魔術の魔方陣》が描かれて濃い紫色の光を放っていた。

「やれやれ、またつまらん話でもしておったのか」

 《魔方陣》の光が弱まって消えていく中、天井花イナリが溜め息をこぼしながらそう言った。

 ひづりはびっくりしてすぐに彼女のそばへ駆け寄った。

「天井花さん、どうしたんですか? お店で何かあったんですか?」

 彼女はひづりを見上げるとほんのり機嫌の良さそうな顔をした。

「いや何、この雨じゃからの、お主を迎えに来たのじゃ。今は向こうも中々の大降りでな。雨が止むのを店内で待っておった客らも今し方皆タクシーを呼んで帰って行った。《未来視》で見れば今日はもう閉店時刻まで客は来んようであったし、その後もしばらく降るようであったから、店はちよことたぬこに任せ、こうしてお主の迎えに来たという訳じゃ」

 ひづりはほっと胸を撫で下ろした。自分が居ない間に店でまた姉が何かやらかしたのでは、と不安に思ったのだ。

「そうでしたか。すみません、お仕事の後なのに」

「構わぬ。凍原坂への礼も言うておかねばならんしな。……それに、少し気になる事もあるでの」

 最後に彼女はひづりにだけ聞こえる声量でぽつりと言い、凍原坂たちの方を見た。

 気になる事? ひづりは首を傾げたが、天井花イナリは気にせずつかつかと教室を歩き、凍原坂たちから一つ前の机にぽすんと腰を下ろすと着物の袖を組んだ。

「約束通りひづりに大学の案内をしてくれたようじゃな。礼を言うぞ、凍原坂」

 凍原坂は畏まって背筋を伸ばしており、《火庫》と夜不寝リコも天井花イナリが《転移》してくるなりぱっと立ち上がって同じように姿勢を正していた。

「いえっ、こちらの都合のせいで時間もあまり取れませんでしたし、この雨ですし、ひづりさんのお役に立てたかどうか……」

 すると天井花イナリはふと顎を上げ、そばへ来たひづりの顔をちらりと見てから、また凍原坂に訊ねた。

「ああその事じゃが。一時間ほど前、向こうの日陰の建物に居った酒呑みの細い男……あれは何者じゃ? ずいぶんと話し込んでおったようであるが」

 ああそうか、とひづりは気づいた。天井花イナリの持つ《未来と現在と過去が見える力》は映像以外の情報を拾うことが出来ない。凍原坂がどうしてあの時部屋を出て行ったのか、とか、ひづりたちがあの酒呑み男と何を話していたのか、といった事は、彼女にはまるで分からないのだ。

「凍原坂さんのご友人の渡瀬さんという方で、《妖怪》に詳しい民俗学の学者さんでした。母の話をしたり、夜不寝さんのお姉さんのお話を……。あ、でも……」

 ひづりがちらと視線を送ると、凍原坂は頷いた。

「はい、私の古い友人なのですが……私やリコちゃんに《妖怪》が見えている事や、《火庫》たちの出自の事は、あいつには話していないんです。申し訳ありません、先ほどはそのせいでひづりさんにご迷惑を掛けてしまいまして……」

「迷惑なんて」

「よい。ひづりの顔を見るに、そやつとの会話でいくらか知見も得られたようじゃしの。咎めはせん。それより……」

 渡瀬の事はそこまで気になる話題でもなかったようで天井花イナリはさらりと流し、それよりもこちらの方が気になっている、という顔でじっと《火庫》の顔を見つめた。

「《火庫》、お主、先程からどうした? 凍原坂への施術の前後からその調子であるが、まさか具合でも悪くしたか? 閉口する必要は無いぞ。ひづりの治癒は習得二日目にしては出来が良いが、熟練はしておらん。ひづりの施術で何か体に不調を感じたなら、それらはすぐわしらに言え。お主も了承したはずじゃ。わしらはお主らに恩を売る必要がある。それはあのちよこのやつを出し抜き、ひいてはお主らを守る術にもなる。協力関係を忘れたわけではあるまい。これに関しては遠慮も秘密も無用と思えよ」

 厳かに言い渡された《火庫》へ、一同の視線が集まった。

「火庫、やっぱりどこか悪いなら、天井花さんもこう言ってくれてるし、話してみよう? 官舎さんが何か失敗したのかもしれないんだから、火庫が思い詰めるようなことじゃないよ」

 夜不寝リコは気がかりそうに姪の顔を覗き込んで言った。

 《火庫》は焦った様に「いえ、本当に大丈夫ですから」と体を引いた。

 一瞬、大講義室はしんと静まり返って、外の激しい雨音が響いた。

「……《火庫》、もしかして渡瀬から何か聞いたのかい……?」

 すると凍原坂が少し体を屈めて《火庫》に訊ねた。

 ぴくり、と彼女の肩が揺れたのがひづりの位置からでも分かった。その顔色が一度に青ざめたのも。

「《妖怪の専門家》と言うておったな。具体的に何を話した?」

 訝しそうに眉根を寄せた天井花イナリに訊ねられ、夜不寝リコはまた背筋を伸ばした。

「は、話したと言っても、妖怪に関する事はちょっとだけで……。渡瀬さんと春兄さんは妖怪の話を通じて仲良くなって……それからええと確か……人間が妖怪になると、記憶がどう、とか……。ねえっ?」

 助けろよ、という風に夜不寝リコはひづりに振った。仕方ないのでひづりも憶えている限り補足した。

「『死んだ人が妖怪になるケースがある』、と、そういったお話を聞いたんです。そういう場合、人間だった時の記憶は引き継がれないけど、生前の恨みや憎しみみたいな強い感情だけは《妖怪》になっても《思い出》として引き継がれる……確か、そんな感じの話でした。《火庫》さんはその話をすごく……気にしているみたいでした」

「ほう」

 天井花イナリは《火庫》を見つめ、仄かに目を細めた。

「《妖怪の記憶の話》は……私が先日渡瀬に電話で話した事でした。近いうちに会って、そのことで少し、話を聞こうと思って……それで今日あいつは大学に来ていて……」

 凍原坂はひづりの言葉を繋いだが、その眼と意識はうつむいた《火庫》に向けられたままだった。

 彼は《フラウ》の口元を拭いた時と同じ様に《火庫》の横へしゃがみ込むと、その愛娘の美しい白髪の隙間で揺らぐ青色の瞳へ、優しく声を掛けた。

「《火庫》。話してくれないかい、君が思っていること。渡瀬から、何を訊こうと思ったんだい……?」

 しかし《火庫》は顔を背け、うつむいて、お腹の下辺りで小さな両手をぎゅうと握り締め、それきり口を開かなくなってしまった。

 また重苦しい静寂が講義室に響いた。

「……やっぱり変だよ、二人とも」

 すると夜不寝リコが声を挟んだ。眉間に皺を寄せ、彼女は困惑をその顔に浮かべていた。

「《火庫》も春兄さんも、最近ぜったい変だよ。そうじゃなかったじゃん。今まで二人ともあんなに仲が良かったのに、最近は何だか……他人みたいに気を遣ってる。やっぱり《和菓子屋たぬきつね》と関わってから、何かあったんでしょ? 例えば、あのちよこさんに何か言われたとか。……ウチも働き始めて分かった。あの人は…………具体的にどこがどうって、言えないんだけど……絶対ちょっとヤバい人だ。ねえ、《火庫》、春兄さん。あの人と何かあったの? ウチらの見てないところで、何か、酷い事されたんじゃないの?」

 何も言えない身でひづりは彼女の話を静かに聞いた。実際今もひづりは姉の企みの内容を一切把握出来ないでいる。営業再開日から微かながら感じていた《火庫》と凍原坂の間にある不自然さの正体が、もし夜不寝リコの睨む通り姉の所業が原因であるなら、この後自分は頭を下げないといけないのだ。

 しかし凍原坂は首を横に振った。

「違うんだよ、リコちゃん。ちよこさんは本当に、今回は関係ないんだ。……ねぇ、《火庫》、そうだね……?」

 彼は何か確信している様子で、またそっと《火庫》へ問いかけた。

 黙り込んでいた《火庫》は小さくではあるが頷いて見せた。

「はい……ちよこさんでは、ないのです。ただ…………わっちらの問題なのです……本当に……。白狐様や、ひづりさんを煩わせるようなものではないのです……」

 それはか細く、消え入りそうな声だった。

 ひとまず姉が原因では無いらしいというのは実に良い事ではあったが、では一体何がこの仲良しだった親子を今の様な妙に余所余所しい状態にしてしまっているのだろうか、とひづりは改めて記憶を掘り返した。喧嘩をしたとか、そういう感じではなさそうにひづりには見えていた。というよりむしろ凍原坂と《火庫》はお互いにすごく気を遣っている様に見えていた。余所余所しいと感じるのは間違いなくそこからだ。

 じゃあ何故、気を遣うのか。もちろん親子間でも遣う所は遣うのが気というものだが、凍原坂家に至っては七月に出会った頃から一般的な家庭よりずっと親子の距離が近く、三人だけで何もかも完結しているようで、何をするにしても三人一緒というそんな具合だった。気を遣って親子が距離を取る、なんて、きっと一番似合わない家庭だった。

 特に、《火庫》なのだ。彼女は営業再開日に店へ来た時から何か様子がおかしかった。今ではその行動理由が判明しこそすれ、本来なら凍原坂が大学で仕事を終えればすぐにでも家で三人一緒に過ごしたいであろうに、彼女は自ら《和菓子屋たぬきつね》で働くという提案を示した。七月には、自分と《フラウ》と凍原坂の三人揃った空間さえあれば他に何も要らない、むしろ自分達の間に誰も近づいてくるな、という顔をしていた彼女が、だ。

 凍原坂から離れ、外の人間に関わる事を、彼女は自ら選び行動していた。それは父の手を離れて自立を目指そうというそんな明るい主旨のものではなく、言ってしまうなら、自分自身を凍原坂から遠ざけようという、何らかの寂しい悲観からの行動であるようにひづりの眼には映っていた。

 そうだ。ひづりは改めて自覚した。あの日、店で働くと言い出した彼女が浮かべた下手くそな嘘の表情が、その声音が、酷く胸を引っ掻くように思えたのは、彼女自身望んでなんていないくせに凍原坂の許から居なくなろうとしているように見えたからだったのだ。

「……はあ。全く面倒であるな」

 すると不意に天井花イナリが不機嫌そうに声を荒げ、腰掛けていた机からすとんと降り立った。

「どうもお主らは互いに何か感づきながら、しかし確かめ合う思い切りが足らんと見える。それが思いやりなのか、不安からくる躊躇いなのか、理由は知らんが……何れにせよ、いつまでも二人揃ってその様な顔をしておったのでは、いくら《滋養》を与えようと戻る体調も戻るまい。《フラウロス》の馬鹿面の寝顔がまともに見えるぞ」

 凍原坂も《火庫》もハッとしたようにぱちりと瞬きをして、それからお互いの顔を見つめ合った。

 天井花イナリは困った様にその辺りへ視線を投げた。

「異郷の地で威容を保つというのは何ともままならんものじゃな。そこの阿呆になった《フラウロス》はともかく、この様な身なれど、わしは今でも《王》であるぞ。拝謁を許され、問い掛けを許され、果てはその《魔術》の一端さえその身に受けながら、尚も口を閉ざすとは。お主らよ、人と人ならざるものの間に生まれる悩みの助言を請うに、目の前の《王》より頼りになる者が、この《人間界》で他に居ると言うのか? 今一度二人しっかりと考えてみるがよい」

 そこで話を区切ると彼女は厳かに袖を組んだ。

 二人はまだ互いに決めあぐねている様子だったが、やがて《火庫》が握り締めていた両手を解き、恐る恐る凍原坂の手をとった。

「……話して、くれるのかい?」

 凍原坂は嬉しいような、気がかりなような、複雑な顔で訊ねた。

 《火庫》は頷くと父を安心させるように微笑んだ。

「はい、凍原坂さま。……許してください。わっちは、不安に思うばかりで……凍原坂さまがその様に悲しげなお顔をなさっていること、気づかずにいたのです……。わっちは、凍原坂さまに健康になって欲しいのです。何よりも、そればかりなのです。……お話し出来なかったこと、白狐様に聞いて頂きましょう」

 心はもう決まったと見え、ひづり達の方を向いた二人の眼差しもいくらか光が射して思われた。

 《火庫》は天井花イナリに深く深く頭を下げた。

「白狐様。この一ヶ月と少し……わっちと凍原坂さまが疑問に思っていた事を確かめるために……恐れながら、どうか白狐様のお力を貸して頂きたいのです」

「言うてみよ」

 端から断る気なぞないわ、という調子で天井花イナリは応えた。そんな彼女の穏やかさにか、《火庫》は少し嬉しそうな顔をして、それからまた表情を引き締めると凍原坂と手を繋いだまま言った。

「先日お使いになられていた、ちよこさんの一日の行動を映し出したあの《魔術》……あれは、わっちの《記憶》には使えないでしょうか……? わっちは、もしかしたら、かつて人間で……そして凍原坂さまの、とても身近な人だったのかもしれないのです」






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