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第七話 読んだ(理解したとは言っていない)

「統合動員演習ニ関スル共通文例及附録様式案」の起草は、当初、ただの延長業務のはずだった。


はずだった。

そういう言い方をする時、人はたいてい、その後に面倒な話を続ける。

今回も例外ではない。


クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉は、まず既存の文書を三つの山に分けた。


一つ目は、君侯の御名や政府公報の格式に関わる紙。

いわば「飾りの紙」だ。


二つ目は、列車番号、起算時刻、部隊符号、到着順といった紙。

「動かす紙」である。


三つ目は、各部署が自分たちの存在を忘れられぬよう、どうしても差し込みたがる紙。


三つ目の山が、一番高かった。


ノルトマルク連邦とは、平時は各邦が誇り高く細分化され、戦時にだけ奇跡的に一つへ繋がる国家である。

その接続部には、いつも書類が溜まる。

誇りというものは抽象的に見えて、実際には別紙添付を好む性質があるらしい。


三日かけて、文章を削り、欄を足し、欄を減らし、また戻した。


前文は各邦ごとに差し替え可能であること。

附録の様式は共通であること。

電信では前文を省略し、附録番号だけで起算できること。


ここまではいい。

いつもの「欄を分ける」仕事の延長だ。


問題は、そのもう一つ先にあった。





この手の書類は、送っただけでは意味がない。


相手が読んだかどうかが分からないからだ。


クラウスはこれまでの会議で、こういうやりとりを何度も見てきた。


「あの書類は送りました」

「読んでいない」

「送ったはずです」

「受け取ったかもしれないが、読んでいない」

「読んでいないとは何事ですか」

「読む義務があるとは聞いていない」


この種の押し問答を、後から延々やることになるのが嫌だった。

嫌というだけで済まない。

たいてい最後には誰かが怒鳴り、その怒鳴り声は驚くほどよく自分の机まで届く。


だから、確認票を別の紙にした。


動員告示の本文と附録を受け取ったら、確認票に署名して返送する。

それだけだ。

内容を理解したかどうかは分からない。

だが少なくとも、「読んでいない」とは言えなくなる。

署名があるからだ。


人間は内容を読まなくても、署名欄があると急に真面目になる。

安い誠実さだが、制度にとっては十分だった。


さらに、確認票の中に「附録先行受領」という欄を一つ足した。


これは本文の方で揉めた場合に、附録だけ先に受け取ったと署名させるための欄である。


いるだろうか、とは思ったが念のため入れておいた。

各邦の連絡将校たちが、本文の修辞だの敬称だので揉めて、肝心の列車指令まで止める光景があまりにも容易に想像できたからだ。


人間は体面にこだわって実務を止める。

止めた後で困るのは、たいてい自分だ。


だから「本文で揉めても、附録だけは先に動かせる」仕組みである。

後で自分が怒鳴られないための、極めて俗な保険であった。





草案が軍務会議へ回ると、予想通り、細部でざわついた。


グラーフェン邦は、前文差込欄の「各邦現行格式ニ従ヒ」が中央の恩着せがましさを感じさせると難色を示した。

法務局は確認票の文面に「受領」のみならず「理解」の語を入れるべきだと主張した。

鉄路局は「理解」を確認する義務までは負えないと顔をしかめた。

軍務省は逆に、理解されない受領など意味がないと言い始めた。


議論が、「理解とは何か」に向かい始めた。

哲学論議をやめてくれ、とクラウスは思った。


「理解とは何か」は軍務会議でやる話ではない。

少なくとも列車の時刻表に関わる場で、認識論の講義は不要だ。


だが「理解」と書けば法務局は満足し、書かなければ怒る。

かといって「理解」を入れれば、今度は鉄路局が「では理解できていなかったら責任を負うのか」と騒ぐ。


要するに、「理解」という語が重すぎるのだ。


なら、もっと軽い語にすればいい。


クラウスは草案の余白に、小さく一行書き足した。


『受領及ビ通読済ノ確認』


「理解」ではない。

「通読済」だ。


読んだかどうかは確認できる。

理解したかどうかは、正直なところ誰にも分からない。

自分だって会議中に読み上げられた文書を全部理解しているかと問われれば、少し怪しい。

いや、間違いなく何となくしかわかっていない。

だったら、分かるものだけ確認すればよい。

「読みました」と署名させる。


「それでいこう」

ヴィルマー中将が、疲れ果てた人間特有の迅速さで言った。

「理解の有無は各自の胸中だ。だが、読んだかどうかは紙の上で決められる」


中将はいま、クラウスの思いつきを格言のように言い直した。

格言にするつもりはなかったのだが、偉い人が言い直すと何でもそうなる。


法務局は不満そうだったが、否定しきれなかった。

鉄路局はあからさまに安堵した。

軍務省は「通読済」を「理解への努力を前提とする」と勝手に解釈して頷いた。


勝手に解釈してくれるなら、それでいい。

全員が違う意味で納得していても、紙の上では同じ語に署名している。





実地試験は翌週に行われた。


統帥府、軍務省、鉄路局、北部二邦の連絡所を結んだ模擬電信で、動員告示本文と実動附録、確認票別葉が実際に回される。


目的は文面の格調ではなく、時刻がずれないかどうか。

それだけである。


午前九時二十分、第一発信。

九時二十三分、鉄路局受領。

九時二十七分、ノルデック邦軍務局受領。

九時三十二分、グラーフェン邦公報課受領。


ここまではよかった。


問題は、その十分後に起きた。


グラーフェン邦から問い合わせが入った。


「告示本文第三行の君侯名の綴りに誤記がある。附録送達を一時停止したい」



電信室の空気が凍った。


……綴り?

全員の脳内に疑問符が浮かんだ。


君侯名の綴りの誤記で、列車の指令を止めるのか。と。


鉄路局の文官が「まさか」と呟いた。

ハルトゥング少佐が額に手を当てた。

ヴィルマー中将は低く唸った。


クラウスは、一瞬だけ目を閉じた。


本文の修辞で揉めて、実務まで止める。

まさにこれを恐れて「附録先行受領欄」を作ったのだ。


「附録だけ先行させてください」

その言葉は、反射に近かった。


「本文誤記の修正確認は後送で」

「しかし、それでは」

クラウスは鉄路局員を遮って、書類を見るように促した。


「草案を確認してください。確認票別葉の第三欄に“附録先行受領”があります。そこに署名させれば、法務上も実務上も分けて扱えます」


電信室の全員が、ほぼ同時に草案のその欄を見た。


確かにあった。

クラウスが念のため入れておいた保険である。


「グラーフェン邦へ、附録先行受領欄への署名を要求。本文誤記は修正後追送。列車時刻起算は予定通り」

鉄路局の文官が、祈るような速さで電信を打った。


十分後。

グラーフェン邦から返信。


「附録先行受領、通読済、署名済」


列車は動いた。

少なくとも、致命的な遅れは生じさせずに。


部屋の空気が変わった。


いや、正確に言えば、空気が変わったのではない。

全員がクラウスを見る目が変わった。


あの欄は最初から入っていた。

つまりこの手の馬鹿げた停止を、この若い大尉はあらかじめ見越していたのだ。

人間が本文にこだわって実務を止めることを。


――そういう視線だった。


もちろん、実態は違う。

自分が怒鳴られないための逃げ道を一つ作っておいた。

それだけである。


だが組織において、その二つの区別はどうやら明確にはつかないらしい。


ハルトゥング少佐が草案を閉じ、短く言った。

「……読んでいたのですか?」


クラウスは少し迷ってから答えた。

「ありそうでしたので」


「それを、普通は想定というのです」

少佐の声はいつも通り平坦だった。

だが、その奥には、いつもの苛立ちだけではないものが混じっていた。





試験は最終的に成功とされた。


成功の理由は、国軍の偉大な叡智でも、若き参謀の先見の明でもない。

「人間は体面にこだわって実務を止める」という前提で様式が作られていたからだ。


制度とは、人間が賢いことを期待するのではなく、愚かなままでも最悪を回避できるよう設計する技法である。

立派ではないが、たいてい有効だ。


――と、後年の軍史家であれば書くだろう。


だがクラウス本人の動機はもっと素朴だった。


「後で怒鳴られたくないから、先に逃げ道を作っておいた」


ただそれだけである。





その日の午後、統帥府長官補佐官室から召喚が来た。


南棟の一番奥。

普段は自分のような若手が滅多に呼ばれない部屋だ。

補佐官は細身の中将で、顔色の悪さだけで仕事量を証明する種類の人物だった。


机の上には、試験結果の要約と、軍務会議議事録、それにクラウスの草案写しが置かれていた。


「ライフェンベルク大尉。確認票別葉と、附録先行受領欄。これは君の発案か」

「はい。必要かと考えましたので」

「必要、か」


補佐官はそこで顔を上げた。


「君はしばしば、“必要”という語で済ませるな」

返答に困る。

「必要」以外に理由がないからだ。

怒鳴られたくなかったからです、とまでは言えない。


「夏の演習までに、これを暫定標準とする」

補佐官は続けた。

「正式な統一法令ではない。だが少なくとも、統帥府、軍務省、鉄路局、輜重監部はこの様式で動く。各邦にもそう通達する」


自分が「後で揉めたら面倒だから」と作った欄が、連邦の暫定標準になる。

あまり現実感が無かった。

「加えて、夏季統合動員演習において、君は軍務会議書記補にとどまらず、実施本部付の連絡調整官補佐を兼ねる。ハルトゥング少佐とともに実施中枢へ入れ」


その語は、責任と雑務が濃く集まる場所のことだ。

出世と言えば出世なのだろう。

だがクラウスの耳には、「もっと面倒なところへ行け」としか聞こえなかった。


「光栄に存じます」


もう、それ以外の返事はない。

補佐官は頷き、それから紙の端を指で示した。


「それと、ベルヴァーニュ公使館付武官が、我が方の演習運用に妙な興味を示しているらしい。若手士官の名まで聞き出そうとしたという話もある。君も当面、余計な場では余計な口を利かぬように」

「私は、特に申すこともありませんが」

「結構。申すことの多い士官は、たいていこちらの胃に悪い」


補佐官のその一言は、冗談のようでいて半分本気に聞こえた。

顔色の悪い人間が言う冗談は、どこまでが冗談か分かりにくい。



部屋を出て、クラウスは数秒だけ立ち止まった。


夏の演習。

実施本部。

暫定標準。


言葉としては立派だ。

だが実態は、自分が「後で揉めたくない」一心で作った二枚綴りや確認票や附録先行受領欄が、もう後戻りしないところまで制度に食い込んでしまった、ということだった。


……まあ、考えても仕方がない。

自分にできることは変わらない。

欄を分けて、言い方を変えて、怒鳴られないようにする。

結局それだけだ。





帰り際、ハルトゥング少佐が机の脇に立った。


「揃って実施本部だそうで」

「そのようです」

「本来なら、あなたの席ではない」

それは非難ではなく、観察しているように見えた。


クラウスも心中で同意した。

実施本部は、もっと決断力のある者、もっと構想を語れる者、もっと軍事的才能のある者が入るべき場所だ。

たとえば、この少佐のような。


「確かに、そうでしょうね」

だから正直に答えた。

少佐はそこで、わずかに目を細めた。

いつもの苛立ちは、もう薄い。


「だが、あの方々を一つの紙へ座らせるには、たぶんあなたの方が向いている」

それだけ言って、去っていった。


クラウスはしばらく、その言葉を反芻した。

向いている。

あの少佐がそう言ったという事実は、少しだけ重かった。





窓の外では、王都の屋根の向こうに初夏の薄い月が上がっていた。


夏の統合動員演習まで、あと七週間。


クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉は、怒鳴られたくないという一心で作った欄や別葉や二枚綴りによって、いつの間にか制度の接続部そのものとして扱われ始めていた。


人間は便利なものを道具として使う。

だが便利さが繰り返し結果を出すと、そこへ意味を見出す。

意味を見出された道具は、やがて人物になる。


その人物がいずれ「若くして全局を見通した参謀」と軍史に書かれるまで、まだしばらくかかる。

だが、そのための材料は――本人がひたすら「怒鳴られたくない」と思いながら作った書類の山は――もうかなりの分量が揃いつつあった。


本人の知らないところで。

本人の意思とは、あまり関係なく。

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