6章 そしてドイツ 6節
桂子は、まだ何が起きてるのか、理解できずにいた。
そして、何かを確かめるように、まるで盲目の人が相手の顔を確かめるようなしぐさで、孝一の顔を掌で、ひたいの辺りから徐々に眉、目、鼻となぞっていった。
その様子を横で見ていたトムは、『まるで恋人同士のような優しい動きだな』と、思った。
桂子の手が孝一の口の所まで来た時だった。
桂子が思わず、「私は白昼夢を見てるのね。居てくれたら良いと思う人が、愛しいと、言ってくれた。夢なら、覚めなければ良いのに」と、ポツリとつぶやいた。
孝一はしっかりと、
「夢なんかじゃあないさ。俺はここにいる」と、言った。
桂子は触れていた口から言葉が出てきて、「はっ」と、して思わず手を引き、つかまれている孝一の手から逃れようとしたが、すでに孝一の両手は桂子の両肩をしっかりつかんでいた。
「もう離さない」と、一言、言って孝一は桂子を抱き寄せ、そして抱きしめようとしたが、桂子はそれを拒んだ。
「私は、貴方の心を傷つけ、あげくに逃げたのよ。今さら貴方に受け止めてもらえるような女じゃあ無いわ」と、孝一から離れようと力なくもがいた。
「それじゃ、何時まで待てば良いんだ。一年後か、三年後かそれとも十年後か、そんなの何時になっても、もう今の俺には関係ないんだ。今が、そしてこれからが大事なんだ。過去じゃあない」と、桂子の肩を揺さぶり叫ぶような勢いになっていた。
「じゃあ、貴方は、わたしを、許せるの」と、桂子は真剣な顔で、一言一言、言葉を切って、挑む様に孝一の顔を覗き込みそう尋ねた。
「もともと、俺は傷ついてなんか居ない。あつしといた時だって、俺はお前が幸せならそれで良いと思っていた。しかしその事の方がお前を傷つけていたんじゃあないかと、今ではそう思ってる。だから、許して欲しいのは俺の方だ」と、孝一は落ち着きを取り戻し、そう答えた。
「本当に、そう思ってるの」と、桂子が尋ねた。
「ああ」と、孝一が言うと、桂子の全身から力が抜けたように幸一の胸に身を投げ出してきた。
「本当に孝一なのね。ずっと待ってた」と、その孝一の胸の中でそっとつぶやいた。
その時、桂子の目からポロリと涙が流れ落ちた。