2話
幌馬車は無事港町にたどり着いた。
結局はもともと向かっていた方が正解であった訳だが、小一時間は『牛さん』の足取りが乱暴であったことは、言うまでもない。
水色の馬車が町の端に止まり、道脇の小さな小屋から役人らしい服装をした人間が出て近付いてくる。
草原一帯とこの町では統率者の系統が違うので、軽く審査が行われるのである。と言っても国を行き来するそれとは違い証明書の類がある訳でもなく、軽く荷を調べられて署名をするのみで済む。
「じゃあ、どうもありがとうございました。なーんもお礼はできないですけど、さようなら!」
そのタイミングで頬に楕円形の噛み跡を付けた男が幌から降り、骨組に括りつけておいた靴を外してその黒い脚を押し込む。
異質さを放っていた外見も脚さえ隠れると至って普通の人間に収まったようだった。忙しなかった幼さも靴を身につけた瞬間に鎮まった。
異様と言えるものは、敢えて言えばただ少し靴のサイズが大きいようにも見えるくらいだった。
靴紐を結び終えて男が上体を起こすと「待ってくれ」と言って幌馬車の主が身を起こした。
道を示してからまたケープに包まって無言になってしまったので寝ていると思っていたが、目は覚めていたらしい。
幌の下から役人から何やら耳うちをされ、纏まった数枚の紙を渡されている。さっと目を通した主は、男の方に顔を向けて呼びかけた。
「少し頼みたいことがあるんだ。署名が済むまで待ってて欲しいのだが構わないか」
「ただで助けて貰った身ですからねぇ。なんなりと」
改めて見ると、幌馬車の主は背筋が真っ直ぐに伸びてすらりとした印象を受けるものの、身の丈は高くはないようだ。
長めの髪は後ろの方で小さく括り、纏めきれなかった前髪が輪郭を覆っているので顔の形はよく分からない。
普段フードを被っているようなら尚更だろう。
馬車の主がブーツを幌のへりにかけた時、獣脚の男はほとんど無意識で支えの手を差し出した。
主の方もごく自然にその手に自分の手を置こうとして...勢いよくさっと引き、その頭が跳ね上がって男の方を見る。
火傷をして咄嗟に身を引いた、という反応だった。
金髪の主はバツの悪いのと、訝しいのを足して二で割ったような表情をしていた。涼やかな切れ長の紅い瞳は少し見開かれ、男にしては滑らかな眉間がぐっと寄せられる。
「私が幌から独りで降りれそうもないような貧弱な男に見えたか?」
「いいえ?」
男は手を差し出した格好のまま純粋な作り笑顔を浮かべている。
「ついつい、です」
主はしばらく黙って靴をへりに置いたままその顔を見ていたが、ふと力の入った顔面の力をふっと抜いて変わりに不安そうに目を自分の体に落とした。
「...やっぱり分かるか」
「いやいや、自分の場合、職業柄分かっちゃったって感じですしねぇ。普通の人間には分かりませんよ、多分」
主の表情に怪訝そうなものは消えないまでも少し安心の色が浮かぶ。そのまま男の手を借りて幌から降りて小さく礼を言い、再び待つように言ってすらりとした背中を見せ、役人の方に歩いて行った。
『...手を出すなよ』
それまで黙って動物であることに徹底していた『牛さん』が文字通り口を開く。やはり僅かな口の隙間は一切動いていないが、ちゃんと言葉を発することが出来ているようだ。
「とっても興味がそそられますよねぇ」
『食うぞ、人間』
「いいえいいえ、自分が興味があるのは牛さんの方ですよ。どうやって話してるんです?それ」
動物は答える代わりにぐわっと口を開いた。
「臭っ」
『閉じるぞ』
「臭くないです」
白い毛に覆われた顔面をどれどれと覗き込んで見るのと、大きな顎の筋肉が蠢いたのはほぼ同時。
ばぐんと閉じられた口からすんでのところで頭を抜き、生臭い臭の風が前髪を吹き上げた。
「うっわぁあー!あぶねぇ!!」
『避けるなよ』
「この牛怖い...」
「何やってんだ」
軽口(男にとっては命の危機であったかも知れないが)を交わす1人と1匹が振り返ると、呆れた顔の馬車の主。
審査は無事に終えたらしい。
『世間話だ』
「殺されかけました」
二つの返事に主は首を傾げるがさして触れる必要もないと思ったのか、男の方に先ほど受け取っていた羊皮紙を差し出した。読め、ということらしいので目を通す。
「依頼書?」
『またか』
ぶん、と鼻を鳴らした動物に一瞬目をやった主は紙を懐に納めて言う。
「私はもともと私立の運送屋をしているのだが」
「なるほど」
「普段は国を渡る人や荷を載せているが、たまにこうやって、高貴の方々に決して公にしたくない物の運送を頼まれることがある」
「ああ、いまのがそうですか」
そうだ。と答えた主は何気なさげに動物の角の付け根をガシガシと書きながらもう一方の手で2枚目の紙を差し出した。
「貴方はおそらく、医者だろう」
「ええ、そうです」
平然と返事をしつつ、内心はかなり驚いていた。
「なんで分かったんです?」
「乗せた時、嗅ぎ慣れた臭いがしたのでな」
自分の服の裾を捲りあげてすんすんと臭いを嗅いでみると確かに僅かな薬の臭いがするが、臭いが分かるほどに近付いた思いもなければ、この臭いが医療に使う薬だと気付く者がどれだけいるものだろうか。
「付き添いを頼みたい。無防備にも寝ているところを追い剥ぎなどの卑劣な行動に及ぶような人間でもないと、そこを見込んだ上での頼みだ。貴方に今不足している金も手に入る」
それに...私の身のことを知っている分心強いのだ。
と、渡された紙には。
『リリア・シヴァール。6歳の女子。くれぐれも身分を明かされることがないよう、隣国までの運び届けて欲しい。報酬は隣国での受け取りに遣わした使用人に、運送屋に直接現金で渡すよう言いつけてあるので受け取るように』
と書かれた隅の方に小さく、『この手紙を読んだら私の家まで、そちらの信用できる医者を1人連れてくるように』
「ふぅん。どういうことでしょうかねぇ」
「私も依頼があるから来いと手紙が来たのみで詳しくは知らないのだ」
「というか、手紙を書いたなら、ついでに依頼書も同封しないのは妙な気がするんですが」
「ああ...それは」
主は口を綻ばせた。
「奥方から、仕事以外の用件でほかの人間に100文字以上の手紙を書くなと言われているらしいのだ」
「それはなんとも...」
言葉に迷っているうちに、主は幌に上がってしまった。後ろから別の馬車が来ているので早く退かなければならない。
動物がのっそりと脚を上げ、動きだした幌馬車の横を早足で歩きながら、男は運送の依頼書を幌の内側に放り投げる。
「自分なんかで良ければ、付き添いましょう!とりあえず自分は買うものがあるんでそれを揃えてから」
「では2時間にここでどうかな。私も色々と済ませておきたいことがある」
「わっかりましたぁ」
手をひらひらと振って見送る男と、軽く手を上げて応じる馬車の主。
互いの姿が見えなくなった後で、両者と1匹は
「お互い名前くらい知っておいた方が良かったかな」
と少しだけ後悔したのであった。