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1話

蒼く茂った草花がざあざあと軽く囁き合うように揺れた。

風に追い立てられたてんとう虫がぶん、と意外にも大きな声を上げてどこかに飛んでいく。黒い点は雲一つない空の中にあっという間に消えてしまう。

草原を揺らす風は一通りあたりを騒がしくしてから、何かを待つよう余韻をさわさわと残して静まった。


踝丈ほどの緑が地平線の向こうまで広がる草原。

ここはかつて三つの国に挟まれていた。

故にその国々がまだあった時代は、戦の舞台であったために酷く荒れた土地であったが、100年ほど前にその国々が天災や疫病に自然と滅び、そうして戦禍が去ってからゆっくりと平穏を作り上げていた。

そして現在では、僅かな三国の生き残り達が形成した小さな村や町が、草原の各地にぽつぽつと点在するのみである。


その草原を、がらがらと二つの車輪が小石に乗り上げる小刻みな振動と共に、茶色い物体が進んでいた。


「いやぁ、旅人さん、ほんっとうに助かりましたよぉ。さっきもお礼を言わせて頂きましたけどね、こうやって3日ぶりの飯にもありつけるってんだから何回でも言わせて貰いますよ、ほんと」


現れたのは、一般的にコネストーガ幌馬車と呼ばれるタイプの、大きな船型の幌をもつ馬車だ。天井は茶色のキャンバスが張られているが、ところどころに水色の布で繕った跡がある。


それがゴトゴトと音をたてながら、のっそりとしたスピードで進んでいる。


馬車、とは言ったが、それを曳いているのは馬ではなく、体つきと脚の雰囲気だけは牛に似たやたら大きな動物である。大型の幌馬車は牛にも曳かせることはあるが、幌と体の大きさが並ぶ程で大きな角と白いもさもさな毛をもつそれは、どこの国でも見た事のないような、例えるならば、あらゆる草食動物をごちゃごちゃに組み合わせて白色を足したもの、という風情だった。

それはそれとして、幌から身を乗り出してパンを頬張っている男と、後方で荷物に寄りかかっている人間も、これまた異質だった。


「ところであんたぁどこに行くんです?このあたりは草原の中じゃ海が近いからまぁ内陸の方よりは賑やかですけど、歴史も浅い町ばっかですから、旅人さんの目に楽しいもんはないと思いますけどねぇ」


とやや調子はずれの声を上げているのは、袖の無い粗目のシャツの裾をズボンに押し込んでいるだけという軽装の、濡れ羽色の髪の若い男。...といっても成人はしているようだが、大きな体躯と対照的に髪と同じ色をした瞳の異様な大きさや、パンを頬張る仕草は少年のようである。

やることも口は動かしながら幌を曳く動物の長いもっさりとした毛に手を伸ばしたり、キャンバス製の天井をざらざらと触ってみたりと子供のように忙しない。


しかしそのちぐはぐな行動より目を惹くのは、その脚だろう。


腰あたりで絞ったズボンはそのままストンと膝まで生地がまっすぐに伸びているが、ふくらはぎにかかったあたりからむくむくに膨らんでいる。

旅をする者は砂が靴の中に侵入するのを防ぐために布を何重かに巻いて仕込むこともあるが、男の場合は別の理由がはっきりと足先に見えていた。

本来は靴やブーツが覆っている場所を、もさもさとした黒っぽい動物の毛が代わりに全部覆っていた。投げ出したその脚のつま先は黒く硬質そうにテラテラとしている。どこからどうみても、蹄だ。


男は乗り出した上半身を幌の屋根の内側に引っ込めて、残りのパンを一気に口の中に押し込んだ。

そして黒い脚を組んで後方を見やり、ごくんとしてから言う。


「あのぉ、乗せてもらった時から思ってたんですけどあんたって『乗れ』と『食え』しか口きけないんです?」


その言葉にうつむいた人間は答えない。

「...んん?」

よく見ると顔を隠している金髪の向こうで、人間はすーすーと寝息をたてている。

旅人らしく長いブーツに収めた足は幌の床に投げ出されて、動きやすそうな白のシャツと茶色のズボンを纏った体は完全に脱力している。

上からずっしりと体を覆う黒いフード付きのケープが体の動きと同時にずるりと落ちた。

筋肉の付きにくい長身の人間に特有の薄い肩がシャツ越しにもぞもぞと動く。起きるか、と獣の脚の男は身構えたが、少し体の向きを変えただけでまた寝息をたて始めた。


「あ、どうしましょ.....」

僕が悪い人間だったらさっきと立場逆転しちゃうんですけどねぇと誰に向かって言うでもなく、ただ起こすか起こさないかだけ思案する。

草原で道に迷った挙句に身ぐるみ剥がされて放置されたところを拾われた身としては、寝ている人間を放り出してこのまま逃走しようなどとは考えない。


『手を出すなよ』


低い声が聞こえた。男は一瞬びくりと飛び上がったが、前の方を振り返って、「ほおお」とほっとしたように肩の力を抜く。


『昼はそいつの寝る時間だ。放っておけ』


普通の男の声に聞こえるが、少しこもって、微かに猫が喉を鳴らす時のような音を響かせるその声の主は、馬車を曳いている動物である。

草食動物とも肉食動物ともつかない顔の獣の口が少し開いていて、その隙間から低い声が『それと、そいつは目覚めて小1時間はかなり機嫌が悪いのでな』と付け加える。

『特に昼方起こされると目の前のものに噛み付くぞ』

話しながら動物が振り返った場所を見れば、幌の天井の骨組みに小さな窪みで形成された楕円の模様が目に入る。あ、これ歯型?

見てはいけないものを見たように慄いて前の動物に視線を戻す。顔の上半分は白い毛に覆われて前が見えているのかも危ういが、その足取りは草原でへばっていたところを乗せてもらった時から変わらず、ゆっくりだが真っ直ぐに進んでいる。

男はそれを見て安心する。この世の中でものを喋る牛というものが存在しないという常識がちゃんと頭に入っている上で、幌馬車が迷子になることはないだろうということに安心している。


その男が唐突にあっと声をあげた。


「牛さん!こっちはだめです。進路変更!」

『なら起こせ』

「お話できる牛さんなら進路変更のことで旅人さん起こさなくても良いですよねぇ?どうしてもなんです」

『最初にどこでも良いって言ったろ、人間』

なぜか不貞腐れた様子で語尾を強めた動物の長い尻尾がパシッっと幌を叩く。

「それはそうですけどねぇ、街に行くんならどこでも良いって確かに言いましたけど、商売道具全部盗られちったんで出来れば安くで買い物ができるところがいいんですよねぇ。

こっちの方向だと山の方でしょ?物価高いじゃないですかぁ」

『何を言ってる、こっちは港の町の方向だ。俺達ももともと港に用があって進んでる。何度も通った場所だ間違いない』

「いやいやいや、違いますってば牛さん。あっちの方角に太陽が見えてますでしょ?町は東だから思いっきり逸れてますよぉ、ほらっ、早く進路変更して」

『迷子は黙っておけ』

「そりゃ星読みでもなけりゃ夜は迷子になりますってばぁ」

『どうしてもと言うなら後ろのそいつを起こすことだな。そいつの頭の中にはここら一体の地図が埋め込まれている。それに俺の判断だけでは進路は変えられんのでな』


勝った、とばかりに動物はついと頭を前に向け、立ち止まった。幌馬車の車輪の音がやみ、急に静かになって風の音が目立ち始める。

今しがた起こすと機嫌がとても悪いと聞いたばかりだ。

それに夜は寝ていないらしいのでそういう意味でも憚られる。

「うーん...」

いや、隠しポケットの金が全財産となった今では、背に腹は変えられない。


...男はごくりと喉を鳴らした。




その数分もしないうちに、人間の悲鳴が草原に響き渡った。

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