閑話 杉原千華と犬とおばあさんと。
これは杉原千華がタイムスリップに巻き込まれる7年前、つまりは杉原がまだ10歳の子どもだったころの話だ。
「あー、捨て犬だー!」
杉原が友人達と学校から帰っている際、友人の一人が帰り道で一匹の茶色い子犬を見つけた。流石に段ボールには入っていなかったが、餌が入っていたと思しきトレイが近くに転がっている。元の飼い主が捨てる際に置いていったらしく、薄汚れていた。
「えー! かわいそうだよ!! 誰か飼ってよ!!」
「でも家は飼えないもん」
「えー。私も。でもかわいそうだよね」
「俺も無理!」
周りの友人達は口を揃えて、犬に同情を示すが誰も面倒を見るとは言わなかった。その光景をぼんやり見ていた杉原は躊躇いなく言い放った。
「じゃあ、誰も助けないんだね」
特にいつもと変わらないような表情で、杉原は淡々とした様子だった。
棘のある杉原の言葉に周りの友人達は声を荒げて反論した。
「なによ!! しょうがないじゃん!! お母さんがペット飼えないって言うんだもん!!」
「そうだよ!! うちのアパートペット飼えないもん!!」
「でも結局は助けないんだね」
友人達の反論を杉原は切って捨てた。
冷たく返された言葉に、全員が押し黙った。
だが、そのあと一人がまた口を開いた。
「だったら、杉原君が飼ってあげてよ!!」
「……してあげるって言い方は好きじゃないんだけどなあ」
とだけ言うと、杉原はそのままスタスタと犬に歩み寄り、傍まで行くとしゃがんで犬の目を見つめた。その犬も見つめ返し、二人はしばらく見つめ合っていたが、やがて杉原はその犬に手を差し伸べた。差し伸べられた手を、その犬は少し匂いを嗅ぐと、ぺろぺろと舐めた。
優しそうな雰囲気の、可愛らしい子犬だった。
「うん。良い子、良い子」
そして杉原は頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いいよ。僕が何とかするよ」
そう言って杉原は犬を抱きかかえ、再度歩き出した。
周りの友人達はしばらくぽかんとしていたが、すぐに杉原を追い、駆け出した。
「で、連れて帰ってきたの?」
「……うん」
帰宅した杉原は、母に事情を説明した。
二人は縁側に座り、杉原は犬を膝の上に乗せていた。
「なんで千華は、その子を連れ帰ろうと思ったの?」
「……んーとね。大人しそうな子だし、軽く撫でてみたら人懐っこい性格してたし、飼えるかなって」
「それだけ、じゃないよね?」
「……かわいそう、って言うだけで何もしないのは嫌だったし」
「……そう」
母は、杉原の言葉を聞いて少し考え込んだ。そしてややあって口を開いた。
「千華。あなたのその優しさと行動力はいいことよ。でも考えなさい。あなたは本当にその子を助けることはできるの?」
「……え?」
杉原は母親の言葉に戸惑った。首を傾げて口を閉じた。
「だってそうでしょ? この子の餌を買うのは私とお父さんよ。あなたは一銭たりともお金を稼ぐことは出来ていないのだし。つまりその子の食うものを用意するのは私達。その子はこの家に住むけど、この家を買ったのは私とお父さん。そしてそのほか、その子のために必要な諸経費も全額私達の懐から出るわ」
「……そうだけど。お母さんはこの子を助けたくないの?」
「助けれるなら助けたいわ。少なくともこのまま野垂れ死にさせるのは私だって嫌よ。私が言いたいことはね、千華。たった犬の一匹を助けるだけでもお金が居る。手間も掛かる。そう簡単には何かを助けることは出来ない」
「……それは、そうだけど」
「ねえ、千華。私やお父さんがその犬を助けることに反対することは考えなかった?」
「……考えたよ」
犬を抱きしめながら、声を絞り出すようにして杉原は答えた。
犬は杉原の手をぺろぺろと優しく舐めた。
「じゃあ、そのときはどうする気だったの?」
「……学校で先生に頼んで飼ってもらえる人を探すように言って貰おうかなって、思ってた」
「そうね。それも一つの手ね。でも飼い主が見つかるまではどうするつもりだったの?」
「……どこかでこっそり飼おうかなって」
「ええ。それも一時しのぎにはなるわよ。でも、結局のところ一時しのぎよね。それこそ飼ってくれる人が居るかどうかだしね。一時しのぎの、その場しのぎじゃ意味がないでしょ。結局のところ、あなたは誰かの力を借りなくては犬一匹助けられないのよ」
「そう、だけど。そうだけど!!」
「……そうだけど、何?」
「……この子を僕は助けたいって思ったんだ。可愛くて、ふわふわしてて、人懐っこくて、この子と散歩したり、遊んだりしたくて、だから助けたいなって、……思ったんだ」
そう言って、杉原は俯いた。
助けようと思っても、自分には何も出来ない。
結局のところ、自分もまた哀れみながら手を差し伸べない周りの連中と変わりはないのだと、思い知らされた。
助けられないことも、助けないことも結果は変わらないのだ。
過程が大事なこともあるだろう。経過を重視することもあるだろう。
だが、結果が伴わなくては意味のないことも世の中には存在するのだ。
母はそういうことが言いたいのだと、杉原は察していた。
「そっか。じゃあ、それはとてもとてもいいことよ」
母はそう言うと、杉原の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「……何が?」
杉原には母の言うことがさっぱり分からなかった。
母の言いたいことは察しているつもりだったが、今の言葉の意味は全く分からなかった。
困惑する杉原に母は優しく告げた。
「目の前に困っている人間や、人間じゃなくても困っている何かが居たら、自分にその相手を助けることは可能なのかどうかを考えなさい。そして、本当に助けたい相手なのか考えなさい。誰かのためとか、皆のためとか、そう言うよく分かんないもののために頑張る意味なんてないのよ。誰かなんて言っても誰のことかわかんないし。皆って言ったって、どんな連中を指しているのか分からないもの」
「……」
「結果的には誰かのためになるのはいいことだけど。でも頑張る理由は、自分が満足できるような理由にしておきなさい。そうじゃないと、本当に頑張らないといけないときに、躓くからね。そして頑張る意味があるなら最後の最後まで頑張りなさい。手を差し伸べるなら、差し伸べる責任を忘れないで」
「……そっか。わかった。そうだね。僕は、今抱きしめているこの子を、この子だから助けたいんだ。ねえ、お母さん。……この子、飼ってもいいの?」
「ええ。いいわよ。ただし、散歩、餌やり、この子のお風呂なんかはあなたが面倒を見るのよ」
「うん! 分かった!! ありがとう!! ……でもお母さんはいいの?」
「は? 何が?」
「だって、この子飼ったらお金が一杯掛かるんでしょ?」
「ああ、そのことね。いいわよ、そんなの。ねえ、千華。あなたにもう一つ教えておくわ」
「なあに?」
「あなたに達成したい目標があり、十分な利益があるなら、使えるものは何でも使いなさい。親でも友達でも教師でも。それくらいしないと、叶えたいことも叶えられないわよ。もちろん利用しまくれって話じゃないけどね」
「うん。分かった」
そして、その日から杉原家には家族が増えることになった。
「ほい。チワワ。ご飯」
高校三年生になっても、杉原は毎朝愛犬の散歩をすませた後、餌を用意していた。
リビングルームで餌を差し出された愛犬は、勢いよく餌を咀嚼しだした。
「相変わらずよく食べるね、お前は」
「いやあ、私としてはそんなことよりあんたのネーミングセンスが未だに分かんないわよ」
杉原にそう声をかけたのは母だった。その隣では父が朝食を取っていた。兄弟のうち、長男と長女は家を出ており、次女は今日の大学の講義が昼からであるため暢気に寝たままである。
「なんで中型の雑種犬の名前がチワワなのよ。ややこしいじゃない」
「ややこしいからつけたんだよ。面白いでしょ? この名前をつけた小さいときの僕のセンス、嫌いじゃないね」
そう言いながら杉原は愛犬を撫で回した。
チワワという名前は拾ってきたあの日、杉原が名付けた。それはどうなんだという意見ももちろん出たが、拾ってきた杉原の希望に合わせることになったのだ。
チワワは気にすることなく餌をさっさと食べつくし、口元をぺロリと舐めた。
「さて、じゃあ僕は学校に行くよ。母さん、父さん、行ってきます」
「はーい。行ってらっしゃい」
「……ああ、気をつけてな」
そして杉原はもう一度チワワの頭を撫で、家を出ると自転車に跨り学校に向かった。
そしてしばらく自転車を漕いでいると、道路沿いの特に何もないところで、一人の老人が座り込んでいることに杉原は気付いた。
六十代半ばの女性のようだ。
(どうしたんだろ? よく分かんないけど、声をかけたほうがいいのかなあ。でも下手すると遅刻するし。……ああ、やだなあ。仕方ないなあ)
杉原は嘆息すると、その女性に話しかけた。
「おはようございます。どうされたんですか?」
「え? ああ、おはようございます。大したことではありませんよ」
「そうですか? ……ああ! 杖が折れてしまったんですか」
そこで杉原はその女性の持つ杖が折れていることに気付いた。
その所為で歩けなくなってしまったようだ。
「ああ、気付かれましたか。……実は今日は孫の誕生日でして。朝から孫の好物を作る準備をしようと知り合いの農家のところに向かっていたのですが、杖が折れてしまいまして。元々足がよくないので困っていたんですよ」
「そうですか。お孫さんのために。……お孫さんはどういう子なんですか?」
「……優しくて、穏やかな女の子ですよ。可愛くて、可愛くて仕方ないんですよ」
そう言う女性の顔は、本当に優しい笑顔だった。
それだけ孫のことが好きなんだろうと、杉原は感じた。
「……よし!」
「どうされました?」
「おばあさん。その農家の知り合いの方の家って、ここから近いですか? よければ自転車……は、まずいですか。二人乗りしてもバランス崩しかねないし。おぶって行きますよ」
「え!? そんな悪いですよ!」
「いえいえ、悪いことはありませんよ。ただそのかわりに一ついいですか?」
「……なんでしょう?」
首を傾げる女性に杉原は笑顔で言った。
「お孫さんの誕生日、素敵な日にしてあげてくださいね」
それだけで、杉原にとってその女性を助ける理由は十分にあった。
そしてこの日、杉原はタイムスリップに巻き込まれた。
杉原千華に取って助けることとは、考えることであり、覚悟することだ。
自分には、本当にその相手を助けることが出来るのか。
自分には、本当にその相手を助ける意味が自分にあるのか。
そして、もし助けるなら一時しのぎでなく、その場しのぎでなく、最後の最後まで助けきる。
杉原千華は今も昔もそう考えている。




