6章 そしてドイツ 5節
孝一はバスを降りると、何故か昔ユニットでよく練習していた歌を歌いたくなった。
それは孝一が緊張したり、興奮したりした時、平常心を取り戻す時によく歌っていた曲だった。
「なあ、トム、『イエローサブマリン』って覚えてるかい」と、突然言い出した。
「ああ、覚えてるがどうした」
「急に歌いたくなったんだ。行くぞ」と、言って「1,2,3」と、リズムを取って歌いだした。
「ばかやろう、桂子に見つかっちまうだろうが」と、言ったが、
「もうすぐ駅に着くさ、俺はもう我慢が出来なくなったんだ。あの角で、一旦身を隠して桂子を待つ事にするよ」
「そうか、まあお前がそう言うならそうしようか」と、トムも孝一のリズムに合わせ歌いだした。
そして、角を曲がった所で、小声で歌いながら、二人で圭子が来るのを待つことにした。
桂子は、懐かしい歌で昔を思い出し、甘酸っぱい少女の気分になっていたのに、歌声が消え少しがっかりした。
もう少しで駅の入り口だという所で、突然角からひょっこり一人の男性が現れた。
その顔は、確かに見覚えのある顔だったが、あまりにも突然で、しかもミュンヘンに居よう筈の無い人物だったので、思わず、
「アラ!ごめんなさい」と、本当は、孝一の方が行く手を阻んだのに、まるで圭子の方が行く手を阻んだように謝っていた。
そして、頭の中では『ああ、孝一だ』と、思いながらも、体の方は勝手に孝一の横をすり抜けようとしていた。
桂子は自分に今何が起きているのか、混乱していた。
孝一は桂子の前に出て、『まあ。孝一』とか、単純に『こういち!』と、叫んでくれると思っていたが、桂子が思わぬ動きをしたので、横をすり抜けようとした桂子の腕をしっかりとつかんだ。
そして、
「俺は、なんて馬鹿なんだろう。その後悔の念を今、やっと晴らせる時が来たというのに、また愛しい人が横をすり抜けようとしているのを、手を差し伸べずに過ごす所だった」と、桂子を引き寄せながら顔を覗きむように、言った。