『愛していた』
「この後、億恵は千登勢への殺人未遂の現行犯と、万里子の口から語られた虐待等に関する証言によって逮捕、拘留、そのままつつがなく兆と、そして億恵に違法薬物の斡旋をしていた内縁の夫、飯山直弥共々投獄されました。会社も潰れ、面会で億恵は一応《猿舞組》と会う事が出来ましたが、それは《猿舞組》にとって最後の挨拶のためのものでした。彼らは別の資産家とすでに話をつけていましたので、この学校での一件は完全に扇家側の非として《猿舞組》が離別するための恰好の口実となりました」
映像が消え、また星空も浮遊するデジタル時計も消滅し、正常に現実世界の公園を映すようになったその視界で《グラシャ・ラボラス》は後日談を締めくくる様に語った。
「では、どうでしょう。さきほどの映像を見て、もうすでに何人かは気づいたのではないでしょうか」
それから《グラシャ・ラボラス》はひづり達全員の顔を順番に眺めて言った。
「万里子はこの時、自分を幸せにする、という決断をしました。この一件が起こるまで、その直前まで、あの子はずっと自分の人生を諦めていましたし、幸辰からの想いに少しばかり心を解かしてはいましたが、けれど他人からの善意を受け入れる意思はまだありませんでした。ただ、当時無気力だったあの子にも一つばかり決意していた事がありました。それは自分の代で扇家を終わらせる、という虚しい計画でした。母親から虐待を受けて育った女は、いずれ母親という立場に立った時、同じように自分の娘にも虐待をするようになる……。それを知って絶望的に受け入れていた万里子は、次第にこの扇という腐りきった血筋を根絶やしにしようと考えるようになりました。五ヵ月後の高校卒業を機に、あの子は祖父の遺した《召喚魔術》を用いて『花札千登勢以外の、扇の血を引く人間を全員殺してほしい』と《悪魔》に願うつもりでいたのです。その準備をあの子はしていました。当時のあの子にとって、自分を含めた扇の名を持つ人間たちの死と、そして花札家で健康に育った実の妹の千登勢が無事に生きていてくれる事、それだけが希望で、救いだったのです」
映像の時から目元を赤くしていた千登勢がついに口元を押さえ涙と嗚咽を零した。《ヒガンバナ》は市郎と共にそんな彼女のそばに静かに寄り添っていた。
「ですがそんな万里子の心に、予想だにしていなかった光を落とした者が居ました。……察しの通りです。花札千登勢、あなたですよ」
《グラシャ・ラボラス》は千登勢に視線を向けると真っ直ぐな声音で言った。千登勢はおもむろに涙で濡れた顔を上げ、亡き姉の過去を知るその《悪魔》の姿を正面に見つめた。
「幼き日に生き別れた妹、花札千登勢。どこでどうしているのか、万里子はずっと知らずにいました。考える余裕も無い日々でした。ですがあの日、学校の廊下で抱きつき、泣いたあなたを見て、万里子はその時初めて実感として理解したのです。自分を愛してくれている人が居る、自分のために泣いてくれる人が居る、という、ごく単純な事実を。ですがそれはとても重要なことでした」
視線の先に千登勢を捉えたまま、《グラシャ・ラボラス》は穏やかな眼差しで語った。
「万里子はあの日、自分の人権というものを見つけたのです。死を希望とさえ捉えていた地獄の底に在った万里子の心を、物心つく前から歪められ汚され続けてきたあの子の心を、人として生きる世界にまで救い上げたのは、他でもないあなたの涙だったのです。あなたのおかげで、あの子は再び夢を見る事が出来ました。幸辰との未来を願うことを、あなたの姉として生きることを、そしてどんな形であれ、将来母親になることを、もう一度願う事が出来ました。だから万里子はあなたを愛していたのです。あなたを大切な妹として、最期の一瞬まで愛し続けていたのです」
顔を真っ赤にして一層その目から涙を溢れさせた千登勢はそのまま堪えきれないという風にしゃがみ込んだ。ひづりは父の腕を離し、母方の叔母のそばに駆け寄った。天井花イナリも剣を構えたままその傍らに寄り添う。
花札千登勢はずっと苦しんで来た。十五歳まで実の姉の存在を知らなかったこと。そして姉がどんな境遇でこれまで生きて来たのかを知って、けれど扇家や《猿舞組》が怖くて、何も出来なかったこと。見て見ぬふりをしてしまったこと。周りの誰もが「仕方の無いことだった」と言ってくれても、それでも彼女はその後悔を胸に抱えて今日まで生きて来た。
けれど違ったのだ。万里子は他でもない、心優しい妹のその温かい涙にこそ救われていた。
扇万里子はあの日、花札千登勢が思うよりずっとその心を充分過ぎるほどに救われていた……。
「愛する妹を得たあの子の人生は間違いなく幸せに満ちていましたよ。ただ、千登勢、あなたはそれを自覚出来ないでいたでしょう。当事者であったあなたなら本来気づいていてもおかしくはなかった筈なのですが……ですが万里子も、そういった事を上手に伝えられない性格でしたから、仕方がなかったとも言えます。加えて、あなたが謝りたかったことがある事を、万里子は死の間際、気づくことが出来ませんでした。いえ、気づけない状態にあった、と言う方が正しいです。あの子はその《契約》によって私に魂を奪われる日が近づくにつれ、次第にその心の有り様が、かつての虐待を受けていた十代の頃のものへと部分的に戻ってしまっていました。それはあの子が死にたくなかったからです。死ぬという現実が怖くて、あの子の心は急速に退行していっていました。ただそれは、それ程にあなたの姉でいられた人生が幸せなものだったという事に他なりません。あなたに再会する以前の万里子は死すら恐怖ではありませんでしたから。ですが私にはそれが悔しくありました。あの子の愛情がちゃんとあなたに伝わっていないこと……それ以上に口惜しいことはありませんでした。ですから、これがまず一番最初に、そしてどうあっても叶えたい私の《願望》でした」
《グラシャ・ラボラス》は千登勢に数歩ばかり歩み寄ると立ち止まり、そして傍らのひづりの顔を見下ろした。
「しかし一つばかり予想外だったことがありました。嬉しい予想外です。千登勢、あなたが万里子の葬儀でひづりと出会い、そこに万里子の面影を見て、働くひづりの姿を見たいと思い、そして《和菓子屋たぬきつね》へと通う様になった事です。その結果、あなたとひづりは万里子の事で抱えていた苦しみを共有し、互いを大切な親族として捉えるようになりました。その偶然が私はとても嬉しくありました。万里子の口から語られる事はついぞありませんでしたが、けれどあの子が遺したものが、今こうして官舎ひづりと花札千登勢の幸いとなっている……。ありがとうございます、千登勢。ひづりを助けてくれて。そしてひづりも、千登勢を支えてくれてありがとうございます。私のこの後悔は実のところ、あなた達二人が一ヶ月前に出会った事で半分以上消え去っていました。あなた達だけが私の憂いでしたから」
そう言って彼女は切なげにその眼を細めた。
「千登勢さん……?」
おもむろに千登勢がひづりと《ヒガンバナ》の手に支えられながらふらふらと立ち上がった。顔を上げると彼女はその視線を《グラシャ・ラボラス》の眼差しに返した。
「……わたくし、考えていましたの」
そして彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
「姉さんを殺したっていう、あなたのこと……。わたくしはどう捉えるべきなのか、って……。でも、今分かりました。先ほどの映像は、姉さんの人生のうちの、本当に一瞬です。それを切り取ってわたくしたちに見せる……あなたはそのためだけに、姉さんの過去を見て来た訳ではないのでしょう……? でなければ、こんな重要な場面だけを切り取れはしませんもの。あなたは姉さんの人生をずっと見て来た……ずっとずっと、寄り添ってくれていたのですわね……? 過去も、未来も、姉さんのそばで……。あなたは姉さんのこと、こんなにも見ていてくれたんですのね……。姉さんは、イギリスに居る間も、幸辰さんやひづりちゃんと会えない間も、決して寂しくなかったんですのね……?」
赤く腫らした目元にまた涙とそして穏やかな安堵の笑みを湛えると、彼女はおもむろにその形の良い背筋を伸ばして、頭を下げた。
「お礼を言うのは、わたくしの方なのですわ、《グラシャ・ラボラス》さん。今まで姉さんのそばに居てくれて、ありがとうですの。姉さんはこの二十数年間、あなたのような素敵な《悪魔》にずっと一緒に居てもらえた……。でしたら、姉さんはきっと幸せでした。ありがとうですの、《グラシャ・ラボラス》さん……姉さんのこと……今まで…………」
千登勢はしゃがみ込むと再び口元を押さえて嗚咽をもらした。ひづりも堪え切れずその叔母の体をぎゅうと抱きしめて、いつかの様にまた一緒に涙を流した。
彼女が姉の万里子の事で長年抱え続けてきた後悔。それは自分が抱えるものよりずっと重いものだとひづりは捉えていた。だからそんな後悔を千登勢に背負わせた母のことをひづりは恨んですらいた。
けれど今、《グラシャ・ラボラス》が、ラウラ・グラーシャが、花札千登勢のその永い時の中で積み重なり続けてきた心の痛みに優しく包帯を巻いてくれた。
頭が良くて、構って欲しがりで、嫉妬深くて、そして何より愛情深い……天井花イナリが彼女をその点に於いて信頼できると言った理由が今、ひづりは実感を伴って腑に落ち、理解出来ていた。
召喚されてからのこの二十数年間、《グラシャ・ラボラス》は官舎万里子をずっと愛していた。それはもう、その《過去視》によって自分と出会う前の彼女の全てを見て、記憶するほどに。
官舎万里子は愛されていた。その人生の半分を連れ添った《悪魔》に最期の一瞬まで愛されて看取られた。ひづりは他の一般的な《召喚魔術師》のことをよく知らないが、それでも母の死がこの上なく幸いなものだったことだけは今、疑いようも無く確信していた。
幸せだったのだろう。過去の映像ではあれほど心を閉ざしていた母が、あんなにも自由奔放で自分勝手な人間に成れたのは、きっとその手本の様な《悪魔》がそばに居たからなのだろう。夫と妹への愛情をいつでもその身から溢れさせながら、一方で顔がそっくりな実の娘に取られたくないからと妹の存在を娘達から隠したりして……。
子供っぽくて、本当にどうしようもない人だった。
でも母のそばに居たのが、召喚されたのが《グラシャ・ラボラス》であったことは、きっと母だけでなく、母に関わる多くの人にとっても幸いだった。
千登勢さんも、父さんも、そして私も。
だから。
「ありがとう。母さんが出逢ったのが、ラウラで良かった」
ひづりは涙で濡れた顔を上げ、《グラシャ・ラボラス》に心からの想いを伝えた。
彼女は一瞬驚いた様に少しばかり眉を上げたが、やがてその顔に困ったような微笑を浮かべると瞼を伏せて一度だけそっと頷いてくれた。
虫の歌が涼やかに響く中、ひづりはもう一度千登勢の頭をぎゅうと抱きしめて亡き母を想った。
もう会えなくても、遺ったものはこんなにもたくさんある。
あの日、商店街の路地で互いの後悔に流したのとは違う、喜びの涙が今、二人の頬を暖かく濡らしていた。