4章 二人 2節
桂子がキャンパスのスタンドを立てたまま、デッサンを考えるでもなく、ぼんやりと湖の方を眺めていると、突然後ろから「グーテンダァー」と、挨拶してきたのである。
桂子は大学で、第二外国語はフランス語だったので、ドイツ語はほとんどだめだったが、かろうじてそれが「こんにちは」である事を知っていた。
桂子は英語で「ハロー」と答え、「ドイツ語はほとんどだめです。英語とフランス語なら話せます」と、あまり力の無い言い方で答えた。
キャスリンは目を大きく開け、「オー、ベリィナイス」と、大きく手をひろげ、今会ったばかりの桂子を抱きしめるかのように、手を広げながら寄ってきた。
「私はアメリカ人よ」と、彼女は英語で話し始めた。
「あなたは絵を書きに来たの? でも、キャンパスは真っ白ね」と、キャンパスをのぞきこみながら話しかけてきた。
キャスリンは最近、音楽を習いにドイツに来たのだが、英語が話せる人が回りにあまりいなく、当然気楽なおしゃべりをしてくれる相手が居なかった。
英語が話せる相手だと判り、今までのうっぷんが吹き出てきたのだそうだ。
自分の事を一通り話すと、桂子をじっくり見て、「なんだか思いつめてる事でも、ありそうね」と、言って、持っていたバイオリンのケースからバイオリンを出し、そこでいきなり曲を弾き始めた。
その曲は「オーバー ザ レインボー」であった。
後に、なぜ、あの時あの曲を弾いたのか、桂子がキャスリンに聞いたところ。
「桂子の気持ちがこの現実に居なく、熱にうなされているアリスみたいだったからよ」との事だった。
そんな彼女が部屋に居るといつも話題が絶えなく、賑やかだった。
だから桂子は二人で居る時は今までのいやな事を忘れられて、時間がまるで止まったかのように思え、実際、何時間も彼女と話していることが多かった。
しかし、今日は一人だけでこの部屋に居て、部屋はシーンと静まり返っていた。