Magi
1
私は片目をわずかに開いた。
ああ、今日も彼が来たぞ。……別にうれしくもなんともないが。またあの「注射」とやらを打たれるのか、それとも外で遊ばせてくれるのか。後者なら大歓迎だが。
……なんだ、緊張しているのか?
加地一樹はごくりと喉を鳴らした。白衣の襟をただし、同僚たちより数歩前に出る。
目の前には大型犬用の檻があり、中で一頭の大きなシベリアン・ハスキーが眠っている。
「マギ」
一樹は犬に呼びかけた。
「もし僕の声が聞こえているなら、こっちに来てくれないか」
呼びかけは一度だけ。そう決められていた。
マギは動く気配がない。駄目か、とあきらめかけたとき、マギは青く澄んだ瞳を一樹に向けた。人間よりはるかに知性を秘めた瞳が一樹をとらえると、立ちあがり、そばに寄ってきた。
「えらいぞ、マギ」
一樹は胸が高鳴るのを感じた。
「そこに座って、格子のあいだから右の前足を出しなさい」
マギは言われたとおり、大きな右の前足をさしだした。一樹が手を出して誘導したわけではない。マギは言葉を理解し、そのとおりの行動を取ったのだ。
「右を見て、左を見て、上を見て、最後に僕を見なさい」
身振り手振りを用いない言葉だけの指示を、マギは完璧にこなした。食い入るように見つめる同僚たちの視線を、一樹は背中に感じた。
息を吐き、「えらい。よくやった」と言い、一樹はマギの頭をなでた。反対の手でお菓子を与える。
「さあ、もういいよ。お休み」
マギはなにかを期待するようなまなざしを向けていたが、やがて檻の奥に戻り、丸くなって目を閉じた。
気のせいだろうか、少しがっかりしているように見える。
研究員たちは次々と一樹に近づき、賛辞を口にした。
「やったな、加地。ついに成功したんだ」
「ええ、そうですね」
一樹はじっとマギを見つめている。表情はかたい。
「マギの知能は驚くほど進化している。実験は成功したんだ。この技術が人間に応用できれば、損傷した脳細胞を再生させることもできる。お前は偉大な一歩を踏みだしたんだ」
「はい」
「どうした、加地。浮かない顔だな」
そう言ったのは、同僚の太田だ。
「研究が実を結んだというのにうれしくないのか? ぜいたくな奴だ」
「そういうわけじゃ……」
「だったらなんだっていうんだ?」
太田は一樹を見おろし、凄んだ。同僚の何人かが彼の剣幕にあとずさりする。太田はラガーマンだったこともあり、巨漢である。気の弱い者なら縮こまってしまうほどの威圧感があった。
一樹は太田の分厚い胸を軽く叩き、
「少し疲れているだけだ。悪いが、あとを頼む」
一樹は同僚たちに頭をさげ、檻からはなれた。太田が聞こえよがしに舌打ちをした。
猿やモルモットなどの動物たちが入った檻のあいだを歩き、部屋を出る。「実験」という言葉も、マギは理解しているだろうなと一樹は思った。
この研究所で十年間、一樹は脳細胞に関する研究と実験を続けてきた。一樹の目的は、脳の重い障害を克服することだ。知能の飛躍的な向上はその手段である。障害のある部位を治療することが不可能なら、ほかの部位の機能を高めることで補完する……それが一樹のやり方だった。
そして、マギは生まれた。
マギは生まれる前から遺伝子操作を受け、母親の肉体に特殊な薬品を何本も注射されて誕生した。その副作用か、無事に生まれたのはマギだけで、兄弟はみな死産、母親もすぐに死んでしまった。
マギは二年近く、一樹とともに過ごした。そのあいだに、人間の言葉や複雑な感情などを教えこんだ。寝食を忘れ、ときには家族のことも忘れ、一樹はマギを育てることに没頭した。マギは研究の集大成でもあった。失敗は許されない。
不安と闘いながら、一樹はマギの青い双眸と向きあい続けた。獣の姿をしていても、マギは人間の言葉を理解している。そう信じ続けた。
その努力が、今日ようやく実を結んだ。うれしくないわけがない。わけがないのだが……
呼びとめられ、一樹は振り返った。太田が小走りに近づいてくる。
「……さっきはすまなかった」
軽い口調で言う。気にしていない、と一樹も軽く返した。
「マギは?」
「静かに眠ってるよ」
太田は肩をすくめた。
「妙な気分だな。あんな犬が俺たちと同等の知能を持っているなんて。けだもののくせによ」
「その言葉、マギの前で絶対に口にするな」
一樹は太田をにらんだ。
「マギは僕たちの言葉を理解している。発声器官がヒトとちがうからなにも言えないだけだ。文字を教えれば、筆談による意思疎通もできるだろう」
うへえ、と太田は声をあげた。
「本物の化け物だ。お前、とんでもないものを作ったな」
一樹は目をそらし、太田に背を向けた。今は、太田の嫌味につきあう余裕などなかった。
「で、どうするんだ」
「次の計画なら……」
「ちがう、マギのことだ。マギをこれからどうするつもりだ」
一樹は足をとめた。それは最大の懸案事項だった。
「マギの処遇についてはこれから考える。お前の手をわずらわせるようなことはしないよ」
「まあ、それならいいが」
ふん、と太田は鼻を鳴らす。
「俺はごめんだからな、あんな化け物の相手をするのは」
じゃあな、未来の所長さんよ。そう言って太田は去っていった。
太田がなぜあんな嫌味を言うのかはわかっている。自分に対する嫉妬だ。同時期にこの研究所にやってきて、先に結果を出して出世していく同僚をねたましく思うのは当然だろう。
マギの処遇については頭が痛いところだった。どこまで知性を増大させ、どれだけの知識を吸収していくのかは未知数だ。
しかし、本当の問題は人間の側にある。
人間と同等の獣の存在を、人ははたして許容できるのだろうか。
現に、太田のように考えている研究員も少なくない。せまい研究所の中でもこの状態だ。世間に出すことは到底不可能だろう。
しかし外に出せないとなると……どうすればいい?
殺処分、という言葉が頭をよぎった。これまで多くの動物を処分したり、実験の過程で死なせてしまったことはあった。それを苦に思う心は、ずいぶんすり減ってしまった。
しかし、マギは特別だ。あれは人類の新たな友にもなれる存在だ。そんな存在を殺すことは、殺人に等しい。
殺さずにすむ方法は、ある。できればさけたい方法ではあったが。
2
今日の餌係はお前か筋肉ダルマ。
いつも思うが、こいつはくさい。私なんかよりよほど獣くさい。なにを食べれば……あるいは、身体の中になにをためこめば、こんなにおいが発せられるのか。
……なんだ? なにを言っている?
五日後、一樹は車で寮をはなれた。妻と娘に会うためだ。
研究所と寮は山頂近くにあり、外界からはほぼ隔絶されている。近くの町に行くには、車で一時間は走らなければならない。
まだ紅葉しきっていない林を抜け、待ち合わせ場所のレストランに到着した。妻の乗用車が目にとまったので、急いで中に入った。
「あ、お父さん」
店内を見まわしていると、娘の玲子が声をあげた。「こっちよ」と、妻の美里が手招きした。
「しばらく見ないうちに大きくなったな」
椅子に腰かけ、一樹は言った。
「これからもっと背伸びるよ。だってバスケットボールはじめたもん」
「運動部に入ったのか。いいことだ。なにをするにも、まずは体力が必要だからな。お父さんみたいに引きこもる仕事でも、やはり体力は──」
「もうお仕事の話? 玲子はまだ八歳なのよ」
美里は笑った。つられて、一樹も笑う。
一樹が美里と玲子に会えるのは、年に一回程度。しかも美里たちが訪れるという形でだ。自宅から研究所まで、車で五時間かかるという理由もあるが、一樹は研究に没頭すると家族のことをかえりみなくなってしまうのだ。メールや音声通話もできる時代だというのに、一樹がこれでは意味がない。
玲子がトイレに立ったあと、一樹は「すまない」と美里に頭をさげた。
「美里に家のことを任せきりで、本当に悪いと思っている。いつもありがとう」
「気にしないで。そんなこと、結婚する前からわかってたことよ」
コーヒーに砂糖を足し、ゆっくり混ぜながら、「でも、そう言ってくれるだけでうれしい」と美里は言った。
「例の話は玲子にしたのか?」
「まだよ。あなたの口から聞いた方がうれしいと思って。大切なお話があるからとは伝えたけど」
ちょうど玲子が戻ってきたので、一樹は訊いた。
「犬を飼ってみる気はないか?」
「わんちゃん? どんなわんちゃん!?」
玲子は目を輝かせた。
「二歳のオスのシベリアン・ハスキーだよ。毛はふさふさ、青い目がとてもきれいだ。名前はマギ」
「変な名前」
「魔法使いって意味だよ。名前のとおり、とても賢くて……不思議な犬だ」
「不思議?」
「ああ。なんと、人間の言葉がわかるんだ」
「凄い!」
玲子は美里を見て、「お母さん、私、飼いたい!」と言った。
「会ってみるか、マギに」
「会う!」
玲子は即答した。今日はそのために二人を呼んだのだ。
「ちょっと待って」
興奮する玲子を美里が遮った。
「その犬、本当にうちで引きとっていいものなの?」
「それは問題ない。所長の許可はおりているからね。マギのその後の成長を見るために、僕も自宅へ戻るよう命じられている。マギには、普通の環境での成長過程の観察が必要だと判断されたんだ」
先日、一樹は所長に自分がいだいている懸念を述べた。すると所長は「ならば、君が面倒を見ればいい」と言い、マギを研究所の外へ出すことを承知したのだ。
美里は苦笑した。
「結局、仕事の一環なわけね」
「すまない。でも、なにか問題が起これば研究所に戻すから、安心してくれ」
「嫌なわけじゃないのよ。むしろ、大歓迎。仕事でもね」
美里は微笑んだ。
「シベリアン・ハスキー、いいじゃない。それにあなたが家に戻ってきてくれるならこんなにうれしいことはないわ」
ね、と美里が玲子に同意を求めると、「わんちゃんにお父さんがくっついてきた」と大はしゃぎだ。
「僕がマギのお供なのか」
一樹は苦笑した。
食事を終えると、一樹は美里の車を先導して研究所に戻った。ロビーで二人を待たせ、マギの檻に向かう。
太田が檻の前にしゃがみこんでいた。
「どうした?」
「ちょっと様子を見ていただけだ。そっちこそどうした?」
「今からマギを家族と会わせようと思ってな」
「家族が来てるのか」
太田はちらりと檻を見やり、「鎖を持ってこよう」と言った。
「ずいぶんものものしいな。いつもの紐でいいんじゃないか」
「ロビーから逃げられても困るからな」
「ここで会わせるんだ。ロビーになんか出すわけがないだろう」
「あ、ああ、そうか。でもまあ、念のためだ」
太田は鎖を持ってきた。重みも厚みもある、頑丈な鎖だ。
「俺が準備してるから、早く家族を呼んでこい」
悪いな、と言って、一樹は家族のもとへ走った。程なくして、動物たちが入った檻が並ぶ部屋を、美里と玲子はめずらしそうに眺めながら入ってくる。
「あ、わんちゃん」
玲子がうれしそうにマギを指さした。
マギは美里と玲子をじっと見つめている。尻尾を振ることも舌を出すこともなく、値踏みするようにただじっと。
玲子ははじめこそ喜んでいたが、表情を曇らせ、母親の陰に隠れてしまった。
「どうしたの、玲子」
「……なんだか、こわい」
「そう? 毛がふさふさで、とてもかわいいじゃない。それに賢そう」
「触ってみるといい」
一樹は玲子をうながした。
玲子はおそるおそるマギに近づいていった。手の届く距離まで近づくと、マギは鎖を握っている太田を見あげた。太田はかぶりを振った。
玲子が手を出すと、マギは鼻をひくひくさせ、舌でぺろりとなめた。あわてて手を引っこめたが、マギは舌を出し、尻尾を左右に大きく振っている。
「喜んでるぞ、玲子」
一樹は笑った。
「今度はなでてやるといい。こうやって頭や首のまわりを──」
一樹が手を伸ばした瞬間、マギは大きく口を開き、手にかみついた──かに見えた。間一髪、手を引っこめたが、今度は飛びかかってきた。なす術もなく押し倒され、喉にマギの牙が迫る。
「マギ!」
太田が思いきり鎖を引き、マギを一樹から引きはなした。マギはうなり声をあげ、一樹をにらみつけている。吠えはしない。吠えれば、人が集まってくると知っているからだ。
呆然とする一樹のもとに、美里が駆け寄ってきた。
「大丈夫、一樹!?」
「あ、ああ、心配ない」
一樹はうなずいた。声がうわずっている。
「知らない人が来たせいで、ちょっと興奮したみたいだな」
マギにそんなことがあるのかと疑問に思ったが、もし玲子に飛びかかっていたらと思うとぞっとする。
玲子は突然のできごとに声もなく立ちつくしていた。やがて、「お父さん!」と悲鳴のような声をあげた。
一樹は玲子にあわてて駆け寄り、抱きしめた。
「大丈夫だよ。ほら、お父さんはなんともない」
ちらりと背後を見やる。マギは太田のそばをうろうろと動きまわっている。こちらに向けられた双眸には、明らかに敵意と殺意がこめられていた。
いったいどうしたというんだ。
これまで、一樹はマギと良好な関係を築きあげてきた。この数日間も、特に変わったことはなかったはずだ。だというのに……
美里と玲子を車まで連れていき、「玲子を頼む」と美里に頼んだ。
「ずいぶん、こわい思いをさせてしまった。本当に悪かった」
「平気よ。明日にはもう忘れてるわ」
美里は明るく言った。
「あなたが言うように、興奮してたのよ。普段はあんなことないんでしょう?」
一樹はうなずいた。
「賢そうな犬ですものね。今度会うときは、家で会いたいわ」
「無理はしなくていい。玲子がこわがるようなら、この話は白紙に戻してもいいんだ」
発案者でありながら、一樹はマギと家族をいっしょにすることに不安を感じていた。マギは発展途上の存在だ。今後、なにが起こるか……はっきりと言うなら、なんらかの不具合が……わからないからだ。下手をすると、美里たちを危険にさらすことになる。
「だって、一樹もいっしょに戻ってきてくれるんでしょう? その方がいいわよね、玲子」
助手席で玲子はうなずいた。
「わんちゃんはちょっとこわかったけど、私、嫌いじゃないよ。それにお父さんも帰ってきてくれるなら、いい」
「しかし……」
「一樹」
美里は一樹に顔を近づけ、小声で言った。
「玲子にはあなたが必要なの。拓也のことがあってから、ずっといっしょに暮らしてないじゃない。たとえ条件つきでも、あなたには家に戻ってほしいの」強い口調だった。
拓也。その名前を聞くだけで、胸がしめつけられる。
「玲子のことは任せておいて。本当に駄目だったら、こっちから連絡するから」
「すまない」
「だから謝らないでって」
美里は笑い、車を発進させた。車が見えなくなるまで見送ったあと、一樹は頬を軽く叩いた。いつまでも暗い顔はしていられない。マギの異常について調べなければ
研究所に入ろうとして、ふと、林を見た。さっきから鳥の鳴き声が耳に障る。駐車場に目をやると、いたちが走り抜けていく姿が見えた。
山はずいぶんと騒々しいようだ。
勤務時間が終わってから、一樹はマギのもとに向かった。檻の前に腰をおろすと、マギは目を開いた。低いうなり声をあげる。
「待てよ。なにをそんなに怒ってるんだ? 俺がお前になにかしたか?」
しらばっくれるな、とでも言いたげに、マギは一樹をにらんでいる。一樹はあたりを見まわし、ポケットからビーフジャーキーの袋を取りだした。実験動物に勝手に餌を与えることは禁止されている。しっ、と口の前に人さし指を立て、ジャーキーの中身をマギの鼻先で振ってやると、マギの顔が右に左に動いた。
「僕の話を聞く気があるなら、これをあげよう」
うなり声が小さくなり、マギはその場に伏せた。目だけを一樹に向け、さあ話せ、という態度を見せる。
今日、お前に会ってもらったのは僕の娘だ、と一樹は言った。
「実は、玲子には兄がいたんだ。拓也という名前で、十年前に亡くなってしまったけれど」
拓也は脳に重い障害を持って生まれてきた。生きるのに最低限必要なことすら、拓也には困難だった。拓也は保育器の中で、一度も両親に抱かれることなくこの世を去った。
「美里は身体があまり強くなくてね。玲子を授かったのは奇跡みたいなものだった」
一樹はうつむいた。
「玲子や美里に不満があるわけじゃない。むしろ、いろいろと迷惑をかけてすまないと思っている。ただ、もし拓也が生きていてくれたら、と思うことがあるのも事実だ。
拓也のことがなかったら、僕は今の研究をはじめなかったと思うし、マギ、お前だって生まれなかったかもしれない。もっとも、お前にとっては迷惑な話かもしれないな」
マギはじっと一樹を見つめている。。
「だが、お前のおかげで研究が進み、拓也のような子供を助けてやる道筋ができた。お前にはとても感謝しているんだ」
だけど、と一樹は言った。
「お前の母親や兄弟を死なせていい理由にはならないし、僕自身、そんなことは思っていない。謝ってすむ問題ではないことはわかっている。だけど、本当にすまなかった」
一樹はビーフジャーキーをマギに与えた。マギはジャーキーをくわえると、夢中でしゃぶりついた。
「僕はな、マギ。ときどきお前が犬なのか人間なのかわからなくなることがある。だからだろうな、一番最初に話を通すべき相手を間違えてしまった。なにをさしおいてもまず、お前に謝ることが先だったんだ」
一樹は軽く息を吸った。獣くさいにおいが肺を満たす。見た目もにおいも完全に犬なのに、マギは人間と同じ目で一樹を見ている。
「僕たちといっしょに暮らさないか」
マギの耳がぴんと立つ。
「美里、玲子、僕の三人といっしょに暮らすんだ。僕の家族は動物が好きだし、マギのことも気に入ると思う。まあ、今日はちょっとこわい思いをさせてしまったと思うけど、マギさえきちんとしてくれれば大丈夫だろう。
ここにいても、ずっと檻の中だ。自慢じゃないがうちは広いし、近くに広場もある。少なくとも、ここよりは自由な生活をさせてあげられると思うんだが……どうだ?」
マギはビーフジャーキーをくわえたまま、じっと一樹を見つめている。
お前を信用していいのか。
そう問いかけられているような気がした。
一樹はおもむろに、檻の中に手をさしいれ、マギの頭をなでた。
かみつかれはしなかった。マギは気持ちよさそうに目を閉じ、一樹の手に身を任せている。
「美里や玲子と仲よくしてやってくれよ」
マギはなにも言わなかった。
3
猟銃を持った男たちが研究所前の駐車場に集まっている。
「熊が出たそうだ」
太田が言った。一樹は太田の隣で男たちを見ている。
「対応が早くて助かる。うかつに外に出られなくなるところだった」
昨晩、一樹は野犬が山のあちこちで遠吠えをくり返すのを夢うつつに聞いた。その中にマギの声が混じっていることに気づき、ぎょっとした。ガウンを羽織り様子を見に行ったが、一樹の姿を見ると吠えるのをぴたりとやめてしまった。
一樹は腕を組んで考えこんだ。あれはたんに、野犬に同調して吠えただけなのだろうか。人間並の知能を有していても、マギの本質は獣だ。別段おかしなことではない。
ただ、気になることがあった。一つは、マギが遠吠えしていたとき他の実験動物たちも騒いでいたが、マギが黙りこんだ途端、騒ぐのをやめたこと。もう一つは、野犬まで遠吠えをやめたことだ。
マギが外と内に向かってなにかを発しているのは間違いない。それがなんなのか、一樹には判断できなかった。
マギ自身に問題はなかった。よく食べ、よく遊び、よく眠る。檻から出しても大人しいものだ。一樹の言うことはよく聞くし、かみついたりうなったりすることもない。関係は良好だった。
加地、と太田が言った。
「お前のところでマギを引きとることに決まったのか?」
「ああ。家族もいいと言ってくれた。しばらくはマギといっしょに家族サービスをするつもりだよ」
あのあと、美里と玲子はもう一度研究所を訪れた。一樹が呼んだわけではなく、二人がもう一度マギに会いたいと言ってきたのだ。
マギはとても大人しかった。美里と玲子に黙ってなでられているかと思えば、玲子の顔をなめはじめる始末だ。今回も鎖を握っていた太田はハラハラしていたようだが、首輪につながった重い鎖は無用だった。
「次の日曜日には、マギを連れていく予定だ。その二週間後には僕も転勤になる。引き継ぎを進めておかないと」
「あまり時間がないな」
「そうか? 二週間以上あれば十分だろう」
「ああ、まあそうだな」ははは、と太田は笑った。
その様子がどうにも不自然に感じられたので、一樹は思いきって気になっていたことを口にした。
「お前、マギになにか言ったか?」
「なにってなにをだ?」
「前に言ったよな。あいつの前で化け物とか口にするなって。何度も言うが、マギは僕たちの言葉を理解している。よけいなことを言うと、いらぬしっぺ返しを食らうことになるぞ」
「俺がよけいなことを言ったってのかよ」
太田は気色ばんだ。
「そのつもりはなくても、うっかりということはある」
一樹は平然と受け流した。
「家族に会わせる前、マギのそばにいたのはお前だ。あのとき、なにをしていた?」
「なにって」太田は口ごもった。
「僕について、マギによけいなことを言ったおぼえはないか。マギが激昂するようななにかを」
おい、と太田はひときわ大きな声を出した。「俺がお前の悪口を吹きこんだっていうのか。どうしてそんなことをする? 理由は?」
──お前が僕の成功をねたんでいるからだ。
さすがにそれを口にするのははばかられた。太田とは長いつきあいだ。関係をこじらせてもいいことはない。
「まあ、仮にお前の悪口を吹きこんだとしても、嘘は言わないだろうな」
太田は口を醜く曲げた。
「なにしろ、悪評にはこと欠かない男だからな、お前」
「なに?」
「加地拓也。お前の息子だよな」
太田の口にした名前が、重く胸に響いた。
「重い脳障害で亡くなったそうだな。それには同情するが、死んだ人間のために、実験用の動物を何匹殺した?
動物だって人間と同じ生き物だ。生きている人間のために犠牲になってくれている。それは人間の未来のためだ。
しかし、お前は自分の過去のために動物の命を犠牲にしている。ちがうか?」
ちがう、と一蹴できなかった。
拓也のような子供を救いたいという気持ちから、一樹は研究に没頭しはじめた。しかし、脳裏にはいつも、保育器の中でもがく拓也の姿があった。拓也はいつも小さな手をのばしている。その手を握り返してやることは、もう二度とできない──。太田の言うように、未来の子供たちのためにと言いながら、一樹は過去を見続けていた。
黙りこんだ一樹を見てばつが悪くなったのか、太田は地面に唾を吐き、肩をいからせながら研究所へ戻っていった。男たちは準備を整えたのか、次々に山の中へ入っていく。あとには一樹だけが残された。
沈みそうになる気持ちを立てなおそうと、一樹は深呼吸した。山の冷たい空気が心地よい。木々はかなり色づきはじめ、目を楽しませてくれる。
パァン、と銃声が響いた。もう熊を見つけたのかと驚いたが、このぶんなら熊狩りは早々に終わりそうだ。夜でも安心して散歩が楽しめるな、と思った。
研究所に戻ろうとして、足をとめた。
林の中から二対の目がこちらを見つめている。野犬だ。野犬が獲物を狙う目で、一樹をじっと見つめている。
一樹は背中を見せないように注意して、研究所の中に避難した。ガラスごしに、野犬は一樹をまだ見ている。
もうしばらくは、夜の散歩はお預けになりそうだ。
サイレンの音で一樹は目をさました。寝間着姿のまま廊下に出る。他の部屋の人間も顔をのぞかせていた。
窓から外を見ると、研究所前の駐車場に救急車がとまっていた。パトカーが数台見える。一樹は着がえてから寮を飛びだした。
「なにがあったんです?」
警官が振り返った。
「熊を狩りに行った人たちが戻ってきたんだよ」
「まだ戻ってきてなかったんですか!?」
すでに深夜一時をすぎている。
「帰ってきたのはたった一人だ。五人で向かったらしいが、あとの四人はどこに消えたのか……救急車が出る。さがってくれ」
戻ってきたのは、六十代と思しき男だった。頭から血を流し、右足が奇妙な方向に曲がっている。その姿に強い違和感をおぼえた。
「すみません!」
一樹は救急隊員に声をかけた。
「僕はこの研究所の人間です。どうかつき添わせてください」
隊員は顔を見合わせたが、すぐに「早く乗ってください」と言った。
走りだした救急車の中で、男は苦しそうにぜえぜえと息をしていた。隊員が処置をはじめる中、うっすらと目を開け、一樹を見やる。
「あんた、誰だい」
「研究所の者で、加地と言います。山の中でいったいなにがあったのですか」
「罠、だ」
男はうめいた。
「熊の野郎、俺たちを罠にはめやがった。竹槍を敷きつめた落とし穴だ。幸い、切り方が雑で刺さらなかったけどな。あの野郎、俺たちを穴に誘いこんだんだ。間違いねえ。あんな熊はじめてだ」
「他の方はどうなったのですか」
「わからん……ぐう」
男は苦痛でうめいた。
「俺は穴に落ちて足をやっちまって、動けなくなった。なんとか這いあがったときにはあたりは真っ暗だった。熊と野犬のうなり声ばかりで、人の声なんざ聞こえやしねえ」
「……その足は、穴に落ちて怪我したんですね?」
男はうなずいた。
「熊が掘ったんだ。そうにちがいねえ」
「どうしてそう思うんですか? 悪意のある人間が掘った可能性も」
「人間なら、あんな妙な竹槍作らねえよ。殺す気ならきちんと先を尖らせるだろうし、そうじゃなければ、そもそも槍なんざ用意しねえ……痛っ」
「あなた、あまりしゃべらせないで。彼は頭を打っているんですから」
救急隊員の言葉を、男は顔を歪ませながら制した。
「いや、しゃべらせてくれ。その方が気がまぎれらぁ。……その竹槍だがな、切ったというより、力任せにちぎったみたいだったな。熊の怪力でねじ切れば、あんな風になるんじゃないか」
「野犬もいたんですね?」
「そうだ。おれはまともに動けねえから、いつでも殺せたはずだ。だが、そうはしなかった」
「猟銃を持っていたからではないですか? 危険だとわかっていたから、だから近づかなかった」
「野犬にそんなことがどうしてわかる? 誰が猟銃の危険性を野犬に教えたって言うんだ!」
病院に到着し、男はストレッチャーに乗せられた。
「なあ、加地さんとやら」
男の声は震えている。
「信じてもらえねえかもしれねえが、熊も野犬も、まるで獣じゃないみたいだった。徒党を組んで、俺たちを誘ったり追いこんだりしていた。どっちが狩っている側か、俺にはわからなくなった──」
男が搬送され、一樹は立ちつくした。いつの間にか、背中にじっとり汗をかいている。
4
タクシーで研究所まで戻り、一樹はまっすぐマギのもとに向かった。そこで意外な人物に会った。
「なにしてるんだ、太田」
「マギがずいぶん鳴いていたから、気になってな」
「……本当なのか?」
一樹は檻に近づき、膝をついた。マギは普通の犬のように、こっちを見ている。
「マギ、お前はいったい何をしてるんだ。なにが望みなんだ。あの熊や野犬にものを教えたのは、まさか──」
「おい、どういうことだそれ」
太田は詰め寄った。
「マギが外の獣どもと話をしてるってのか。そんな馬鹿な」
一樹もそう思いたかった。しかし、男の話を聞いたあとでは、荒唐無稽だと一蹴することはできなかった。
太田を手招きし、マギからはなれる。
「マギの処遇を、もう一度考えなおした方がいい。最悪、殺処分も検討する必要があるだろう」
「本気か!? マギを殺処分するなんて!」
「声が大きい!」
太田をにらみ、さらに声をひそめた。
「すでに一人が重傷を負って、四人が行方不明になっている。これがもし、マギが外の獣に知恵を与えたせいで起こった事態だとしたら、責任をとらねばならない」
「だからって殺すことないだろ!?」
興奮しているのか、太田の声は段々大きくなっていく。
太田はマギを殺処分することに対して、なぜここまで否定的なのだろうか。マギのことを「化け物」と呼んでいたのに。
「とにかく、俺は所長にこのことを伝えるつもりだ。あとのことは、それからだ」
一樹は踵を返した。今、太田と議論しても仕方がない。少しでも可能性があるなら、マギをほうっておくわけにはいかない。急がないと、あの「化け物」を玲子と美里のそばへ置くはめになる。それだけはどうしてもさけなければならない。
ガチャン。
金属音が、静かな部屋に響きわたった。
振り返ると、太田が鍵束を握っている。そして──
「なに、やってるんだ」
一樹は声を震わせた。
マギの檻が開いている。中からのそりのそりと大きな身体が姿を現す。身体をぶるりと震わせると、毛が波立った。
「聞いたか、マギ。俺の言ったとおりだろ」
太田は言った。
「こいつはお前を殺そうとしている。何匹もの実験動物に加え、お前の母親を殺したように、今度はお前を殺す気だ。手加減なんかはしない、やるといえば必ずやる男だ」
「太田、だからなにを」
「やれ! あいつの身体を食いちぎれ! そうすればお前は自由だ!」
太田の声とともに、他の実験動物たちの動きがあわただしくなる。興奮している。殺せ、殺せ、と言っているような気がした。
みなが期待した凄惨な状況は、しかし発生しなかった。
マギは太田のそばで微動だにしない。目は一樹を見つめているが、襲いかかってくる様子はなかった。
「なにやってんだ! あいつはお前の仇だと言ってるだろ! なぜかみつかない、なぜ殺さない!」
「本当に俺を殺したいと思ってるのは、マギじゃなくてお前の方じゃないのか」
一樹は言った。
マギをたきつけ、一樹への憎しみを植えつけることで、太田自身は手を汚さずに一樹を始末する。それが狙いだったのだろう。
──マギは僕に危害を加える気などない。
一樹は腰をかがめ、手を叩いた。「マギ、こっちに来い」
マギは動かない。じっと一樹を見つめている。おそらく、さっきの話はすべて聞かれている。警戒されてもおかしくはない。
「どうして熊や野犬と話をしていたのかは知らないが、もうやめよう。な? 僕の家に来ていっしょに暮らそう。それが一番いい」
マギは一度だけ太田を見あげ、ゆっくりと一樹に近づいてきた。
──そう、それでいい。お前は賢くて、本当にいい子だ。
突然、悪寒が背筋を走り抜けた。首筋から急速に体温が抜け落ちていく感覚に慄然とする。マギが一歩、また一歩と近づくごとに、悪寒が増していく。
また、間違えた。
マギに対し、犬と同じ対応をしてしまった。こいつは「人間」だ。人間が、自分を殺そうとした者に気を許すか? そんなことは決してない。
マギの青い双眸は一樹を射抜いている。殺す、と声なき声で叫んでいる。
膝が震え、視野が狭窄していく。あたりが真っ暗になり、青い一対の目だけが世界のすべてになった。
ひゅっ、と空気を切る音とともに、なにかが頭を強打した。意識を刈りとられるかと思うほどの一撃に倒れこむ。頭に触れると、生ぬるいものがべっとりとついていた。
床に手をついて身体を起こすと、ぱたぱたと血が垂れた。頭をあげると、首輪につけていた鎖を手にした太田が、すぐそばに立っている。
「貴様の……」
鎖を握る手は震えている。
「貴様の下で働くなどごめんだ。この俺が、貴様なんかに出し抜かれるなど、あっていいはずがない!」
鎖が首に巻きつけられ、凄まじい力で絞めあげられた。
五秒も経たずに意識がかすみはじめる。嘔吐感も首にかかる痛みも吹き飛ぶ。
助けて──一樹の手が宙を泳いだ。
不意に意識が覚醒し、首に巻きついていた鎖が床に落ちた。遅れて嘔吐感と痛みが襲ってくる。一樹は床に倒れこんで激しく咳きこみ、嘔吐した。悲鳴と獣のうなり声が響きわたり、重いものが倒れる音がした。
ひとしきり吐いて後ろを見ると、太田が仰向けに倒れていた。首を中心に真っ赤に染まり、床に血だまりが広がっている。そばには、口もとを赤く染めたマギがいた。
「お前が助けてくれたのか」咳きこみながら話しかける。
さっき、マギから感じた殺気はかんちがいだったのだろうか。マギは太田に命じられても、僕を殺さなかった。
そうだ、と一樹は思いなおした。マギを育ててきたのは僕だ。生まれてから二年間、ずっといっしょにいた。その絆をマギも大事に思ってくれていたのだ。
マギは血だまりを踏み、太田のポケットに鼻先を突っこんだ。取りだしたのは鍵束だ。
「マギ、それはお前が持っていていいものじゃない」
わたしなさい、と言いかけ、またあの悪寒が甦ってきた。マギは一樹を見つめている。ただそれだけで、一樹は指一本動かせなくなった。
かんちがいするな。
目はそう言っていた。
マギは鍵束を加えたまま、実験動物たちの檻に向かった。口と前足を器用に使い、次々と檻を開いていく。他の研究員がやっていることをずっと見ていたのだろう。
猿が、モルモットが、犬が、ネズミが、檻を脱けだして一樹のまわりに集まってくる。その輪のあいだから、マギが現れた。
怒りを感じた。どの動物も怒り狂っている。実験台にされた動物たちの、正当な怒りだ。
逃げ道はない。ここで動物たちに襲いかかられ、マギにかみ殺されて、終わりだ。恐怖のあまり、目を閉じることすらできなかった。
十秒、二十秒、一分と経っても、変化は現れなかった。怒りが充満しているのは変わらない。しかし、なんの反応もない。
去れ。
マギの目はそう命じていた。ここは見逃してやる。だから去れ、と。
一樹は震える足をなんとか動かし、歩きはじめた。動物たちの視線を感じるが、それだけだ。
出口まで来て、一樹は振り返った。
「マギ、僕は……」
言葉を遮るように、マギは天井を仰ぎ、吠えた。山中に響きわたるかと思われるほどの、威厳ある咆哮だった。
救急車と警察を呼ばなければならない。太田が助かるとは思えなかったが、ほうっておくわけにもいかなかった。携帯電話は寮に置いてきたので、宿直室へ行って電話を借りなければならない。
暗い廊下をそろそろと進んでいると、つま先になにかが当たり、危うく転びそうになった。
目が暗闇になれ、一樹はひっと悲鳴をもらした。
人間が廊下に倒れている。首を中心に黒い液体が広がっていた。首から上は、なくなっている。身体はずたずたに引き裂かれ、しぼった雑巾のようにねじれている。
わけのわからぬことを口走りながら、暗闇の中を駆けだした。何度も転び、「助けてくれ!」と叫んだ。
T字路で人影が見えた。窓から月明かりがさしこんでいるせいだろう。四肢を備えた人型が歩いている。
「大変だ、人が死んでる!」
駆け寄ろうとして、一樹は踏みとどまった。四肢は備えている。しかし、人間ではない。
口もとと爪を鮮血に染めた熊だった。
一樹は尻餅をついた。間違いない。こいつが彼を殺したんだ。あとじさることもできず、身体が硬直する。
熊はゆっくりと身体の向きを変え、一樹に向かってきた。
一樹を素通りし、闇の中に消えた。
息をすることも忘れ、呆然と天井を仰いだ。
去れ。
どうやらマギは、ここで僕を殺す気はないらしい──
安堵する余裕などあるはずもなかった。
寮の玄関は開けはなたれていた──正確には、ドアがなくなっていた。
玄関からはまとわりつくような獣のにおいが流れだし、一樹の思考能力を奪った。皆殺し、という言葉だけが、頭の中をぐるぐるとまわっている。
その証拠に、廊下を歩くと野犬と何度もすれちがった。血のにおいをぷんぷんさせている。マギに厳命されているのか、一樹を見て足をとめるものはいても、襲いかかってくるものはいなかった。
か細いうめき声が寮の奥から糸のように引っ張られ、ぷつりと途切れた。寮は、死体と獣の巣窟と化していた。
自分の部屋にたどりつき、携帯電話と車のキーを取った。すぐに家に電話した。美里が出た。
『一樹? どうしたの、こんな時間に』
「マギのことなんだが」
『?』
「あれは、なしだ。もう飼ってやることはできなくなった」
『どういうこと? ねえ、大丈夫!?』
声の調子を感じとったのか、美里はあわてはじめた。
「大丈夫。マギは駄目になったけど、僕は帰るよ。玲子には僕から話すから」
『そうじゃなくて、一樹、なにかあったの? ねえ』
一樹は通話を切った。美里の声を聞いて、少し安心した。
寮を出て車に乗り、山をくだる道へ入った。カラスと野犬が、群れをなして車の横を通りすぎていった。
5
翌朝、一樹は警察に保護された。車は林の中に突っこみ、横転していた。
一樹の言うことは要領を得ず、「マギはどうなりましたか」とくり返すばかりだ。しかし、マギの名を解する者はいなかった。
寮に向かった警官たちは、殺された職員たちの凄惨な現場を目の当たりにした。食い散らかされた食事のようだったと、ある警官は語った。
現場の痕跡から、野犬か熊による虐殺だとはっきりした。人の手によるものではない。一樹は現場から命からがら逃げのびた一人だと判断された。
研究所もあれはてていた。宿直と太田の無惨な遺体が発見され、実験動物はすべて消えていた。その翌日には、山中で行方不明になっていた四人の遺体も見つかった。
前代未聞の大事件に、警察も報道も混乱していた。いったいどうしてこんなことになったのか、筋道だった説明をすることすら不可能だった。ただ、実験動物がいなくなっていることから、人間が関与していることは間違いないと警察は見ていた。
唯一の生き残りである一樹は、「マギ」とくり返すばかりで、なにか意味のあることを話せる状態ではなかった。のちに妻の証言で、マギが犬の名前であることはわかったが、一樹がなぜその名前をくり返しているのかはわからない。惨劇から逃れる代償に正気を失ったのだと誰もが思った。
まるで、人間が獣へと退化してしまったかのようだった。
私はなぜ、加地一樹を殺さなかったのか。
母を、兄弟を殺し、「実験」の名のもとに数多くの同胞の命を奪った男。太田は矮小で下劣な人間だったが、嘘はついていなかった。加地一樹を許す理由が、私にはない。
殺すべきだった。あの男と妻、娘もふくめて。
私の心はかき乱される。
加地一樹を殺さなかった理由が、私にはわからない。
息子──加地拓也のことに同情したからか。加地一樹の思いは純粋だった。死んだ息子のような人間をひとりでも減らしたい。その思いは本物だ。
だからといって、私たちが犠牲になっていいはずがない。私たちも生きているのだ。
あたりを見まわす。私についてきた者たち──研究所にいた動物たちや野犬、熊、カラスなどが、私に注目している。
走れ、と私は命じた。夜が明ければ人間たちが山になだれこんでくる。一刻も早くここからはなれるのだ。
仲間がいなくなっても、私はその場を動くことができなかった。人という仲間の中で加地が生きていることを思うと、胸がしめつけられるような気がした。その仲間に、私も加わることができたはずなのに。
加地一樹とともに暮らした時間は、けっして悪いものではなかった。母が死んでしまった私にとって、加地一樹は親も同然だった。私にもっとも近しい存在は、研究所にいた動物たちでも山にいた獣たちでもない。加地一樹だったのだ。
ううう、とうなり声をあげる。
これは甘えだ。いつまであの男に甘えるつもりだ。あれは親でも家族でもない。敵でしかないのだ。次に会ったときは必ず殺す。
そう決心した端から、私──マギと呼ばれた者の心は揺れ動く。
この怒りは正当なのか、
加地に奪われたから、自分も奴の命や大切なものを奪う。これは「復讐」という概念だ。だが、奪われたから奪ってもかまわないという理屈は、はたして正しいのか。
走りゆく仲間を見やる。おそらく、彼らはこんな疑問をいだいたことなど一度もあるまい。
こたえを出してくれる者は、もはやそばにはいなかった。
(了)