狩人の詩 (終))
いつの間にか、手にまで汗をかいている。ふるえる手を伝って雫が一滴垂れるのを見て、そのことに気がついた。危険な兆候だ。本来森で生きてきただけあって、彼は少々の事では汗ばむ感覚を覚えることはあっても、実際にしたたるような汗などかかない。ましてや、弓を握る手に汗をかくなどと、まるで初めて森に入った頃のようでないか。
隙を見せれば殺られる。その緊迫感に、自分自身で関知できるほどのゆるみが生じている。そして、それが危険な事だと十分に心得ている。が、それを持ち直す事が出来ない。
根比べは、厳しい物になりそうだな、と考えてから軽く頭を振る。いや、なりそうなどでは無い。すでに根比べは厳しい物になっている。
前後の足から流れ出す血が徐々に収まってきている剣歯虎を凝視しながら、ユウはそんなことを考えた。
道をたどるのは、果たして容易だった。そう、その跡は道と呼んでも差し支え無かった。確かに人を一人抱えていたとは言え、自分でも愚かしいと感じるくらい、全く周囲に気を配っていない。
その道の端で少年は、剣歯虎と対峙するユウを見つけた。奮闘によるためか、所々木漏れ日が枯れ葉を輝かせている。
同時に、ユウが負傷して居る事だけで無く、剣歯虎に圧され気味であることに気づいた。弓矢の持つ恐るべき威力を身をもって体験した所為であろうか、虎は恐ろしく慎重だ。いつの間にか抜いた右前足の鏃痕は、流れた血が固まりつつあり、対して老狩人は明らかに疲労の色が見える。
助けなくては。約束は果たさねばならない。
互いに自分の最適位置を取ろうとするため、はからづも円周運動の結果、剣歯虎は少年に背を向けて対峙している。
だが……足が動かない。体が全く言うことをきかず、剣を抜いたまま彼は固まっていた。
動け、動け、動いて……「かっこよく助けるんだ。あの狩人に勇ましい姿を見せて、見返してやるんだ」
動く代わりに、言葉を発していた。
『格好良く』
『勇ましく』
『見返して』
その自分自身が発した言葉に、彼はびくりとした。
格好なんか、格好良くなんか、二度とできっこないじゃないか。あんな、情けない姿をさらしておいて、それでも取り繕おうとする。まったく、厚顔無恥も良いところでないか。ならば、更に恥をかいてもなんの問題があると言うのだ。少なくとも、恩人を見捨てる事に比べれば、恥なんて何とも可愛らしいものでないか。格好なんか気にせずに飛び出すべき。そう、今はそのときだ。
だが……やはり足が動かない。幾ら自分の臆病を、不甲斐なさを、情けなさを、嘆き、詰ろうとも、足はぴくりとも動かない。
無理矢理でも、何でも、兎に角、一歩でも足を出すんだ。
「うわあぁ」と言う、言葉と言うよりも絶叫とでも言うべきものを肺の奥から発すると、彼は重い足を一歩踏み出す事に成功した。そして、第二歩。第三歩。
気がつくと、彼は剣を構えて走り出していた。
奇声を発することの愚かさと臆病さを感じながら。
少年は、剣歯虎がこちらに顔を向けて睨むのを見て取った。
確かに怖かった。恐ろしかった。まるで、心臓を鷲掴みされたようだ。だが、先ほどとある意味同様に、足には一切感情が伝わらなかった。
蛮勇。
ほぼ剣歯虎の真後ろから突っ込んでくる少年の行為を、彼は蛮勇と捉えた。
多分駆け出しの冒険者だろうが、まったく愚かしい。たまたま自分と虎との戦いを見かけて助けを出してくれたのだろうが、叫ぶだけで十分で突っ込む必用は無かったのに。
だが、そんな考えとは裏腹に、このチャンスを大いに歓迎し、そしてそれに乗った。
引き絞られた弓から、矢が放たれる。
矢は、狙い違わず一直線に向かい……そして、少年に向けて跳躍をしなかった剣歯虎の目前を通り過ぎた。
ハズされた。剣歯虎は、突っ込んでくる少年よりもユウの方を、彼の想定以上に驚異と感じているのだ。
当然の如く、向きを変えた剣歯虎は、手傷を負っている事など感じさせない素早い動きでユウに振り向き、駆け出そうとした。
絶望的な思いの中で、何とか左腕の弓を構えようとするが、痺れたように動かなくなる。
だが、少年の突っ込んでくる速度は、ユウの、そして剣歯虎の予想を超えたものだった。打ち下ろされた剣が、虎の尾を見事に切り裂く。
流石の虎も、慌てて振り向くと同時に、横殴りに牙を突き立てて来た。その鋭い一撃を何とか避けた物の、受けた衝撃で剣を落としそうになる。
2対1の不利な条件を脱するために、剣歯虎は、先ずは少年から屠ることに決めたようだ。少年が持つ唯一の武器、剣に向けて、更なる攻撃を加えてきた。少年に可能なことは防戦。先ほどと何ら変わらない様に見える。
だが、まったく違う点が一カ所。
少年は、自分の意志で戦ったいる。そして、絶望もしておらず、諦めていなかった。
少年に向かう虎。少年はそこそこ腕が立つようだが、若干圧され気味だ。多分、このままだと牙が少年の脳天-いや、胸板かも知れない-を貫くだろう。これが最後のチャンスだ。
剣歯虎は、接近することで同士討ちを恐れ手を出さないだろうと経験的に考えているはず。この戦いに慣れた獣なら、何度も似たような経験をしてきていても不思議は無いし、確かにそれは正しい判断だ。剣歯虎必殺の、牙を打ち下ろす動きのため、どうしても姿勢が高くなり、そのため万が一外すと人の胸より上に当たってしまう。
だが、それは通常の射り方の場合。
いきなり仰向けに倒れ込むと、弱りきった左腕の弓を右足にかけ、右腕で思いっ切り弓を引く。慎重に狙いを定め、そして、必殺の矢を剣歯虎の頭に向けて放つ。
矢は風切り音を立て、一直線に剣歯虎に向かう。
音に反応して振り向いた剣歯虎の正面から突っ込む形になった矢は、牙を砕き、口に吸い込まれた。矢は、深々と口に刺さり、脳髄を破壊した。
剣で剣歯虎の牙と爪の攻撃をかわすのがやっとであった少年も、この好機に思
いっ切り振り上げた剣を虎の首筋に向かって打ち下ろす。
全てを断ち切るかの如く。
ドサリと地面に倒れ込むと、絶叫をあげるこを恥じた剣歯虎は、静かに、だが雄々しく、大いなる眠りについた。老人の夢を見ながら。
「何とか間に合いましたね」
剣歯虎の攻撃による切り傷と最後の一撃の返り血で真っ赤になった少年は、その姿とは不似合いなちょっとはにかんだ様な笑みを浮かべてユウに言った。
その時ようやく、この愚かしくも勇敢な冒険家が、あの情けない甲冑の少年であることにようやく気づいた。
「礼は言っておかないとな。ありがとう」
「どういたしまして。で、立てますか」
「なに、腰を抜かした坊やとは違うさ」
ユウは、そのからかいの言葉に対してなにも言えずに血に染まった顔を更に真っ赤に染めている少年を優しい表情でみながら、ぼろぼろの弓を肩にかけると、右手をついて立ち上がろうとした。そして、足に力が入らず尻餅をついてしまう。
「年寄りの冷や水ですよ、まったく」
立ち上がることが出来ないアズサに、先ほどまでとはうってかわった笑い出しそうな表情で少年は手を差し出す。苦笑したユウは、少年の腕を取って、立ち上がろうとした。
起きあがろうとして……ずてん、と音を立てて助け起こそうとした少年も蹌踉て転けてしまう。
少年は、そのままアズサの横に並んでへたり込んだ。
「全く。礼を言って損した」
「全く。恩人に対して、なんてことを言うんです」
「恩人、ねえ」
「恩人です。あなたがそうであるように」
二人は、顔を見合わせた。
「クックックック」
どちらからともなく笑い出す。
笑い声は次第に大きくなっていった。
「やってきた村人が見たのは、木漏れ日の中で、互いに背を持たせかけて実に楽しそうな顔で眠りこけている三つの影だったそうだ」
店主は話し終えると、残ったエールを一気に流し込んだ。
「さて、今日の話はこれでお終いだ。みんな、どんどん食ってくれ。さすがに虎の肉なんて無いが、塩漬け肉がいい感じに熟成したところだ」
店主の言葉とともに、生ハムと果物の注文を受け、娘だけで無く美人で評判の女将もお客の合間を飛ぶように回って、無くなった酒のお代わりを運んでくる。
これで、次の月までがんばれる。来月は満月の前日で、収穫が終わった直後。次は、どんな話だろう。久々に宮廷話も良いな。だが、冒険の話は、何度聞いても心が躍る。
何しろ、月に一度のお楽しみ。
そう、安息日前の満月ともなれば、小鬼どもすら騒ぎ出すのだから。
元々、老狩人の名前はアズサだったため、訂正漏れや誤記があった場合、ご連絡頂ければ幸いです。




