2話 『夜不寝リコは心配している』
2話 『夜不寝リコは心配している』
九月十八日、月曜日。綾里高校では先週の金曜が始業式だったが、やはり気持ちとしては、月曜のこの日から新学期、というのが生徒含む学校関係者の体感だった。
まだ夏休み気分が抜けきっていない、気だるそうにしている者。逆に金曜日でクラスメイトらと休暇中の話をしきって、すっかり気持ちを切り替えている者。提出日に間に合わなかったのだろう夏休みの宿題を学校へ持って来て不満そうな顔で進めている者。少しばかり肌寒くなってきた気温に、持って来たカーディガンの類を友人らと見せ合っている者。
そんな二年C組の教室で一人、ひづりはまた大きな長めの欠伸をしながら、自身の机で文庫本の文字にぼんやりと眼を歩かせていた。
十四年前、母の思いつきで《魔術》の実験に利用された男性、凍原坂春路。そんな彼をつけ回していた《火の妖怪》が実験によって《悪魔の王》と混ぜ合わせられ、その結果生まれたのが《半分妖怪・半分悪魔》の体を持つ少女、《火庫》……。
待ち焦がれた営業再開の日に根回し通り客はしっかりと入り、加えて僥倖にも可愛らしい少女店員まで手に入った、ということで張り切った吉備ちよこの提案により勤務申請をしたその翌日の日曜日からもう《火庫》は《和菓子屋たぬきつね》で働く事となったのだが、驚く事に、教育係を任せられたひづりの指導を《火庫》はどれもただの一度で覚えてしまい、当初もう少し時間が掛かるかと思われていた彼女の実戦投入は、恙無くその日の内に叶ってしまっていた。
《火庫》が《和菓子屋たぬきつね》のフロア担当として即戦力になってくれた事は紛れも無く良い事だった。客足の増える日曜日にあって、しかし多忙を予想された時間帯でも店内の慌しさというものは眼に見えて緩和されており、それはかつてそれなりに店員の頭数が揃っていた時の《和菓子屋たぬきつね》と同じくらいの居心地の良さを提供出来ている、とはっきり実感する程だった。
また同時に預けられる事となった《フラウ》にしても、《火庫》の様に働きこそしないが、大抵ずっと奥の畳部屋で座布団一つに丸くなっていて、たまにフロアにのそりと出て来ては天井花イナリにつっかかって、本人は至って真面目に決闘を申し出ているのだろうが、可愛らしい彼女と天井花イナリのやりとりは店内に和やかな雰囲気を提供してくれていた。
《和菓子屋たぬきつね》一ヶ月半ぶりの営業再開は、実に想像以上の良い空気を纏った走り出しとなっていた。
ちよこは日曜日の間それはもうずっとニコニコしていたし、店の雰囲気がより良くなった事は非常に喜ばしい変化でもあったのだが、しかし、そんな中でもふと思い出しては気がかりにしてしまう事があって、ひづりはどうも手放しで喜べない気持ちを抱えていた。
土曜日に《火庫》が口にした、これまでの振る舞いからはどうにも違和感ばかりが目立つ提案。
そして《フラウ》が凍原坂に向けた表情や言葉……特に彼女が口にした《条件》という単語。
あの後、凍原坂たちが帰ってからひづりは天井花イナリにその事で訊ねると、彼女もまた少し難しそうな顔で静かに説明をしてくれた。
先月ラウラから聞いた通り《フラウロス王》の召喚儀式に供物は必要ない、が、一方でその召喚者――ひいては契約者となる者には、《二つの条件》が課せられるという。
一つは既にひづりも知っている、召喚直後に《フラウロス》が浴びせてくる炎に耐え切ること。そしてもう一つは、生き残った召喚者と《フラウロス》の間で《契約》が結ばれ、達成され、すべてが終わった後、《契約者がフラウロスを打ち倒すこと》らしい。
可笑しな話ではある。本来、《悪魔》と契約をしてそれが果たされた後、《契約者》は《悪魔》に魂を取られる。殺される。だが契約が果たされた直後、魂を取られる前に《契約者》が《悪魔》を先に殺してしまえば、《契約者》は利益だけ得て、死なずに済む。
人間と《悪魔》の関係上、《悪魔》にとって不利益でしかないそれを、しかし彼の《フラウロス王》は望んでいるのだという。
彼女は《勇猛を愛する悪魔》で、だからこそ《契約者》に対しては、出逢った時その場で焼き殺されなかったように別れ際も同じく自分を打ち倒す程の優れた勇者であって欲しい、というそんな愛情にも近い感情が芽生えるらしい。
だから《フラウロス》は《契約》が果たされた後、二つ目の条件として《契約者》に決闘を強要する。手順としてただ魂を奪うのではなく、正面から互いに生命としての全力をぶつけ合い、どちらが強く、そして生き残るべきなのかを示す機会を《契約者》に与える。
王として魂を《魔界》の王国民たちに持ち帰る事より、自分が死ぬ事より、《フラウロス王》にとってはそれこそが何よりも重要な事なのだという。
ただ、そうした生き残る機会を与えられる《契約者》の数に対して、その《フラウロス》の願いが叶うケースは極めて稀だ、とも天井花イナリは語った。召喚時に燃やされないよう《フラウロス》の炎を受け止めるだけの準備は出来たとしても、《魔力》と戦闘能力の高さで名を馳せた《フラウロス》の全力の殺意を前に生存出来る《魔術師》というのは、いつの時代であっても限られている。
現在の凍原坂と《フラウ》の関係は、官舎万里子と《グラシャ・ラボラス》の企てによって意図的にその《契約締結》と《最後の決闘》の中間地点で何年も時が止められている状態なのであろう、でなければ《魔術師》ですらない凍原坂がああして今を生きていられる訳がない、というのが天井花イナリの見解だった。
だから、土曜日のあの緊張した空気だったのだ。おそらく凍原坂は官舎万里子からその《最後の決闘》について話を聞かされている。《フラウロス》と二つ目の条件を叶えようとした時、お前は死ぬぞ、とそう説明されているのだろう。そしてそれを《火庫》も知っていて、だから彼女は土曜日、《フラウ》の口から《条件》という単語が出るなり会話に無理矢理割り込んで、突飛とも言える提案をひづり達に示した。《フラウ》の興味や意識の対象を変え、凍原坂が死んでしまう未来……《最後の決闘》を防ぐために。
官舎万里子が発端とは言え、これは凍原坂家の問題だった。この十数年を家族として暮らしてきたあの三人の間の問題なのだ。今更官舎ひづりが口を出すようなことではない。それにああして《火庫》が《二つ目の条件》を防ごうとする意思を持っているなら、自分達が心配する事でもない……はずだ。
ただ、あの《火庫》の表情だった。どこかぼんやりと、意識が常にどこかを見て、そして何かを恐れているような眼差し。ひづりにはそれが気がかりだった。
《フラウロス》の条件の話でも無い、何か別の不安要素。それを彼女は一人で抱えている様に見えた。
席についてから手遊みに開いて見ていた文庫本は気づけば一頁もめくっておらず、ひづりの口からはまた大きな欠伸が出た。天井花イナリ指導の下で今も続けている《魔術》の習得と研鑽、それは確かに学校の勉強と平行するのはそれなりに大変だったが、それでも今日こんなにも眠いのは、そういった凍原坂たちに対する形のはっきりしない心配を由来とした寝不足が原因だった。
官舎ひづりは《悪魔》と関わっていく事を決めた。ラウラ・グラーシャとの約束を果たすと口にした。なら、これからのためにももっとしっかりしなくてはいけない……のだが、しかし決意が睡眠を促してくれるものでもない。
昼休みに図書室へ行って、リラックスして眠りにつく方法が書かれた本でも探してみようか、と思いながらひづりはグッと眼を強く閉じ、両手を天井に伸ばして大きく深呼吸をした。
「……ひづりんが朝からエロいおっぱい突き出して深呼吸してる……」
「エロくない」
俄にいかがわしい声が傍らで聞こえ、ひづりはすかさず眼をぱちりと開けてその声のした方角に返した。
思ったとおり、奈三野ハナだった。
「おはようひづりん。眠そうだねぇ? そうか、昨日は遅くまで若い火照った己の体をもてあまして眠れなかったのかい。分かるよ、あたしもそうだった」
「おはよう。違う。勝手に分かった体で話を進めるな」
ハナは前の席の椅子を引いて座り込むと改めてひづりの方を向いた。
「じゃあなんだい。恋の悩みかね? 話してみなよ、このハナさんによぉ~」
化粧栄えのする人懐っこい笑みを浮かべながら彼女は楽しげに体を左右へ揺らした。上手に染めてある巻かれた金髪がそれに併せてふわふわと跳ねた。
少し考えた後、ひづりはゆっくりと椅子の背にもたれ、視線を逸らした。
「……恋ではないよ。ちょっと寝不足なだけ。お店に新しい店員さんが入ってね。その子の家庭の事で少し、ちょっとだけ気がかりだなぁって思って。それだけ。あちらさんの事情だからね。割り込めるものでもないし、割り込む必要もなさそうなんだけど……。あれだ、いつもの、しなくてもいい心配、ってやつ。気にしないで」
そして極力普段通りの振る舞いを意識しつつ、そう返した。
『それがどんなもので、どういう段階にあるのか』というのを大まかでもこうして説明しておくと、奈三野ハナという少女は大抵、そこから先に踏み込んでは来なかった。長めに話したい愚痴や相談であれば、ひづりはまず「聞いて欲しい」と前置きするのだ、という事を、彼女は理解してくれる人だった。
だから今も彼女はひづりの話を聴き終わると「ふぅん?」と丸めていた背中を起こして頷いてくれた。
「何だかまた面倒そうだけど、まぁひづりんの中で方針決まってるなら大丈夫か。しかし新しい人かぁ……。あれ? 土曜、あたしらが行った時は居なかったよね?」
柔らかな垂れ気味の両目をやや大きくしながら彼女は首を傾げた。
「うん、ハナ達が帰った後だよ。昼過ぎに面接へ来てね。急だったけど、昨日からもう働き始めてくれてるんだ。優秀な人だよ。フロアの人手足りなかったから、文句無しにありがたい。お店は休みだけど今日も研修に来てるらしいから、学校終わったらまた様子見に行くつもり」
「そっか。じゃあ、あたしらはまたひづりんがバイトの日にでも見に行かせてもらおうかな~。……で、どんな人なの? 女の子? 美人? おっぱい大きい?」
心配無用と分かるなり彼女はまた下心しか含まれていない声で質問を並べた。
七月にアサカと三人で少し遠くの遊泳施設へ行った際、和鼓たぬこの事で同じようにハナはその欲望を正直につらつらと並べこそしたが、しかし今のところ《和菓子屋たぬきつね》の従業員から「奈三野ハナに触られた、怖い」といった報告は一度も受けていなかった。隙あらばセクハラしてくるような女だが、越えてはいけない一線を軽率に越える様な人間ではない事は、ひづりも一年半の付き合いで理解していた。……その欲望を軽率に口にしなければもっと良いのだが。
スマートフォンを取り出し、ひづりは写真フォルダを開いた。
「雰囲気としては天井花さん系かな。凍原坂カコちゃん、って言うんだ。美人さんだよ」
岩国旅行の際に凍原坂たち三人を一緒に撮ってあげた写真がいくつかあったので、そこに映る白いワンピースを着た少女の顔を拡大して表示させた。
ハナもアサカも、凍原坂一家とはまだ会った事がないはずだった。くすぐったい話だが、ひづりが働いている間しか二人は店に来る気がないようだったし、また凍原坂が二人の来店時に居合わせた事も、今のところは一度も無かった。
《フラウと火庫》が《悪魔と妖怪》であること、凍原坂が《魔術》関連のことで母と知り合ったこと、などは引き続き秘密にしたままにしておくつもりだったが、それでも《火庫》が《和菓子屋たぬきつね》で働き始めた以上、そろそろハナ達にも従業員としての紹介だけはしておくべきだろう、とひづりは昨日から考えていた。
「へぇー! ほんとに綺麗な子だねぇ、クール美少女って感じ! さすがは《和菓子屋たぬきつね》だ、女を顔で選ぶ……」
スマートフォンの小さな画面にずいと顔を近づけてはしゃいだ後、ハナは急に真面目な顔になってぽつりと呟いた。
「人聞きが悪いだろ」
……とは言え、実際うちの経営と掃除と食器洗い担当の女は、顔の良い女を自分の許で働かせるのが愉しい、というきらいがある。その件に関してあまり強く否定出来ないのが悲しかった。
「しかし顔が良いと言えば、うちの美少女はまた遅刻かね?」
一通り騒いで気が済んだのかハナは壁掛け時計をちらりと見て、それから視線を教室の右斜め後ろの方へと投げた。つられてひづりもそちらを見る。
現在2年C組の席は生徒の苗字あいうえお順で並べられており、ま行である味醂座アサカの席はその右側二列目の後ろから三番目に位置していた。あと三分ほどでホームルームの時間だったが、そこにはまだ学生鞄は置かれておらず、椅子もぴったり机に寄せてあるままだった。
「どうだろう。間に合う電車に乗れた、とは言ってたけど……」
開いたままのスマートフォンを操作し、十五分ほど前に来ていたアサカからの通知を確認する。『車に気をつけてね』と送ったひづりに、『もう遅刻して職員室に呼ばれるのは嫌だ……』とアサカから返って来て、そのままだった。
ひづりはもう一度アサカの席の方を見て、それから出入り口の扉二つを交互にぼんやりと見比べた。
教室ではもう友人らの机を離れ自分の席に着く生徒がほとんどとなっていた。ハナも腰掛けていた椅子に生徒が戻って来るとそのまま自分の席へと帰って行った。
あと一分で朝のホームルーム開始の時間だった。いつも時間きっかりに顔を出す担任教師の須賀野がそろそろ現れるだろうか、というところで、俄に、走るよりは遅く、かといって歩くよりは速い足音が近づいて来て、教室中に「おっ」という期待の混じった声が沸いて、ひづりも顔を上げた。
とんとんとんとん、というそのハイテンポな足音はやがて2年C組の前まで来るとしかし少しも減速せず教室に入って来て、そのままクラスメイトらの歓声を浴びながら自身の席に迷いの無い潤滑な動きで座り込み、止まった。
「…………遅刻ではないですね。遅刻ではないです。廊下を走ってもいないので、先生は怒りません。でも職員室を出た階段のところでがっつり眼が合ったのに無視したことは、先生とりあえず今日一日は根に持ちますからね、味醂座さん」
数秒後追いかけるように教室に入って来た須賀野は教卓に荷物を置きながらいじけた様子でアサカを非難した。
「先生、絶対に遅刻しない方法を知っていますか。夢の中でバケツに入ったフライドチキンが出て来ても、愛する幼馴染からのモーニングコールで即座に眼を覚ます蛍光灯の様な恋心を持つ事です」
背筋をぴんと伸ばし、まるで五分前にはもう座っていましたよというような優等生然とした居住まいのまま、アサカはそんなよく分からない事を得意げに言った。
「味醂座さんが何を言ってるのか全然分かりませんが糖分高めの惚気話だというのは分かりました。嫌です。朝から人の幸せそうな話なんて聴きたくありません。今日の日直はクラス委員の有坂さんですね。後は任せました。先生は職員室に戻ります」
いつもの調子で生徒らの笑いを引き出しながら須賀野は黒板の日直を確認するなり出席簿をまるごと有坂に押し付けようとしたが、普通に「ダメです」と断られ、悲しそうな顔をしつつもちゃんと出席を取り始めた。
人心地ついたのだろう、ふとアサカと眼が合った。廊下は走らなかったようだが、駅から学校までの通学所要時間はその秀でた身体能力で以って縮められるだけ縮めたらしく、風で乱れた髪を手櫛で梳きながら彼女は照れくさそうに小さく手を振って来た。
須賀野とのやりとりも至って普段と同じ具合で、別に体調が悪いせいで遅れたというのではないらしいと分かり、ひづりも控えめに手を振って安堵の笑みを返したが、しかし最近どうにも遅刻の多い彼女に対し、何も憂患が無い訳ではなかった。