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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐
102/259

   『涙』




「治憲の助言と、そしてそれを聞いて心理学を学び始めた幸辰の判断は正しいものでした。当時の万里子は自分自身の人権というものを知らず、また受け入れられずにいましたから。どれだけ他人に大事にされても、それを現実として実感する事が出来ませんでしたし、また自分が大事にされるという事実も許容出来ませんでした。加えて、自分に優しくした人間が扇家によってその生活を破壊されたのを二度も見て来た万里子は、自分のせいで他人が傷つく事に酷く怯えるようになっていました。幸辰が慎重な行動に移ったことは、万里子にとっても良い対応でした』

 治憲と幸辰を映していた映像が消え、再び星空の世界に戻った《結界》の中で《グラシャ・ラボラス》は微かながらしかし確かに褒めていると分かる声音でちらりと官舎幸辰を見た。

「それに実際、治憲の言った運命の日は訪れました。幸いにもその年の内に」

 先ほどよりまた少し激しい音を鳴らして回転していた時計は停止した。一九八九年、十月九日。万里子と千登勢が学校の廊下で再会してから約六ヵ月後の日付だった。しかし《結界内》の景色はすぐには変わらなかった。どうしたのだろう、とひづりが《グラシャ・ラボラス》を見ると、彼女はややうつむいて瞼を閉じ、一つだけ大きな深呼吸をした。

「……この日付の時点で、万里子は幸辰に対し少しずつですが心を開き始めていました。といっても、まだ自分の中にある恋愛感情を受け入れる事も、他人に笑顔を見せるというような事も出来てはいませんでしたが。それに千登勢との関係にしても何の変化もありませんでした。万里子は、自分と違い真っ当に育った千登勢を誇りに思いつつも、一方で自分と違ってその綺麗な妹の体を妬んでもいました。憧れと劣等感を抱き続け、かと言って関われば妹が不幸になると分かっていましたから、千登勢とは変わらず他人のフリを、妹だと気づいていないフリを続けていました」

 《グラシャ・ラボラス》の言葉に、傍らの千登勢が少し顔色を悪くして視線を落とした。

「次が最後の映像です」

 今度こそ星空は消え、景色も移り変わってどこかの学校の玄関を映し出した。しかし廊下の作りを見るとすぐにそれが先ほど万里子と千登勢が顔を合わせた校舎である事が察せられた。

 下駄箱の向こう、中庭に一台の車が停まっているのをひづりは見つけた。玄関扉の近くに横付けで停車されたそれはよく目立つワインレッドの車体にシルバーのアクセントが入った、かなり角ばったデザインをしていた。ひづりは車に詳しくないが、その雰囲気から何となく、外車だろうか、と捉えた。

『――だから、官舎幸辰とかいうガキをうちの娘に近づけないでって言ってるのよ!!』

 おもむろに聞こえ始めた音声はいきなりそのような怒号で空気を震わせた。ひづり達は一斉にそちらを振り返った。

 教室棟に続く廊下の真ん中、着物を纏った中年と初老の女性二人が、教職員らしい男性に詰め寄って喚いていた。傍らには扇万里子がその体を小さく竦めた格好で頭を下げ、立ち尽くしていた。教室棟や階段、またひづりたちの背後にはこの騒ぎを聞きつけてだろう、何事かと顔を覗かせる生徒たちが集まっていた。

『その様な事をおっしゃられましても。それに先ほどから理由についてもお話頂けておりませんし、お応えのしようがありません。官舎くんが万里子さんに何かしたのですか? 万里子さん、官舎くんと何かあったのですか?』

『あ、いや……』

 万里子が顔を上げて返事をした直後、中年の女の方が出し抜けに彼女の頬に平手打ちをした。突然の事にその場の誰もが硬直し、生徒らの喧騒もまるで電源が落ちたように静まり返った。

『あんたは必要なことだけ喋れって言ったでしょう! 誰が勝手に口を利けって言ったの!!』

 女は万里子の髪を掴んで怒鳴りつけると突き飛ばす様にしてその手を離した。病的に細い万里子の足は中年女の腕力に負け、ふらついてそのまま廊下の壁へ強かに頭と肩をぶつけた。

『ごめんなさい……』

 より一層その体を縮こまらせ、万里子はか細い声で謝った。

「あれが扇億恵、そして隣の老女が扇兆です」

 低い声で《グラシャ・ラボラス》は短く説明した。その顔には、誰の眼にも明らかなほど怒りの色がはっきりと滲んでいた。

『いいからさっさとそいつを連れて来いって言ってんのよこのバカ!!』

 億恵はまた耳をつんざくような声で喚き散らした。

『何の騒ぎですか』

 すると階段から一人の男子生徒が降りて来て声を掛けた。官舎幸辰だった。

『……お前が官舎幸辰か』

 億恵は幸辰の上履きをちらりと確認して睨み付けた。

『そうですが』

 階段を降りきり、億恵の正面に立った幸辰は落ち着き払った様子で返した。

『何で警察の倅がうちの娘に色目使ってんだ!! 父親が役立たずなら息子も無能か!!』

 叫びながら詰め寄るなり億恵は幸辰の頬を引っ叩いた。周囲で再びざわめきが起こった。これが過去の映像の事だと分かっていても、ひづりは思わず頭に血が上った。

 しかし幸辰は叩かれた頬を拳で一度だけ擦ると変わらない態度で返した。

『おっしゃっている意味が分かりません。確かに自分は、おたくの万里子さんとはよくお話をする間柄ではありますが、そこに何故父の役職が関係あるのですか?』

 彼の言う通りだった。扇家と警察の癒着関係は、あくまでも噂の域を出ていない、出てはいけないはずなのだ。万里子の祖母の兆は傍らで険しい顔をしたまま黙り込んでいたが、一方億恵は明らかに気が立っており、ずいぶんと冷静さを欠いている様に見えた。

 そのせいか彼女は今度は言葉もなく右の拳を幸辰の顔に振り抜いた。万里子が小さく悲鳴を上げ、今度ばかりは傍らの教師も幸辰と億恵の間に割って入った。

『やめてください扇さん!! それ以上校内で暴力を振るわれるのなら警察を――』

『呼んでみなさいよ!! 来る訳ないわ!!』

 億恵はそのように躊躇いも無く言い切り、教員の腕に掴みかかった。

 言葉がまるで通じていない。これが自分の祖母だと思うとひづりはもはや怒りよりも落胆の気持ちの方が勝る様だった。

「ちなみにですが、この時扇億恵は当時流行していた違法薬物に手を出していました。自分の代から始まった業績の不振で気がやられていたのでしょうね。あまり効き目の強い物ではありませんでしたが、元がクソみたいな女なので、ご覧の通り十分な代物でした」

 《グラシャ・ラボラス》は冷たい眼差しを億恵に向けたまま解説してくれた。

『らちが明かないわ!! 万里子!! あんたが言いなさい!!』

 さすがに大人の男性である教員に腕力では勝てないと悟ると億恵は腕を振りほどいて背後の娘に怒鳴りつけた。万里子の細い肩がびくりと震えた。

『近寄るな、って言いなさい!! 官舎幸辰を二度と私に近づけるな、って言うのよ!!』

 万里子はこちらに背を向けていたため、ひづり達からはその表情を窺う事は出来なかったが、しかし硬直して言葉を失った様に立ち尽くすその後姿から、彼女の心が瞬く間に凍りついていくのだけは分かった。

『…………』

 命令を聞かず無言で居る娘に業を煮やしたらしく、億恵は踵を返すと万里子の顎を片手で掴み、うつむき気味になっていたその顔を無理矢理上げさせた。

『何黙ってるのよ……。母親の言う事が聞けないっていうの!? なんて子なの!!』

 自身が履いていたスリッパを脱ぐと億恵はそれで万里子の頭や頬を叩き始めた。学校の備品の薄っぺらいスリッパなので痛みはそれほどでもないのだろうが、しかし大勢の生徒らの前で、実の母親に履物で頭を叩かれる痛みが弱いものであるはずがなかった。少年の幸辰はそれを止めようとするが、教員の男性に制止された。

『さっさと言いなさい!! じゃなきゃ帰れないでしょう!! ほら言え、この親不孝者!!』

 最後に一際強く頭を叩くと億恵は万里子の腕を引っ張り、そして幸辰を指差して吼えた。

 うなだれていた万里子は幸辰に向き直るとおずおずとその顔を上げた。

『……私に、官舎幸辰を、近づけないで――』

 十八歳の母が感情の無い声音で呟くその言葉に、ひづりは呼吸も出来ない程に胸を締め付けられた。

 しかしその時だった。

『ちがう!!』

 一つの、悲鳴にも近い拒絶の絶叫が、廊下に、階段に、玄関に響き渡った。

 意識を貫く様なその一言に見開かれたひづりの両目が捉えたのは、万里子や幸辰らの居る廊下の向こう、一年生の教室棟らしいそこから同級生らを押し退け、つまずく様にして現れた十六歳の花札千登勢だった。

『あんた……』

 人垣から出るなりそのままつかつかと歩み寄って来た彼女の顔を見てようやく次女だと気づいたらしく億恵は戸惑う声を上げた。

 千登勢は万里子の目の前まで来ると出し抜けにまるで崩れるようにしゃがみ込み、自身より少し背の低い姉の胸に顔をぎゅうと押し付けて抱きしめた。

『ちがうもん! 官舎さんはお姉ちゃんの大事な人だもん!! 官舎さんと話してる時のお姉ちゃんが嬉しそうな顔してたの、わたし見てたもん!! だからそんなこと言っちゃ駄目だよ!! こんなの、絶対駄目!!』

 廊下の真ん中で彼女はそう叫んだ。

『やめて、千登勢……やめなさい……!』

 万里子は酷く困惑している様子だった。その声は擦れ、震え、細い両腕は焦る様に千登勢の腕を掴んで引き剥がそうとしたが、しかしびくともしていなかった。

『離さんかこの端女が! 今更どの面を下げて出て来おったのか!』

 ずっと黙っていた扇兆がにわかにその顔を怒りの色に染め、千登勢の頭をかなり強めに叩いた。億恵も乱暴に千登勢の腕を掴んで引っ張ったが、けれどやはり彼女の姉を抱きしめるその力は少しも弱まる様子が無かった。

『いや!! 絶対に言わせない!! お姉ちゃん、やっと笑顔になれる人と出会えたんだもん!! お姉ちゃんは扇の家で酷い事されて、学校でも悪口言われて、ずっとずっと傷ついて……!! ……それなのに私は……妹の私は、半年前までそんな事すら知らなくて……』

 母と祖母からの罵声と暴力の中、千登勢の声が徐々に震え始めた。

『助けてあげられなくて、ごめんなさい。今まで何も知らなくて……知っても何も出来なくて……ごめんなさい。私も、お父さんも、花札家の誰もお姉ちゃんのために何も出来なくて、ごめんなさい……』

 千登勢を見下ろす万里子の腕の力が弱まったのを見て、億恵と兆は次女の髪を掴み、本気で引き剥がしに掛かった。しかしそれでも千登勢は姉のブラウスにしがみついて離れようとしなかった。億恵たちに引っ張られては掴み直し続けた彼女の指の爪は既に数枚剥がれており、万里子のブラウスにはその血が滲んでいた。

『駄目な妹でごめんなさい。お姉ちゃんの、良い妹になりたかった』

『この……いい加減にしろ!!』

 億恵は廊下の隅に立ててあった消火器を掴むとふらつきながらそれを振り上げた。

 刹那、その場の誰もが息を呑んだ。涙で濡れていた万里子の両目が、母親の手によって持ち上げられたその十分に人を殺す凶器に成り得る得物を捉えていた。

『いや!!』

 ――があんっ、と、鈍くも激しい音を立てて消火器は廊下を一度だけ跳ね、そして残響を少しばかり校舎内に渡らせて転がった。

『……お姉ちゃん……?』

 千登勢の涙声が、静まり返った廊下に小さく響いた。

 億恵によって千登勢の頭へと振り下ろされた消火器は空を切っていた。直前で横に倒れて避けた姉のその両腕に今、妹の体は包み込まれていた。

『嫌だ、と言ったみたいですよ』

 投げ落とした消火器が予想外に大きな音を立てたため冷静になったのか呆然としていた億恵と、そして倒れ伏した姉妹との間に幸辰は体を入れた。

『皆が見ています。動画を撮っている生徒も居るようだ。あなたの今の行動は間違いなく殺人未遂だった。自分で持ち上げたんだ。重さをその両手で実感した上で、あなたは消火器を自分の娘達に投げつけた』

 億恵はその顔を少し青ざめさせつつも反論した。

『あ……当たってないじゃない! 怪我だってしてない――』

 しかし彼女がそこまで言いかけたところで幸辰は被せる様に怒鳴った。

『「嫌だ」と言った!! あなたの娘は、あなた方の今回の意向に対し、拒絶の言葉を口にした!! それが何の拒絶であるかは重要ではありません! 少なくとも今ここで万里子さんの証言が無くても――』

『幸辰くん』

 不意に呼ばれ、幸辰は振り返った。

 扇万里子が立っていた。泣きじゃくる妹の体を起こし、先ほどと同じようにその胸に抱き寄せたまま。

『……妹がね、私のために泣いてるの。妹が……』

 自身も涙を零しながら、それでも、「しょうがないわね」という、初めて見せる優しい姉の表情で少し困ったように笑い、彼女は千登勢の頭を撫でた。

 そして顔を上げると幸辰に訊ねた。

『ねえ。あなたに頼ったら、この子は泣かなくて済むの……?』

 誰かが通報していたらしい、赤色灯を点けただけの二台のパトカーが校門から中庭へと入って来た。それらは表に停めてあったワインレッドの外車を前後から挟むように停車し、官舎治憲を初めとした警官数人が降りてきた。

 億恵と兆は騒いでいた。玄関に集まって来た教師達も顔を見合わせ、眺めていた生徒らの喧騒も増した。幸辰は万里子の頭を優しく撫で、妹の千登勢と一緒にそっと抱きしめた。

『必ずそうする。君達二人の笑顔のために、俺が出来ることを尽くすよ』

 この十数年間、扇万里子を苦しめ続けた扇家の犯罪行為のすべてが、到着した治憲たち警察官の前で彼女の口から語られ、そして最後に彼女は初めて彼らに『どうか私たちを助けて下さい』と口にすることが出来た。









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