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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
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   『気づきたくなかったこと』




 味醂座家にはアインという名の犬が居る。アサカが生まれた年に貰って来た子犬でありながらすっかり老犬となった今も朝夕の散歩は欠かさない、信じられないほど元気なジャーマンシェパードだった。

 ただやはり最近ではその走る速度は落ちて、ふさふさだった毛はすっかり薄くなり、食事や排泄に至っては家族の誰かが手伝ってあげなくてはならず、掛かりつけの獣医師からは「健康に見えても、走る事が出来なくなった途端急に、という事もありますから、そろそろ覚悟されておいた方が良いかと思います」と言われていた。

 アインの朝の散歩は昔からアサカの担当だった。いくら歩調が落ちても長年走り慣れた散歩コースを一通り巡り終わるまでは帰りたがらないアインに、近頃は母親が「代わろうか」と言ってくれているらしいのだが、しかしアサカは「もうあまり永くないだろうから」と断り続けていた。

 このところ彼女の遅刻が多いのはそうした理由からだった。須賀野も一応事情は知っているらしく、意外と動物系の話に弱い彼は、無事今日の様に登校時刻に間に合えば先ほどの様な冗談の応酬こそすれ、逆にいざアサカが遅刻して来ると俄に目元を赤くして何やら勝手に悲しそうにするのだった。

 ひづりはこれまで触れ合える種類のペットというものを飼った事がなかった。だから、幼稚園から比較的近くで彼女たちを見てきた身であっても、生まれた時から一緒に居るというアサカとアインの現状に対しどのように声を掛けてあげればよいのか、未だ分からずにいた。

 今日にしても、ホームルームの後、アサカと他愛も無い挨拶を交わしながら、しかし「今日、アインの調子あまり良くなかったの?」とか、「先月一緒に行った散歩では途中で具合を悪くしていたし……今月はどうしよう?」といった話題をひづりは頭に浮かべつつ、けれど臆病さが勝って、つい意図的に避けてしまっていた。

 こうした憂いは、登校時間も何も無い夏休み中はある程度気にせずに済んでいたのだが、しかし明ければ当然こうしてまたひづりの胸に痞えを生じさせて止まないのだった。

 姉弟同然に育った愛犬に、明日にも別れの日が来ようとしている。そんな彼女に、幼馴染の自分は何をしてあげられるのだろう。毎日の様に遅刻するようになった彼女を教室で待つ朝の時間と、自分はどう向き合えば良いのだろう。

 人生には悩んで見つからない答えもある。愛する家族の死というのは、特にそういった種類の悩みを抱えざるを得ないものだと、分かっている。

 それでも何か、何か一つでも良い、私がアサカのためにしてあげられる、そんな何かを見つけられたら──。

「────舎さん。……官舎さん……?」

 つい逃げる様に教室を出てそのままトイレの鏡の前でぼうっとしていたひづりは、そこでようやく自分が名前を呼ばれている事に気付き、我に返った。

「あっ、……え?」

 顔を上げて声のした方を振り返ると、廊下の窓ガラスから差し込む逆光の中で一人の女子生徒が首を傾げてこちらを見ていた。

 百合川と同じ美化委員をしている、夜不寝(よねず)リコというクラスメイトだった。

「ぼーっとしてたけど、どうかしたの? 顔色良くないみたいだけど」

 続けて言葉を投げかけられたが、ひづりは困惑してとっさに返事が出なかった。

 どうもこちらが気づく前から一言二言話しかけられていたらしい……というのは分かったが、しかし彼女にこんな風に心配をされたのは初めてで……いやそれどころか、まともに話しかけられた事自体、おそらくこれが初めてだった。

 それからひづりはいつの間にか周囲に他の生徒の姿が無いことを認め、腕時計を見た。どうやら考えに深く沈み込み過ぎて予鈴の鳴った事にすら気づかなかったらしい。授業が始まる四分前だった。

「……保健室、行く?」

 女子トイレの入り口を背にして立つ夜不寝リコの顔は中央棟の壁に反射した陽光で陰って若干見づらく、今そこにどういう表情が浮かべられているのか、ひづりの位置からはよく窺えなかった。

 ……ただ、微かではあったが、その声音に意図的な威圧が込められている事だけは分かった。

 一つ喉を整えてからひづりは背筋を伸ばすと、つま先をそちらに向けた。

「いや、ちょっと考え事してただけだよ。ありがとう、大丈夫。教室に戻るよ」

 彼女に気にされるような事は何も無い。体調も別に悪くは無い。

 しかしそんな風に返しつつそっと脇を通り過ぎようとしたところ、にわかに夜不寝リコの体が半歩ばかりひづりの進行方向へと傾き、阻むようにしてその道幅を狭めた。

「…………何?」

 肩と肩がぶつかりそうになって立ち止まり、ひづりは眉根を寄せた。一気に近づいた夜不寝リコの顔には氷の様な無表情が張り付いていて、それはちらりとも逸らされずひづりの顔を見つめ返していた。

 廊下の先から聞こえてくる一限目が数分後に迫った生徒らの退屈そうな喧騒が遥か遠くに思えるほど、教室棟二階の女子トイレには出し抜けに重苦しい緊張が立ち込めた。

「……ひぃちゃん……?」

 その時だった。至近距離でほぼ睨み合う形となった官舎ひづりと夜不寝リコの間に、聞き慣れた静かな声がふと転がって入った。見ると、入り口のところにアサカが立っていた。

 舌打ちと同時に夜不寝リコもアサカを振り返った。

「どうかしたの……?」

 アサカはひづりに問うたが、その眼はひづりを見ていなかった。道を塞ぐ様にひづりの正面に立つ夜不寝リコのその百五十センチ弱の体を瞬きもせずじっと凝視していた。

 夜不寝リコはひづりにちらりと視線を戻すと、それから俄に取って付けたような笑顔をアサカに向け、愛想の良い声を出した。

「官舎さんがね、なんかちょっと具合悪そうだったから、少し顔色を見てたんだ。大丈夫なら良いの。じゃあね」

 そう言って身を引くなり夜不寝リコは捨て台詞と共に廊下へ出ようとしたが、しかし今度はアサカにその行方を塞がれた。

「……アサカ、何も無いよ。本当にちょっと、話をしてただけ。大丈夫」

 アサカは銅像の様に、でありながら、今にも襲い掛からんとする闘犬の様に敵意を剥き出しにして夜不寝リコを見下ろしていたが、けれどひづりの声を聞くとその姿勢を緩やかに解いて静かに道を譲った。

「…………」

 夜不寝リコは何を言うでもなくアサカの脇を抜けるとそのまま教室の方へと歩いていった。

「……大丈夫だった? 本当に何もされてない?」

 アサカはそばへ寄るなりにわかに心配そうな顔になってひづりの頭の先からつま先まで、正面と背中側をまじまじと確かめる様にした。立ち込めていた重い空気が一気に触れ慣れた穏やかなものへと塗り換えられていくのを感じた。

 ひづりは一度肩から力を抜いて、それから、努めていつも通りの調子を意識しつつ答えた。

「うん、平気。私たちも教室戻ろう。迎えに来てくれてありがと」

 アサカはまだ少し不安そうにしていたがひづりが廊下へ出るとすぐその隣に並び、それ以上問うては来なかった。

 そうだ。アサカが心配するような事は、夜不寝リコとの間には何も無かった。

 ……少しだけ驚いて、違和感を抱いた。ただそれだけだった。




 昨夏、同じ図書委員に所属しそこそこ親しくもなった頃、百合川に誘われてひづりは彼の友人らと一緒に都内の川沿いで開かれた夏祭へと赴いた事があった。

 アサカ、ハナと共に集合場所へ行くと百合川は同級生の男女三人を連れて現れ、その中に夜不寝リコの姿はあった。彼女が百合川と中学からの友人である、という話は、その時百合川の口から説明された。

 しかし挨拶をした後、それきりひづりと夜不寝リコの間に会話は無かった。……これは今でもひづりとって、百合川には少々申し訳ないことをしたな、と反省している一件だった。

 一年の時は別々のクラスであったが、この時からすでにひづりは夜不寝リコの事を知っていて、また苦手意識も抱いていた。

 薄いものではないながら、大人しい印象を与える種類の化粧。染めているのであろうほんのりと明るい髪はおかっぱで、前髪は眉毛の上。制服は固過ぎずやんちゃ過ぎずという、ありふれた着こなしをしている。

 身長はひづりより十センチほど低い百五十センチ前半で、体格は平均的。運動では特別目立つ生徒ではなかったが、数学の成績ではたまに上位者の中にその名前を見かける事があった。

 夜不寝リコという女子生徒は、学校側から目立って問題児とは見做されないながらも、十代女子のおしゃれさを忘れていない風貌を常に示しており、またやや低めの位置から見せる愛嬌のある笑顔は、雑誌などで最近よく取り上げられるいわゆる《男子受けする清楚系女子》のイメージそのもので、教室などでたまに漏れ聞く男子生徒らのありがちな恋話だのに耳を傾けると決まって彼女の名前はよく出ているようだったし、またちょっとした校則違反程度なら、彼女に見上げられ甘い声を出されるだけで眼を瞑ってしまう男性教諭の姿というものも、ひづりはこれまでに数回ばかり見た事があった。

 彼女は分かりやすく《男性に好かれる女子の像》そのものであり、そして同時に、《同性に嫌われやすい女子の典型》でもあった。

 だがそれは単に彼女を表す評価であって、ひづりが数回見かけただけで彼女を『苦手なタイプ』だと捉えるに至ったその最たる理由というのはまた別のところにあった。

 夜不寝リコはひとたび周囲に男性の姿が無くなると、途端に、蛇口の壊れた水道でもまだ遠慮があるだろうというくらい、その普段可愛らしい小鳥のさえずりの様な声を転がす口からとても同一人物とは思えない低く粗暴な声による罵詈雑言を垂れ流し始める女だった。しかも内容は決まってその場に居ない誰かの陰口で、指した人物の欠点や気に入らない言動を延々近くの友人らと語り続ける。

 そのうるさい事と言ったら無かった。生来響きやすい声質をしているのか、雑踏の中でも、こちらに聴く気が全く無くても、イヤホン等で耳を塞いでいても、その罵声はきんきんと鼓膜を突いてくるのだった。

 元々騒がしい場所や人が嫌いな上、そもそも陰口というものが好きでないひづりにとって、夜不寝リコは正直言って見るにも聞くにも耐えない存在だった。

 同じクラスでなくて良かったと思いつつ、しかしそうしたところ百合川に皆で夏祭に行かないかと誘われ、その名簿に彼女の名前があると知ったひづりは辞退を申し出ようかと思ったのだが、けれど本人と話もした事が無いのに「苦手だ」という理由で断るのもどうだろう、それにもしかしたら相手の良い面に出会えるかもしれないし、と考え直し、頷いたのだった。

 だが、そこであまり嘘が上手でないひづりの性格が思っていた以上に悪い方向に話を傾けてしまった。

 アサカはこの頃からもうクラスでは「運動が出来る面白い女」というイメージがついており、またひづりが委員を共にする百合川ともよく話をしていて、彼に『……へぇ、君、味醂座ちゃんって言うんだ。かわいいね。どこの高校?』とバカなフリをされれば、『この最高にかっこよくてかわいい美少女が居る高校……!』と答えながらひづりに抱きつく、という、恥ずかしくてどうしようもないような冗談を交わすくらいには打ち解けていたが、しかしひづりが夜不寝リコをあまり好意的に捉えていない事にも感づいていたらしく、夏祭の当日にはどうも意図的にひづりと夜不寝リコの間に入るような位置取りをしていた。

 ハナもハナで、決して不機嫌そうでは無いながら、一方で「ひづりに呼ばれたから来た」という態度を隠してはいなかったし、積極的に百合川たちへ話し掛ける様子も無かった。

 次第に百合川たちもひづり達の会話に割って入らなくなり、どちらかというと各々百合川といつもの調子でつるむ形に収まってしまっていた。

 険悪という程ではないが、和気藹々という風でもなく、最後まで「ひづりの友人と百合川の友人の集まり」という形は崩れず、その夏祭中に誰かと誰かが一気に仲良くなるといった事も見受けられなかった。

 以降、百合川はそうしたグループでの外出に誘って来なくなり、ひづりと夜不寝リコが学校外で会うのもそれ一回きりとなっていた。

 高校生活も一年が経ち、ひづりがそうした夜不寝リコらとの少々気まずい夏祭の事も忘れかけていたところで、今度はなんと同じクラスになった。

 しかしそれでも委員会は違うし、名前の頭文字も遠いので同じ班にはされ難いし、学校の行事か何かで同じグループにでもされない限り今後も彼女と口を利く機会は無く三年になってもそのまま何の関わりも無く卒業するのだろう、とひづりは楽観的に捉えていた。

 それに、訊ねて確かめた訳でもないのではっきりとしたものではなかったが、けれど夜不寝リコの方もどうやら何らかの理由で官舎ひづりを嫌っているらしい、というのは、彼女がたまに美化委員の友人らと一緒に放課後の図書室に顔を出す際、図書委員の仕事をしている百合川に話しかける事はあっても、決してひづりの方には声を掛けて来ず、そもそも視線すら合わせようとしない事などから、漠然とだが察していた。

 夜不寝リコと官舎ひづりはこの様なあまりはっきりしない、というより互いにあまりはっきりさせる気が無い絶妙な距離感にあった。

 だから先ほど彼女がトイレでいきなり突っかかって来た事に、ひづりは本当に驚いていた。あの夏祭からこれまで徹底して不干渉を貫いてきた中、それにそもそも夏休みが明けてまだ二度目の朝である。喧嘩を売られるような憶えなどなかった。

 加えて「彼女が一人で話しかけて来た」のも大きく引っかかるところだった。この一年半、学校生活の中で夜不寝リコが一人で歩いている姿というものをひづりは今日まで一度も見た事がなかった。常に傍らに友人が居る、彼女はそんな女子生徒だった。

 だから「一人きり、女子トイレの入り口に立ってこちらに話し掛けて来る夜不寝リコ」などというのはあまりに想像し難い非現実的なもので、ひづりは最初、自分は寝ぼけて幻覚でも見ているのかと思ったほどだった。

 駆け足でひづりとアサカが教室へ戻ると夜不寝リコは既に自分の席に着いていて、近くの友人らと何やら楽しげに話し込んでいた。ひづり達の方には眼もくれず、まるで数分前の出来事は本当に幻か何かであったろうかと言うほど、平常通りの姿でそこに居た。

 どうにも煩いはしたがそこで丁度担当の教師が来たため、ひとまずひづりも気にしない体でそのまま席に着き、授業の準備に意識を向けた。

 けれど次の休み時間、そしてその次の休み時間も夜不寝リコが話しかけて来る事はなかった。それどころか放課後になると珍しく彼女は友人らと談笑もせず、ごめん今日は用事があるから、とだけ言って鞄を抱え、早々に教室を出て行ってしまった。

 「先に帰ったと見せかけて、実は通学路で待ち伏せをしているのかも?」とも考えたりしたが、けれどひづりがアサカ達と別れて校門を出てついに学校最寄の駅へ着いても、やはり夜不寝リコは現れなかった。

 ちょっと自意識過剰だったのかもしれない、とひづりは《和菓子屋たぬきつね》へ向かう電車の中で考えた。今朝、夜不寝リコは本当にただただ自分の顔色が悪いと見て、親切で声を掛けてくれただけなのかもしれない。だとしたら、あの時自分はあまりよくない態度だった。

 明日、顔を合わせた時にでも謝っておくべきだろうな、とひづりが気持ちを固めたところで、電車は《和菓子屋たぬきつね》の在る商店街前で停まった。





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