3章 別離 2節
5時になって大まかな仕事は片付けたので事務所のみんなに「お先に失礼します」と言って、事務所のドアノブに手を掛けたその時の事である。
事務所の電話が鳴り始めた。
不思議な事にあつしは、その電話が自分に架かってきた物だと直感した。
そして次の瞬間、孝一との約束を思い出した。
電話は、事務所の年配の先輩が取っていた。
あつしはノブから手を離し、電話を取った方を見ていた。
「織田、お前にだ、お前何かやらかしたんじゃあないだろうな。警察からだぞ」と言って、受話器をあつしの方に向けて差し出した。
「僕は司法試験をこれから受けようという身ですよ。そんな事有ってはならない事です」と、軽く受け流しながら、受話器を受け取りに行った。
「そうだな、お前は頑張ってるものなぁ」と、その年配の先輩は、受話器をあつしに手渡し、その手であつしの肩をぽんと軽く叩いた。
あつしが電話に出ると、電話の相手は「こちら〇〇署ですが、織田あつしさんですね」と、確認してきた。
「はい」と言う返事を待ってから相手は、「松井孝一さんを知っておられますか」と、尋ねてきた。
「はい、松井は僕と一緒に同じ田舎から、こちらに出てきていますが、その松井に何かあったのでしょうか」と、訊いた。
「本日午後4時半ごろ、所轄内でちょとしたいざこざがありまして、松井さんは酒に酔って路上でケンカになりそうになった所を、警邏中の署員に保護されました。」
「そうですか、それで彼は今どうしていますか」と、あつしが尋ねると、
「幸いケンカになった訳でもなく、本人もさほど酔っている風でもないので誰かに受け取りに来てもらわなくてはいけなく、誰か知り合いが居ないのかと本人に尋ねたところ、あなたの名前が出てきまして、こうして電話をしています」と、説明してくれた。
「それで、私が引き取りに行けばいい訳ですね」と、言うと。
「本人は、あなたに来て欲しいと希望しています」と、言う言葉を聴くか聞かない内に、
「それではすぐに参ります」と、言ってあつしは電話を切っていた。
「おい、大丈夫か」と、受話器を渡してくれた年配の先輩が、声を掛けてくれたが、その言葉に返事も返さず事務所を飛び出し、事務所を出た所で通りかかったタクシーを拾い、警察に向かった。
タクシーで警察署まで行き、玄関に入ろうとするが、やけに警察署の横の通りが騒がしく、人がたくさん集まっていたので、あつしはそちらの方が気になった。
あつしは、特に野次馬根性と言う物が旺盛ではないが、妙に気になり見に行く事にした。
行って見ると、解体工事中のビルの屋上で、誰かが生気の抜けたように空を見上げ、角の端にふらりと立っていた。