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第五話 ハルトゥング少佐

西部総監府での任務は、予定より六日長引いた。


六日。

たった六日といえばそうだが、「三週間」と言われて送り出された人間にとって、六日の延長は裏切りに近い。

しかもやっと帰れた理由が「問題は解決した」ではなく、「夏の統合動員演習準備会議において継続審議とする」という、いかにも官僚的な名前の付け替えによるものだったから、なおさらである。


人間は解決できない面倒事に出会うと、まず名前を整える。

名前が整うと、なぜか少し安心する。

問題は何一つ片づいていないのに。





クラウスが王都グランツェルへ戻ったのは、四月の終わりだった。


駅舎の煤けたガラス屋根も、統帥府の石壁も、出立した時と何ひとつ変わっていなかった。

ただ、出迎えに来た第三課の書記官が、以前よりほんの少しだけ丁寧に敬礼したことだけが違っていた。


人間の評価とは、こういう瑣末なところから滲み出す。

敬礼の角度が少し変わるだけで、何かが起きたのだと分かる。


自席に戻ると、机の上には不在中に溜まった書類が整然と積まれていた。

石炭割当表、予備蹄鉄の配分案、北部鉄路局との往復文書、工兵学校からの演習用架橋材請求。


懐かしい、とクラウスは思った。

相変わらず乾いていて、相変わらず人間より信用できる紙ばかりだ。


ここが自分の居場所だ、とも思った。

この机で、この数字を相手に、静かに暮らしたい。


その安堵は、午後まで持たなかった。


第三課長エッゲン大佐は、彼を呼び出すなり一通の書簡を軽く振ってみせた。

西部総監府の封蝋付きである。


「ヴァルテンベルク上級大将からだ」


嫌な予感がした。


「君の報告様式について、夏の統合動員演習準備会議でも採用を進言したい、とのことだ。ついでに、君自身もその場に同席させろとも書いてある」


追いかけてきた。

西部で一時しのぎに作った、あの「欄を分ける」方式が、王都まで追いかけてきたのだ。


「私は、ただ欄を分けただけですが」


それは純粋な事実だった。

名誉と実務を同じ欄に載せると揉めるから、分けた。それだけである。


「そこが重要なのだろう」


エッゲン大佐は、分かりきったことを改めて説明させられている顔で言った。


「多くの者は、欄を分ける前に思想を語り始める。君は語らずに先に分けた」


思想を語らなかったのは、思想がなかったからだ。

だが素直に言えば、それはそれで別の美徳に翻訳されるような気がする。

だからクラウスは黙って聞いていた。


「正式な辞令はまだだが」と課長は続けた。


「当面、君は第三課本務のまま、統合動員演習準備会議付の書記兼調整役だ。人事簿に新しい行が増える」


人事簿に新しい行。

それは出世を意味する言葉だが、クラウスの耳には「仕事が増える」としか聞こえなかった。


「喜びたまえ、と言いたいところだが、君はたぶん喜ばんだろうな」


この課長は、わりと人を見ている。


「……光栄に存じます」


もちろん、光栄ではなかった。

だが断れないことだけは、よく分かっていた。

エッゲン大佐はそこで、机上の別の書類へ目を落とした。


「もっとも会議には君一人では行かせない。実務計画の方は、ハルトゥング少佐が主導する」


ルートヴィヒ・ハルトゥング少佐。

名前は知っている。

第三課の一つ上の席次にいる、三十二歳の少壮将校だ。


鉄路運用と動員計画については、明らかにクラウスより深く考え、明らかにクラウスより鋭く判断する人物だった。

貴族の出身でないにもかかわらず、高等軍学院でも上位を争ったらしい。

自分が暗記で点を稼いでいた頃、この少佐はおそらく理解で点を取っていたのだろう。

正直自分の軍学校主席は成績半分、家名半分だと今でも思っているのだが、そんな自分とは明確に違う。

ただし、その鋭さは人を刺す。

才能には珍しくない性質だが、組織ではあまり好まれない。


「君も知っての通り、有能だ」


とエッゲン大佐は言った。


「だが、彼は正しいことを正しい順序で言いすぎる。年長者は、自分が理解する前に正しさを突きつけられるのを好まん。そこで君だ」


自分を指名されるのは、クラウスの人生において、ほとんど常に面倒事の前触れとして機能している気がした。


「私にできることが、あるでしょうか」


「ある。君は人を怒らせずに話を最後まで聞かせる。あれは才能だ。少なくともここでは希少な才能だ」


怒らせないのは才能ではなく、怒らせるのが怖いだけだ。

だが、この組織ではその区別は意味をなさないらしい。


そのとき、扉が叩かれ、当のハルトゥング少佐が入ってきた。


相変わらず痩せぎすで、髪はきっちり撫でつけられ、制服の皺ひとつ許さぬ種類の士官だった。

目は灰色で、相手の言葉より、その言葉の組み立て方の方を先に見てしまう人間の目をしていた。


こういう人は、たぶん自分の不出来をすぐ見抜く。

あまり近くにいたくないタイプだ、とクラウスは配属からずっと思っていた。


「お呼びとのことで」


「うむ。夏の統合動員演習準備会議についてだ。ハルトゥング少佐、君が輸送計画と展開案の原案を作る。ライフェンベルク大尉は調整役を兼ねて同席。諸邦軍と軍務会議向けの報告様式についても意見を求める」


ハルトゥング少佐の視線が、一瞬だけクラウスに向いた。


そこに露骨な敵意はない。

だが「なぜこいつが」という疑問は、きわめて礼儀正しい形で浮かんでいた。

礼儀正しい疑問というのは、むき出しの敵意より対処が難しい。


「承知しました」


少佐はそう言ってから、ほんのわずかに口元を動かした。


「西部でご活躍だったそうですな、ライフェンベルク大尉殿」


活躍していない。

条文を覚えていただけだ。

だがそう言ったところで、この少佐が信じるかどうかは分からない。


「条文を覚えていただけです」


一応、事実を述べておいた。

ハルトゥング少佐は、そこで初めてわずかに面白そうな顔をした。


「それは結構。今回も、規則の方が人間より素直であってくれると助かります」





準備会議の第一回は三日後に開かれた。


統帥府本館の第三会議室。

鉄路局、軍務省、輜重監部、工兵監部、各邦軍連絡士官。

路線図と動員表が何重にも広げられ、部屋の空気はインクと紙と自尊心で朝から少し重かった。


議題は単純で、ゆえに面倒だった。


夏の統合動員演習において、北部三邦の兵力をどの順で中部集結地に送り込むか。

問題は輸送線の容量にある。

単線区間が二箇所、留置線不足が一箇所、橋梁の重量制限が一箇所。

一つ見積もりを誤れば全体が半日ずれる。


ハルトゥング少佐の説明は見事だった。


線路の使用時間を十分単位で刻み、兵員列車と砲兵列車を別相に分け、到着地での再編時間まで含めて一つの流れとして図上に示した。


素直に感心した。自分にはこういう思考はできない。

路線図を見て容量を読み、詰まりを予測し、全体を一本の流れとして設計する。

暗記と整理しかできない人間とは明確に違う。


だが、説明が核心に差しかかったところで空気が冷え始めた。


「したがって」


少佐は図上の一点を指した。


「現行の観閲順を維持したままでは、第三日午前の再編が四十分遅れます。近衛第一連隊の特別優先を外し、工兵隊の先行を優先すべきです」


さらに、言わなくてもよい一言を付け加えた。


「見栄えを取るなら時刻表を捨て、時刻表を取るなら見栄えを諦めるしかありません」


あ、まずい。


内容は正しい。計算も合っている。

だが「見栄えを諦めろ」は、この部屋の老人たちにとってほとんど侮辱だ。

近衛第一連隊は儀礼の象徴だ。

それを「見栄え」と呼ぶのは、たとえ事実でも、いや、事実だからこそ刃物に近い。


案の定、軍務省の老少将が露骨に眉をひそめた。


「乱暴だな。軍の体面というものを、時計の針で測るつもりか」


「体面で列車は動きません」


ハルトゥング少佐が、ほとんど反射で答えた。


正しい。完璧に正しい。

だが正しさの刃が相手の顔に向いている。


部屋の空気がもう一段重くなった。

老少将の顔は赤くなりかけ、工兵監部の大佐は目を伏せ、邦軍連絡士官たちは互いに視線を交わしている。


このままでは、少佐の案は正しいまま否決される。

否決された後でもっと悪い案が通り、演習の時刻表がずれ、全体が乱れ、その後始末がたぶんこちらに回ってくる。


それは困る。


後で「誰のせいで四十分遅れたのか」で揉めた時に、会議に同席していた自分のところに火の粉が飛んでくるのが、一番怖い。

少佐の案が通っていれば遅れない。

少佐の案が否決されれば遅れる。

遅れた場合、「なぜ止めなかった」と言われるのは、たぶん自分だ。

なにせ曲がりなりにも「調整役」としてこの場にいるのだ。


だったらせめて、後でこいつのせいですと押し付けるために「この遅れは誰の判断か」を紙に書いておきたい。


「現観閲順を維持する案も、もちろん可能かと存じます」


とクラウスは言った。


会議室が少し静まった。

老少将の顔に、かすかな勝ち気な色が戻る。


「ただ、その場合」


ここからは、自分の身を守るためだ。


「第三日午前の再編遅延四十分を、観閲優先に伴う受忍遅延として、議事録別紙に記載することになるかと存じます。近衛監部と軍務省のご了承印も必要になりますが」


部屋が、別の意味で静まった。


老少将の顔色が変わった。


「了承印、ですと」


「はい。時刻表を書き換えることは可能です。ただ、その場合は遅延がどの判断に基づくものか、後で分からなくなると困りますので。近衛特別扱いによる遅延、として別葉を起こし、軍務省と近衛監部にご判断の持ち主になっていただくのが……この場合は妥当かと」


言い終わってから、少し不安になった。


だが本当に、後で「誰が遅らせた」で揉めるのが嫌なのだ。

鉄路局の文官が、ほとんど表情を消した顔で口を挟んだ。


「別葉にご了承印があるなら、我々としては遅延表の書換えは可能です。どなたのご判断による遅れかが分かれば」


工兵監部の大佐も言った。


「…そういうことであれば。橋梁順と渡河時刻の方は、それに合わせて修正できます」


希望通りやってもいいが、その代わりその責任はそちらが取れ。

会議室の空気はおおよそそのように決まった。

やはり皆責任を取りたくないのだろう、と自分の味方が出来たようで少しだけ安堵した。


老少将は、しばらく黙った。

さっきまでの怒りが、少し形を変えた。


怒りたい。

だが、その怒りの結果に自分の署名がつくのは嫌だ。

そんな風な顔をしている。


やがて老少将は、机を指で一度叩いてから言った。


「……そこまで大げさな別葉を起こす必要はあるまい。近衛も連邦の一部だ。予定に無理が出るなら、工兵先行でよい」


ヴィルマー中将が疲れたような安堵の声で言った。


「よろしい。第三日午前の実動順は少佐案のとおり。観閲は従来順を維持。なお、議事録には"近衛は連邦全体の円滑を優先し、特別優先を自ら譲る"と記しておけ」





近衛第一連隊は観閲中央。

ノルデック邦工兵隊は実動先行。

近衛特別列車の優先権は取り下げ。

議事録には「近衛は連邦全体の円滑のため、率先して譲る」と記載。


ハルトゥング少佐が言ったことと、最終的な結果は、実質的にはほとんど同じだった。

工兵を先に通し、近衛の特別扱いは外す。


違ったのは、筋の通し方だけである。

少佐は「正しいからそうしろ」と言った。

クラウスは「そうしないなら、その遅延の持ち主になっていただく」と言った。

そして誰も、持ち主にはなりたくなかった。





散会後、ハルトゥング少佐が資料を抱えたまま、廊下で立ち止まった。


「……通ったからよいものの、露骨すぎませんか、大尉殿」


と彼は言った。


皮肉とも賞賛ともつかない口調だった。


「署名欄を差し出しただけです」


とクラウスは言った。


「希望を通すなら、誰の希望かが紙に残るだけですので」


少佐はしばらく黙った。


「あなたは、通らない案の持ち主を決めようとした」

と彼はやがて言った。


そう言い換えられると、たぶんその通りなのだろう。

自分は正しさを説明したのではない。

正しさを拒んだ時の責任を、誰の名前で残すかを見えるようにしただけだ。


「あのままだと、もっと悪くなったでしょう」


とクラウスは正直に言った。

少佐は、その答えに小さく息を吐いた。


「それで案が通るなら立派な資質です。いや、家名の効果かもしれませんが」


「かもしれませんね。ただ、少佐の計算がなければ、私は署名欄すら作れませんでした」


クラウスはそう続けた。

事実だからだ。

あの四十分が出ていなければ「その遅延を誰が引き受けるのか」という問い自体が立たない。


「…そうでしょうな」


しばらく考えたのち、それだけ言って少佐は頷いた。





夕刻、エッゲン大佐が第三課へ戻ったクラウスに、一枚の紙を渡した。

人事課の回覧写しである。


統合動員演習準備会議付書記兼調整役。

クラウス・フォン・ライフェンベルク大尉。

なお、会議運営および諸邦連絡に関し、その簡潔かつ実務的整理を評価す。


たった二行だった。

だが王都の年寄りたちは、この二行を別の仕方で読んだ。


ライフェンベルク大尉は、諸邦間の利害と中央実務を無理なく接続できる。

派閥に属さず、家名は重く、口は軽すぎず、老人たちの自尊心を傷つけない。

しかも、責任の所在を穏やかに可視化できる。


こうしてクラウスは、本人がもっとも望んでいなかった種類の安定した出世街道へ、また一歩だけ押し込まれた。


自分で踏み出したのではない。

後ろから、そっと押されたのだ。


押した側は善意であり、押された先にはちゃんと椅子も用意されている。

だから文句は言いにくい。

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