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和菓子屋たぬきつね  作者: ゆきかさね
《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐
101/259

   『幼き日の両親』




 一九七二年九月二十四日。扇万里子は当時の扇家当主である扇億恵の長女として生まれた。

 扇家では代々女性がその権威を握っており、夫は必ず婿養子として迎え入れられるという名目の元、婚姻後その発言権は完全に剥奪され、育児も事業もほぼ全て当主の女が取り仕切ることが決められていた。

 扇本家は東京都あきる野市に在り、古くは近辺一帯の地主としてその周辺に暮らす人々に田畑を貸し出すだけで無く、より直接的な金銭の工面をしたり、民間の自警団を設立するなどして手広く商売をしていた。

 戦後の農地改革で田畑の価格が下がると小作人との実質的な上下関係こそ無くなったが、しかし扇家は昔から名を替え生き永らえて来た暴力団《猿舞組》との繋がりが依然根強く、そのため現代でも市内に暮らしながら扇家に逆らおうとする者は一人としておらず、警察さえも金で丸め込んでいるという専らの噂だった。

 故に扇家が古くから産まれて来た長女に代々虐待を行ってきた歴史を見咎める者も存在せず、その悲劇は万里子の人生にも容赦なく襲い掛かることになった。

 万里子が誕生してから二年後、次女の扇千登勢が生まれた。しかし万里子の時は喜ばれたのに対し、次女千登勢の出生には扇家の誰もが顔をしかめた。それどころか出産後間もなくして実母である億恵ですら千登勢に関心を無くした。それを以って当時夫であった扇市郎は『扇家では長女以外はまるで何の期待もされない』という事実に気づき、常々扇家のあり方に疑問を抱いていた彼はその三年後、億恵に離婚届を突き出した。

 その際市郎が出した条件は『次女を俺が引き取る』という簡潔なものだった。扇本家にとっては、長女さえ生まれれば後はもう夫も、以降の子供も不要なものだ、ということを市郎は理解していた。そのため結婚間もなくして市郎が反抗的な姿勢を示していた事を鬱陶しく捉えていた億恵とその母親である扇兆は、『余計な口を利くばかりで利用価値も無い婿養子が、同じく利用価値の無い次女を引き取ってくれるなら丁度良い』という結論を早々に出し、そこへ『今後一切、うちの万里子に接触しないなら』という条件をつけ加えるとその要求を呑んだのであった。

 離婚後、千登勢は父と同じ花札の苗字となり、彼の許で育つこととなった。しかし当時三歳であった千登勢には姉と扇家の記憶がほとんど無く、市郎も以降は次女を一人娘として育てた。

 万里子も引き取りたいのが市郎の本音ではあったが、しかし扇本家がその大事な跡継ぎである長女を離婚する男の手になど渡す訳が無く、また無理矢理娘二人を攫って逃げたとしても、何代も前からヤクザと関わりのある扇家に恨みを買った状態で生きていけるはずもない。捕まれば万里子は当然扇家に連れ戻されるだろうが、扇家に歯向かった自分と、扇家から疎まれている千登勢の命はまず保障されない。であれば、市郎には『次女を引き取る』という条件を出して穏便に離婚する以外に打てる手は無く、千登勢しか真っ当な環境に連れ出す事は出来なかった。だから千登勢が姉の事、そして扇家の事を何も憶えていないのは、市郎にとって、また千登勢にとってもせめてもの幸いであった。

 七年後、扇億恵は飯山直弥という男と再婚した。と言っても内縁の夫であり、苗字はそのままだった。当時万里子は十二歳。この時から母と祖母からの暴力だけでなく、義父からの性的暴行が彼女の人生には追加された。

 その時にはもう万里子の体の傷は躾などと言う言葉で済まされない、誰の眼にも明らかな虐待を示唆するものとなっていたが、しかしやはり扇家のやり方に口を出す者、助けてくれる人間というものは周囲に存在しなかった。日々与えられるのは必要最低限の食事と、休む時間も無くあてがわれる家庭教師、そして家庭内外での暴力だけだった。

 それでも万里子には夢があった。『いつか自分も普通に誰かを好きになって、そして良い母親になりたい』という、ぼんやりとした、けれど唯一の希望である夢だった。

 しかし。

「万里子が高校二年生になって、間もない時でした」

 重苦しく表情を沈めたまま《グラシャ・ラボラス》はその両の拳を握り締めた。

「あの子にとって人生の唯一の楽しみだった、放課後に立ち寄る図書館で過ごす数十分だけの読書の時間……。その日、万里子はとある本を読んでしまい、絶望の底に叩き落されました」

 それは、母子に於ける虐待の連鎖について書かれた本だった。

「母の扇億恵にも、そして祖母の扇兆の体にも、万里子と同じ虐待の痕がありました。全て続いていることなのだと万里子は理解したのです。自分もいつか母親になった時、きっと同じように自分の娘に虐待をする。それを万里子は理解してしまいました。妹の千登勢が実父と共に家を去った時、万里子は内心喜んでいた自分を自覚していました。万里子にとっては暴力こそが母や祖母から与えられる唯一の愛情表現だったからです。その異常性に薄々感づいてはいましたが、万里子はその本を読んだことではっきりとそれが大いに間違っている事なのだと理解しました。そしてこのままではぼんやりと思い描いていた、優しい母親になる、という夢もまず叶わないと知りました。ですが」

 《グラシャ・ラボラス》の顔に酷く濃い悲しみの影が落ちた。

「物心つくずっと前から虐待を受けていた万里子には、同い年の女の子には無いその痛々しい無数の傷跡を持つ自身の体を、その人生を、もはや大事に思う事は出来なくなっていました。子供として当たり前の愛情を受けて育った経験が無い万里子には、普通の母親になるというその考えを曖昧な夢に願うことはあっても、現実的にそれを受け入れることがそもそも出来なくなっていました。自分を幸せにするための行動というものが、自力では出来ない少女に育っていました」

 ひづりも耐えかねてうつむき隣の父の腕に寄り添った。温泉旅行に連れ出されその体中の古傷を見るたびに「母は一体どんな少女時代を送っていたのか」という想像自体は何度もしてきた。けれどラウラが述べるその官舎万里子の過去は、きっと誰の口から語られるより真実なのだ。《グラシャ・ラボラス》の持つ《未来と過去を知る力》は映像も匂いも会話も、その気になれば思想すら読み取れると天井花さんは言っていた。だからこの話は父も、千登勢も、市郎も酷くつらく苦しいもののはずなのだ。ひづりは馬鹿みたいに生前母といちゃついていた父の腕をそのまましっかりと抱き寄せた。父もその震える手でひづりの手にそっと触れた。

「では、ここで一つ目の目的を果たさせて貰います」

 話を一旦区切るようにその言葉を置いた《グラシャ・ラボラス》の真っ黒な翼はゆっくりと蛍光灯一つばかりが照らす夜の公園にめいっぱい広げられ、長い両足は地面を踏みしめ、右腕は緩く夜空へと掲げられた。

 星を仰いだ手のひらの先からはひづりが今まで見たことの無い模様の《魔方陣》が発生し、その光は急速に拡大して空高く舞い上がるとにわかに頭上の星空を掻き消した。夕刻過ぎの森の中で少々分かりづらかったが、周囲にはかつて岩国の白蛇神社で《ベリアル》が展開したような葡萄色のドームが出現していた。

「ちなみにですが、ひづり、これはあなた達を封じ込めるためのものではありません。これから行う《上映会》に用いるためのものですので、安心してください」

 周囲を見回したひづりに察してか《グラシャ・ラボラス》は穏やかな声音で言った。

「《上映会》……?」

 ひづりが首を傾げた直後、その視界に《異変》が起こった。

「う、うわ!?」

「え、こ、これは……?」

 紅葉と幸辰の戸惑う声にその《異変》が自分だけでないと知り、ひづりは心を落ち着けながら再度辺りに視線を巡らせた。

 そばに天井花イナリや親類の姿はそのままそこに在ったが、ひづりたちの立つその場所だけが大いに変化していた。

「《転移魔術》で何処かへ移動した訳ではないので、あまり歩き回らないでくださいね。つまずいて転ぶ危険がありますので」

 《グラシャ・ラボラス》の姿もやはりそこにあり、説明を始めた。

「先ほどの《結界》は私の《共感性魔方陣術式》によるものです。《結界》の内部に集まった皆さんの視覚に影響を及ぼす《魔術》なので、今皆さんには天も地も無い、まるで宇宙に放り出されたような映像が見えているかと思います。それは私が脳内にデータとして保存している天体図です。スクリーンセーバーの様なものだと思って慣れてください」

 確かに痛みも息苦しさの様なものも無かったが、しかしにわかに慣れろと言われても実際ひづりたちに今見えているのは本当に全く何も無い全天で、地平線も足場も見えないのに確かに重力と足の裏に地面の感触があるそれはひどく落ち着かず、気を抜くとすぐに平衡感覚がおかしくなりそうだった。千登勢は老齢の父の手を握ったまま、二人を背後から支えている《ヒガンバナ》の袖に掴まっていた。

「先ほども語りましたが、私には《未来と過去を知る力》があります。《過去》の映像、音声、匂い、その気になればそこに記録された人間の感情すら読み取れます。そして私のこの《結界》……《共感性魔方陣術式》は、私が見て聞いて嗅いで感じ取ったあらゆる感覚を、その内部に居る生物に《共感》させる事が出来ます。つまり」

 ゆるりとその両腕を開いて見せながら彼女は淡々と語った。

「私が知覚出来る《過去》の事象を、余す事無くあなた達にも知覚させられる、という事です」

 にわかに、きんっ、と心地の良い甲高い音が鳴ると同時に視界を包んでいた全天の星空は出し抜けに消え去り、代わりにそのドーム状の《結界》の表面には光の線が走り抜け、それによって景色は五つに分割された。

 一同は各々その景色を見つめて困惑の声を漏らした。ひづりも言葉らしい言葉が出なかった。

 五つに分割されたその景色は、病室で夫とイチャついている吉備ちよこ、親子でテレビを見ている花札千登勢と花札市郎、台所の換気扇の下で煙草を吸っている楓屋紅葉、仕事部屋でパソコンと向き合っている官舎甘夏、そしてリビングのソファでうなだれている官舎幸辰と、この場に集う六人の姿が映し出されたものだった。

「各々心当たりがあるでしょうが、手間なので説明します。察しの通り、これらは今から丁度二時間前の、《過去》の皆さんです」

 そこにひづりと天井花イナリの《過去》は映されていなかったが、その映像と音声と家屋の香りはあまりに生々しく、まるで本当にその空間に自分が落とし込まれているようで、自身の事で無いひづりですら思わず立ちくらみがしそうなほどだった。実際、自分そっくりの等身大人形が目の前で動いているようなその有様には父も紅葉も額や口元を押さえて具合を悪そうにしていた。

 そこでひづりは《グラシャ・ラボラス》がこれから何をしようとしているのかをはっきりと理解して思わず足がすくんだ。強い動悸が胸の内に生じていた。

「察しの通り、ここから先は私の口から語るだけでなく、実際に皆さんにも見てもらいます。万里子の《過去》の景色を」

 その彼女の宣言は、覚悟を決めていたはずのひづりの胸を思い切り不安で打ちのめした。

 隣の天井花イナリを見る。彼女と《グラシャ・ラボラス》が有しているというその《未来》と《過去》が見えるという眼。二人がそういった特別な視力を有している事は漠然と理解していた。しかしひづりはそれを実体験する可能性など考えたこともなかった。ラウラが語ろうとしている母の《過去》についてもやはりこのまま彼女の口から伝えられるものだと思い込んでいた。

 彼女は先ほど『上映会だ』と言った。そして『この《結界》を通じて視界を《共感》してもらう』とも。

 ひづりはさすがに覚悟が決まっていなかった。《グラシャ・ラボラス》は「何もかもを知ってもらう」と言っていた。つまり自分達はこれから、官舎万里子が苦しんでいた十代の時期に受けた仕打ちを、その出来事を、このおぞましいほどに現実感のある独特な上映機構によって体験するということなのだ。ひづりは呼吸が乱れ、指先の感覚が無くなって来た。

「ひづり……?」

 父が不意に掴んでいたひづりの左手を少し引き寄せて心配する声を掛けた。次女の具合が急に悪くなってきた事を察したらしく、そのまま少し屈んで顔色を窺うようにした。

 ……ああ、違う。父の顔を見てひづりは思い直した。これからきっと一番苦しい想いをするのは自分ではない。ひづりは父の大きな手を握り返した。

「大丈夫だよ、父さん。手、繋いでるから、大丈夫」

 その二つの意味の「大丈夫」に父は仄かに眼を見開き、そして頷くと、改めてその右手でしっかりと次女の左手を包み込んで《グラシャ・ラボラス》に向き直った。

 そこでひづりは《グラシャ・ラボラス》が自分達を注視していた事に気づいた。ラウラは待っていてくれたらしい、と分かって、ひづりは胸の緊張が少しばかり解けるのを感じた。

「花札千登勢。あなたは、何故万里子があなたを愛していたのか、知っていますか?」

 五つの《過去》の映像の中心で、《グラシャ・ラボラス》はにわかにひづりの母方の叔母に向き直って訊ねた。それと同時に今度はその景色の中に大きなデジタル時計の液晶画面のようなものがぼんやりと浮び上がった。そこには「二〇一七、八、二八」と今日の日付が表示されており、右下には更に細かく、今から二時間前の時刻らしいものが動いていた。

「姉さんが、わたくしを愛していた理由……?」

 猛禽のその鋭い眼差しから放たれる強力な圧を受け止めながら千登勢は困惑した様子でおずおずと首を傾げた。戸惑いの色が目立ったが、そこには確かに《グラシャ・ラボラス》の問いへの真っ直ぐな疑問が滲んでいた。

 花札千登勢が官舎万里子を最期まで愛し、そしてその気持ちが今も変わらないのは、幼少期から高校生まで扇家から虐待を受け続けていた姉のために当時何も出来なかった、という後悔がきっかけである、とひづりは先月彼女の口から聞き及んでいた。しかし母がその生涯の中で普通の姉妹ではありえないほどに妹の千登勢を愛していた理由についてはひづりも知らなかった。そして確かに千登勢は放っておけない雰囲気の女性ではあるが、二人は物心つく前に引き離され、再会したのは高校生になった時だったという。万里子の中に一体どのような想いがあって、ほぼ他人だった妹との関係を良いものにしよう、大切にしようという考えに至ったのかについては、千登勢も知らないままだという話だった。

 しかしそんな千登勢もひづりも知らない、亡き官舎万里子の心の内というものを、この《グラシャ・ラボラス》は先ほどの口ぶりからするに熟知しているようだった。

「あなたは、姉さんのそばにずっと居たのですか? 姉さんの気持ちを知っているのですか?」

 千登勢は実父を《ヒガンバナ》に任せると一歩、二歩、とすがるように《グラシャ・ラボラス》に歩み寄った。流されたままの《過去》の映像から察するに彼女は市郎と共に自宅で過ごしていた。当然靴も履いておらず、その白い素足が、今は正しく視認出来ない広場の土をじゃりじゃりと踏みしめる音を鳴らす。

「はい。全てを知っています。そしてそのために私は此処に居ます」

 毅然とした態度で《グラシャ・ラボラス》が返すと《結界》に映し出されていた景色はまた星空へと変わり、それと同時にひづり達との間に浮かんでいたデジタル時計は急激に加速を始めた。時間時計と日にち時計は目で追えないほどの高速で回転し、月の時計からどうにか見て取る事が出来る状態だった。瞬く間に一年、二年とその年月日が巻き戻されていく。

「千登勢、幸辰。《これ》はあなた達にとってとても懐かしく、そしてどこまでも苦く、忘れようのない運命の一年の景色です」

 がきんっ、と酷い音を立てて全ての時計が急停止した。ひづりの視線も思わずそちらへと移る。

 表示は「一九八九、四、十五」。真っ暗だった世界は再び光に包まれ、ひづりは思わず瞼を伏せて数度瞬きをした。

 やがて目が慣れ、顔を上げて臨んだそこは血縁者たちの二時間前の景色を映したものでは無くなっていた。

「……学校?」

 思わずその単語が口から漏れ、ひづりはまた周囲に視線を巡らせた。やはり《転移魔術》ではないらしく、廊下に現れたひづりたちに行き交う生徒らは何の反応も示さなかった。そもそも現在時刻はとっくに日の沈んだ十九時前のはずだが、日本語で挨拶を交わす生徒達は廊下の窓ガラスから差し込む午前のものらしい太陽光を浴びていた。

「一九八九年、四月十五日。万里子と幸辰が高校三年生、そして千登勢が入学したばかりの高校一年生の時です」

 《グラシャ・ラボラス》は再び正しい速度で動き始めたその浮かぶデジタル時計を眺めながら言った。彼女の《過去視の時間軸》を表しているらしいそれはやはり現実時間とは異なる、午前七時五十分を表示していた。

「この日が、万里子にとってまさに人生の転機でした」

 彼女はおもむろに廊下の先を振り返った。ひづり達もそちらを見る。

 生徒らが挨拶を交わしている事や、示している時計を見るに、どうやら今そこは朝の登校の一場面らしい。次々と鞄を肩や背に担いだ生徒らが階段を登っては軽い足取りで各々の教室棟へと向かっている。

 そんな中、やけにこじんまりとした雰囲気の女子生徒が片足を引きずるような歩き方でこちらへと向かって来ていた。

 どくんっ、とひづりの心臓が強く跳ねた。その少女を見つめたまま体が硬直し、眼を逸らす事が出来なくなった。

「母……さん……?」

 それはただの《過去の映像》であり、かける声には何の意味も無い。それは分かっていた。しかしひづりは定まらなくなったその呼吸で我知らず呟いていた。

 《グラシャ・ラボラス》がそっと時計の画面に手を触れた。秒時計が止まり、それに同期して少女と周囲の学生らの動きもぴたりと静止した。

 ひづりは震える膝で身動き出来ないまま、少女のその青白い顔をじっと見つめた。

 とても幼い。しかし彼女が自分の知っているその人と同一人物であるという事だけはひづりには嫌というほどに分かっていた。

 血の滲んだ包帯と、医療用テープで貼り付けられたガーゼ。そしてそれらで隠すのが間に合わないかのように露出している、顔や腕につけられた無数の切り傷と赤黒い打撲の痣。

 その傷の位置を見間違えるはずがなかった。この十七年の人生でひづりが彼女に何度も温泉旅行に連れていかれ、その度に眼に焼き付けていたものなのだ。幸辰がそっとひづりの肩を抱いた。

「はい。それが万里子です」

 《グラシャ・ラボラス》はその目元に影を落としたまま沈んだ声音で呟いた。

 ひづりは振り返って父のその胸に再び顔を押し付けると堪えきれず溢れた涙と共に謝罪した。

「ごめん……父さん……ごめんなさい……」

 母の顔色は死人そのものだった。傷と痣で痛ましく汚された顔は青白く、何より伏し目がちのその眼には生気と呼べるものが微塵も無く、瞳はまるで光の無い洞穴のようだった。先ほど《グラシャ・ラボラス》は、これは万里子が高校三年生の時だと言った。しかしその体は冬の枯れ枝の様に痩せこけており、肩と背中はまるで老婆の如く曲がっていた。とてもひづりと同い年の少女とは思えない酷い姿だった。

 こんなつもりじゃなかった。こんな痛々しい母の姿を再び父に見せるような事を望んでいたわけじゃなかった。

 けれど父は無言のままひづりの背中と頭に手を回して「大丈夫だよ」と言いながら優しく撫でてくれるばかりだった。

「……《グラシャ・ラボラス》さん。続けてください」

 背後で千登勢が言った。見ると彼女も目元と鼻を赤くしていたが、その眼は真っ直ぐに十七歳の姉の顔を見つめていた。

「分かりました」

 《グラシャ・ラボラス》は頷くと時計に触れた。秒時計の再稼動と共に、万里子や周囲の学生らも動き始めた。

 けれどひづりと幸辰のすぐそばを通り過ぎようとした時、万里子が再びその足を止めた。時計も周囲の生徒達も動いたままなので時間が静止した訳ではなかった。

 下を向いていた彼女の視線は今、正面よりやや上を向いていた。無感情に下がっていた眉毛は八の字に歪み、目元は驚愕の色に染まって見開かれていた。虚ろだった瞳には微かながら光が差していた。

 その見つめる先を振り返ったひづりは思わず彼女と同様に両の瞼を上げた。

 万里子が立ち止まったその四メートルほど先には、同じく向かい合う様に立ち尽くした一人の女子生徒が居た。

 真新しいパリッとした制服から彼女が入学したばかりの一年生だと判別出来る。しかし万里子より十センチ以上は高いその健康的に育った体に乗っている顔は今とほとんど変わっておらず、ひづりは一目でそれが誰なのか分かった。

 花札千登勢。この時、彼女は高校にあがって間もないと《グラシャ・ラボラス》は言った。そして千登勢と万里子が再会したのは高校生になってからだと聞いている。つまりこの日が、映し出されているこの《過去の映像》こそが、生き別れた姉妹が互いの顔を十数年越しに認めた一瞬なのだ。

『お、おはようございます、先輩……』

 しかし、千登勢はぎこちない会釈だけすると万里子のそばをやや足早に通り抜け、初めから用事があったのだろう、職員室の戸をノックしてその中へと消えていった。万里子は振り返りもせず呆然と廊下の隅で置物のようになっていた。少しして《共感性魔方陣術式》に投影されていたその映像は揺らぎ、消え、ひづりたちは再び宇宙の星空の中に戻された。

「自分とそっくりな顔の女の子が、酷い怪我をした姿で立っている、と、最初驚いたんですの……」

 うつむき気味に千登勢が呟いた。

「それからその上履きを見て……『扇』と書かれた、ぼろぼろの上履きを見て……そこで父が結婚していた時の苗字が扇だったという話を思い出して、わたくし、戸惑ってしまって……」

 この時までずっと自分は一人娘だと思っていた、と、千登勢は背後の父親を振り返らずに語った。

「はい。そしてあなたはこの日帰宅すると市郎に質問しましたね。『自分には、二歳年上の姉が居たのでは』、と」

 《グラシャ・ラボラス》は花札市郎に視線を向けた。彼は《ヒガンバナ》に支えられたままその皺の深い顔をより険しくしてゆっくりと頷いた。

「そうだ。私は最初、答えをはぐらかした。自分とそっくりな顔をした、旧姓と同じ苗字の先輩が居た、という千登勢の質問を、『他人の空似だ』と一蹴した。だが、戸惑っていたのは私もだった。離婚後、私達は扇家との関係を全て絶っていた。だがそれが裏目に出てしまった。千登勢が進学したその高校にまさか万里子が居るとは思わなかった。出会わせるつもりはなかった。気づかせるつもりも……」

「しかし二人は出会いました。あなたや扇家の思いとは裏腹に」

 千登勢に視線を戻すと《グラシャ・ラボラス》は仄かに笑みを浮かべて言った。それは何よりの幸いであった、という声音だった。

「万里子はこの時、出会った千登勢が自分の妹であると、千登勢よりも先にはっきりと確信的に捉えていました。両親の離婚時に千登勢は三歳と幼かったため憶えていませんでしたが、万里子は五歳でしたから、自分に妹が居た、という記憶だけはあったのです。加えて母や祖母の口から数回ですが『花札』という苗字を聞いていましたから、千登勢と同じくその上履きの名前を見て一目でそれが妹だと気づいたのです」

 再度耳に心地良い高音が響いて《グラシャ・ラボラス》の傍らの時計が回転を始めた。先ほどの映像の日付から大体一ヶ月後で時刻は止まり、視界は光を持った。

 映し出された景色は六畳の和室だった。右手に立つ古いタイプの本棚にはびっしりと書籍が並び、入り口向かいの壁に置かれた横長の机にはこちらも大量の書類が積まれていた。その上にある窓のカーテンは閉められており、天井からぶら下がった蛍光灯の明かりだけが部屋を照らしていた。

 一人の中年男性がこちらに背を向けて椅子に掛けている。その傍らで《グラシャ・ラボラス》は彼が何か書き込んでいる書類に視線を落としていたが、じきに顔を上げるとひづりたちの背後の扉を見た。

『父さん。俺です』

 三度のノックの後、扉の向こうで男性の声がした。聞こえた感じまだ十代後半という具合だったがその響きには確かに覚えがあり、ひづりはその声の主に意識が釘付けになった。

『入りなさい』

 机に向かっていた男性がペンを置いて振り返る。その顔を見て、ひづりはここがどこなのかをはっきり理解して我知らず深く息を吸った。

 ドアノブが回り、戸が開く。部屋に入って来たのは十七歳くらいの少年だった。背が高く糸目で全体的に穏やかな雰囲気をしているが、今その顔には緊張の色が滲んでいた。

 ひづりは思わず傍らの父の顔を見上げていた。その視線に気づいて父もひづりを振り返ったがやはり落ち着かない様子で、再び顔を上げると映像の二人の顔を交互に見比べた。

『話って何ですか?』

『まず座りなさい。少し長い話だ。紅葉にも甘夏にも、母さんにも話していない事だ』

 男性は椅子から腰を上げるとそう言いながら部屋の隅に重ねられていた座布団を二枚、それぞれ部屋の真ん中に一メートルほど離して並べた。

 二人は座布団に向かい合って座った。

『幸辰。お前最近、扇の娘さんに構っているそうだな』

 男性は静かに張り詰めた声音で切り出した。少年は眉を上げて一つ息を呑んだ。

 やはりその少年は高校生の頃の官舎幸辰だった。そして向かい合う男性は、こちらもひづりの記憶よりかなり若いが、それでも一目で分かるだけの面影があった。官舎治憲、二年前に亡くなったひづりの父方の祖父だ。確か当時警部で、母を扇家から助け出すのに活躍したという話を以前聞いたことがあった。

『どうしてそんな話を? いえ、それよりなぜ知ってるんですか?』

 訝しげに眉根を寄せた幸辰に、治憲は目を伏せ気味にうつむいて難しそうな顔をした。

『学校でもやはり噂があるだろう。お前は扇家について、どんな風に聞いているんだ?』

 今度は幸辰が視線を落とした。彼が正座をした膝の上でその両手を握り締めたのをひづりは見た。

『……「扇家にだけは関わらない方が良い」、往々にしてそれが皆の意見です』

 答え難そうに幸辰は言った。

 治憲は大きなため息を吐いた。

『端的に言えば、その通りではある』

 幸辰はにわかに顔を上げて問うた。

『警察は、本当に万里子さんを助けてあげられないんですか』

 視線を返した治憲の眼差しは鋭く、しかし幸辰も前のめりの姿勢を引かなかった。

『噂で聞きました。以前、彼女のこと助けようとしたクラスの女子が居たそうですが、その女子生徒の両親が経営する店が扇家と癒着関係にある暴力団に潰された、って。そのうえ、万里子さんが学校でいじめられていても誰も文句を言わないし、教師すら止めません。どうしてなんですか。扇家はお金持ちで、万里子さんが跡継ぎだと聞いています。なのに、彼女の体の怪我は親から受けているものだという話です。そして学校でも生徒達から迫害されている。しかも彼女を助けようとした人は、扇の家と繋がってる《猿舞組》に報復される……。訳が分かりません。しかも…………父さんが関わっているなんて思っていませんが、扇家は警察とも贈収賄の関係にあると、そんな噂まであります。本当なんですか』

 それまで溜め込まれて来たらしい、一度にぶつけられたその幸辰の問いを、治憲は無言で真正面から受け止めていた。これが《グラシャ・ラボラス》の見せている過去の映像なのは承知しているが、それでもひづりは緊張で心臓が締め付けられるようだった。警察官である父親に対し、警察の贈収賄の話題を真っ向から問い詰めるなど、とても半端な覚悟で出来るものではない。

 それに今幸辰が語った話である。扇万里子には当時、味方と呼べる人間が本当に一人も居なかったらしい。万里子の味方をしようとする人間が現れると、扇家は繋がりのあった暴力団に頼んで脅迫していたという。つまり学校内に万里子の事を監視して、わざわざ扇家へそれを内通している者がいたのだ。

 一体何がどれだけ歪めば親が娘をここまで追い込むようになるのだろう。ひづりは腹の底に冷たい鉛が満ちていくような酷い不快感に苛まれていた。

 治憲は一つ大きく息を吸ってから答えた。

『お前が聞いている通り、扇万里子の体の傷、あれはほぼ確実に母親と祖母、そして義父から受けているものだ。明確な証拠を掴んでいる訳ではないが、しかし扇というのは署内ではやはり因縁浅からぬ名前だ。扇家では昔から当主の女が発言権を持っていて、そして必ずと言って良いほど、どの代でも躾という名目で母子間での、今は扇万里子が受けているような虐待が確認されている。扇家とはそういう悲惨な暴力の儀式を繰り返している一族なんだ。そして、扇万里子を助けてあげられるのかどうかだが、私も勿論可能であれば助けてやりたい。しかしそこには大きな問題が三つある』

『……三つ、ということは、それさえ除かれれば、万里子さんをあの環境から救い出す事が出来る、ということですか』

 探るように訊ねた幸辰に治憲は頷いて見せたが、けれどその顔色は決して明るくなかった。

『可能ではある。しかし言っただろう。大きな問題だ、と』

『それでも教えてください。それはどうすれば解決出来るんですか』

 問い詰める息子に治憲はその眉間の皺をより深くしたが、やがて重々しく口を開いた。

『まず、さっきお前が言った警察内部での贈収賄の話だ。これは、例えこれからお前がどうなろうとも、決して誰にも言ってはいけない事だ。いいな』

 彼はまず幸辰にそう約束させてから、語り始めた。

『警視庁の管理官に、棚内という男が居る。有能なのは間違いないが、昔からきな臭い噂の絶えない男でな。昨日、その棚内に召集を受けた。先週行われた訓練についての話し合いの日を一日早めると聞かされて本部に足を運んだが、会議室には棚内が一人居ただけで、私以外あとから来る者も居なかった。そこで奴からお前の話を聞いた』

 幸辰は意外そうに眉を揺らした。

『奴は脅して来た。お前の息子が扇の娘にちょっかいを出しているらしい、息子も警察官を目指しているんだろう、悪い事は言わないからすぐにやめさせろ、とな。何故管理官のあいつが、お前と扇万里子の学校での出来事など知っているのか? またそんなことをわざわざ嘘の召集理由をつけて私に一対一で話したのか? 理由は一つしかない。あいつが扇家と情報共有をしていて、そして扇家にとって都合の悪い出来事を揉み消す役割を与えられているからだ。噂や疑惑程度しかなかった扇家との贈収賄の尻尾がはっきりとした形で現れてくれた訳だが、しかし直接顔を合わせて言って来た以上、あいつがその中心人物である可能性は低い。私がこの話を誰にしても問題なく逃げ切れる自信があるから、ああして関係者の一人である棚内を矢面に立てて脅して来たのだろうからな。仮に棚内一人を取り調べて汚職の証拠が出てきて、そうして逮捕が叶ったところで、肝心の大元が尻尾を切ったトカゲのように逃げたのでは意味が無い。せっかく得られた贈収賄問題の犯人への足がかりが途絶えてしまう。これがまず一つ目の問題だ。扇家と警察の癒着は事実だが、しかしその加担者の人数も大元もはっきりしていないから、現状その炙り出しようが無い。抜本的な摘発が叶わない以上、警察は依然扇家の味方で、そして扇万里子を救うための対応をしないという今の姿勢を変える事もないだろう』

 幸辰の顔からは明らかに活力の色が消えていた。敵は警視庁の、それも少なくとも父親より上の階級で、おそらくは一人二人の規模ではない。一学生の手に負える話ではない。

『二つ目だが、こちらも難しい。扇万里子本人の問題だ。彼女を助けようとした生徒が何人か居た、と言ったな。実際、今までに何度か彼女はそういった周囲の人間の善意によって我々警察に救助が求められた事があった。児童相談所にも既に話は通っている。しかし扇家が従えている暴力団《猿舞組》の妨害もある上に、当の扇万里子本人がその被害を認めていない事が、事態の深刻な停滞を招いている』

『万里子さんが……被害を認めていない……?』

 幸辰は不思議でたまらないという具合に首を傾げた。

『ああ。通報されて児童相談所に一時的に保護された、という事が今まで二回あったそうだが、二回とも彼女は「虐待なんて無い」と言ったらしい。……歯痒い話だ。児童虐待事件は何件も扱って来たが、幼い頃から虐待被害を受けて来た子供というのは、虐待そのものを親からの愛情だと捉えて育つケースが多い。そういった児童は《虐待を受ける自分こそが価値のある己の有り様だ》という風に思い込み、思考が固定されてしまい、それゆえに他者や社会から真っ当な人間として扱われる事に対して自身の意思の有無関係なく拒絶するようになってしまうんだ。これが二つ目の問題だ。扇万里子の心は酷く歪んでしまっている。おそらく物心がつくずっと前から母や祖母に暴力を振るわれて来たのだろう。彼女の心は自発的に幸せになろうと思えない状態にまで陥っている。自分を幸せにする、という発想を持つ事が出来なくなっている。だから助かる状況になっても「助けてほしい」と言えない。それが自分を現状から助け出す唯一の方法だと分かっていたとしても、それでも足を踏み出す事が出来ないほど心が疲弊してしまっている。あのようになった児童が虐待環境から引き上げられ、真っ当な人間として生きられた事例というのは、悔しい事に今の日本ではそう多くない。そして最後の三つ目だ』

 愕然としている幸辰に治憲は続けた。

『記録によれば扇家が半世紀以上前から繋がりを持っている、今は《猿舞組》と言う名で活動している暴力団。これも避けては通れない大きな障害だ。例え警視庁の汚職を摘発し、扇万里子も扇家から助け出す事が出来たとしても、それによって持ちつ持たれつの《猿舞組》が恥をかかされたと捉えた場合、私達にどんな報復があるか分からない。……前に、襲う側がいつだって有利だ、と教えたな。ヤクザの連中に目をつけられたら、こちらはどうあっても手の打ち様が無い。母さんも、甘夏も、紅葉も、危険に晒されることになる』

 幸辰は肩を落として呆然と床を見つめていた。彼なりに考えていた事もあった様だが、敵のあまりの大きさに、立ちはだかる問題の規模に、そして何より家族に被害が及ぶという現実を語る警察官の父の言葉に心が折れてしまったようだった。

『無理なんですか……万里子さんを助けるのは……』

 彼は今一度すがるように父親に訊ねた。膝の上の両手は力なく開かれ、それも微かに震えているようだった。無力感と絶望に打ちひしがれた若い父の顔を見ていられず、ひづりは思わず視線を背けた。

 治憲はおもむろに立ち上がると背を向けて言った。

『世の中の出来事に対し、可能、不可能という考えを持つのは視野を狭めるだけだ。重要なのは、巡ってきたチャンスに対し、その時の自分に何が出来るか? ただそれだけだ』

 ひづりは視線を上げ、若き日の祖父の背中を十七歳の父と共に見つめた。

 治憲は机から一冊のファイルを取り、それを幸辰に手渡した。

『これは……?』

 ファイルを見下ろして幸辰は疑問の声を返した。表題には『阿布岐興業(株) 収益記録』と手書きで綴られている。

『扇家がこの四十年経営している表向きの会社だ。と言っても他の事業は年々赤字続きで倒産していっている。だから今はほぼその阿布岐興業だけが扇家の収入源であり、実質的な活動の資金源だ。中を見てみなさい』

 促されるまま幸辰がファイルを開く。ひづりも傍らでその帳簿を少し覗き込んでみた。甘夏たちも同じく一歩前に出て視線を幸辰の手元に走らせる。

『これ、かなり減ってますか……?』

 やがて幸辰は気づいた様子で顔を上げ、机の椅子に腰掛けた父に訊ねた。彼は頷いた。

『ああ。ここ二十年……扇本家の当主が扇億恵に代わった頃から、命綱である阿布岐興業の経営も難航を続けている。そしてそのファイルのコピーを私は三年ほど前、《猿舞組》に匿名で送ったことがある』

 ひづりは甘夏らとほぼ同時に顔を上げて治憲を見た。彼は特にその顔色を変えず続けた。

『《猿舞組》は馬鹿ではない。ヤクザらしく、金の動きにはどこまでも敏感な嗅覚を持つ連中だ。私が阿布岐興業の経営事情の資料など送り付けなくても、とっくに扇家から資産が無くなりつつある事には気づいていただろう。だからそれの送付はちょっとした後押しに過ぎない。しかし、それでもこうした数字をはっきりと示されれば、《猿舞組》内部ではより「このまま扇家と二人三脚しているだけでやっていけるのか?」という声は強まる。事実、この数年で《猿舞組》では次の癒着相手の選別と思しき資産家との接触が増え、またこれまで組が手を出して来なかった地区への危険を覚悟でのしのぎの市場拡大活動が続いている。……つまりだ』

 彼は椅子の手すりにもたれ、やや前のめりになって息子の顔を見つめた。

『問題は三つある、と言ったが、私はここに、すでに小さいながらも楔は打たれている、とも考えている。もし。もし仮に扇万里子がその虐待被害をその口ではっきりと警察と児童相談所に訴え、助けを求め、そして母親のしている警察との贈収賄問題について、たとえ扇万里子本人が何も知らないとしても、彼女の口からそれらが語られたとしたら、その時一体どうなると思う? まずメディアが黙っていない。娘を幼少から虐待していた母親、そしてその母親から賄賂を受け取って虐待を見逃すどころか幇助していた警視庁の汚職警官達……。おそらく数ヶ月は扇家の前に報道の人間と正義感に酔った市民が詰め寄せるだろう。扇家はかつてないほど世間から注目を集める事となる。そして当然、扇家が経営する阿布岐興業の存在もまた世に広く知れ渡ることとなる。この上ない悪名を以ってな』

 明確にどこが似ているとは言えないが、しかしひづりはこの時、その冷徹に語る祖父の表情にどこか姉のちよこと似たものを感じていた。

『扇家のほぼ唯一の収入源である、しかし現時点ですでに十分な経営難で苦しんでいる阿布岐興業は一月と経たずに潰れるだろう。そうなれば、たとえ半世紀の縁があろうと、金の無くなった出資者についていけるほど《猿舞組》も豊かではない。だから幸辰』

 治憲はその鋭い眼を微かに細めた。

『扇万里子なんだ。彼女が自ら「助けて欲しい、親から虐待を受けている、警察は扇家から賄賂を受け取っている」と訴え出る事。彼女の事も問題の一つだと話したが、逆を言えば、彼女のその問題さえ解決すれば他の二つの問題も勝手に解消されるという可能性が見えてくるんだ。この問題の最も重要な鍵は、まさに彼女自身なんだ』

 幸辰は呆気に取られた様子で父の顔を見上げていた。しかしその眼には確かに希望を見出した光があった。

『だが難しく大きな問題であることに変わりは無い。彼女は救われる事を拒絶している。お前も彼女から避けられているんじゃないのか? お前の恋心だけで解決する問題じゃないことは理解出来ただろう。今のお前は何も知らないただの学生だ。虐待を受けて育った人間のために出来る専門の知識も何も無い。扇万里子にとってお前は何も特別じゃない、ただの無力な他人だ。それを知った上で、お前はこれからどうする』

 治憲はそう冷たく言い渡し、息子からの返答を待った。

 幸辰は神妙な面持ちで顔を伏せた。何も言い返せなかったらしい。虐待を受けた人間に接するための正しい知識というものをただの高校生が熟知しているはずがない。この頃まで、幸辰は父親の治憲と同じく警察官を目指していた、とひづりは聞いたことがあった。勉強していた内容にしても、当時はきっと学校の成績や進学に直結するものだけだったはずだ。十七歳の官舎幸辰には、傷ついた扇万里子のためにしてあげられることなど何も無かった。

 しかし幸辰は再びその両手の拳を握り締めると深く息を吸いながら面を上げた。

『この世で一番美人だと思ったんです』

 真っ直ぐな澱みの無い瞳で彼は語った。

『二ヶ月ほど前、図書館のそばの道端であの子がどこかの飼い猫を撫でて優しく笑っているのを見ました。その横顔がとても可愛かった。もっと笑って欲しいと思いました。俺はあの子の笑顔をまた見たいです。絶対に、あの子が笑って生きられるようにしたいんです』

 ひづりは隣の父の左腕におでこを押し当てた。この頃からだったのか、父が母を愛していたのは。父は、自分とほとんど歳の変わらないこんな頃から母の事を想っていたのか。母はこんなにも若い頃から、父に愛されていたのか。ひづりは思わず眼と鼻が熱くなってしまっていた。

『よく言ったな』

 ふ、と治憲はこの時初めてその顔に柔らかい笑みを浮かべた。

『児童心理司の知人が居る。彼にお前の事を紹介しよう。心理学を学べ、幸辰。それが、今のお前が扇万里子のために出来る唯一の事だ。当然時間は掛かるだろうが、それでも学んだ事は決して無駄にはならない。いいか、焦らない事だ。好きな女の子の体に傷が増えるのを何も出来ず見ているのは酷く辛いだろう。それに彼女と近くに居られるのも今年度だけかもしれない。それでも焦るな、幸辰。さっきも言った様にお前はまだ何も出来ない子供だ。しかしそれでも、一つ一つ少しずつでも学んでいけば、お前は必ず扇万里子にとって何かをしてやれる人間に届く』

 椅子から腰を上げて再び座布団に座り直すと、治憲は真っ直ぐに幸辰の眼を見つめて続けた。

『今後もこの事は誰にも秘密だ。もちろん母さん達にもだ。これからお前は発達心理学や臨床心理学を学ぶ。そして私は、いつかお前が扇万里子を救える日が来た時、あるいは彼女が己を助ける意思を見せるまでに回復した時、いつでもお前達の元に駆けつけ、誰からの横槍も入る隙を与えず即座に法的な対応がとれるよう、児童相談所や法律家、そして報道の仕事をしている知人達にしっかりと根回しをしておく。だから幸辰、いつかその一瞬が巡って来た時、チャンスが訪れた時、すべてをひっくり返す可能性のある一手が打たれた時、それを逃さないようにするための自分で居られるよう備え続けなさい。その日はきっと来る。お前が扇万里子のために学び続ける限り、あの子の人生の先には常に光が差す可能性が生まれ続けるのだから』










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