ほとんど完璧な彼女と僕
完璧たり得る者がかつて世の中に存在したことがあったのか。それを論じれば、たぶんその話は宗教臭くなってしまうだろう。しかし、考えてみればそれこそがその論題の答えなのではないだろうか。
完璧なものなど存在しえず、それは空想と信仰の中にしか発生しない概念である。まあ、もちろん、無心論者だからこそ実在しないと言えるのであって、真剣にそれを信仰している人間からしてみれば、完璧なものは存在するのかもしれない。意志とは不完全さである、とまでは言わないが、不完全だからこそ他者を必要とするのは事実だと思う。
僕は不完全だ。欠けるだけ欠け、生きていくために本当にギリギリのラインを割ってさえいるのではないかとすら、思う。もちろんそんな事は無く、あるいは必要になればそうして生きることもできるのかもしれないが、しかし、今のところそんなことが出来るとはさっぱり思えない。甘えているのかもしれないが、そういう甘えたところも僕の不完全たるゆえんなのだとしたら、それこそもはや処置なしといった感じである。
まあ、もちろん、そんな開き直りをするほど恥知らずではない。できるだけのことをできるだけやるのは、生きていく上での礼儀だ。できもしない事をできもしない癖にやろうとすることは、まあ、無いけれど。しかしそれが、必ずしも賢いとは言えないのではないかという気もする。賢く生きているように見えて、その実それは、ただ縮こまっているだけのようではないか。手を伸ばせば届くもの、それは、手を伸ばさない事にはわからない時だってある。
とはいえ、僕は僕にできることはすべてやったのではないかとすら思う。自慢でも、自嘲でも、嘘を言っているわけでもなく。もちろん、特別な生き方をしてきたわけではなく、普通の家庭に生まれた普通の子供として、それなりに普通に育ち、それなりの進路に進んだ。背伸びすることなく、無理することなく。
その結果行き着いた先が公務員だったのは、別にそこで何かしらの妥協をしたわけでもなく、やはりそれが身の丈に合っていると感じたからだった。公務員という立場を甘く見ていたわけでもなく、世の中化を舐めていたわけでもない。断じて、それだけは言っておきたい。
対して、僕の幼馴染の話をしよう。つまるところ、彼女は僕と正反対の存在だった。もちろん、性別を含めて。ほとんど完璧と言っていいその能力は、僕が初めて彼女に出会った時から変わらない。
年の割には、という枠すら打ち破る頭脳。
最新のコンピュータを上回りかねない演算能力。
そしてそれ以上に、情報の取捨選択能力が誰よりも抜きんでている。
何が必要で、何が必要でないのか。余計な数字を含まないことで数式は美しく、彼女の頭脳の中には、きっと常に美しい数式しか存在していない。きっと、僕が見ている世界よりもずっと、彼女の見る世界は整然としていることだろう。僕辺り、余計なものにこそ目を引かれてしまう癖をどうにかしなければならないと彼女を見るたびに思うくせに、結局今日までそれを成し遂げていないのだった。
まあ、だからこその正反対である。そんな僕だからこそこれまで彼女と一緒にいることが出来たのかもしれないし、そんな彼女だからこそ僕なんかと今まで一緒にいてくれたのかもしれない。きっと彼女にしてみれば、自分と正反対の存在は、危うく、哀れだったからこそ、そしてほとんど完璧な彼女には見捨てることもできなかったのかもしれない。結局、僕は更生していないのだが。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、人間、誰しもその本質は変わることがない。更生した犯罪者は性根まで腐っていなかっただけで、構成しなかった犯罪者はその反対に性根まで余すところなく腐っている。生まれてから死ぬまで聖者であり続けた者はその存在そのものがそうであっただけで、それ以上でもそれ以下でもない。自転車に車輪が二つ付いていること以上の意味もなく、それ以下の事も無い。
まあ、普通に生きてきて、せいぜいバイトに精を出した程度の僕が思いつく程度のことである。わざわざ論じるまでもなく、世の中の多くの人はそのことを理解していることだろう。
人は変わらない。
成長したつもりになっても、最初に立っていた場所からどこへも進まない。
社会が変わらないように、世界が変わらないように、物語が終わらないように。僕が変わらないように、人も変わる事は無い。どんなに時代が進み、技術が進化したところで、人が進化する事も無い。聖者はおらず、それを気取る大ばか者と、それを自称する詐欺師と、それを騙る為り損ない。白にも黒にも染まりきることなく生を謳歌し続ける声明。自身の体に手を加え、足りないところを補おうとまでするその貪欲さは、少なくとも西暦が開始されて二千と数十年を数える。それだけの時間があったにもかかわらず、数々の時代が横たわったにもかかわらず、何を引き替えにできもしない犠牲があったはずだというのに、人は変わらず方法を変え、手を変え、品を変え同族殺しと足の引っ張り合いに精を出している。
僕が変わらなかったことも道理で、人は変わらないのだ。本質的に、変われない生き物なのだ。変わろうとすることは人としての本分に背く行為であり、生物として言うのならば自殺と同じくらいどうかしている。
自殺をするのに理由はあるのだろう。しかしどんな自殺にしたところで、自分と同じような境遇の人間がいる時点で、それはつまり敗北で、どうしようもなく言訳の余地も無い自殺だ。誰かのせいにするにしても、社会の責任にするにしても、運が悪かったのだというにしても。同じ境遇の中で諦めることなく生き抜いている誰かを、その死は貶めようとしている愚行だろう。
変わろうとすることだって、同じように性根の腐った人間が、性根が腐っているなりに何かを成し遂げようとしている時点で、虚しくもそれは自分の無能と意志薄弱さを露呈してしまう。
「それは変わらなかった者の言い訳だとは思わないの?」
彼女は言った。彼女のいう事はいつも正しい。正しくそれは、僕が言ったことの本質をとらえている。正確には、僕の言わなかったことを、捉えているのだ。僕が言った事にはもちろん裏があり、裏が本質かと言えばせいぜいその半分なのだろうけれど、しかし、言い当てるべきなのは裏側だけだ。最初からさらされている表側をこれ見よがしに指摘することに意味がないことくらい、普通に頭を働かせている人間ならば言うまでもなく理解している。
そして、僕が言った事の裏側にあるのは、もちろん変わらなかった自分に関する言訳である。言ったことが正しいかどうかは別問題として、確かに僕は変わらなかったことを全肯定できているわけでもない。そこまで迷いのない単純な人間ではないし、自己肯定の権化のような怪物でもない。自分が正しくないかもしれないと思うことがあるし、自分が間違ったかもしれないと不安になることもある。
しかし同時に、そんな事を考えたところで意味がないことも知っている。
「それは所詮、後知恵の結果論に過ぎないからかしら。まあ確かに、先にできないからこその公開。結果が分かってからの落胆。どんなものだって本当の意味で結果が見えていることなんてないのだから」
そう。
極端な言い方をしてしまえば、こんな話をした一瞬後に僕の脳天に隕石が直撃する可能性だってないわけではない。ならば、可能性だとかそんな事を言って先のことに関してあれこれ心配することに意味は無いし、怒ってしまったことにしたってその大半は避けられない事だったのだから、やはり考えたところで仕方がない。自分の手が届く範囲で手を尽くした結果ならば、その結果がどうあれ諦める他ないのだ。
「論理を気取るつもりなら、最初に極論を持ち出す癖を直しなさい。それは単に、自分の無知と無能を晒すだけよ。本来、起こりえないからこその極論。自分の失策と失敗とは無関係なところにある要素は除外しても構わないけれど、それでも背景情報は最低限頭に叩き込んでおくべきだと言ったことがなかったかしら。建物から脱出する段になって想定していた経路が数年前にふさがれていた、とか。数十年に一度やってくる災害がまさか今やってくるとは思わなかった、とか。そんなつまらない言訳を支度は無いでしょう?」
点けっぱなしになっているテレビに目をやると、今まさにそんな言い訳をしている政治家がいるのだった。想定の範囲外とか言っているが、しかし、ずっと以前から予見されていたことだとか、コメンテーターが知ったような顔で語っている。どちらも、どうしようもない。
動くべき人間が動かなかったことも、無関係の人間が知った顔をして碌に知りもしないことに首を突っ込んでいることも、結局、現状において何一つ働く事は無い。黙って見ている方が、きっとよほどましなくらいだろうに。
そう言えば、今現在謝罪会見を繰り返し放送されている政治家に、一度会った事があった。確か僕たちが高校生だった頃、彼女を訪ねてやってきたことがある。あれこれと並べ立てて、自分はどうするべきなのか、自分のために力を貸してくれないかと、言っていたはずだ。彼女は彼が望んだことの半分くらいに助言を与えて、あとの半分は情報が不足しているからと断った。そして、助言を得た半分だけでも、彼が政治家として一躍有名になるには十分な手柄だった。
しかしそれも、彼の器ではなかったのだろう。自分で決めるべきことを、自分で考えるべきことを、彼女に限らず他人に頼らなくてはならなかった時点で、彼はそれをやるべき人間ではなかったのだ。場違いで、身の丈知らず。その結果が、これだ。周囲を盛大に巻き込んで、天災と人災の合わせ技を見舞っている。
彼に限らず、政治家のうちの数割がそうして彼女に何かを求めてやってきたことがある。おそらく、これから先もそれは変わらないだろう。自分の身の丈に合わない世界で生きることは、かかわりのない人間に頭を下げることなのかもしれない。そうしてまでそんなところで生きていきたいものかと思うと同時に、しっぺ返しまで考えて割に合うのかどうかは疑問だとも思う。割を食うのが本人だけではないあたりも、いろいろと僕に疑問を抱かさるのだった。
「割を食うのが本人だけではないのは、政治家の宿命よ。私に何かを聞きに来るかどうかは無関係で、単にそれが、今、一つの証明になっているだけよ。無能を晒すだけ頭がいいとするべきか、無能を恥じることがない大馬鹿ととるかは、まあ、個人の自由ね。でも、危機に来ないからと言って賢いわけではないのよ」
そりゃそうだ、と僕は頷いた。
選んだ側に責任がないわけではない。もちろん、今の社会状況を鑑みるに、不満があるのならば自分が立候補しろと言い出す老人が極論を持ち出す無能以上に論外であることは間違いない。立候補できる人間は、最初から限られているという現実を認識できていない。
努力は免罪符にならないし、真剣さも同じことだ。しかし、選ばざるを得なかったとしても、そこから逃げ出すことだけはできたのではないだろうか。自分の立ち位置を変えることは、案外できる者で、それをしないまま時間が過ぎて行くのを静かに見守り続けた人間に、文句を言う資格はあっても、責任がないわけではない。
とはいえ、やはり、今テレビの中でそうしているように、政治家はその責任に見合ったことを実現できないのであれば徹底的に追及されるものなのだろう。できると言ったのも、やると言ったのも、やりたいと言ったのも、彼自身なのだろうし。
「そういう生き方を選んだのも、彼ら自身よ」
言外に向いていないと教えてあげたのに、と。彼女はつまらない思い出を語るようにそう言った。彼女が与える助言、彼らが求めた者の半分しかないそれの中で最も重要なものは、それだったのかもしれない。
だとしたら、彼女の助言をさんざん無碍にしてきた僕は、いろいろと考えなおした方がいいのだろうか。答えは、否である。結局のところ、それらの助言を無視して無碍にしてきた結果はすでに出てしまっているし、今更引き返せる場所など僕にはない。選んだのは僕で、他の誰の責任でもない。
とりあえず、とるものもとりあえず、僕と彼女の関係は一言でいえばそういうものだった。一方的な依存と、一方的な献身、聞く気のない助言であっても可能な限り繰り返され、返す余地のない夫妻ばかりが積もって行く。とはいえ、その環境に対して重荷を全く感じなかったあたり、我ながら無神経なのか、それとも大物なのか。
しかし、彼女が誰にでもそういう事を言う人間なのかと言えば、決してそんな事は無い。むしろ幼いころから、そういう事に対してひどく敏感だった。僕の方こそ、なぜ彼女はどうしたらいいかわかっているのにそれを教えないのだろうと思っていた。そういう事は、基本的に大きなお世話でしかないのだ。誰だって自分のやり方があるし、人から言われたいい方法とやらが、自分の考えたそれよりも信用に足るとは限らない。そしてその助言が正しいのだとしても、しかしそのことは、その助言を素直に受け取ることが出来るかどうかとは全くの別問題なのだから。
「あなたが行動を改める気がないことは、いい加減、この私にしてもようやく理解できたところよ。本当に度し難いことだけれど、貴方は私の助言が正しいと理解しているくせに、それを聞く気がないのよね」
彼女はそう言った。山積みになった書類を瞬く間に処理しながら、もしかしたら頭の中では二つか三つくらい考え事をしているのかもしれない。実際、彼女に割り当てられている仕事の量は常識外だし、非公式なものまで含めれば、常識が風に吹かれて跳んでしまうほど薄っぺらに見えるほどだ。
特殊な立場上仕方がないと言ったところで、しかし、彼女は体力的には何一つ特別ではないのだから。時折心配になる。心配したところでそんな必要は彼女にはないと知っていても、そのことは変わらない。
「人を馬鹿にしているわけでも、舐めているわけでも、信用していないわけでもない。むしろその反対側の極端にいるくせに、貴方は私のいう事を聞かなかった。それって、貴方は何も考えていないのかもしれないけれど、私にとってみれば一つの挫折なのよ」
ふうん。
「何よ」
僕の反応が気に入らなかったのか、彼女の声が険を帯びた。長い付き合いだからこそ、それが真剣に癇に障った時の声だとわかる。
「何って」
だからまあ、こういうときははっきり言ってやるに限る。
「君、挫折知らずの人間じゃないからね。逆上がりも、水泳も、体育の授業者ほとんど挫折続きで、僕は君に今更ひとつ挫折をさせてしまったと言われても、正直申し訳なさも感じづらいぜ。君の挫折を誰よりも傍で見てきたのだしね」
ふん、と彼女は鼻を鳴らした。そういう仕草は、彼女を年齢以上に幼く見せる。普段が大人びている彼女だから、そういう風にバランスを取っているのかもしれない。いやまあ、単に大人の中で生きている以上、どうしたって大人びなければならなかったのだろうけれど。
「さて」
彼女は言って、手元にあったどうでも良い程度の書類を片付けた。自分でなくても構わないと公言してはばからない雑務だったが、彼女は常に、それを律儀に自分で片付けていた。そうしてなお普通よりも早く終わらせてしまうあたり、頭がどういう構造になっているのか疑問である。
「雑談はここまで、ちょうどいいころ愛なのだし、お茶を入れて事件の話をしましょう」
ちなみに、お茶を淹れるのは僕の仕事である。彼女と違って僕は、新入のペーペーらしい仕事をしているのだった。
「言うまでもなく――――」
そこでお茶を一口飲んで、彼女は唇を湿らせた。どうやら、それなりに厄介な案件らしい。わかりやすい癖で言いにくいことを伝える彼女は、案外頭がよさそうには見えない。いつものことだが、言いにくいことをそれとなく伝えるだけの頭がある癖にそれを活用しないのは、頭が悪いのではないだろうか。
「私たちが担当する案間の例に漏れることなく、今回もまたシリンダー犯罪。言うまでも無いことだけどさらに付け加えておくと、今回もまた孤立無援。秘密裏かつ静かに迅速に手早く内密に片づける必要があるわ」
要するに、彼女が担当するのは常にそういう事件だった。単純なようでいて複雑で、粗雑なようで綿密な、糸が三本ほど絡み合った結果下手にほどこうとすると余計に厄介なことになりかねないような、そういうものだ。
かの字に対する、彼女の能力に対するやっかみと正当な評価の結果、彼女の担当はそういう事になった。警察機構における非公式客員であったころから、今に至るまで。面倒事を片付けるトップエリート。
便利な掃除屋、ミス・スーパーコンピューター。
荒事から情報戦まで、日本の端から端まで余すところなく、他人の手に余る厄介な事件を抱え込み、それらをことごとく解決している。それこそ、秘密裏かつ静かに迅速に手早く、そして内密に。
それでいて、彼女が有名なのは、非公式であり表に出すことが出来ない功績を隠したままであっても十分な功績がほかにあるからである。後はまあ、単純に容姿端麗であり若くして優秀という本人の持ち得る資質そのものが、彼女を有名にしてしまうという側面もあるのだが。
どれか一つをとっても有名になるだけの理由になるのだから、そんなものを複数抱え込んだ時点でそれは宿命なのかもしれない。たとえ、本人にとってそれが煩わしいだけなのだとしても。
「目標はおそらく、全身にシリンダーを装備したオールシリンダー。被害にあったのはS町にある宝石店。正直言って、素人丸出しの間抜け。ただ、別の集団が背後にいる気配があって、そいつらが間抜けを猿回しにしているのかもしれない。あるいは、鵜飼の鵜かしらね」
いつものことだと言うように彼女はため息をついた。実際、その手の展開は数えきれないくらい経験した。ロストテクノロジーというべきか、科学技術のオーパーツというべきか、シリンダーという人の身体強度と出力を引き上げる技術の発見とともに、馬鹿なボンボンが事件を起こすことが増えた。
増えたとは言わないまでも、派手になった。そしてその結果、そのボンボンの親たちが躍起になってそれらを隠蔽しなければならなくなってしまったのだった。そういう事件こそ、彼女の専売領域だった。独占禁止法に抵触しそうなくらいだったが、他に参入しようという人間がいないし、居たとしてもすぐに失敗を犯してどこかへ消えてゆく。失敗した彼らの末路を思うと、僕は背筋に嫌な汗が噴き出すものだが、彼女は平然としているのだった。肝が太いのか、あるいは自分に絶対の信頼を置いているのか。おそらくその両方なのだろう。
まあ、彼女の指示に従って動く身にしてみれば、そうしてくれなければ不安で仕方がないだろう。そういう意味では、それをわかったうえでそうしているのだとしても、彼女ならば何一つ不思議ではない。というか、普通に考えてそうだろう。
「犯人集団の逃走経路予想は二通り。そして現状、そのうち片方を使っている可能性はゼロね。中途半端に頭を使って動いてくれるおかげで、予測が簡単。監視システムですでに確認済みよ」
ふむ。
彼女にとって簡単であることが、他人にとってもそうであるとは限らない。日本全国に点在する監視システムは、ふれこみの上では即座に犯罪者を発見することが出来るということになっている。しかし、実際のところ、本当にそれをフル稼働できるはずがない。いったい誰が膨大な数の監視システムに対して、常に目を光らせているだろう。
要するに、監視システムは、少なくとも彼女にとって自分の予測を裏付けるために便利なツールでしかない。もしもそれが存在しなければ、きっとほかの方法をとるだけだろう。警察機構の最終兵器とまで言われたそれは、実際世間においても監視装置だとか市民を圧殺するための兵器だとか言われたが、それらが言いすぎであることを差し引いたとしても、彼女にとってそれが兵器ではなくツールに過ぎない以上にそうであるとは思えなかった。
しかし、オールシリンダー。それを聞いただけで、秘密裏に事を運ぶには骨が折れそうだと思う。物理的な意味で骨が折れてもおかしくないし、笑いごとではない。オールシリンダーがその気になれば、像を一撃で昏倒させることが出来る。
「ネズミは袋の中へ、ということで。行動開始は今から三十分後。いつも通り迅速かつ静かに目標を追い込むから、そのあとの料理は煮るなり焼くなり」
煮るなり焼くなりと言ったところで、どうせ相手は腐っても金持ちの息子なのだ。似ても焼いても食えやしないし、煮たり焼いたりしたらこっちの身が危なくなる。相手のことを考えて、イイコイイコしてやっておうちへお帰り頂くのがベストというものである。
バックについている怖いおじさんたちをどうするのかが問題になるが、しかしまあ、相手次第だろう。一線を越えてくるのなら、それはそれで対処してしまえばそれでいいのだ。どうせ、大義名分はどうしたってこちらにある。
彼女の指示に従って、後悔したことは無い。
「……どうしたの、変な顔をして」
思わず自分に嘘をついたせいで妙な気分になった。後悔したことがないというのは嘘だ。彼女を怒らせた後で、彼女が報復代わりに僕を貶めた時の事だけは後悔している。後悔先に立たずで、そういう事は何度かあったのだった。
過去から何も学んでいない。
「なんでもないさ、どうせ世は事も無し。馬鹿なボンボンの尻を叩くのが僕の仕事だというのならば、喜んでそうするだけさ」
シリンダーについて説明しておくことにしよう。オーパーツだのなんだのと言う事を除くにしても、とりあえずある程度の量産には成功している一般商品である。まあ、並み以下のシリンダーでさえ高級車並みの値段だという事を除けば、一般流通商品である。
シリンダーは一見無機物間にあふれたものだが、人の肉体に打ち込むことで癒着し、根を張り、肉体を作り替える。作り変えられた肉体は、物理強度、そして出力において通常の倍以上に変化し、ありふれた表現を使えば超人に生まれ変わらせる。
超人に生まれ変わる代金が高級車並みというのは、はたして高いのか安いのか。その辺りは個人の価値観次第である。さらに言えば、本当に超人になろうと思うのならば高いリスクを冒すか、そうでなければ五体全てにシリンダーを埋め込む必要がある。今回のボンボンは校舎だが、それにかかったお金を出した人間が何を考えているのか、僕には想像もできない。せいぜい僕にできるのは、きっと何も考えていないのだろうという、想像にも至らない空想である。
警察関係ではいち早くそのシリンダー技術を導入し、さらにお手軽な疑似シリンダーを作成している。僕にも配給されたそれは、シリンダーを外部接続することで僕たちを疑似超人に変えてくれるのだそうだ。心強いことである。
相手が全身シリンダー人間であることを考えると、疑似シリンダーなんて代物は頼りにするだけ虚しいような気がする。そもそも疑似シリンダーは出力面では確かにシリンダーと同じだけの性能を持っているが、それに強度が追いついていない。相手と組み合った瞬間に力負けしなくても、自分がバラバラになる可能性がある。
しかしそんなことは所詮僕の問題にすぎないし、この一件を静穏無事におさめてしまうことに比べればひどく些細なことだ。彼女のことを心配してなどいないが、しかし、僕のつまらない失敗で台無しにしてしまうのも忍びない。
というわけで、僕は計画通り今の時間帯は人がいない工場へやってきた。オートメーション化が進んだ結果人がいる必要がないのは分かるが、こうしてあっさりと中へ入ることが出来るのは不用心だ。もちろん、中に入ったところで何が出来るわけでもないからこそ、なのだろう。何がどうなっているのか知らないが、およそ人が操作しそうな部分が見当たらない。もちろんシリンダー使いならば壊す事もできるだろうけれど、そんなものに備えるのならば鍵をしっかり締めたところで、そんなことは障子紙のような備えに過ぎないのだから、もしかしたら現状は非常に合理的な判断に基づいているのかもしれない。
ふうむ。
手持無沙汰である。僕は、他のどんな時間よりも今のような時間が嫌いだ。それは緊張するからとかそういう可愛げのある理由ではなく、自分のやっていることの意味とか、そもそも意味があるのかとか、そういう事を考えてしまうからだ。
彼女の手法はほとんど一貫しており、行動予測に基づいた誘導による袋小路作戦である。簡単に言えば、目標が目立つところを割けようとするのなら意図的に人通りを誘導し、その結果目標を追い込む。今回の場合、目標は案外小心らしいので、それとなく警官を配置することでここに追い込むのだそうだ。一度だけ、彼女が追い込みの作業を指示しているところを間近で見たことがあるのだが、その時の淡々としながらも生き生きとした顔を忘れることはできない。
怖かった。
時と場合によって袋小路作戦を使用しないこともあるが、彼女の基本はこれだ。気に入っているのかもしれないし、得意なのかもしれないし、あるいはその両方かもしれない。彼女は自分の広い執務室から世界に通じ、自分の持っている駒を動かすことで世界すら動かす。
今回の一件のようなものは、所詮彼女にとって日常に過ぎない。失敗することなんて頭の片隅にもないだろうし、ならば僕もその通り万全にこなすほかない。別に大統領の護衛をしているわけでもなし、失敗して失うのが自分の命だけなのだと考えれば緊張する理由もない。
無線から聞こえるやり取りを聞き流しながら、僕は自分の出番が近いことを感じる。そもそも、無線での会話に僕の名前が混じっているのだから、いつも通りならそうだろう。まさか僕の悪口を言っているわけではないだろうし。
言っている間に人の気配が近づく。一瞬、自分の体が緊張した気がしたので、そんなことはありえないと思い直した。そもそも、彼女が僕一人にここを任せた理由を想像すれば、そんな必要はないのだということが明らかだ。
彼女は失敗しない。だから僕も、失敗しない。それ以上の理論は、僕には必要ない。
「おい」
疑似シリンダーを接続して、僕は彼らに声をかけた。暗がりの中から急に声をかけられて驚いた様子だったが、しかし彼らのうちの数人はそれを予想していたらしい。驚いていないどころか、当然のような顔をしている。そしてそれらのうちのいくつかは、僕も知っている顔だった。同じような状況で、一度は驚いた人間。
味を占めたという奴だ。
偉い人間ほど金次第でどうにかなる人間はそうしてしまいたいと考える。僕にはかかわりのない話だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。しかし、実りのある方向で関わりあいたいところだったが、どうにも、そうはいかないようだ。
「……お前」
たっぷりと時間をおいて口から出てきた言葉は、そんな陳腐な言葉である。やはり、思ったほどのものでもない。だしぬけに拳を振り回してくるかもしれないとすら思っていたが、どうにもこうにも、余計な心配だった。あるいは、こちらの期待しすぎである。過ぎた期待は重いばかり、気づかれる前にはずしておこう。
いや、いや。こいつの人生は、きっと、今までもこれからもそうなのだろう。誰からの期待にも沿えず、本人が気付く前にそれは雲散霧消し続ける。いや、そうじゃない。
薄々気が付いてしまったからこそ、こいつはこんな事をしているのだ。それにしたって中途半端なあたりが、人間としてどうしようもなく甘えていることを示しているだろう。全て捨てた気になって小金を握りしめているような、そんな滑稽さだ。
ダサいぜ、ボンボン。
「なんだ、お前は」
ふうむ。どうにもこうにも、目の前のボンボンは鈍くてだめだ。この状況、この展開、誰がどう見たところで僕が自分の友達でないことは明らかだろうに。まさか、自分の後ろにいる大人たちが自分の味方だとでも思っているのだろうか。
だとしたら、いよいよもって残念な頭だ。そもそも、犯罪行為を助長する大人が、餓鬼の味方であるわけがない。不良少年に優しい大人は彼らを利用したいだけであるというのは、古今東西共通した真理である。
「今更ここへ至っていう事は何も、無いだろう?」
まったく。せっかくの晴れ舞台だろうに、観客がいないからと言って気を抜いてしまうあたりが三流だ。この舞台にあって無言を貫く背後のわき役たちを、その一点だけは見習うべきだろう。
彼らは自分の立場と、その出番をわきまえている。そうでなければ、こんな世界で長生きできない。狡賢いばかりの大人だが、だからと言ってその生き方を全否定できるわけでもない。所詮犯罪者だが、無能なばかりの善人よりかは害がないのだから。
「じゃあ黙って死ねよ」
振り抜かれた拳。反応するまでもなく僕の肉体を粉砕せんとする拳は届き、その拍子に脆弱な疑似シリンダーは完全に破壊された。一瞬の間に溶けようとする視界の中で、ボンボンの後ろに立っていた男たちの口が口笛でも吹きそうな形になった。そもそも、彼らとしてはどちらに状況が傾いても損がないつもりだから、気楽なものである。
「はっ」
ともかく、僕は無人工場のパイプやら何やらをぶち破り、コンクリートの壁に埋まった。確かにオールシリンダー、出力はさすがであり、ここまでの破壊を成し遂げてなお自身は傷ついていないあたりも同じくさすがだと言うべきだろう。
だが。
「一朝一夕で得られるものが、いつまでもどこまでも通用すると、本当に思ったのか?」
全身シリンダー人間。金を賭ければ誰でもなれるが、金をかけることなくなる方法だってある。リスクを冒し、ペナルティを支払うそれは、完成度においてどれほど金をかけても辿りつくことのできない高みにある。
つまるところそれは、この僕が安くて薄っぺらい悪党に絶対に負けない程度の理由には、十分だ。
僕がその気になれば、このボンボンは攻撃を当てるには百年遅いし、僕を破壊しつくすには百年あっても足りない。心も体も背負ったものも、このボンボンは軽すぎる。背負えばそれでいいというわけでもないが、何一つ背負うことなく人は大人になれないし、強くもなれない。
他人を背負ってなお先頭を突き進む彼女をずっと見ていたからこそ、僕にはその重みが理解できる。他人を背負うことはできなくても、せめて、彼女が一点だけ苦手としているところだけは、補えるようになりたかったから。
だから。
「お前と僕じゃあ、重みが違いすぎる」
拳一撃。別に殺す事も無く、腕一本をどうしようもなくなる寸前まで破壊するには、それで十分だ。やりすぎることなく、しかし痛みを与える程度に。そういう意味で言えば、今回の一撃は我ながら一部の隙もない完全に完璧なそれだったのかもしれない。
痛みをこらえようともせずにのた打ち回っているボンボンのことは放っておいて、僕はこれまでずっと黙っていた大人たちに向かって言った。
「それじゃあ、これからの話をしましょうか」
大人たちは頷いた。
彼らの目的は最初からこれだったのだから、当然のことである。是非もなく、異論なく、ボンボンはこの一件における主役であり、そしてその主役という役柄は他人にとってある種の装置だった。
右から左へ金を輸送するだけの、単純な装置。
人のことは言えないにしても、どこかで少し考えればわかるような理屈だろう。それが出来ないからこそ、ボンボンはこうなった。そう結論付けるのは、どことなく寂しい気がしてしまうのは、もしかしたら僕はボンボンに少しだけ同情しているという事なのかもしれない。
「強い力を手に入れた後の万能感。それはきっと、それを手に入れた誰もが経験するものよ。そもそも、万能なんてものがあるはずないのに、いつだって人は自分を過大評価し続ける。思うほど手は届かないし、思うほど抱え込めるものは多くない」
そんな事を彼女は言った。もしかしたら、彼女もそういう経験があったのかもしれない。何に手が届かず、何を抱えきれなかったのかはわからないけれど。それでも、そんな挫折が、彼女にもあったのか。
僕は挫折が続きすぎて、それでも今でも、それに慣れることが出来るとは思えないでいる。いつだって悔しいし、いつだって歯がゆい。慣れれば楽に生きられるのかもしれないが、慣れてしまえば、きっとそれは、それで取り返しがつかないだろう。
「そう」
彼女は頷いた。
僕に同意しながらも、どうしようもない教え子を見ているかのような表情だった。もしかしたら本当に、僕のことをどうしようもない人間だと思っているのかもしれない。しかしそれだって、仕方がない。
死にかけても、本当に死にかけても、変わることのない人間。それは確かに、どうしようもない。
馬鹿につける薬は無いのである。
「けれど私は、手が届かない事も、抱えきれない事も、無理を承知で頑張らない理由には、きっとならないと思っている」
きっとそれは、無理を承知で、というわけではない。もしかしたら、もう一歩踏み出すことで何かを救えるのならば、その一歩を迷う事のない意志。例えば、僕が彼女のためならば、いつだってその一歩を踏み出すことが出来るように。
彼女も、きっと間違いなく何かのためにそれが出来る。なぜならば僕は、そんな彼女を見てきたから今そういう風に踏み出せるのだし、そんな彼女のためだからこそそうできる。僕は間違いなく、彼女のための一歩を踏み出せる。今までも、これからも、何度でも、きっと死ぬまで。
だから、僕が死ぬのは普通に布団の中ではないだろう。きっとどこかでむごたらしく、およそ人の死にはふさわしくない状況で、人の死には似つかわしくない状態で死ぬに違いない。
だがそれの何が悪い。
「悪いわ」
毅然とした声は、有無を言わせない。
「あのときみたいな惨めな思いは、もう二度とごめんよ」
あの時というのは僕が死にかけた時のことで、その時のことは僕にとって誇りだが、彼女にとっては恥辱だった。もちろんそれは僕の不甲斐無さが原因であって、彼女には理由がない。
出しゃばって、先走って、きっとやらなくていいことだったのだろうけれど。僕はその時、やはりその一歩を踏み出し、そして危うく死ぬところだった。あるいは、危うく死に損なった。死に損なった結果無敵のシリンダーボディを手に入れたのはもうけものだったが、しかし、そんなことで何を補える。僕は自分の役立たずの結果死にかけて、拾い物をしただけだ。無能は無能のままで、ほんの少しばかり便利な道具を手に入れただけのこと。
それでもその時迷いなく一歩踏み出せたことは、それだけは間違いなく、恥じることなく、憚ることなく、それは僕の誇りだ。
「だとしたら、これから先が私の誇りよ」
傷つくことを誇る男に、傷つけない事を誇る女。誰も傷つかない場所があっても良いと願った女は、きっと今だってそれを心に抱き続けているのだろう。だからこそ、僕の誇りだ。
「あなたが私のために傷つきたいというのなら、私のために死にたいというのなら、そのことごとくを夢想に変えてみせる」
あなたは傷つかない。
あなたは死なない。
あなたが死ぬのは、きっと誰かのそばで、静かに、普通に、穏やかな老人になった時よ、と。彼女は言った。
「それも良いさ」
僕は言った。言うまでもなく、是非もない。何故なら僕は、いつだって彼女のことは全肯定であって、否定なんて欠片も無い。
「だからこそ、僕は君に命を懸けられる」
「………」
何とも言えない顔をして、彼女は僕の顔を見つめた。真っ直ぐな視線はいつものことだが、どうにもこうにも、何とも面映い。
死ぬために生きているわけでもないし、死にたくて生きているわけでもない。ただ僕は、彼女のために命を懸けたいと思うだけだ。彼女が誰かのために生きているように、僕は彼女のために命を懸けたい。
誇るべきもの、ほとんど完璧な彼女。僕はきっと、いつか彼女のために死ぬだろう。それもまた僕の誇りだろうけれど、それを阻むのが彼女だと言うならば、僕はそれも誇るだろう。
いつか来る終わり、その終わりがどんなものであれ、それを幸せにすることが出来るのは彼女だけであって、それもいつか彼女の望む形になるのだろう。どんな未来でも、僕はそれを受け入れる。いびつな片思いだと言われても、それは別にかまわない。釣り合う事のない命なら、迷うことなくかけられる。
それほど僕は、彼女がほとんど完璧に好きだ。




