第19話 もう、約束は十分守ったよな
洲岡青華。
彼は、プロボクサー洲岡青之とその妻、静華の間に生まれた長男だった。
洲岡青之はボクシングのフェザー級世界王者であり、7度の王座防衛に成功していた。
青華にとって、リングの上でベルトを腰に巻く父は誰よりも強く、まさしく王者であり、誇りであり、憧れであった。
父と同じくらい強くありたい、幼い青華はそう思っていた。
――しかし、その誰よりも強かった父も、病には勝てなかった。
父は引退し、病床に臥すようになった。
「すまんなぁ。お父さん、世界で一番強いお父さんになりたかったっちゃけど、駄目そうやね」
「そげなん……、そげなん言わんどってよ!! お父さんは、……世界で一番強いッちゃけん!!」
「……クク。お前にそげな(そんな)風に言ってもらえるだけで、俺は十分やね。……でも、気掛かりなんは、お母さんと妹達やね」
青華には妹と弟がいた。
二つ年下でわがままな妹の夕華と、三つ年下の気弱な弟の一青だった。
そして母。
彼女は心の強い女性だった。ボクサーという過酷な職業についた夫を笑顔で見守り、打たれてぼろぼろになって帰ってきた父を平然と出迎えた。
だが、最愛の夫が病に臥すようになってしまったことは、流石の静華にもこたえ、憔悴していた。
それまで青之は、自分の人生に満足していた。
しかし、まだ幼い子ども達、そして一人で家族を支えなくてはいけない妻のことは心配だった。
だから、青之は約束した。
まだ子どもだったが、それでも自分の持っていたボクサーとしての技術、そして不屈の精神を最も色濃く受け継いでいた長男に、託した。
「ごめんな。お父さんは、もう駄目バイ。何度も何度も立ち上がってきたけど、今回はもう、立ち上がるのは無理バイ。だから……青華。約束ばしよう」
「……約束?」
「ああ、オイと同じくらい強くなって、いや、オイより強くなって、皆ば守ってくれんか? 強か奴になって、誰にも負けん奴になって、皆が立ち直って、一人で立派に立てるようになるまで、皆ば守るち約束してくれんか?」
それは、10歳にも満たない子どもにとっては重過ぎる約束だったろう。
それでも、青華は病床の父と指切りをした。
小指を絡め合い、約束した。
「オイは……誰よりも強くなって、お母さんも、妹も弟も守るち……約束する」
「……ああ、約束やけんね。青華。……重かもん背負わせてごめんな。ありがとう」
「……うん、約束は守るけん。約束は守るけん……。だから、だから、まだ……。……まだ、逝かんどってよぉ」
嗚咽交じりの青華のその言葉は、父には届くことなく、青華にとって誰よりも強かった父、洲岡青之は天に召された。
そしてやがて、青華は父の所属していたボクシングジムの門を叩いた。
家族を守るためには、強くなくてはいけない。
腕っ節も、精神も。
父のようなボクサーを目指し、彼は練習に打ち込み、家に帰れば家事を手伝い、兄弟の面倒を見る優しい兄になった。
しかし、彼は忘れていた。
世界一強かった父も病には勝てなかったように、体と心を鍛えても勝てないものはあるのだということを。
――例えば、トラックに轢かれれば、ただでは済まないのだという事を、忘れていた。
いや、勿論忘れていたわけではなかったのだろうが、それでも目の前で一人の子どもが、トラックに轢かれそうになっていた様子を見たとき、彼は咄嗟に動いた。
動いて……、しまった。
彼は子どもを庇おうと、道路に飛び出した。
高校1年生にしてインターハイ優勝していた青華は、来年ではインターハイ、選抜大会、国体の全てで優勝できる自信もあった。
そして、アマチュアで成績を残し、いつしか父と同じプロボクサーとして世界王者になるつもりだった。
だがその夢は、下半身不随という現実に完膚なきまでに叩き壊された。
それでもせめて、その子どもが生きていれば良かっただろう。
子どもを守ろうとした青華だったが、子どもはぎりぎりで守れなかった。
精々、脳漿をぶちまけ、場合によっては肉体が四散していたかも知れなかった子どもが、いくらか見た目が綺麗なまま死んだという程度の話だった。
子どもを救えず、夢をなくし、家族を守るどころか歩くことすら出来なくなった青華は絶望した。
だが、何よりも情けなかったのは――。
『ありがとうございました。あの子があんなに綺麗に逝けたのは、貴方のおかげです』
『君のお陰で、あの子は少しだけでも、辛い思いをせずに済んだよ。本当に、ありがとう』
死んだ子どもの両親に感謝されたことだった。
『ありがとう……。あの子もきっと感謝しているわ』
――止めてくれ。
『君には、……本当に感謝しているよ』
――お願いやけん。止めてくれ。オイは守れんかったやろうもん。何も役に立ってなかろうもん。
『『本当に、ありがとう』』
――止めてくれ。本当に死にたくなるけん。
何故、悲しみに満ち溢れた表情を浮かべ、泣きはらした人間から感謝されなくてはいけないんだ。
何故こんなに、自分は情けないのか。
青華は動かなくなった脚を何度も殴りつけて、毎日のように泣いた。
強くなろうと、家族を守ろうとした。
しかし、歩くことさえ出来ず、家族も守れず、ましてや見知らぬ子どもも助けられなかった。
それは、青華の心をへし折るには十分過ぎた。
そんな青華を見かねて、友人がゲームに誘った。
指先なら動くだろう。気分転換くらいにはならないか?
そんな友人の言葉に、青華はぼんやりとした頭で頷いた。
青華はそうして、Earth of Fantasiaを始め、他にやりたいこともなかったため、なんとなく程度でやっていた。
そんな青華は、家族が自分の心が癒えることをじっと待っていてくれたことに気がついていなかった。
世界に絶望し、自暴自棄になっていた青華が、勇者として召喚されたのはそんな時期のことだった。
見知らぬ世界に飛ばされ、勇者と崇められた。
しかし、青華はそんな周りの人間達を嗤った。
歩くことも出来ない自分のどこが勇者かと。
――しかし、現代医学が匙を投げた彼の傷は、宮廷治癒術師によって容易く治された。
とは言え流石に、誰にでも容易く治せるものではなかったが、そんなことより青華にとっては怪我が治ったことだけが重要だった。
動く脚を取り戻し、そして何より希望を取り戻した青華に、過去へ戻る方法が、家族の下に帰る道が、存在しないことを告げられたのは、それから少ししてのことだった。
落とされて、這い上がって、また落とされて、それでも這い上がって、また……堕ちた。
守ろうとしたものも、掴もうとしたものも、……自分を守ってくれていたものさえも失くしたことに気付いた青華には、もはや中途半端で宙ぶらりんな形で残った強さしか残されていなかった。
――だから、強くなるしかない。残されたものはそれしかないのだから。
それを……、強さを、磨くしかないのだから。
「強くなるしかなかろうがッ!!」
青華は怒鳴り声とともに立ち上がった。
だが、その目の焦点は合っていない。
杉原もまた、ふらつきながらも立ち上がるがどこかぼんやりした表情だった。
(……今の光景は、洲岡の過去か?)
回らない頭で杉原は思考した。
自分の中に他人の記憶が流れ込み、混在している。
頭が割れそうに痛い。
だが、それは青華も同じであるらしかった。
「クソ!! クソ!! こんなところで負けてられるか!! 家族も守れん!! 目の前の子どもも守れん!! やったら、せめて強くならんと親父に顔向けできんやろうもんッ!!」
青華は焦点の合わない視点で虚空を見つめながら、振り回される拳で空を切り裂いていた。
二人とも異常な様子だった。
「……冬木さん。アレは一体!?」
「鏡感覚が過度に進みましたか。不味いですねえ。魔力とは同じものでありながら、水と油のように他者と他者の魔力が混じりあうことはない、そのことは知っていますね」
「……ええ、まあそれはね」
複数名で同時に行う巨大魔法もあるが、それは魔力そのものを混ぜるわけではなく、各々の魔法の組み合わせによる結果だからできるものなのである。
単に魔力を混ぜればいいというものではない。
他人の魔力を借りることが出来るというなら、杉原はとっくにそうしている。
「魔法崩し(マジックディスターブ)とは、相手の水の入ったボトルに油を流し込み、相手の魔力操作を阻害するようなものです。そして、魔力を同調させることで相手の感情と共感することは、ボトルを振り続けるようなものです」
「一時的には多少は混ざる、ってことなのかなー?」
「そうです。だから短時間装甲を剥ぎ取るか、単発の魔法を打ち消すことしか出来ません。お互いの感情を混ぜあうほどのことは、早々出来ないんです。ひとみさんにやったように、それだけに集中すれば別ですが、戦闘中には出来ません」
「でも、今の杉原達はかなり混ざり合っているわよね?」
有栖の問いに冬木は頷く。
そしてマジックバッグから杖を取り出した。
「はい。水と油はそのままでは混ざりませんが、混ぜることが出来る薬品があります。――界面活性剤というものです。界面活性剤は、水と油を白濁させ均一にします。そして分離を防ぐことが出来るんです。乳化と呼ばれる働きですね」
「――要は、今お兄さんたちの魔力は乳化してるってこと?」
「あくまで例え、ですけどね。鏡感覚は魔力を通して感覚や感情を伝え合うことが出来るだけです。相手の魔力を使うことは出来ません。ただ、この場合の問題は杉原の意識が一瞬飛んだことで、鏡感覚が過敏になり過ぎていることです」
「……それ、そのくらいまずいんだよー?」
「まあ、生死に関わる問題でもないですが、下手すると互いの感覚や感情が混ざることで変質し、……多少の記憶喪失や神経への異常がおきかねません」
「ちょっ!? 冬木さん、アンタそんなもの気軽に教えたの!?」
「杉原にはそのことも話していますよ。彼も了承しています。デメリットもあるので、強者相手への手札の一つにしかならないんですけれど、覚えておいて損はありませんし」
「そうは言っても……、アレはどうなのよ?」
「私としても、洲岡があそこで引き下がらないのは想定外でしたね。それほどまでに強さに拘りますか。……まあ仕方ありません。危険だと判断したら止めますよ。場合によっては有栖さんの糸も借ります」
冬木は杖を振り回しながら答えた。
有栖は首肯し、指先で糸を編んだ。
ひとみも目を見開き、杉原達の様子を見つめた。
「ふんッ!!」
先に意識を取り戻したのは杉原だった。
思い切り青華を蹴飛ばした。
何の捻りもない前蹴りだったが、意識の飛びかけていた青華は避けきれず、思い切り喰らってしまった。
防御も何もない姿勢で攻撃を受けた青華は弾き飛ばされ、木に叩きつけられた。
その衝撃で青華のキャップが吹き飛ぶ。
しかし、そのことで青華の意識もまた覚醒した。
「オラッ!!」
木にもたれ掛かる青華に、杉原は左手のエンジェルの銃剣を振り下ろした。
しかし、青華は右手で杉原の左腕を弾き、エンジェルを弾き飛ばし、カウンターで左ボディを放つ。
「シュッ!!」
「がふッ!?」
杉原の右わき腹に青華の拳が突き刺さり、杉原は苦悶の表情を浮かべた。
しかし、杉原もそのままでは終われない。
勝る体格を活かし、無理矢理青華を木に押し付け、動きを封じ、相手の拳を押さえた。
そして、その上で。
「フン!!」
思い切り頭突き(ヘッドバット)をかました。
両者の頭から血が舞い散った。
「痛ッ!!」
今度は青華が苦痛に顔をゆがめた。
そして、杉原は更に追撃した。
「オラ!! オラァ!! オラァアッ!!」
連続三回、杉原は頭を振り下ろした。
額が切れ、血が流れた。
頭をぶつけ合い、二人とも足の力が抜ける。
杉原はぐらりと後ろに倒れこみそうになり、青華は木にもたれかけたままずるずると腰が落ちる。
(オイは……、こんまんま負けっとか? こんまま? ……何もかもなくして、中途半端に鍛えた強さも役にたたんで?)
「ふざくんなッ!! 強くなるち、約束したんぞ!! 誰も守れんで、挙句の果てに……こげなところで負けてられるか!!」
そして青華は血まみれの右拳を握り固める。
それだけで激痛が走り、その痛みは杉原にも伝わり、飛びかけた意識を呼び覚ました。
(いってぇ。クソが!! ……痛い? そうか、しまった。鏡感覚が強くなりすぎた!!)
そのことに気付いた杉原の眼前に赤い拳が飛んできた。
青華の右手首をつかみ、攻撃を防ぐ。
同時に、その状態で、
「鏡感覚解除!!」
混じりあっていた魔力を分離させた。
鏡感覚は相手に触れて発動、解除する。だから殴られたときに発動したのである。解除もまた然りである。
そして杉原の右拳の痛みが消える。
(うし!!)
そして躊躇いなく右拳で青華の頬を打ち抜く。
「がッ!?」
青華の頭がピンボールのように後方にはじけた。
しかし、まだ青華の目は死んでいない。
青華も左拳で打ち返した。
「オラァ!!」
「シィッ!!」
そこからはお互いに足を肩幅に広げ、踏ん張った姿勢、いわゆるアストライドポジションをとり、殴りあった。
体格では杉原、技術は青華が遥かに上だ。
しかし、青華の利き腕である右手は、拳を握ることもままならないほどに傷んでしまった。
その結果、徐々に杉原が押していった。
「クソ!! クソ!! クッソがあああ!! オイはこげなとこで負けられん!! 誰よりも、誰よりも強くならないかんッたい!!」
青華の左ボディが再度杉原のわき腹を打つ。
ミシミシといやな音が骨を通して杉原の耳に届く。
杉原はそれでも負けじと打ち返した。
「――じゃあ強くなってどうすんだよ!!」
――ごきッ!! という鈍い音がした。
杉原の拳が青華の鼻を潰したのだ。
青華の鼻からちがぼたぼたと垂れる。
それでも青華は打ち返す。
そして杉原も打ち返した。
「強くなって、誰よりも強くなって、――ぐふっ!! 親父との約束ば守るっタイ!! もう、そんくらいの約束くらいしか、守るもんがなかったい!!」
「そこに意味なんてねえだろうが!! 強くなっても――ゴフ!! この時代にはボクシングの試合なんてねえ!! 家族もいねえ!! お前はどうしたらいいのか分かんねえんだろ!? ――要は周りに八つ当たりしてるだけなんだろうが!!」
「違う!! オイは強くなって――」
「お前だけ強くなってもッ!! しょうがねえだろうが!!」
お互いに怒鳴りあいながら、殴りつけあう。
我武者羅に、言いたいことを言い合いながら、殴りあう。
二人とも、最早装甲の維持すら出来ていなかった。
「守るもんも何もねえ!! どうしたらいいか分かんなくなって、とりあえず強そうなやつに喧嘩吹っかけて何も考えずにいたいだけなんだろうが!! テメエは!!」
「知ったような口ば利くな!! オイの過去ば見た程度で!! お前にオイの何が分かるとか!!」
「ハア!? 知らねえよバァカ!! テメエの気持ちなんざ分かんねえけどよォ!! テメエが思考を放棄したのはわかんだよ!! 悲劇の主人公みたいな面してんじゃねえボケ!!」
「五月蝿い!!」
青華は杉原の顔面を打ち抜いた。
杉原は踏ん張りきれなくなり、膝ががくりと揺れた。
「――じゃあ、オイはどげんすればよかと? この何もかもなくなった世界で」
「……知るか。お前が自分で考えろよ。自分の脳みそくらい使えよ。頭蓋骨の中に、馬糞つめてるワケじゃねえんだろ」
吐き捨てるような杉原の言葉に、青華は歯を食いしばり、残った全ての魔力をつぎ込んで、ぼろぼろの右拳を無理矢理握り固めた。
(――やっべぇ、装甲無しでこれは死ぬ)
ぼんやりした頭で杉原はそう考えた。
魔力を纏った拳が杉原の頭蓋骨を打ち砕いた。
――かに見えた。
「「「止まれ」」」
そんな言葉と共に、冬木が杖で青華の拳を受け止め、有栖が糸で青華の体を拘束し、ひとみが杉原の体を抱きとめ、支えた。
「師匠……、ひとみちゃん達まで」
「流石に杉原を死なせはしませんよ。私の可愛い弟子ですからね」
「そこまでよ。勇者。……私にとっては可愛くはないけど、恩人だから、コイツに死なれちゃ困るのよ」
「私はお兄さん気に入ってるから、これ以上はさせないんだよー」
そう言って、三人は杉原を守った。
杉原は一瞬呆けたような顔をしたが、やがて口の端を歪め軽薄な笑みを浮かべ、息を吐いた。
「助かったわ。この恩は忘れるまで返さないよ」
「いや、返しなさいよ。バカか」
有栖が呆れたようにそう言った。
しかし、本意で言っているわけではないことは分かっている。
有栖は嘆息し、糸を一本飛ばし杉原の眼鏡を回収した。
「はい、杉原。眼鏡」
「お、あんがと。今回は壊れなくて良かったよ」
放られた眼鏡を疲れ切った手で受け止め、かけ直した。
魔力により視力強化をすれば眼鏡は必要ないのだが、杉原は単にファッションとしてかけている。
なお、今の眼鏡はユキナから購入したものだ。以前のものとデザインは変わらず、丸眼鏡である。
そんな杉原たちの様子を青華が歯軋りしながら見つめ、やがて口を開いた。
「……杉原。何でか?」
「何でって、何が?」
「お前だって、いきなりこげなところに連れて来られて、不安は感じたっちゃろ? もとの時代に帰りたいと思ったこともあったっちゃろ? それが何で、そげん簡単にこの時代の奴らと馴染んどるとか?」
「……ああ、そうか。僕がお前の過去を見たように、お前も僕の過去を見たんだな」
互いに記憶が混ざり合い、杉原の記憶を青華も見ていた。
だから青華は知っている。
杉原が、自分の身を自分で守るために強くなろうとしていたことを。
杉原が、家族を思い出し、有栖の前で泣いていたことを。
「ああ、そうたい。お前だって来たくて来たわけではないっちゃろ? いや、なんならお前はオイ以上に被害者やろ。巻き込まれただけなんやけん。オイみたいに、ウダウダ悩んどって来たわけでも無か。お前だって、家族んところに帰ろうとは思ったっちゃろ?」
「……そりゃあな。いきなり意味分かんねえ未来に放り込まれて、自分の身は自分で守んなきゃいけなくなったんだから、そりゃそう思ったよ。今まで養われてきた末っ子の僕としちゃあ、困ったもんさ」
「なら、元の時代に戻りたいって思ったことはなかとか? 何でそげん簡単に馴染めたとか?」
「……言うほど簡単じゃなかったけどな。でも、そうだな。お前と俺の違いを強いて言うなら、――他人のことを考えたか、自分のことを考えたか、だ」
有栖もひとみも黙って、杉原の言葉に耳を傾ける。
冬木は静かに杖を青華の拳から離し、杉原を見つめていた。
杉原は軽く深呼吸して、ゆっくり息を吐き出すと、言葉を紡いだ。
「僕は、……タイムスリップして状況を把握したとき、真っ先に『やばい、下手すると死ぬ』と思った」
「……なんでか?」
「いやあ、だってそうだろ? 守ってくれる家族、社会に保証された立場、頼れる人脈、そう言うもんを全部、僕は失くした。……家族に助けて欲しいと思いこそすれ、残してきた家族を心配なんてしなかったよ。……そんな余裕はなかったしな。お前と違って僕は勇者でもなんでもないからな」
「……オイもそげん余裕があったわけではなかぞ」
「僕の方が余裕なかったよ。師匠の弟子にならないかって提案に飛びついたのは、とりあえずこの世界で生きていく力が必要だったからだ。……一回死に掛けたし、僕は結構余裕なかったんだよ」
「それは、……そうかもしれんばってん」
「でもそのお陰で余計なことは考えずに済んだから、お前と違ってまあ、家族の心配はしなかったな。あれ? よく考えるといきなり僕が失踪したから、実家じゃ騒ぎにはなってるかもな。ハハハ!!」
「――何を笑っとるとか!! 家族に心配ばかけとるとぞ!!」
「いやあ、それは僕の所為じゃねえもんよ。ねえ師匠」
「ええ、全くです」
話を振られた冬木は笑ってそう答えた。
中々に太い神経である。
ただ、杉原がこの世界に来たことに冬木は関わっているが、悪意があったわけではないことを杉原は理解している。
むしろ、師匠としてよくやってくれているものだと思っている。
そのため、そんな冬木に杉原もまた苦笑で返した。
「まあそこらへんはいいけどさ。……確かに家族に心配はかけてるだろうさ。出来ることなら今も元気にやってるよって、皆に言いたいさ。戻れるなら元の時代に今でも戻りてえよ」
「そいなら……」
「でもそれは無理だ。未来には来れても、過去には戻れない。それがこの世界のルールだからな」
「……チッ!!」
その言葉に青華は舌打ちした。
彼も考えたのだ。
どうにかして過去に変えれないかと。そうして出た結論は、戻れないの一言だった。
受け入れたくない結論など、そう耳にしたいものではない。
「……でもさ、洲岡。じゃあ残された家族はずっとそのことを引き摺って生きていくのか?」
「……は?」
「だってそうだろ? 皆、暫く落ち込むかもしれねえ。悲しくなってるかもしれない。でも、いつか立ち上がってくれるんじゃないか? ……少なくとも、僕は僕の家族はそんなに心配してない」
「……本気で言いよっとか?」
「ああ、本気さ。ウチの家族なら『まあ、どっかで生きてんだろ』とか言って、すぐに立ち直るんじゃないかとすら思ってる。……確かに僕達はもう家族に会えない。二度と。それは死と同じようなものかもしれない」
「ああ、……そうやな」
「でも、同じじゃない。僕も家族も死んでねえ。離れ離れになっただけだ。だから僕は信じてる。あいつらが今でも笑って生きてることをな。……で、お前は?」
「お前はって……、何がか?」
「お前は家族をどう思ってるんだ?」
「どうって、そりゃ……」
言われて青華は思い返した。
母と、妹と弟を。
母は家族を支えようと、遅くまで働いていた。
妹はまだまだ子どもっぽくて、弟は気が弱くて……。
(本当に、そげん(そんなもん)やったか?)
ふと、青華の脳にそんな問いが浮かんだ。
ゆっくりと、止まっていた洲岡の思考が加速し始めた。
そして段々と家族の姿を思い出す。
『――ご飯できたよ!! お兄ちゃん!!』
そう言えば、夕華は忙しい母や練習の多い自分の代わりに料理や家事をしていなかったか?
『腹減ったわー。姉ちゃんありがとう!! 兄ちゃんも飯食おうぜ!!』
一青はいつの間にか背が高くなっていた。
この時代に来る前、つまり青華が高校二年のとき一青は中学二年だったが、その当時既に身長が170センチ半ばの青華に届きかけていた。
今ではもっと伸びているかもしれない。
『あら、美味しそうね。さあさ、お義父さんもどうぞ』
『ああ、これは美味しそうだ。夕華ちゃんか料理上手だね』
母は忙しかったが、代わりに時折祖父が見に来てくれていた。祖父もまた早くに妻を亡くし、男手一つで青之を育てていた。
子育てには慣れているだろう。
家を支える大人は、母だけではなくなっていた。
『おいで、ご飯にしようよ』
笑顔でそう言う家族の姿を、青華は思い出した。
そして何より、父と交わした約束は――。
『皆が立ち直って、一人で立派に立てるようになるまで』
そう、何も永遠に家族を支えなくてはならないわけではなかったのだ。
いつまでも家族を守らねばならないわけではなかったのだ。
人は成長する。
守らなくてはいけないと思っていた相手が、いつの間にか大きく成長している。
「……そうか、何で気付かんかったちゃろうな。皆、……皆、立派になっとったとに」
「ま、気が急いてりゃ仕方ねえさ。で、お前どうすんの?」
「は?」
杉原の問いに青華はいよいよ意味が分からないと言った調子で答えた。
肩をすくめ、杉原は軽い調子で応えた。
「お前、家族守れなくなった代わりに、父親と約束した強くなるってことのためだけに師匠に喧嘩売ってきたんだろ? でも、これ以上やる必要あんの? ……これ以上、お前が肩肘張る必要あんの?」
「……ああ、そうやな」
「ま、お前がこれからどうすんのかは知らん。質問には応えたが上から目線でアドバイスする気もねえよ。……前にそれで痛い目見たんでな。自分で決めろ。お前これからどーすんの?」
杉原は軽薄な笑みを浮かべてそう尋ねた。
青華は一度空を仰いで呟いた。
「……お父さん。もう、約束は十分守ったよな」
そして、やがて俯いてその体を震わせた。
「……?」
その様子を有栖が不審に思ったが、その解答はすぐに得られた。
「ククッ!! ハハハ、アハハハハハ!!」
青華は大きく体を仰け反らせて、それこそ有栖の糸がなければ倒れこんでいたほどの勢いで、体を仰け反らせて笑い始めた。
「な、何がおかしいんだよー?」
困惑した表情で、ひとみが尋ねた。
青華はひとしきり笑うと、軽く息を吐き、
「さあ、知―らね」
軽くそう言い放った。
その表情は憑き物が落ちたようにすっきりしていた。
「……迷惑ばかけたな。杉原、冬木さんも。嬢ちゃん達もな」
「そうか、もういいか」
「ああ」
青華は優しい笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。お陰で立ち直ったバイ」
「礼を言うなら家族に言え。僕らじゃねえ」
「……ああ、そうやな」
青華を見ていた冬木もひとみも、小さく微笑み、有栖も満更でもない表情だった。
その瞬間のことだった。
――メキメキ。
という音が聞こえた。
杉原はその音に聞き覚えがあった。
これは――。
(これは、タイムスリップしたとき、黒い穴が開いたときと同じ音――!?)
そして、周囲の空間が歪みだした。
冬木が額に冷や汗を浮かべた。
自らの師がそれほどまでに慌てている様子を、杉原は始めて目にした。
「師匠!! これは一体!?」
「全員一塊になって!! 離れないでください!! そんなッ!! 何故このタイミングで、この場所で――」
一際大きな音が響き、空間そのものが変質していく。
「何故、迷宮化するんですかッ!?」
杉原は冬木の言葉が理解できなかった。
当然だ。
世界は人間に合わせてはくれない。
これはまだ出来事の始まりに過ぎないのだと、このときの杉原達は知らなかった。
番外編を挟んで次回から新章突入します。




