隠れヲタクの日常に潜む変なのの話ノ参
翌日、目が覚めた僕は真っ先に時計を見た。針は七時調度を刺していて、四時に頃に寝たという割りには少し早い目覚めに思う。
それでも目が覚めてしまったものは仕方ない。多分フローリングの上にそのまま寝ていたから眠りが浅かったのだろう。やけに意識もはっきりしているし、道連れにトウギも起こそう。
「トウギ。起きて。朝だよ」
言いながらトウギを殴ると、トウギはふぎゃっと情け無い悲鳴を挙げながら目を開ける。
「…………てめぇ、殺すぞ……」
「ごめん、寝ぼけて手が滑ったんだ」
にこやかに爽やかな挨拶を交わして、僕は立ち上がった。
曜日は解っているのだけれど、なんとなくカレンダーを確認。今日は月曜日。学校が始まる日だ。昨日からそれが解っていて深夜までのゲーム会を開いていたという事なのだけれど、まぁそれはいつもの事だ。
そういうわけでお泊まりに慣れたトウギは、ちゃんと学校用の荷物を僕の家に持ってきている。気だるそうにしながらも寝巻き変わりのジャージを脱ぎ、制服に着替えていく。
僕も同じようにそうしようとしたのだけれど、着ている服を脱ぎかけたところで違和感に気付いた。服やら腕から変な匂いがしたのだ。
「ちょっと、シャワー浴びてくる」
この匂いには耐えられないと思った僕は、そう言い残して部屋を出た。
脱衣所に行って服を脱いでから、改めて匂いを確認する。
「…………これは、醤油の匂い?」
このしょっぱい感じは間違いないと思うのだけれど、如何せん醤油の匂いが体に着くような事をした覚えがない。
「ま、いっか」
もしかしたらトウギ辺りが、僕の寝ている間に悪戯でもしたのかもしれない。
そう判断した僕はさっさとシャワーを浴びて、寝巻きにしていた服も洗濯機へとぶち込んだ。
トウギめ、後でとっちめてやる。そう思いながら浴びたシャワーは、何故かいつもより温まるのが早かった。
僕らが通う学校は、電車でいくつかの駅を越えて、降りた駅から数分歩いた先にある。その駅から学校までの道で、シャワー中に思った事を本人にぶつける事にした。
「ねぇ孝一郎」
「なんだ、久志」
「僕が寝てる間になんかした?」
「は? するわけねぇだろ」
何故か敵意全開の目で見られてしまった。そこまで嫌悪しなくてもよくない?
「でも、何故か体から醤油みたいな匂いがしたんだよね。服からも同じ匂いがしたから、多分被っちゃったんだと思うけど」
「俺が寝てる間にエキサイトな事やってんな、お前」
「わざと被った、みたいな言い方は辞めてくれないかな。僕だってそんな事をした覚えは無いよ」
「とはいえ体から醤油の匂いはしたんだろ?」
「うん」
「じゃあエキサイトしたんじゃねぇのか。醤油がぶ飲み大会でも開いてたとかだろ」
「それはがぶ飲み大会じゃなくてただの自殺レースだよトウギ」
確か、醤油を一気に飲むと実際に死ぬはずだ。
不貞腐れるついでに悪態を吐いたつもりだったのだけれど、そこはトウギに流されてしまった。
「おい、ここでその呼び方は辞めろ」
むしろ僕が怒られてしまった。でも仕方ない。僕の意識が弛んでいた。
僕らはヲタクだ。昨日みたいにゲームのために色々費やすのは勿論のことながら、アニメを見るための夜更かしやイベントに行くための学校サボりはしょっちゅう。
僕らは二次元を崇拝している。愛しているなんて表現じゃ温いね。僕らみたいな人間は二次元に生かされていると言っても過言では無いのだ。つまり三次元から見た最底辺である。存在する次元がひとつ足りない。
二次元だけを生きがいとして、三次元は極力何事も無いようにやり過ごす。そのために必要な措置のひとつが、ヲタクである時とそうでない時のオンオフだ。
「ごめんごめん孝一郎。気を付ける」
「学校でそう呼んだらぶっ飛ばすからな」
例えば呼び名。藤枝孝一郎たるトウギの事を、僕は学校では孝一郎と呼び、孝一郎は僕を久志と呼ぶ。そうやって互いの呼び名からけじめをつけて、髪型とか服装にも気を付けて、ヲタクである事が皆にばれないようにしているのだ。世間では僕らみたいなのを隠れヲタクと呼ぶらしい。
実はトウギという名前は、僕が昔見たアニメのキャラの名前だったりするから、聞く人が聞いたらバレてしまう、というのも、呼び名変更の理由のひとつだ。
まぁ、簡単に言うと他人が怖いって事ですよ。だって他人って何を考えてるか解らないからね。必要以上に踏み込まない。それがベストの人間関係だ。
「ちゃっすー、お二人さん」
ふと、快活な声が背中に触れた。振り向くとそこには、ミディアムロングのパーマ髪を揺らしながら、大きな宝石を填め込んだみたいな瞳でこっちを見て、残像が残りそうなくらいに手を振っている女の子が。
手を振る速度が速すぎて見えない、だと……?
道路を挟んだ向こう側に彼女は居るのだけれど、横断歩道も無い変わりに通行車も殆ど無いその道で、わざわざ右を見て、左を見て、そしてもう一度右を確認してから、こっち側に渡ってきた。偉い。でも惜しい。ここは横断歩道じゃないんだ。
「おはよう、宝生さん」「よ、朝から元気だな」
「私はいつでも元気だよ。なんなら売ってもいいくらい元気」
その言葉を証明するかのように満面の笑みを浮かべる彼女は宝生優莉。僕らのクラスメートだ。
「というわけで、この快晴に見合わない猫背さん二人に私の元気を販売してあげよう! 今なら無料大サービスだ!」
「クーリングオフは可能か?」
「肌に合わない時は使用を中止して、お近くの病院に相談してねっ」
宝生さんの元気は化粧用品か何かなのだろうか。
宝生さんは僕とトウギの間に割って入って、二人を交互に見てから、その笑顔を一旦消した。
「二人共、目の下にクマさんが大量発生してるよ? 猟師さんに見つかったら間違えて撃たれちゃうレベル」
「それはクマ違いじゃないかな」
「ナイスツッコミだよ月島君!」
何故か喜ばれてしまった。
「で、その隈どうしたの? もしかして夜更かし?」
心配するように顔を覗きこんで来るもんだから、少しバツが悪くなる。
「孝一郎と深夜まで遊んでただけだから、心配しなくて良いよ」
むしろ心配されると居心地が悪くなるから辞めて欲しい。
「二人で? お泊まりだったの?」
と、またも僕らの顔を交互に見る宝生さん。
「久志の家でゲームをやってたんだ」
答えたのはトウギだ。
すると宝生さんは顎に手を当てて「なんのゲームをプレイしてたのかなー? え、プレイ? プレイってまさか……っ!」と、いきなり顔を真っ赤にした。
「駄目だよ二人とも! 健全な高校生がそんな……男同士で愛し合うなんて!」
勘違いになんらかの悪意を感じるのだけれど。
「やめて宝生さん。それは冗談にならない」
よりにもよってトウギとなんて。本当にやめて欲しい。
「そうだよ! 冗談なんかじゃないんだよ!」
宝生さんは拳を握って高く掲げた。
「二人の噂は皆から聞いてたけど、まさか本当だったなんて……でも大丈夫! 私はそれでも、二人の恋路を応援してる!」
「ちょっと待って宝生さん。その噂ってなんのことかな。詳細を聞かせてくれる?」
「え、月島君と藤枝君が付きあ――ううん、私の口からこんな事を言うのは野暮だから、やっぱり辞めておくね」
「殆ど言ったも同然だよ!? そこまで言っておいて辞められたら逆に不安になるよ!」
「じゃあはっきり言うね」
宝生さんは覚悟を決めた戦中のヒロインのように真っ直ぐ僕を見る。
「二人はモーホーさんだって、皆が言ってた」
「その皆っていうのが誰か教えてくれるかな。ちょっと殴ってくる」
「駄目だよ月島君! 自分達の愛を貫くためとはいえ暴力を頼るなんて! 私も協力するから、皆にも理解して貰えるように、まずは話し合おう!?」
宝生さんの優しさが逆に痛いよ! というか話し合う以前に僕の話を聞いて!
とりあえず殴りに行こうという暴走は止められたのだけれど、広まっているというその最悪の噂はなんとかしなければならない。まずは宝生さんに説明しようと思ったら、トウギが先に動いた。
「宝生。違うんだ。俺達はゲイじゃない。久志が好きなのは、お前だ。宝生」
とんでもない爆弾が投下されました。
「…………ふぇ?」
硬直する宝生さん。
「…………は?」
僕とて固まった。今が何時かも解らない。
そして、爆弾が爆発する。
「あちょちょちょとうばぁぁああああ!? そんなことないよ!? 月島君が好きなのは私じゃなくて藤枝君だよ!?」
宝生さんは大きく後ろに跳ぶと、スカートを押さえるように自分の太ももを庇った。
「どうして宝生さんが僕の好きな人を勝手に決めるの!? どっちも違うからね!?」
「と、口では言っているが、こいつは前々から『いつ宝生に告白しようか』と俺に相談してきていた。残念ながら、これは事実なんだ」
「あじょ、あちゃ、ななあななな無いよそれは無い! ほら、私ってば全部で百億人の恋人が居るから!」
「おい孝一郎! お前が変な事を言うから宝生さんがおかしな事を言い出したじゃないか! もう既に亡き人とまだ産まれていない人とまで付き合い始めちゃってるじゃないか!」
「久志。愛ってのは、時間の壁を越えるもんなんだ」
「越えすぎだよ! 越えるのにも限度があるよ!」
「そうだよ月島君! 愛っていうのは性別の壁も越えられるんだよ! だから私は二人のことを応援してる!」
「宝生さんはまだそれを引っ張ってたの!?」
「私は諦めないよ……二人の愛が、実るまで……」
「台詞だけはかっこいいけど実らせようとしてるものが破綻してるからね!?」
「ひとつの恋を貫くのに、破綻なんて概念は存在しないんだよ! 純愛であればなんでもいいんだよ!」
「百億の恋人が居る人に純愛を語られた!?」
二人共、好き勝手に言いすぎじゃない!? ちょっとは自分の発言に責任を持ってボケようよ!
そんなカオスなやり取りを終わらせたのは、爆弾を投下した本人であるトウギの大笑いだった。何が愉しいんだこいつ!
「まぁそういうわけだ宝生。久志はお前に恋してるから、こいつを百億飛んで一人目の恋人にしてやってくれ」
「ちょ、トウギ何言って」
「了解、考えておきます隊長!」
「考えなくて良いからね!? そんな称号、僕は要ら――待ってよ宝生さん! 話を聞かずに走り去らないで!」
伸ばした手は宝生さんに届く事なく、かといって追いかける程の気力も僕には無く、見る見る宝生さんの背中は遠くなった。
「…………トウギ」
なんて事をしてくれたんだ、こいつは……。
「悪いな。こうしたほうが面白そうだと思っただけなんだ」
悪意しか見当たらない……。
「これで宝生さんが勘違いしちゃったらどうするのさ」
勘違い、というよりも、トウギの嘘を信じてしまったら、だ。勘違いよりずっと単純な分、厄介な事になる気がする。
「それは無いだろ」
と、トウギは意味有り気に鼻で笑った。
「なんでそう言いきれるのさ」
トウギは宝生さん本人ではない。確かにこいつは心理的要素が組み込まれたなにかであれば、ゲームでなくても力を発揮する。ヲタクのくせに無駄にハイスペックなのだ。
それでも、所詮他人は他人だ。他人の心を知るなんて出来るわけが無い。トウギのそれは、あくまでそんな感じ、みたいなニュアンスを引っ張って広げて風呂敷みたいにして、選択肢を作って対処しているだけなのだから、当然、不具合が生じる事もあるだろう。
にも拘わらず、
「言い切れるさ」
トウギは断言する。
「三次元なんて、単純だからな」
澄ました顔で得意気に語るトウギ。ぶっちゃけ、その顔をぶん殴ってやろうかとさえ思った。
「ややこしい事になったら、責任取ってよ?」
「何を今更」
乾いた笑い声を立てたトウギは、やはり簡単そうに言うのだった。
「そんなの、今まで通りだろうが」
そして僕の少し前を歩くトウギの背中。それを見て、ふと考える。
――こんなつまんねぇのが現実だってんなら、全部ぶっ壊してやろうと思った。
いつかの彼はそんな事をぼやいて、実際に荒れていた時期があった。というか彼は中学時代の殆どを不良として過ごしていた。
けれど、果たして今はどうなのだろうか。
きっとその考えは改まっていないだろう。人間は簡単には変われない。人間が変わるには、歌劇的であれ喜劇的であれ悲劇的であれ、なんらかの強烈な出来事か、相応の理由が無くちゃいけない。
でも三次元にそういうものは転がっていない。人生に疲れて変わりたいって思っても、変わるため、そのきっかけを探すため歩く事にすら身も心もすり減らさないといけない。
結果的に、そういう物語を掴む事が出来るのは気力溢れた人間だけだ。それが現実、三次元だ。気力の無い人間は変われない。つまり僕はいつまでも不変。
手の届かない場所には伸ばさない。それが上手い生き方なのだ。だから僕は夢は見ないし現実に期待なんてしない。
虹の麓にあるのはきっと二次元だと思う。やっぱり、存在する次元がひとつ足りない。