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願い菓子~cafe and bar , gift~

お誘いはお手やわらかに~おまけにドーナツもう一個~

作者: 高城 結衣

レインドロップスの後日譚にあたります。本編を読んでくださった方も、未読の方もできるだけ読めるように書きました。

 誰かが店側の戸を叩く音で目が覚めた。

 今、いったい何時なんだろうか。窓の外はもう明るい。完全に太陽が顔を出してしまっているようだ。

 部屋に差しこむ陽光の眩しさに目を細め、天井を仰いだまま回転を始めない頭でぼんやりと考える。


 数日前から井吹古書店は臨時休業をしている。確か2日前、いや3日だったか。いずれにせよ戸の外にいる人物も、返事も無く誰も戸を開かなければじきに去るだろう。

 しかし。


 音は止まなかった。止むどころか先程に増して叩く力、回数共に大きくなっている。

 朦朧(もうろう)とする意識の中、どうにかこうにか休業の旨をつづった書面を外に向けて貼っておいたのだが、何かの拍子にはずれでもしたのだろうか。それか外の人物はよっぽど目が悪いのか。


「ったく。誰だしつこい」


 仕方なしに布団から上半身を起こす。体調は絶不調だ。ふらふらする。頭をぐらぐらと左右に揺さぶられているかのようで、こうして座っているだけでもかなりしんどい。


「まずいな、これは」


 先日、大雨の中走り回ったのが原因だ。あれやこれやとあった後、好海を沙代の元へ送り届けて帰宅後すぐのことだった。一気に張りつめていた何かが緩んだかのように、急な吐き気と体のだるさに襲われた。すぐに手洗いに駆け込み、その後は這うように部屋へ戻りふとんの中にもぐりこんだ。そこまでは記憶があるのだが、それからはまったくといって良いほど記憶が無い。かろうじて覚えているのは、休業の張り紙をしたことくらいでその文面等の記憶は皆無だ。しかし、枕元に水やら(かゆ)のようなものの残骸(ざんがい)があるところを見ると、意識朦朧の中最低限の自炊はどうにかしたのだろう。それでも腹の中に何か入っているようには感じられないので、おそらく全て吐き出してしまったのだろうが。


(まあ、あんなに濡れれば、仕様がないか)


 そして、そう考えている間も勿論戸を叩く音は止まない。

 体が重すぎるが、頭にガンガンと響くこの音もそろそろ何とかしたい。俺はふらふらと立ち上がり、部屋のあらゆる物を伝い店への通用口へと向かう。何度か机等にぶつかり、ものが落ちる音がしたが構っている余裕など微塵もなかった。具合が良くなったら片付けよう。とにかく店の本だけは落としたりしないよう注意を払えば良い。

 途中、どうしようもない寒気に襲われ、その辺にあった羽織を肩にかけ店側に降りた。


「井吹さん? いないんですかー?」


 やっとのことで戸口に立ち、外の様子をうかがうと、聞き覚えのある声が耳に届いた。というか、頭の奥の方にキンと響いて眩暈を誘発されそうだ。


「私です、私」


 声の主は、天宮だった。彼女は少し頭が足りないのではないか、と時々思う。こんな時でさえも思ってしまうからには、それはもう確信に近いのだが。「私です」ではなく名を乗れ名を。「お前は誰だ」とでも答えてやろうか。……いや、まあ。今はそんな元気はない訳で。

 いつものごとくガタガタと建てつけの悪い戸を開けやろうとするが、どうもうまく力が入らない。暫しの間格闘を続けていると、外側からも力が加わった。戸を開けてすぐ、天宮の大きな瞳とかち合う。比較的高身長の彼女とは、大した目線の差異が無い。少し悔しくもある。


「あ、いるじゃないですか! ここ何日もお店をしめるなんて何をしているんですか?」


 毎度の明るさ全開で、乗り出さんばかりにこちらに立ち向かってくれるのは良いが、今日は少しこちらの勝手が違う。できることならもう少し、否、大いに静かに話してほしい。

 でないと、眩暈が。起き上がったことで熱が上がってしまったのだろうか。視界がかすんで――――。


「……ああ」


 ため息だか相づちだか何だか、自分でも理解できない制御のきかない音声が口から洩れる。

 何やらごちゃごちゃと俺に向かって話しているようだが、天宮の言葉はほとんど俺の耳には入っていなかった。

 本当に、これはまずいかもしれない。平衡感覚が保てない。

 俺は半分だけ開けた引き戸に凭れかかった(のだと思う。カタという軽い音と古くなった木戸の香りが近くでしたような気がした)。


「私、昨日もおとといも来たんですからね!」

「悪い。天み……」

「今日こそは井吹さんの顔を見ようと思って、私……? 井吹さん?」

「天宮…………悪……い。今日は……」


 それでも、何とか彼女に迷惑をかけずに引き取ってもらおうという感情は働いているらしい。朦朧とする意識で、天宮に帰るように伝えようとしているんだろうな、俺は。しかし、言葉がなかなか続かない。


「今日は、帰えっ……て」

「ちょ、ちょっと、井吹さん? 顔色が……」


 目の前にいる天宮の不安をはらんだ声が、薄膜一枚隔てたかのように微かに、俺の耳に届いたような気がした。

――――ようやく気が付いたか。この鈍感娘。

 罵りの一言での浴びせてやりたいところだが、それは勿論かなわなかった。

 右も左も分からなくなった視界がぐらりと揺れる。一瞬のうちに体重が奪われてしまったかのように、ふっと身体から力が抜けてしまっ――――――





 再び意識が浮上したのは、自分の布団の中であった。同時に訪れたのは、(ひたい)に伝わるひやりとした感覚――凝った熱が溶かされていくようで、とても心地が良い。それに(すく)いあげられるかのように、薄靄(うすもや)の中にあった思考が現実へと引き寄せられた。

 気だるさは少々残ってい入るが、不思議と気分は楽になっている。

 ……それで、俺はいったいどうしていたんだったか。直近のことを思い出そうと試みても、何もかもがふわふわとして曖昧で、掴むことなど到底かなわずに記憶の網をすり抜けていく。まるで夢を見たあとのような、妙な感覚。覚えているのに、思い出せない、というような。

 じっとしてしばらく天井の木目を見上げていたが、ふいに視線を少しだけ窓の方にやる。太陽はもう傾き沈みかけているようだ。温かみを帯びただいだいに染まる光が、室内に入り込んできていた。


「あ。やっと起きましたね、井吹さん」


 と、突然の聞きなれた声。天宮の声。

 次第に開けてきた視界に、不安を湛えたような天宮の顔が飛び込んできた。いまだぼうっと視線だけ彷徨わせている俺の枕元に座った彼女は、目が合うなりその初めて目にした表情をいつもの見慣れた明るい笑顔に変えた。意識が回復してから――それより前からの可能性の方が高い――ずっとそこにいたのだろうか。その姿をみとめるまで、まったく気が付けなかった。

 ――――そうか。確か天宮が来てあーだこーだと文句を言われて。その途中、急に世界が揺れて、目の前が真っ暗とも真っ白とも表現し難い状況に陥ったのだったか。


「もう、急に倒れたりするからびっくりしたんですからね。で、触れてみたら凄い熱があるでしょう? 私、大慌てで――」

「……すまない」


 目覚めてすぐにまた説教か、と耳が痛くない訳ではないが、ここは素直に謝るのが先決だ。


「――大慌てで、斜向かいの八百屋のおばちゃんに助けを求めたんですから」

「…………ふむ」


 何故そこでおばちゃんを呼んでしまうのか。医者じゃないのか。


「その後急いでお医者様を呼んだんですよっ!!」

「そうか」


おばちゃんの後に医者を呼んだそうだ。


「そうです!」


 頬を上気させながら力説されてしまうと、言いたいことは多々あれど頷いてやることしかできなかった。

 まったくこの娘は、いささか純粋すぎるのではなかろうか。何というか……ばかだなあ。


「笑うことのできる元気があるのなら、もう大丈夫ですね」

「え? あ、いや。うん。少し楽になった」


 俺は今、笑っていたのか。


「当り前です。私が看病してあげたんですから」


 ぺしっと軽く額を叩かれた。その後、額にあった心地は消えてしまった。

 どうやら先刻から続いていた心地良さの正体は、天宮の手であったようだ。ようやくそれに気が付いた俺は、罪悪感を感じざるを得なかった。訳もなく俺は、布団をのすそを少し引っ張り上げる。 


「熱は下がったようですね。よかったよかった。お医者さま、たった今帰られたところなんですよ。風邪ですって。あと完全なる水分不足。風邪といえども、もう少しお医者さまに見てもらうのが遅かったら危なかったそうですよ。もうあんな土砂降りの中上着も傘も持たずにでたりするからですっ!!」

「うう……何から何まで、申し訳ない」

「そうですよ、まったく。肝に銘じておきなさい」

「……はい」


 もう布団をかぶって隠れてしまいたい気分だ。10近く年齢の離れた女学生相手に何をしているんだか、俺は。


「って言っても、私どうしたらいいかわからなくてあたふたしていただけなんですけどね。ほとんどおばちゃんの力です。少し前に帰ってしまったので、良くなったらお礼を言っておいて下さいね。あ。そうそう。たまご粥が、あるんですよ。ちょっと待ってて」


 俺が何か応える間もなく、天宮は立ち上がり台所の方へ。後ろ姿を目で追うと、ふと気が付く。天宮の付けているあれ。あれは俺のエプロンだ。……寝ている間に完全に俺の家を掌握(しょうあく)されている気がしないでもない。

 天宮はすぐに俺の転がる部屋へ戻ってきた。手には一人前の小さな土鍋を乗せた盆。


「実はこれもおばちゃんが作っていったものなんですけど。私じゃこんなの作れません。えへへ。じゃーん」


 俺の枕元に再び座った天宮が土鍋の蓋を開けると、鍋の中に充満していた蒸気がぶわりと一気に舞い上がった。


「美味しそうでしょう?」


 寝転んだ状態では、どうあっても鍋の中身を覗くことはできないが、とりあえず頷いておいた。

 正直今食欲は皆無なのだが、そんなことを言うのも悪い気がして、(なまく)らな身体に何とか力を入れて上体を起き上がらせる。

 小皿に取り分けられた粥を(さじ)と共に差し出されたので、受け取ろうと手を伸ばす。しかし。


「……何?」


 手を伸ばすも、天宮の持つ皿は遠ざけられてしまった。不審に思って彼女の顔を見ると、何やらいたずらな笑みを浮かべている。


「食べさせてあげましょうか?」

「ばか」

「えへへ」


 半ば強引に皿を奪い取った。

 

 まともな食べ物を目にしても湧かない食欲の中、ちまちまと粥を口に運んで軟らかな米をさらに咀嚼(そしゃく)して無理矢理のどに流し込む。うまい、のだが風邪をこじらせた現在の身体では、他に味を形容するような気力はなかった。わざわざ作ってくれたおばちゃんにまで、罪悪の念が湧きあがる。あの気概の良いおばちゃんのことだから、そんなことは全く気にしないだろうが。俺は気になる。

 しばらく二人無言でいる中、俺は不意に布団の脇、天宮の座る横に何かがあるのを見つけた。紙袋、か?


「それは?」


 匙を口に運ぶ手を止めて、とりあえず聞いてみる。すると、頼子は申し訳なさそうにそれを後ろに隠してしまった。


「あ、これですか。いえ。なんでもないです」

「何でもないことはないだろう」


 部屋の隅に放ってある彼女の鞄に比べて、今隠し置かれた紙袋はずいぶん扱いが丁重だ。

 俺はそれ以上何も口に出さずに、紙袋を凝視することで、彼女を問い詰める。気になるものは気になるのだから、答えを知るまで追求するに限る。

 そうしていると、天宮は諦めたように口を尖らせて言った。


「……ドーナツです」

「ああ、また“gift(あそこ)”からの差し入れか」

「…………」

「どうした?」


 突然黙ってしまった天宮は、俺と目を合わせようとしない。畳の目を見ているのか、紙袋を見ているのか、ふらふらと視線を漂わせる。


「天宮?」

「あの。……うーん」


 返答を待つ俺に、天宮はもじもじと身体をくねらせるようにして、やがて言葉を続けた。


「今回のは、違うんです。“gift”の柏木さんが作ったのではなくて……これ、私が作ってきたんです」

「ほう。君が」


 天宮はこくりとうなずいた。


「柏木さんに作り方を教えてもらって、何とか一人で。……あっ! でも今日はやめておきます。だってほら、私なんかが作ったものなんて食べたらもっと具合が悪くなっちゃうでしょう? 知らなかったとはいえ、具合が悪い人にこんなもの持ってきちゃって……」


 尻すぼみにそう言い終えて、天宮はしゅんと(うつむ)いてしまった。

 俺はそれ目にし、一つ大きく息を吐き出した。


「ふむ。それもそうだな」

「そうそう。……えっ? って井吹さん、ひどーい!!!」


 天宮はずっと下にあった目線を俺の方へ上げ、両のこぶしを胸の前で握り締めて頬を膨らませた。





「ごちそうさまでした」


 半分程残してしまったが、俺は行儀よく手を合わせてみせた。

 天宮は、

 

「お粗末さまでした」


 と、一言言って、土鍋の乗った盆を持ち立ち上がる。……いや、それを作ったのは確かおばちゃんだから、お前が「お粗末さま」というのでは少しおかしいのではなかろうか。またうるさくなりそうなので言わないけれども。

 そうして、再び部屋に残される。


(何をしているんだろうな。俺は)


 熱は下がったものの、まだ立ち上がる元気など到底ない。だからといってまた布団に身体を横たえてしまうのも天宮がいる手前何だか心苦しい。彼女のことだから、病人は寝ていなさい、などというだろうか。いうだろうな。

 風邪をひくだなんて、久しぶりだ。それもこんなにも体調を崩したのもいつぶりだろうか。先日の件で一気に緊張がとけたからか、それとも本当にずぶ濡れになったことが直結して原因となったのか。どちらともつかないが……両者だろうな。


「ふうっ……」


 台所から聞こえてきた水音。一人寂しくため息を落とすと、余計に孤独感に襲われた。らしくもない。風邪のせいだろうな、きっと。

 湧きあがった感情を振り落とすかのように頭を横に数度振る。


「……ドーナツ、か」


 そして、ふと視界の隅に入ったのは、先程のドーナツの紙袋。すっかり部屋の隅に押しやられてしまって、袋にできたしわも、いっそう素朴な感じをかもし出させている。

 幸い、天宮は俺に背を向け台所で後片付けをしている。俺は慎重に彼女の隙を見計らい、手を伸ばして袋を手にする。

 まだ封を開けてもいないのに、ふわりとただよう油の香りとほんの少しだけ甘い香り。先日食べた柏木の作ったものとは天と地ほども差異がある。開ける前から、ありありと中の様子が想像することができた。

 さて、意を決して――失礼。早速、折り曲げられた袋の上部を捲り開ける。一層、油の香りが強くなった。中をのぞけば、先日のものとは比べ物にならないほどに不格好。教わって作ったと聞いたが、本当に同じものなのか。

 食欲は依然無い。それでも、好奇心からか俺は一つ取り出し、ぱくりと一口頬張っていた。


「あ、ちょっと井吹さん。そんなもの食べちゃ……」


 片づけを終え、俺の行動に気が付いた天宮が走り寄ってくる。が、もうすでに手遅れだ。


「あーあ」

「…………」


 口に含んだドーナツからは、何よりも先に油が噴出した。そして、口内に広がるしっとりとした、し過ぎた食感。鼻腔を抜ける植物性の油の香り。そのあとから押し寄せてきたのは、ほんのり苦い……餡なのか? こげているのだろうな、これは。ふむ。


「…………まずっ」

 つい、口からその言葉が漏れ出してしまった。


「えー、何ですか、その直接的過ぎるほどの感想は!! もっと言い方があるでしょう!?」


 まあ、そうなるだろう。天宮は俺の手元から食べかけのドーナツを奪い取った。それから間髪いれずに一欠けらを口へ運ぶ。

 ドーナツのせいもあってか、再びめまいのような言いようのない感覚に襲われた俺は、体を布団に横たえた。

 そして、自作のドーナツを頬ばった天宮本人はといえば、


「う……まず……」


 そうだろうな。誰が食べようともそうなることはわかっていた。本人も決して例外ではない。

 ただ、彼女は残ったそれを口の中に無理やり放り込んだ。


「ま、まずくてもですね……そこを何とかして食べてあげるのが……うぐ。男ってものでしょう?」

 

 本人がそんな調子だというのに、ほかに誰が世辞などいえるものか。

 嘘をつかないほうが本人の為、ということにも時にはある。今がそのときだと俺は思う。

 と、いう仕様のないやり取りは置いておこう。


「あのさあ、天宮」


 布団を口元までかぶりながら、俺は隣にひざをそろえて座りいまだブツブツと言っている天宮を呼ぶ。


「ん?なんですか?」


 天宮は愚痴をこぼすのをやめ、案外素直にこちらに顔を向けた。

 人の目を覗き込むようにして決してそらさない彼女の目線。それに吸い込まれてしまいそうで、俺は思わず目をそらしてごまかしてしまいたくなる。それでも何とか堪えてこちらも目を離さずに口を開く。


「あのだな。……それを、そのドーナツを、うまく作れるようになったら、その……桜でも見に行こうか」


 海桜が満開になるとそれは綺麗らしい、とごまかし程度に付け加えて。

 先日"gift”の面々と好海と見た時はまだ満開には遠かった。おそらく、もうすぐ見ごろがやってくることだろう。


「……え。何ですか急に」

「べ、別に他意はない。季節柄、花見も悪くはないと思っただけだ」


 そうだ。俺は何を言っているのだ。何が楽しくて天宮なんぞを誘っている。


「良いですけど……でも」

「でも?」


 何だか変な空気になってしまった。俺が天宮の動きを見守っていると、少々の間の後、


「美味しく作れるようになったらなんて……無理ですよ。私、料理へたですもん。旨く作れるようになる前に、桜なんてすぐに散ってしまうでしょう?」


 と、再びうつむいてしまう。

 確かに、桜は散るだろう。今食べたドーナツからして、上達には時間がかかるだろう。だが……。


「残念ですが、お花見は他の人と――」

「……とは言ってない」

「ん?なんですか?」


 俺のぼそりと言った一言に、頼子がこちらに近づいてきて聞き返す。だから、


「……今年の、とは言ってない」

「は?」


 天宮は元から丸くしていた目をさらに丸くした。

 ああ、もう。俺は少々むきになって、体を起き上がらせる。


「だから、来年も再来年も、桜は咲くだろうっ!?」

「……え?」


 ぽかんとした頼子の瞳と見つめ合ったまま、数秒。熱がすこし上がったような気がした。

 急に起き上がったせいか、再び眩暈に襲われる。ふらふらと体を寝かせた俺の布団を天宮がすかさず直す。


「えーと、井吹さん? もう一度始めからいっていただけません?」

「いやだ」


 もう一度って。二度といえるかそんなこと。

 俺は布団をすっぽりと頭からかぶり、天宮の視線も声も遮断した。


「ねえ、井吹さーん」


 何故、そんなことを言ってしまったのか。風邪で弱っているから? そのせいで熱に浮かされて、その場の思いつきであんなことを? まったく、どうかしているな。


「井吹さん。ねえったら」


 頭からかぶったふとん越しに、頼子の楽しげな鈴の鳴るような声がする。声が一瞬消えたかと思うと、次の瞬間には身体をゆすられる。


「うるさい。俺は病人なんだ。寝る」

「もう! こういう時だけ!!」


 天宮の声を横耳に、布団をはがされそうになるのに抵抗しながら俺はふと思う。


 そういえば。あの時あの人と行けなかった海辺の秋まつり。確か今年は3年に一度に巡ってくる開催年に当たるはずだ。

 今年は、行ってみようか。誰かと肩を並べてあるくもの悪くはない。今年は雨が降らなければいいのだが。そんな、俺らしくもないことを。布団に隠れてこっそりと。


 俺の時間は、少しずつ動き出している。のかもしれない。

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