ジャンク・エンジェル
この作品はフィクションです。一部に実在する人物名・組織名が登場しますが、それらに対する作者の賛意や批判は一切ありません。
憂鬱な気分を引きずったまま、佐藤悠美は長崎駅に降りた。彼氏で警察官の金田祐介は長崎県警として働いてるが、ここで彼と会える機会はなかった。仕事の都合で金田は佐藤と連絡の取れない環境にいたからだ。
佐藤は佐世保市に住んでおり、長崎市にいる金田とは遠距離恋愛をしているように思っていたが、友人の杉野麻耶からは「近いやん」と言われていた。
アーケード街に到着した佐藤は、歩いていると目に入るカップルたちを見て、妬ましい気分になった。休日の昼間なので、カップルが多かった。
佐藤が長崎市にやって来たのは、友人の凪寛貴に呼ばれたからだった。凪は金田の大学の頃の先輩で、経済学に精通していた男だ。株式市場や為替市場でその知識を活かし、大金を稼いでいた。その一方で女にだらしなく、稼いだ金の一部をキャバ嬢の機嫌取りに使っていた。
六本木の夜を楽しんでいると思っていたそんな男から、佐藤が連絡を受け取ったのは一昨日だった。それは「明後日長崎市に来い」という短いメールだった。
一昨日家のベッドで横になり、ポテトチップスを貪りながら、そのメールを見た佐藤はあまりいい予感を抱かなかった。友人とはいえ、人を不快にすることの天才。凪とはそんな男だからだ。佐藤自身、これまで自分の体型を凪からネタにされ、「飛べないただの豚」と言われたり、金谷との関係を「美男と野獣」と揶揄されていた。
ただ、凪はごく稀に優しい一面を持っていると、佐藤は思っていた。
半年前
その夜、佐藤は友人たちと遊び終わった後、友人の一人の飯田和哉と弁当屋の「モットーはホット」で注文を椅子に座りながら待っていた。客は佐藤と飯田しか居なかったが、店内の奥にある狭い厨房ではメガネをかけた男性店員が、素早く体を動かしながら調理をしていた。
厨房の手前にあるカウンターでは制帽に隠れきれていない茶色い後ろ髪を結んだ、容姿が綺麗な女性店員が出来たての弁当をビニール袋に入れていた。彼女が袋に入れている弁当は佐藤と飯田が注文したカツ丼ではなく、唐揚げ弁当だった。
佐藤がスマフォに入った金谷の画像を見ていると、来客を伝えるコール音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ」女性店員が言った。入店した客の顔を見た彼女の顔は笑顔だった。
「あ、凪さん!」佐藤が言った。凪は佐藤を見て、言った。
「へい、ブウ美・・・あ、間違った!悠美じゃねーか」
「佐藤、この人知り合い?」飯田が聞いた。飯田を凪は訝った目で見て、言った。
「あん?誰だテメェ?佐藤、こいつ浮気相手?」
「違います!友達です!」
「友達ねー。まあ、いいや。もし佐藤に手出したら、銃持って、テメェ探して撃ち殺してやるからな!わかったか!?何とか言ってみろ!」
凪の表情は凶器に満ちていた。そんな彼を恐れてたのか、飯田は佐藤に「く、車で待ってるよ」と言って、店から出て行った。
「あーあー、怖がって逃げちゃった」女性店員が言った。「でも凪くんダメだよ、ホントに殺しちゃ!」
「いやー、工藤さん、ホントに殺るわけないやろ。そんなことしたら、可愛い工藤さんとは面会でしか会えなくなるじゃん」
女性店員は工藤里佳という名前だった。
「え?やだよ、面会なんて。刑務所怖いもん」
「それなら、なおさら罪を犯すわけにはいかんなー。俺、明日から信号もちゃんと守るよ!」
笑い合い、親しく話す2人の関係を佐藤は気になったが、その様子のせいで金田といた楽しい頃を思い出した。今は感じることのできない日々。淋しさが心を支配し、佐藤は顔を下に向けた。
「どうした、佐藤?腹痛いのか?またノロウイルスに感染したのか!?ギャーーー!」
デリカシーなど持ち合わせていない凪の声に、涙声が混じりながら佐藤は答えた。
「違います!」
その声に凪と工藤は顔を向け合った。凪は佐藤に視線を戻し、言った。
「あー、金田に会えなくて悲しいのかー。あいつ今長崎市だもんなー」
佐藤に寂しさを助長させることばかりが、凪の声から出てきた。
「でもな、佐藤。金田はお前にそんな思いで日々を過ごしててほしいのかな?多分楽しく過ごしてほしいって、あいつは思ってるよ」
普段は人を不快にさせることしか能のない凪の声から、珍しく出てきたセリフだと、佐藤は思った。
「まあいいや。お前が寂しかったら、俺が笑わしてやるよ。もちろん、金田の代わりになる気なんて毛頭ねえし、つーか絶対嫌だね。でもお前の寂しさを紛らわせるぐらいのことならできるから、そんぐらいなら、してやるよ」
佐藤は凪に優しさを感じた。稀に感じることのあるものだったが、今日それを感じるとは思っていなかった。
「優しいんだね」工藤が言った。凪は工藤の方へ顔を向けて、言った。
「こいつとこいつの彼氏、めっちゃおもろいからね。それぐらいやる価値はあるんだよね」
「何だかんだでいい人じゃん。はい、これ唐揚げ弁当。480円です」
凪はポケットから財布を取り出しながら言った。
「ああ、ところでさ、工藤さん。今度映画行かね?めっちゃ面白い作品があるんだよね。『パラノーマル・アクティビティ 呪いの印』ってやつ」
「ええー!あれ怖いやつじゃん!」
凪と工藤のやり取りを横で聞いていた佐藤は、凪さん今日優しいのは綺麗な店員さんがいるからなんじゃ、と思った。
現在
佐藤はアーケード街を歩きながら、今日の凪が優しさを出してくれることを願った。半年前に凪が寂しさを紛らわせることを誓いながらも一昨日まで一切佐藤に連絡を寄越さなかったので、その願いは望むだけ無駄かもしれなかったが。
佐藤は歩いてると、20人程度の人が公園に集まっている光景を見た。そこから早いリズムを奏でる低く重い轟音が流れていて、佐藤に聞き覚えのあるデスヴォイスを出す人物がいた。
凪は歌唱法としてデスヴォイスやシャウトを用いる歌手グループの音楽が好きだった。マキシマムザホルモン、ARCH ENEMY、LINKIN PARK、これらのグループが凪のiPodを支配していた。
「POLICE!私とあんたのウォール!DRUG!私とあんたのウォール!4 APRIL is US GOAL!」
デスヴォイスを出しながら、リズムに合わせるように凪は手や足を激しく動かしていた。佐藤には凪が何と言っているのか、完璧には聞き取れなかったが、自分と金田のことを歌っていることは認識できた。“POLICE”は金田の職業。“DRUG”はおそらく佐藤のバイト先のドラッグストアを表現しているのだろう。“4 APRIL”は金田と佐藤が付き合い始めた日だ。同じ日に日銀が「異次元の金融緩和」を実施していたので凪がよく覚えていることを佐藤は思い出した。
歌いながら佐藤に気づいた凪は彼女にウィンクしながら近づいていった。
「やめてよ・・・」と佐藤は小さく言った。周りにいる観衆は興奮していた。
「やめなさいよ!」次に佐藤は叫んだが、凪のデスヴォイスと激しい音楽でできた嵐にその声は吹き飛ばされた。なんであんたは人の傷をえぐることすんのよ!?怒りに燃えた佐藤の目が凪の目と合った。凪の口が右上に緩んだ。軽蔑する笑い。佐藤は凪から軽蔑を込めた笑い方を教えられていたから、すぐに彼の表情から心情を読み取れた。何なのよこの男は!?
「皆!」凪は佐藤の左腕をつかみ上げながら言った。「彼女が悠美!この歌を作詞作曲してくれたんだ!」嘘であることは佐藤が1番わかっていた。だが、観衆はその嘘を信じ、歓声を上げた。その歓声が新たな観衆を呼んだが、その中には白い車両から降りた3人組も混じっていた。その姿を確認したバンドのメンバーは凪を除いて全員が楽器を投げ捨て、逃げていった。
「WE WILL BE PIG!」
凪は歌い続けた。
「あんたはクズよ!」佐藤が言った。
「I AM JUNK!」
「ねえ、あれ警察じゃない?」
観衆の一人の声からその場にすべての観衆の興奮の声は消え失せた。だが、凪は歌い続けていた。佐藤を左腕をつかみながら。
3人の警察官が観客をかき分けながら凪と佐藤に近づいてきた。
「その手を離せ!」1人の警察官が言った。帽子を深くかぶっていた彼の声は落ち着いていた。
「嫌だと言ったら?」凪が答えた。警察官を馬鹿にしているような表情をしていた。
「公務執行妨害で逮捕する」
「やってみろよ」
「なら望み通りにしてやる」
擦れた金属音と共に、手錠のせいで凪の右手首は冷たさを感じた。目の前の出来事に佐藤は困惑した。
「あらら、ホントに逮捕しやがった」と言った凪を、他の2人の警察官がパトカーへと引っ張っていった。佐藤はパトカーへ向かう凪の背中を黙って見つめていた。
「佐藤!」凪が言った。パトカーの方へ向かっていた凪の後頭部から手錠をはめられた両手首が姿を現した。佐藤はその時、凪の右手の親指が上がっているのを見た。何がグーなのよ?
「大丈夫ですか?」凪に手錠をかけた警官が佐藤に言った。
「は、はい」と答えた佐藤にはその声に聞き覚えがあった。その声は8ヶ月前まで一緒に暮らしていた男の声だった。その声はずっと会いたかった男の声だった。その声は金田祐介の声だった。佐藤はすぐにその警官の顔を見た。彼の顔を見たかった。顔も金田祐介だった。
「え・・・これ・・・どういうこと!?」
「大丈夫そうですね。よかった、安心したよ」
金田は佐藤に敬礼しながら、優しい笑顔を浮かべ、パトカーの方へ歩いて行った。佐藤も彼に笑顔を向けた。佐藤は目を金田から凪へと移した。凪は彼に手を振るキャバ嬢のような服装をした女性2人に笑って両手の親指を立てながら、2人の警官にパトカーの後部座席へと押し込まれていた。
「凪さん・・・もしかして、私のためにあんなことを?」
佐藤の脳内にこれまでに見たことが再生された。半年前に「モットーはほっと」で店員を口説いていた凪。一昨日届いた凪からのメール。無許可の路上ライブを行っていた凪。軽蔑の思いを込めているように見えた凪の笑。だが、よく見れば彼の瞳には金田の姿が映っていた。凪の親指。
全て私のために?佐藤は凪が様々な作戦や計画を練られる達人だということを思い出した。だけど、私のために逮捕までされるなんて・・・何でそこまで?
「最低な奴でしょ?」
隣からどこかで聞いたような女性の声が佐藤の耳に入った。佐藤がその女性を見ると、見覚えのある顔だった。茶色い髪を肩の辺りまで下ろしていたが、半年前に見た女性と同一人物だった。
「あなた、弁当屋の・・・確か工藤さん?」
「久しぶり。私のこと覚えたんだ」
佐藤にまた理解できない状況が出てきた。なぜ、凪が口説いていた工藤里佳がここにいるのか理解ができなかった。
「どうして工藤さん、ここにいるんですか?」
「いきなり一昨日あいつから『長崎市を観光しよう』って連れてこられたの。まさかあなたのためにここまで手の込んだショーするなんて今日の朝まで思わなかったわよ」
「どうして私のためにここまで・・・逮捕までされるなんて・・・」
「あなたのことを友達として気に入ってるからよ。あいつ、よく気に入った友達の話すんのよ。法恵とかちほみとか色んな人の話聞かされたけど、そのなかにあなたやあなたの彼氏の名前も出てたわよ」
「でも、私のためとは言え、逮捕までされるなんて・・・洒落になれませんよ!」
「優しいのよ。あいつは。最低なとこもあるけど、それと同じくらい優しさを持ってるの。天使と悪魔を心に飼ってるのかもね」
「あのー・・・工藤さんってもしかして・・・」
「じゃあね!私、あいつを迎えに警察署に行かなきゃいけないの」
工藤は佐藤に手を振りながら、その場を去って行った。
30分後
何も置かれていない机の上に黒い器に入ったカツ丼が置かれた。できたてで湯気が上がっていた。
「おつかれさまです、凪さん」と言った金田が机の上に割り箸を置いた。
「相変わらず厳つい坊主頭だな」と言って、凪は割り箸を割ってカツ丼を食べ始めた。2人がいるのは取調室で、2人以外には誰もいなかった。
「唐揚げじゃなくていいんですか?」
「昨日うまい唐揚げを食ったからな。お前らの作るクソまずい唐揚げ食うくらいなら、まだカツ丼の方がマシだよ」
「感謝してくださいよ。取調室でカツ丼食えるのは凪さんぐらいなんですから。現実はドラマとは違いますからね。これでも結構特別扱いなんですよ」
「半年間、お前の女を見守るなんて下らない仕事を押し付けられた割には小さな恩恵だな。で?俺の仕事は終わりか?」
カツ丼を食べ終えた凪は割り箸を机の上に投げ捨てた。それを金田が丁寧に丼の上に置いた。すると、部屋のドアが開き、スーツに身を包んだ年配男性が入ってきた。金田は彼を見て、すぐに敬礼をした。その一方で凪は舌打ちをしてその男を見つめていた。
「君の仕事はまだ終わってないよ」年配男性が言った。「次の仕事があるんだ。これはやり甲斐があるぞ」
凪は何も答えずに笑みを浮かべる年配男性を睨んでいた。
「そう睨むなよ。罪は償わないと。君の場合は他の犯罪者と違って償い方が特殊なだけだ」
「俺は罪なんて犯していない。さっきまでの下らない公務執行妨害以外はな」
「インサイダー取引をして、莫大な利益を出しただろう?」
「それはお前らとお前らのボスの警視庁のでっち上げだろ?警察庁だったかな?まあどっちでもいい。腐った連中にそんな大差はないからな。クズ共め」
「言ってくれるじゃないか。でも少しは優しくしてくれよ。ここには君の後輩もいるんだぞ」
凪が金田に目を向けると、金田は顔を下に向けた。その姿を凪は鼻で笑った。かつて自分が気に入っていた男が自分以上に最低な男たちの下で働いていたからだ。
「ま、次の仕事の話をしようじゃないか」年配男性が言った。「次は現在の長崎市長を辞職に追い込んでほしい。手段は君に任せるが、今回のような派手な手段は取らない方がいいぞ。今回の件ではすぐに釈放できるが、次もそうなるとは限らないからな」
「市長なんて女を使えば、いくらでもスキャンダルを出して辞職に追い込めるだろう。ああ、なるほど長崎県警に美人なんていないから、お前ら独自にはそんな作戦できないのか」
「我々は自分たちの手を汚したくないだけだよ。まあいい。仕事の内容がわかったら、さっさと取り掛かってくれ」
「断る」
予想外の凪の一言に年配男性と金田は目を合わせた。そして、金田はズボンのポケットに手を入れて、何かを取り出そうとしていた。
「年のせいかな」年配男性が言った。「聞き間違えたな。今何と言った?」
「断る。2度も言わせるな」
「自分の立場がわかっているのか?」
「わかってるさ。インサイダー取引で逮捕・訴追したければ、やればいい。だがな俺はマーク・ザッカーバーグの弁護士を雇えるぐらいの金を持ってるんだぞ。裁判で勝つのなんて朝飯前さ」
「金田、マーク・ウォルグバーグって誰だ?」
「いえ、それは俳優の名前です。凪さんが言ってるのはマーク・ザッカーバーグです。FacebookのCEOです」
「何だそいつは?知らんな」
「娘に聞くんだな」凪が言った。「サイバー犯罪が増えてるのに、警察の上層部にいる奴がインターネット企業のCEOの名前も知らないなんて、終わってるな」
「まあいい。裁判を起こす前にもう一度我々の組織が強大であることを思い出したほうがいいぞ。我々に歯向かって、迷惑を被るのは君だけじゃないんだ。そうだよな金田」
年配男性の目を見て、金田は机の上に女性の写真を置いた。その写真を見て、凪は眉間にしわを寄せた。その写真には工藤里佳が写っていた。
「腐れ切ったクズどもめ」凪が言った。「いいだろう。仕事を受けてやるよ。だがな1つ言っておく。もしも彼女に手を出したら、お前ら長生きできないぞ」
目の前にいる2人に対して殺意を抱いた凪だったが、「殺す」という直接的な発言は控えた。相手が腐っても警察官だったからだ。
「中々無難な言い方だな」年配男性が言った。
「お前らだけじゃない」凪はそう言うと年配男性の目を見つめた。
「貴様の家族や」次に凪は金田の目を見つめた。「お前の大好きな悠美も同じ目に合うぞ」
「凪さん」金田が言った。「相変わらず最低ですね。でもそれでこそ凪さんだ。優しい人間なんかにあなたはなりようがない」
「お前に比べたら、マシだよ。優しい男の皮をかぶった偽善者め」
そう言って凪は立ち上がり、ドアの方に歩いて行った。ドアを開けると、凪は年配男性に尋ねた。
「ここって禁煙か?」
「ああ。なぜだ?」
「別に。金田、お前も禁煙したほういいぞ。体のためにも悠美のためにもな」
そう言ったそばから、凪はポケットからタバコを出し、ライターで火を付けた。
「おっと禁煙だったな」と凪は言うと、つけたばかりタバコを中指で弾き飛ばし、廊下に出た。弾き飛ばされたタバコはスプリンクラーにぶつかった。火を探知したスプリンクラーは機能通りの働きをして、水を噴射した。
「悪いな」凪が言った。「灰皿がなかったんで水が必要だったんだよ。じゃあな」
笑いながら立ち去った凪を水浸しにされた金田は見つめ、笑みを浮かべた。
駐車場にいた工藤里佳は署の出入口から凪が出てくるのを見ると、笑顔で彼に手を振った。こちらに歩いてくる凪も笑顔を返し、右手でピースを作っていた。凪の目尻にシワがなかった。「目尻にしわがない笑いは嘘の笑いだ」と工藤は凪から教えられていた。どうして無理やり笑顔を浮かべてるの、と工藤は思ったが、敢えて気づかないフリをした。ピースをしている凪と手を振っている工藤の距離が徐々に縮まっていった。