1章 雨宿り 1節
あれは、19歳の夏だった。あつしは東京で、あの娘は田舎で学生生活を送っていた。
夏休みに入ってまもないころ、あの娘からの突然の電話にびっくりした。
受話器からは、日頃おとなしい、あの娘の口からは想像すらできない言葉が楽しそうに弾んできた。
私は、半信半疑のまま自転車をこいでいた。
20分も走っただろうか、心臓の鼓動を強く感じはじめたそのときに…
湯島聖堂の前であの娘が、はにかみながら白く細い腕を振っていた。
春に別れたときと同じ、くせのある長い黒髪が風になびいている。
ノースリーブの真っ白な長いワンピースに身を包み、太陽の日差しから肌を守るオーガンジーのストールに白い靴。
私の目には、まるで逃げ出してきた花嫁のように映っていた。
「どうしたの・・?迷惑だった・・?」と、問いかけるあの娘の声で、ふと我にもどったような気がした。
あの娘を自転車の後ろに乗せて、神田川から早稲田へと走った。
面影橋のあたりにつくとき、あの娘がやっと口を開いた。
夏休みの間、おじさんの家に遊びにきたこと。
あつし宛に、春から20通も手紙を出しているのに、2通しか返事がこなかったこと。
大きな瞳に涙を浮かべながら、便りがないのはゲンキな証拠って、おばあちゃんが語ったこと。
でも、……と、いいかけて暫く沈黙の時間が続いた。
そして、女子友達の従弟という男性と文通をはじめたことを、あの娘は一気にしゃべった。
あつしはと言えば、毎日のアルバイトと仲間で結成した、フォークバンドのことしか話せなかった。
都会での孤独と誘惑など、あの娘には想像もつかないことだろうと思った。
あの娘は「私がここにいる間、キーボードで仲間にいれてよ」と、言った。
あつしは、一瞬答えにつまった。
あつしの後ろであの娘は、清らかな声で歌い始めた。
「一人で空を見ていたら~優しい風に包まれた~どこかで、泣いている人の涙がきっと乾くよう~」
あつしは黙って聞いていた。
ただ黙ってそのメロディーを聞いていた。
涙橋に近づくころ、雨が降り始めた。
なぜだかわからないが、優しい雨のように感じた。
雨に濡れても、あの娘の歌は続いていた。
でも、さすがに雨の中を自転車で走るのは辛くなってきた。
自転車のブレーキをかけると、歌を歌っていた彼女は、あつしの背中にその身を押しつけてきた。
いや、押しつけたのではなく、不可抗力でバランスを崩し、寄りかかってきたと言うのが、正解だった。
いつもは前を通り過ぎるだけの、ちょっとしゃれた喫茶店で雨を凌ぐことにした。
入り口を開けると、「カラ~ン」と、心地よいカウベルの音が響いた。
耳に聴こえてきたのは、カーペンターズの曲。
目の前には、優しい目をした中年のマスターだった。
こじんまりとした、その喫茶店の窓には白いレースのカーテンがかけられている。
テーブルの上にはブルーのチェックのクロスがかけられていた。
彼女の好みにぴったりとあっていたせいか、うれしそうな顔をして一番奥の席に彼女は座った。
カーペンターズって、古いですね。
読者の中には、あまり知られていない、かもですね