01 故郷との別れ
女神との話が終わると我らは屋敷へと戻っていた。だがこれは地球に帰ったことを意味するわけではない。
我は使用人達を連れて屋敷の屋上へと上がる。
そこから見えるのは見慣れた我が屋敷の風景、だがその先にはうっそうとした森がどこまでも広がっていた。
そして我らを警戒するように、頭上を“馬”が飛んでいる。
「あれはペガサス……でありましょうか?」
葉月があっけにとられていた。優れた武人であり冷静沈着なメイド長でもさすがに空飛ぶ馬には驚きを隠せないようだ。
見るからにペガサスっぽい羽の生えたその白馬は、しばらく上空を旋回した後視界の外へと消えて行った。
突然現われたであろう我が屋敷を警戒していたのだろうが、最強である我らに襲い掛かるほど愚かな馬ではなかったようだ。
ともかく、一目でここが異世界だと教えてくれる面白い空飛ぶ馬であった。
「しかし……本当にすぐ飛ばされてしまったな。交渉出来たかどうかはおいといて、転移時期も余裕を持たせるべきだっただろうか」
我らが暮らす分には屋敷さえあれば事足りる。だが時間があれば異世界で換金するための素材や異世界征服に役立つ武器なども準備出来ただろう。
もちろん我がそのような提案を女神にしなかったこと自体が不自然であり、無意識的にその提案を出来ないよう誘導されていた節もある。
腐っても神というわけか。であれば我には今以上の要求は始めから不可能であって、今更後悔しても仕方のないことでもあるが。
「わたくしはこれで良かったと思いますよ駆馬様」
考え込んでいると葉月が話しかけてくる。
「時間に余裕があれば確かに準備は出来たはずです。ですが時間があればそれだけ迷いも出たでしょう。家族や知人との別れもより辛いものとなったはずです」
振り返ると、葉月は少しだけ寂しそうな顔つきになっていた。
我とて寂しさがないわけではない。
もし準備期間を設けていれば、当然母上や親父殿にも別れを伝えていたことだろう。この突拍子もない話を説明するために多くの時間を必要としたかも知れぬ。
仮に一週間ほど時間を取れたところで、それを有効に使えたかどうかは怪しかったとも言える。
「あたしや葉月はともかくひよりは決心にぶったかも知れないしなー」
ニコが話に入ってくる。
その表情は普段と変わらぬものだった。
こいつは極度の引きこもりだったしな。そのため我が所有する会社の従業員とすることも出来ず、ニコの発明は我があらためて会社の企画としてあげねばならぬ有り様だったほどだ。
まあそんな引きこもりだったこともあり、ニコには地球への未練もないように見える。
育った施設に顔を見せることさえほとんどなかったくらいだからな。ただし全く何も感じてないわけではなく、もしもの際には遺産が施設に行くよう我に手配を頼んでいたが。
ニコの個人資産は十兆円ほどに達していたが、それらは正当な手続きを経てニコのいた児童養護施設に寄付されるはずである。
もっともニコの資産の大部分は我が家の敷地内にある工房設備に消えていた。そのためほとんどの資産をこっちに持ってきたとも言えるが。
ぶっちゃけ千体の人型ロボットだけでも一兆円になるからな。工房全体だと五兆円以上の設備が備わっているのだ。
それさえコネクトームの本体は除いた金額だが。十兆円オーバーなコネクトームの開発費は我の個人資産の方から出ている。コネクトームは世界に一台しかない汎用人工知能だからな。スパコンが百台は作れる資金をぶち込んでやった。
ちなみにその我の資産は百兆円を少し超える程度である。
やっと一族の中でも一人前になるところだったのだがな。氏族会議での発言権を得る前にこんな異世界に飛ばされてしまったことは少し悔やまれるところだ。
そしてそんな我の資産であるが、当然もしもの際の手筈も整えていた。
屋敷ごと我らが消えた地球がどんな状況になっているかは想像することしか出来ないが、我が残した資産も正当な手続きを経て処理されていくはずである。
充分な個人資産のあったニコは別として、葉月やひより、玄庵への配分も手続きしている。今回のように我ら全員が同時にいなくなる場合も考えていたから、正当な手順を踏んで我の遺産は彼女達の親族にも分配される。
我らの記憶は消えると女神は言っていた。そのため遺産がどうなるかも考えどころではあるのだが、それについては滞りなく処理されるとのこと。
まあこの辺は女神の言葉を信じるしかない。我らの記憶が消えるということ自体がそもそも女神の証言によるものだしな。奴が嘘八百を言っていたなら前提が全て崩れるのだ。疑えばキリがなくなる話である。
ともかくそういうわけで、我らが消えた後の処理は地球で上手く行われるというわけだ。なので我としては後顧の憂いは何もない。
だがそれと気持ちの問題は別である。
ニコに加え、葉月も平気そうな顔をしてはいた。
葉月の方は、元から覚悟を決めていた感じだな。
我の資産は百兆円を超えた程度だったとはいえ、命を狙われることもあった。最強である我にくわえ葉月や玄庵も戦闘の達人であったから実際に危なくなることはなかったが、死の危険自体は常に隣にあったのだ。
遺産相続の手続きをニコの資産の分まで整備していたのもそのためだが、葉月の方も覚悟は決めていたのである。
地球にいた頃には我の盾となって死ねれば本望だなどと馬鹿なことを言うこともあったりしたが、そういう人間であったため、葉月はこの異世界転移においても大きな動揺は見られない。
玄庵の顔も見てみるが、こっちは葉月以上に平気そうな顔をしているな。
基本は葉月と同じだが、年季が入っている分覚悟も葉月より上だったと言えるかも知れぬ。
いつもと変わらぬ柔らかな笑みさえ返してくるその姿は、我に安心感さえ与えてくれるものだった。
そしてニコは引きこもりだったためそもそも何も感じていない。というか、まあ……どちらかと言うと嬉しそうな顔さえしているな。
こいつはあれだ。異世界物の主人公にふさわしい人材だったかも知れぬ。
異世界行きを嘆くどころか喜ぶたぐいの人間だ。こいつのことも少しは心配していたのだが、心配して損した思いである。
「失敬な。あたしだって一人で来てたら多分寂しがってたぞー。今回はみんな一緒だから決心も必要なかったけどなー」
いちおう、こいつにも寂しいという感情はあったらしい。ただ引きこもりのため世界がとてつもなく狭く、我らが一緒なら地球でも異世界でも同じということらしい。
ともかく、玄庵、葉月、ニコ。この三人はすでに覚悟を決めていた。だが……。
「ひ、ひよりも大丈夫です。ご主人様ぁあ」
ひよりは思い切り泣いていた。
とりあえず胸に抱き寄せてやることにする。ひよりはその豊かな胸を全力で我に押し付けながら、必死に声を殺して泣いていた。
「ごめんなさいご主人様。みんな……みんな大丈夫なのに。ひよりだけ……こんなにいっぱい泣いちゃって。ひより……情けなくて恥ずかしいです」
ひよりは一生懸命にあふれる涙を止めようとしている。
この異世界に来て、泣いているのはひよりただ一人。だが本来なら、ひよりの姿こそがあってしかるべきだと我は思う。だから我はひよりに語りかけた。
「気にするな。今は泣けるだけ泣いておけ。お前の方が人の反応としては正しいのだ。我やニコ、それに玄庵や葉月も含め、我らはともすると常人からかけ離れすぎてしまう。お前の存在は我が癒しだといつも言っているが、ただそれだけではないのだ。常人と同じ感性を持つお前がいてくれるからこそ、我らは人ではない何かにならずいられているのだからな」
ひよりは我が家において唯一の一般人とも言える。そのこと自体が、我が家にとってはかけがえのないものなのだ。
人の限界を超越しがちな我らである。
油断すればいつ常人の気持ちが分からなくなってしまうかも知れない。今とてひよりがいなければ、我らは異世界転移についてさえほとんど嘆きすら感じなかっただろう。
思考はこの世界で生きることへとすぐに向いてしまい、故郷に対して思いを馳せることさえほとんどなかったはずだ。
だが人としてそれでは駄目なのだ。
そういう人間として当たり前のことを、ひよりはいつも我らに思い出させてくれる。
ひよりを胸に抱きしめながら、我らは故郷との別れにしばしの間思いを馳せるのだった。