『男友達みたいなものだから』と婚約者が幼馴染みを優先するので、幼馴染みの婚約者をいただくことにしました
1.男友達なら、婚約者はいらないでしょう?
「エリザベート。君もいい加減、大人になってくれないか」
婚約者のレオンハルトが、心底うんざりした顔で言った。
私は紅茶のカップを置いた。
「何のお話でしょう?」
「ミレーヌのことだ」
「ああ」
またか。
私は心の中でため息をついた。
ミレーヌ・オルブライト伯爵令嬢。
レオンハルトの幼馴染みで、私たちの婚約生活における最大の障害である。
もっとも、障害と呼ぶほど大層なものでもない。
ただ、ひたすら邪魔なのだ。
「昨日、ミレーヌを劇場に連れていったことを、君は怒っているそうじゃないか」
「怒ってはいません。ただ、昨日は私の誕生日でしたので」
「だから何だというんだ?」
「……いえ」
私は微笑んだ。
昨日、私は二十一歳になった。
レオンハルトとは半年前から婚約している。
誕生日には二人で夕食を、と約束していたのだが、彼は現れなかった。
理由は簡単。
ミレーヌが新作の歌劇を見たいと言ったからだ。
「ミレーヌは昔から歌劇が好きなんだ。彼女がどうしてもと言うから、仕方なかったんだよ」
「そうですか」
「君はいつでも会えるだろう?」
「そうですね」
「それにミレーヌは、男友達みたいなものだから」
私は首を傾げた。
「男友達?」
「ああ。幼い頃から一緒に育ったんだ。男女の仲なんて意識したこともない。君が嫉妬するような関係じゃないんだよ」
「なるほど」
私は少し考えた。
「では、レオンハルト様」
「何だ?」
「男性のお友達と、手を繋いで歩くのですか?」
「……は?」
「膝の上に座らせたり、頬に口づけしたり、二人きりで旅行に行ったりも?」
「それは、その……ミレーヌは昔から甘えん坊で」
「そうですか」
私はにっこり笑った。
「大変仲のよろしい男性のお友達なのですね」
「君はどうしてそう嫌味っぽいんだ!」
レオンハルトが声を荒らげた。
「ミレーヌは純粋なんだ! 君のように何でも男女の問題に結びつけたりしない!」
「申し訳ありません」
「彼女を少しは見習ってくれ!」
「ええ。そういたします」
私は素直に頷いた。
すると彼は満足そうな顔になった。
「わかってくれればいいんだ」
「はい。ところで、レオンハルト様」
「何だ?」
「ミレーヌ様には婚約者がいらっしゃいましたよね?」
「ああ。アレクシス・ヴァレンティ公爵だな」
「お二人の仲はよろしいのでしょうか」
「さあ? あの男は冷たいからな。ミレーヌも寂しいんだろう。だから私が相手をしてやっているんだ」
「まあ」
私は胸の前で手を合わせた。
「それはお気の毒ですね」
「そうだろう?」
「ええ。アレクシス様が」
「……は?」
「婚約者を放っておいて、別の男性とばかり親しくされては、さぞお寂しいことでしょう」
「いや、だから、そういう関係じゃ……」
「決めました」
私は立ち上がった。
「私、アレクシス様をお慰めしてまいります」
「……何?」
「ミレーヌ様がレオンハルト様と仲良くなさるのですもの。私もアレクシス様と仲良くしてよろしいのでしょう?」
「ちょっと待て」
「もちろん、男女の仲など意識いたしませんわ」
私は満面の笑みを浮かべた。
「男友達みたいなものですから」
レオンハルトの顔が引きつった。
あら。
どうしてそんなお顔をなさるのかしら。
ご自分でおっしゃったことですのに。
2.公爵様は、思ったより面白い方でした
アレクシス・ヴァレンティ公爵は、王都でも有名な男性だった。
二十八歳。
若くして公爵家を継ぎ、王国の財務行政に深く関わる切れ者。
容姿端麗。
資産莫大。
そして、性格は最悪。
……という噂である。
何しろ、女性に微笑まない。
舞踏会でも誰とも踊らない。
美しい令嬢たちからの誘いを、まるで税金の督促状でも処理するように断るらしい。
そんな男性の屋敷に、私は翌日の午後、訪問した。
「エリザベート・ローゼンベルク伯爵令嬢がお見えです」
執事の案内で応接室に入ると、黒髪の美しい男性が書類から顔を上げた。
冷たい青い瞳が私を捉える。
「……ローゼンベルク嬢?」
「突然の訪問をお許しくださいませ」
「用件は?」
「お友達になっていただきたくて」
沈黙。
アレクシス様は、しばらく私を見つめていた。
「……もう一度、お願いできるかな」
「お友達です」
「誰と?」
「私とアレクシス様が」
「なぜ?」
「お互い、婚約者に寂しい思いをさせられておりますので」
彼の眉がぴくりと動いた。
「……ミレーヌのことか」
「はい」
「何か聞いたのか?」
「私の婚約者が、ミレーヌ様と観劇に行きました」
「そうか」
「私の誕生日に」
「……そうか」
「しかも、ミレーヌ様は男友達みたいなものだから、嫉妬するなと」
アレクシス様は無言だった。
私は続けた。
「ですから、私も男友達を作ることにいたしました」
「……私を?」
「はい」
「なるほど」
彼はゆっくりと書類を置いた。
そして。
「ははっ」
笑った。
声を上げて。
「ははははっ!」
私は目を丸くした。
公爵様は片手で目元を覆い、肩を震わせている。
「……失礼。いや、これは……」
「お気に召しませんでした?」
「とんでもない」
彼は笑いを堪えながら言った。
「ここ数年で、最も愉快な申し出だ」
「では!」
「しかし、ローゼンベルク嬢」
彼は私を見た。
その青い目に、妙に楽しそうな光が宿っている。
「私は、友人になる女性を選ぶ男だよ」
「存じております」
「私と親しくすれば、君の婚約者は怒るだろう」
「でしょうね」
「それでも?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「怒ってもらいたいので」
アレクシス様が、また笑った。
「正直だな」
「嘘をつくのは苦手です」
「それで、私に何をしてほしい?」
「まずはお茶をご一緒していただけませんか」
「……お茶?」
「ええ。お友達ですから」
公爵様はしばらく考えてから、執事を呼んだ。
「茶を二人分。菓子も頼む」
「かしこまりました」
「ああ、それから」
彼は私を見て、口元を吊り上げた。
「今日の予定はすべて取り消してくれ」
「旦那様、本日は財務長官との……」
「友人との初めての茶会だ」
なんということでしょう。
私は早くも、財務長官より優先されてしまった。
3.お友達なので、腕くらい組みます
アレクシス様とのお茶会は、思いのほか楽しかった。
彼は噂と違って、よく話す男性だった。
ただし、話題が少し変わっている。
「先月、侯爵家の次男が賭博で三万枚の金貨を失った」
「まあ、大変」
「父親が私に借金を申し込んできた」
「お貸ししたのですか?」
「いや。代わりに賭場の所有権を買った」
「……はい?」
「次男が負けた金額の三倍を、胴元から回収した」
「まあ!」
私は感心した。
「なんて素敵なお話でしょう!」
「……素敵?」
「ええ。私、賢くお金を稼ぐ方が大好きです」
アレクシス様は目を細めた。
「君は変わっているな」
「よく言われます」
「褒めているんだ」
「では、ありがとうございます」
彼はまた笑った。
……本当に、よく笑う方だ。
私は不思議に思った。
どうしてこの方が、冷酷で無愛想などと言われているのだろう。
その答えは、三日後にわかった。
王宮で開かれた夜会。
私はアレクシス様の腕に手を添えて、会場へ入った。
瞬間。
ざわっ。
周囲がどよめいた。
「……ヴァレンティ公爵?」
「隣の令嬢は、ローゼンベルク伯爵家の……」
「あの方、レオンハルト様の婚約者では?」
私は堂々と歩いた。
アレクシス様は、そんな私を横目で見ている。
「緊張しないのか?」
「どうしてです?」
「相当な噂になるぞ」
「結構なことです」
「ほう」
「私は昨日まで、婚約者に放置される可哀想な女でしたもの」
私は胸を張った。
「今日からは、公爵様と仲のよい女です」
「……ふっ」
「おかしいですか?」
「いや。実に頼もしい」
そして彼は、わざとらしく私の手を取り、自分の腕に深く絡ませた。
「では、もう少し仲良くしてみようか」
「まあ」
私はにっこりした。
「お友達ですものね」
「ああ」
彼は私の耳元で囁いた。
「今夜は、君の望むだけ付き合おう」
……。
あら。
この方、女性に慣れていらっしゃる?
少しだけ、胸が跳ねた。
そのときだった。
「エリザベート!!」
聞き慣れた声が響いた。
振り向くと、レオンハルトが真っ赤な顔で立っていた。
隣には、淡い桃色のドレスを着たミレーヌ様。
もちろん、レオンハルトの腕にしっかり抱きついている。
「君は何をしているんだ!」
「こんばんは、レオンハルト様」
「なぜアレクシス公爵と腕を組んでいる!」
「お友達ですので」
「ふざけるな!」
私は目を瞬いた。
「まあ。どうして怒るのです?」
「どうしてだと!?」
「ミレーヌ様とは、いつも腕を組んでいらっしゃるではありませんか」
「あれは幼馴染みだからだ!」
「アレクシス様とは、最近お友達になりました」
「最近!?」
「はい。まだ四日目です」
「四日でそんなに親しくなるな!」
私は首を傾げた。
「お友達になるのに、何日必要なのでしょう?」
「そういう問題じゃない!」
レオンハルトは、今にも湯気を噴きそうだった。
すると、彼の腕に絡んでいたミレーヌ様が、潤んだ瞳で私を見た。
「エリザベート様……ひどいです」
「まあ。何がでしょう?」
「アレクシス様は、私の婚約者なのですよ?」
「存じております」
「それなのに、こんな……」
彼女は唇を震わせた。
「私から、アレクシス様を奪うおつもりなのですか?」
周囲の視線が集まる。
私は少し考えた。
それから、尋ねた。
「ミレーヌ様」
「……はい?」
「貴女は今、どなたの腕を抱いていらっしゃるのでしょう?」
「え?」
「私の婚約者の腕ですわね」
「そ、それは……」
「お二人は、ただのお友達なのでしょう?」
「も、もちろんです!」
「では、私たちもただのお友達です」
私はアレクシス様を見上げた。
「ね?」
彼は涼しい顔で答えた。
「ああ。今のところはね」
……今のところ?
私は少し引っかかったが、深く考える前にレオンハルトが叫んだ。
「アレクシス公爵! 貴方ほどの方が、他人の婚約者に手を出すとは!」
その瞬間。
公爵様の笑顔が消えた。
あ。
私は思った。
これが、噂の冷酷な公爵様か。
「レオンハルト殿」
低い声だった。
「君は、私の婚約者と何をしている?」
「……え?」
「婚約者でもない女性を伴って夜会に出席し、腕を組ませている。随分と親密なようだが」
「そ、それは幼馴染みで……」
「私は君に聞いている」
レオンハルトが黙った。
「私の婚約者を伴っている君が、なぜ私に説教している?」
「……っ」
「先ほど、他人の婚約者に手を出すなと言ったな」
アレクシス様は微笑んだ。
怖い。
この方、笑っているのに怖い。
「それは私の台詞だと思うが?」
レオンハルトは何も言えなかった。
私は少し感心した。
なるほど。
公爵様というのは、便利なものなのですね。
4.幼馴染みのお姫様は、二人とも欲しいらしい
それから一週間。
私とアレクシス様の交友は順調に深まっていた。
劇場。
美術館。
王都の菓子店。
郊外の乗馬場。
彼は驚くほど気前よく、そして付き合いのよい男性だった。
「エリザベート。次はどこへ行きたい?」
「新しくできた菓子店です!」
「昨日も菓子店だったが」
「昨日は焼き菓子です。今日は生菓子です」
「大きな違いだな」
「ええ。大違いです」
「では行こう」
彼は笑いながら馬車を出してくれた。
そんな日々の中で、私はあることに気づいた。
アレクシス様は、私の話を覚えている。
好きな紅茶。
苦手な食べ物。
読みたいと言った本。
そして、私の誕生日。
「少し遅れたが」
ある日の帰り際、彼は小さな箱を差し出した。
「誕生日の贈り物だ」
中には、美しい琥珀色の髪飾りが入っていた。
「……まあ」
「君の瞳に似合うと思った」
私はしばらく言葉を失った。
婚約者からは、誕生日の贈り物をもらっていない。
アレクシス様は、それを知っていた。
「……ありがとうございます」
「気に入らなかったか?」
「いいえ」
私は笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「とても、嬉しいです」
すると彼は、少し困ったような顔をした。
「……エリザベート」
「はい?」
「君は、もっと大切にされていい女性だよ」
胸が、きゅっと痛んだ。
私は慌てて顔を上げた。
「まあ! お友達にそんなことを言ってはいけませんわ!」
「なぜ?」
「勘違いしてしまいますもの!」
「……勘違い?」
彼は私をじっと見た。
そして、妙に楽しそうに笑った。
「それは困ったな」
「ええ。困ります」
「では、しばらく勘違いさせておこう」
「……はい?」
「いや、何でもない」
この方は時々、意味のわからないことをおっしゃる。
けれど。
私はもう、この時間が好きになっていた。
だからこそ。
翌日、ミレーヌ様が私の屋敷へ押しかけてきたとき、少しだけ腹が立った。
「エリザベート様!」
彼女は応接室に入るなり、涙を浮かべた。
「アレクシス様を返してください!」
私は紅茶を飲んだ。
「返す?」
「そうです! あの方は私の婚約者です!」
「存じております」
「だったら、どうして!」
私はカップを置いた。
「ミレーヌ様」
「何ですか!」
「貴女はレオンハルト様がお好きなのですか?」
「……え?」
「お好きなのでしょう?」
「ち、違います!」
「では、アレクシス様を愛していらっしゃる?」
「もちろんです!」
「そうですか」
私は頷いた。
「でしたら、レオンハルト様とは距離を置かれた方がよろしいのでは?」
「どうしてですか!?」
「アレクシス様が、お寂しい思いをなさるでしょう?」
彼女は唇を噛んだ。
「……アレクシス様は、そんなことを気にする方ではありません」
「どうしてそう思うのです?」
「だって、あの方は私に興味がないんですもの!」
ああ。
なるほど。
私はようやく理解した。
ミレーヌ様は、レオンハルトが好きなのではない。
自分を甘やかしてくれるレオンハルトが好きなのだ。
そして、アレクシス様も手放したくない。
公爵夫人という地位も。
莫大な財産も。
誰もが羨む美しい婚約者も。
全部、欲しい。
けれど、その婚約者が自分以外の女性に優しくするのは許せない。
「……ミレーヌ様」
「何ですか」
「ひとつ、お聞きしてよろしい?」
「……ええ」
「貴女、アレクシス様と最後にお茶を飲んだのはいつです?」
彼女は目を瞬いた。
「……覚えていません」
「最後にお話ししたのは?」
「先月……かしら」
「お誕生日は?」
「もちろん知っています! ええと……春です!」
私はため息をついた。
アレクシス様の誕生日は、十一月二日。
来月だ。
「ミレーヌ様」
「何ですか!」
「貴女、本当にアレクシス様が欲しいのですか?」
「当たり前でしょう!」
「それとも」
私は静かに尋ねた。
「私に取られるのが嫌なだけでは?」
彼女の顔が真っ赤になった。
「失礼な!」
そして立ち上がると、叫んだ。
「レオンハルト様に言いつけますから!」
……。
私は思わず笑いそうになった。
婚約者のことを、別の男性に言いつける。
なんとも、不思議なご令嬢である。
5.婚約者交換会を開きましょう
その日の夕方。
レオンハルトが怒鳴り込んできた。
「エリザベート! ミレーヌを泣かせたそうじゃないか!」
「泣かせてはいませんわ」
「嘘をつくな!」
「本当です。勝手に泣かれたのです」
「君は昔からそういう冷たいところがある!」
私はじっと彼を見た。
この人は、いつからこんなに愚かだったのだろう。
婚約したばかりの頃は、もう少しましだった気がする。
少なくとも、私の話を聞こうとはしていた。
それが今では。
「ミレーヌは繊細なんだ! 君のように図太くない!」
「そうですか」
「彼女は君と仲良くしたいだけなのに!」
「まあ」
私は微笑んだ。
「では、よいことを思いつきました」
「何だ?」
「婚約者を交換いたしましょう」
沈黙。
「……は?」
「レオンハルト様はミレーヌ様を、私はアレクシス様を。これで皆が幸せです」
「何を馬鹿なことを!」
「どうしてです?」
「ミレーヌは友人だと言っているだろう!」
「でも、私より優先なさるのでしょう?」
「それは……!」
「私の誕生日も、約束も、体調も、すべて後回しですものね」
私は指を折った。
「先月、私が熱を出したときも、ミレーヌ様の買い物に付き添っていらっしゃいました」
「それは、彼女が一人では不安だと言うから……」
「先々月、私の父が倒れたときも、ミレーヌ様の舞踏会に同行なさった」
「彼女には相手が必要だったんだ!」
「そして三日前」
私は彼を見据えた。
「私がアレクシス様とお茶を飲んだだけで、貴方は怒鳴り込んでいらした」
「当たり前だろう!」
「では、お尋ねします」
私は微笑みを消した。
「私が一番でなければ、どうして私と結婚なさるのです?」
レオンハルトは口を開いた。
そして、閉じた。
しばらくしてから、吐き捨てるように言った。
「……結婚というのは、恋愛だけでするものじゃない」
「ええ。存じております」
「家同士の結びつきがあるんだ」
「そうですね」
「君は伯爵家の娘だ。私の家にも都合がいい」
私は頷いた。
「なるほど」
そして。
「つまり、私は都合のよい婚約者なのですね」
「……そんな言い方をするな!」
「いいえ。大変わかりやすくて助かりました」
私は立ち上がった。
「では、婚約を解消いたしましょう」
「……何?」
「私にも都合というものがございますので」
レオンハルトの顔色が変わった。
「待て! 勝手なことをするな!」
「勝手?」
「婚約は家同士の問題だ!」
「ええ。ですから、父に相談いたします」
「君の父上が認めるものか!」
私は首を傾げた。
「どうしてそう思われるのです?」
「我が家との縁談を失えば、ローゼンベルク家にも損失が……!」
「レオンハルト様」
私は、なるべく優しく言った。
「我が家と貴家、どちらがお金持ちかご存じです?」
「……は?」
「父は、貴家の領地開発に多額の資金を貸しております」
「それがどうした!」
「返済期限は来年です」
「……」
「婚姻を前提に、返済期間の延長を検討しておりましたけれど」
私はにっこりした。
「婚約がなくなれば、当然そのお話もなくなりますわね」
レオンハルトの顔から、血の気が引いた。
「……ま、待て」
「何でしょう?」
「それは困る」
「まあ」
私は微笑んだ。
「お困りなのですね」
「エリザベート、頼む。落ち着いて話し合おう」
「先ほどから、ずっと落ち着いておりますわ」
「私が悪かった!」
私は少し驚いた。
謝れるのか、この人。
けれど。
「ミレーヌとは距離を置く! だから婚約解消だけは……!」
彼が私の手を取ろうとした瞬間。
「その必要はない」
低い声が響いた。
扉の前に立っていたのは、アレクシス様だった。
「……公爵閣下!?」
レオンハルトが飛び上がる。
私は嬉しくなって手を振った。
「まあ、アレクシス様!」
「迎えに来たよ、エリザベート」
「お早いですね!」
「君が面白い話をする予定だと聞いたので」
そう言って、彼は私の隣に立った。
そしてレオンハルトに微笑んだ。
「婚約を解消するそうだね」
「い、いえ! まだ決まったわけでは……!」
「そうか」
アレクシス様は私を見た。
「エリザベート。君の意思は?」
「解消したいです」
「承知した」
彼は頷いた。
あまりにもあっさりと。
「では、私が証人になろう」
「なっ……!」
「ヴァレンティ公爵家が立ち会えば、手続きも早い」
レオンハルトは青ざめた。
「公爵閣下! 貴方はミレーヌの婚約者でしょう!」
「ああ」
「なのに、なぜエリザベートの肩を持つのです!」
アレクシス様は、心底不思議そうな顔をした。
「友人だからだが?」
私は笑った。
この方、本当に面白い。
6.婚約者をいただくことにしました
婚約解消は、驚くほど速やかに進んだ。
父は私の話を聞くなり、机を叩いて怒った。
「誕生日に別の女と劇場だと!?」
「はい」
「熱を出したお前を放っておいて買い物!?」
「はい」
「しかも、うちの金を借りている分際で!?」
「はい」
父は真っ赤になった。
「婚約解消だ! 今すぐだ!」
……思っていたより簡単だった。
父はレオンハルトの家に融資していた資金についても、契約書を調べ直した。
すると、出るわ出るわ。
開発資金の一部が、なぜか宝飾品や高級馬車の購入費に流れていたのである。
購入した宝飾品の送り先は、オルブライト伯爵家。
つまり、ミレーヌ様。
「……あの馬鹿息子め」
父は低く唸った。
「うちの金で女に貢いでいたのか」
「まあ」
私は目を丸くした。
「なんて立派なお友達でしょう」
「笑い事ではない!」
「申し訳ありません」
けれど、少しおかしかったのだ。
私の誕生日には何も贈らなかった男性が、幼馴染みには宝石を贈っていた。
それも、我が家から借りたお金で。
……。
あら。
やっぱり、おかしくないわね。
少し腹が立ってきた。
父は契約違反の調査と返済請求を始めた。
レオンハルトの家は、たちまち大騒ぎになった。
彼の父親である子爵は、息子を勘当すると叫んだらしい。
そして、その騒動が王都中に広まった頃。
私はアレクシス様から、とんでもない話を聞かされた。
「ミレーヌとの婚約を解消した」
「……はい?」
公爵家の応接室。
私は口に運びかけた菓子を止めた。
「今、何と?」
「ミレーヌとの婚約を解消した」
「……なぜです?」
「必要がなくなったので」
「必要?」
アレクシス様は紅茶を飲んだ。
「そもそも、あの婚約は父の遺言によるものだった」
「まあ」
「オルブライト伯爵には、父が生前世話になっていてね。娘の後見を頼まれたのだが、伯爵が婚約という形を望んだ」
「そうだったのですね」
「だが、ミレーヌは私との交流を拒んでいた。レオンハルト殿と過ごす方が楽しいらしい」
「それは……」
「婚約解消の申し入れを三度したが、伯爵家が応じなかった」
「三度も?」
「ああ。今回は不貞を疑われる行動が公になったので、ようやく合意に至った」
私は菓子を置いた。
「……アレクシス様」
「何かな」
「もしかして、私と親しくなさったのは、そのためですか?」
彼は私を見た。
「そう思う?」
「……少し」
私は膝の上で手を握った。
ああ。
そうか。
私たちは、お互いの婚約者に腹を立てていた。
だから、一緒に過ごした。
アレクシス様にとっても、婚約解消のよい口実になったのだろう。
それは当然だ。
私は彼を利用した。
彼も私を利用した。
ただ、それだけ。
……なのに。
どうして、こんなに胸が痛いのだろう。
「エリザベート」
「はい」
「君は、少し勘違いしている」
「……え?」
彼は立ち上がった。
そして、私の前に片膝をついた。
……。
はい?
「ア、アレクシス様!?」
「最初は、確かに面白いと思った」
彼は笑った。
「婚約者に放置された令嬢が、相手の婚約者を友人にしようとする。そんな発想をする女性は初めてだった」
「そ、それはどうも……」
「けれど、一緒に過ごすうちに、君のことが好きになった」
私は固まった。
「君はよく笑う。よく食べる。金勘定が得意で、負けず嫌いで、少し意地っ張りだ」
「……褒めていらっしゃいます?」
「もちろん」
彼は私の手を取った。
「君が菓子店で三種類のケーキを前に、どれを選ぶか真剣に悩んでいる姿を見るのが好きだ」
「……っ」
「君が領地の帳簿を見て、無駄な経費に腹を立てる姿も」
「……」
「君が、私の話を聞いて笑うところも」
青い瞳が、私を見つめている。
「エリザベート」
「……はい」
「私と結婚してくれないか」
私は口を開いた。
閉じた。
また開いた。
「……お、お友達では?」
彼は笑った。
「残念ながら、私は君を男友達だと思ったことは一度もない」
「……!」
「最初から、可愛らしい女性だと思っていたよ」
顔が熱くなった。
どうしよう。
どうしましょう。
この方、なんて恐ろしいことを言うのだろう。
「……あの」
「うん」
「私、ケーキを三つとも食べますよ?」
「知っている」
「怒ると、口が悪くなります」
「それも知っている」
「お金にも細かいです」
「頼もしいね」
「……私、そんなに素敵な女性ではありません」
アレクシス様は、少しだけ眉を下げた。
「誰に言われた?」
「……」
「レオンハルト殿か?」
私は答えなかった。
彼は私の手を、そっと握り直した。
「では、これから私が訂正しよう」
私は顔を上げた。
「君は美しくて、賢くて、とても魅力的な女性だ」
「……」
「少なくとも、私は毎日そう思っている」
……。
ずるい。
こんなの、ずるい。
私は思わず俯いた。
「……アレクシス様」
「うん」
「私、ひとつお願いがございます」
「何でも」
「……もう一度、言ってください」
「何を?」
「……結婚してほしいって」
彼は一瞬、目を丸くした。
そして、心から嬉しそうに笑った。
「エリザベート。私と結婚してくれ」
私は、彼の手を握り返した。
「……はい」
その瞬間。
彼は私を抱きしめた。
強く。
けれど、とても優しく。
「……よかった」
耳元で聞こえた声は、少し震えていた。
私は驚いた。
あの冷酷な公爵様が。
こんなにも、緊張していらしたなんて。
「……アレクシス様」
「何かな」
「私、ひとつだけ気になることが」
「うん?」
「……お友達では、なくなるのですよね?」
「そうだね」
「では、もう遠慮しなくてよろしいのでしょうか」
彼は微笑んだ。
「何を?」
私は胸を張った。
「次の菓子店では、ケーキを四つ注文したいです!」
アレクシス様は、しばらく私を見つめた。
そして。
「ははははっ!」
声を上げて笑った。
「もちろん! 好きなだけ食べるといい!」
……ああ。
私は、この笑顔が好きだ。
心から、そう思った。
7.男友達の末路
私たちの婚約発表は、王都に大きな衝撃を与えた。
何しろ、冷酷と名高いヴァレンティ公爵が、元婚約者の知人と再婚約したのだ。
しかも、以前とは別人のように機嫌がよい。
夜会では私を伴い、必ず一曲踊る。
私が疲れれば椅子を用意し、喉が渇けば飲み物を持ってくる。
私が誰かと話していれば、少し離れたところで待っている。
……ただし、男性が長話をすると、いつの間にか隣に現れる。
「エリザベート。そろそろ次の曲だ」
「まあ、まだ十分も経っておりませんわ」
「十分も経った」
「……アレクシス様?」
「君と踊りたい」
そんなことを真顔でおっしゃるものだから、私はいつも負けてしまう。
一方。
レオンハルトとミレーヌ様は、大変なことになっていた。
レオンハルトの父親は、契約違反となった融資の返済に追われた。
領地開発は中断。
使用人の給金も遅れ、屋敷の宝飾品や馬車が次々に売却された。
レオンハルト本人は、父親から勘当こそ免れたものの、家の財政が立ち直るまで領地で働くよう命じられた。
ミレーヌ様はというと。
アレクシス様との婚約解消によって、公爵夫人になる夢を失った。
伯爵家も、公爵家からの援助を期待していたらしく、彼女を厳しく叱責したという。
そして。
ある日、私はレオンハルトから手紙を受け取った。
『エリザベート。
君が本当に私を見捨てるとは思わなかった。
私は間違っていた。
ミレーヌとは距離を置くことにした。
どうか、もう一度やり直してほしい。
君と過ごした日々が、私にとって何より大切だったと気づいたんだ。』
私は手紙を読み終えた。
そして、少し考えた。
「……アレクシス様」
「何かな?」
「元婚約者から、復縁を求める手紙が届きました」
彼の笑顔が消えた。
「……ほう」
私は手紙を差し出した。
彼は目を通した。
そして、にっこり笑った。
……怖い。
「エリザベート」
「はい」
「返事は?」
「もちろん、お断りします」
「そうか」
彼は満足そうに頷いた。
「では、私からも一筆添えよう」
「何と?」
「今後、私の婚約者に私的な手紙を送らないように、と」
「まあ」
私は笑った。
「嫉妬ですか?」
「そうだよ」
あっさり認められた。
私は思わず赤面した。
「……そ、そんな」
「私は心が狭い男だからね」
彼は私の手を取った。
「君の元婚約者には、二度と近づいてほしくない」
「……はい」
「それから」
「はい?」
「私を男友達扱いするのも、そろそろやめてくれないか」
私は目を瞬いた。
「……まだ気になさっていたのですか?」
「大いに」
「まあ」
「婚約してからも、君は時々『お友達ですものね』と言うだろう」
「それは、つい……」
「私は君の婚約者だ」
彼は私の手の甲に口づけした。
「将来の夫で、君に恋をしている男だ」
……。
まただ。
この方は、どうしてこうも平然と!
「……わ、わかりました!」
「本当に?」
「はい!」
「では、私のことを何と呼ぶ?」
私は少し考えた。
それから、彼の耳元に顔を寄せた。
「……私の、大好きな婚約者様」
アレクシス様が固まった。
……あら?
珍しい。
彼の耳が、じわじわと赤くなっていく。
私はにんまり笑った。
「まあ、アレクシス様」
「……何かな」
「照れていらっしゃる?」
「……少し」
「ふふっ」
私は彼の腕に抱きついた。
「これからも、たくさん言いますね!」
彼は片手で顔を覆った。
「……参ったな」
そう呟きながらも、私を抱き寄せる腕は緩まなかった。
8.結局、幼馴染みとはどうなったの?
その後、レオンハルトとミレーヌ様がどうなったのか。
実は、少しだけ面白い話がある。
私との復縁を断られたレオンハルトは、ミレーヌ様に求婚したらしい。
もともと仲のよい二人だ。
案外、うまくいくかと思ったのだが。
「……お断りします!」
ミレーヌ様は即答したという。
理由は。
「私、公爵夫人になるつもりだったんですもの!」
……なるほど。
実に正直である。
しかし、今や公爵家との婚約は解消済み。
社交界では、他人の婚約者と親密にしていたことも知れ渡っている。
彼女に新しい縁談は、なかなか来なかった。
一方、レオンハルトは領地で働きながら、何度も私に手紙を送ろうとした。
けれど、そのたびにアレクシス様の執事が丁重に断ったらしい。
そして、半年後。
二人はとうとう結婚することになった。
恋愛結婚ではない。
互いの家の事情によるものだ。
レオンハルトの父親は、息子にこれ以上余計な女性関係を持たせたくなかった。
ミレーヌ様の父親は、娘の嫁ぎ先を早く決めたかった。
そこで、幼馴染み同士ならば問題ないだろう、と話がまとまったのだ。
ところが。
結婚式の一ヶ月前。
ミレーヌ様は泣きながら叫んだという。
「どうして私が、レオンハルト様と結婚しなければならないの!?」
レオンハルトも怒鳴り返した。
「君が私を頼るから、こんなことになったんだろう!」
「だって、貴方は私の男友達でしょう!?」
「男友達なら、どうして結婚しなきゃいけないんだ!」
……。
まあ。
なんということでしょう。
ようやく、お二人とも同じ疑問に辿り着いたらしい。
私はその話を聞いて、思わず笑ってしまった。
「ふふっ。アレクシス様」
「何かな?」
「お二人、仲がよろしいのか悪いのか、わかりませんわね」
「少なくとも、我々ほど仲良くはないだろうね」
「まあ。そうでしょうか?」
「そうとも」
アレクシス様は私の腰を抱いた。
「我々は、婚約してから一度も喧嘩をしていない」
「……それは、アレクシス様が私を甘やかしてくださるからです」
「そうかな」
「ええ。昨日だって、私がケーキを五つ食べたいと言ったら……」
「六つ買ったね」
「そうです!」
私は頬を膨らませた。
「私を太らせるおつもりですか?」
「君が幸せそうに食べるから」
「もう!」
彼は笑った。
私はその笑顔を見て、つられて笑った。
……ああ。
幸せだ。
私の誕生日を忘れた元婚約者。
私の約束を軽んじた元婚約者。
私より幼馴染みを優先した元婚約者。
あの頃は、ずいぶん悲しかった。
けれど、今なら思う。
あの人が私を大切にしてくれなくて、よかった。
だって。
「エリザベート」
「はい?」
「来月の君の誕生日だが」
アレクシス様は、少し得意そうな顔をした。
「王都の劇場を貸し切った」
「……はい?」
「君が見たがっていた歌劇の特別公演だ」
「……えっ」
「それから、夕食は君の好きな料理店を予約してある」
「……ええっ!?」
「贈り物も用意したが、それは当日のお楽しみだ」
私は呆然とした。
「ア、アレクシス様……」
「気に入らなかった?」
「と、とんでもありません!」
私は勢いよく彼に抱きついた。
「大好きです!!」
アレクシス様が笑った。
「私もだよ」
そして、私の額に口づけを落とした。
「……ああ、そうだ」
「はい?」
「ひとつだけ、訂正しておこう」
「何をでしょう?」
彼は、いたずらっぽく微笑んだ。
「君は以前、私を男友達にすると言ったね」
「……はい」
「だが、私は最初から、君の友人になるつもりはなかった」
「……え?」
「初めて会った日、君が『お友達になってください』と言ったとき」
彼は私の頬に触れた。
「私は、君を妻にしたいと思ったんだ」
……。
……。
「えええええっ!?」
私は思わず叫んだ。
「そ、そんな! あの日は初対面でしたでしょう!?」
「そうだね」
「なのに!?」
「一目惚れというものだろう」
「……っ!」
彼は楽しそうに笑った。
「だから、あのとき君が訪ねてきてくれて、本当によかった」
私は真っ赤になった。
なんてこと。
私ったら。
婚約者への仕返しのつもりで、別の男性に近づいたのに。
その男性は、最初から私を狙っていたというの?
「……アレクシス様」
「何かな」
「貴方、とんでもない方ですわね……」
「よく言われる」
「冷酷で、腹黒くて……」
「うん」
「……でも、大好きです」
彼は少しだけ目を見開いた。
そして、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、エリザベート」
私は彼の胸に顔を埋めた。
……本当に。
人生、何が起こるかわからない。
男友達みたいなものだからと、幼馴染みを優先した婚約者。
その言葉に腹を立てて、私は別の男性を友人にしようとした。
結果。
元婚約者は、幼馴染みと結婚することになり。
私は。
幼馴染みの婚約者だった、とびきり素敵な公爵様をいただくことになった。
それも、どうやら。
最初から、私の方がいただかれる予定だったらしい。
……まったく。
男友達というのも、油断ならないものである。
【完】




